おちおち冥福も祈れない

ヒルミチ ヒナカ

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1話 手首はどこへ消えた?

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 男は宣言を違えた。
 晴澄が玄関扉を閉めるなり西の出窓を開け放す非道は慣れたものだからさておき、窓辺にどっかと座りこんだ彼は、寝支度をする間も明かりを消してからも、けっしてこちらに近付こうとはしなかった。
 いやに広く感じるベッドの上で寝返りを打つ。
 瞼を閉じたところで、覚醒しきった頭がすぐさま就寝状態に移行することはない。同室者がいるとは思えぬほどの静けさが、余計に思考を廻らせる。

 職務上あらわにはしないものの、葬儀屋とて感情はある。死がもたらす愁嘆場には何度立ちあったか知れないが──絶望に打ちひしがれる人々より、哀しみの底でも死者を想う遺族の、その目に宿る祈りの光が、何よりも晴澄を落ち着かなくさせた。
 誰にも寄り添うことのできない、自分自身の後ろ暗さを見つめることもまた、得意であるとはいえなかった。

「……」

 停滞した空気に瞬きをする。
 余暇の友引前以上に、眠れぬ夜には必要だった。理性を忘れさせる情熱が。死から逃れる生の導きが。
 人の心を翻弄する“開く者”がそれを察知できないわけがなかろうに、彼はぴくりとも動く気配がない。暗がりでも薄明るい、整いすぎた横顔はまるで石膏像だ。生き物であることの証左は夜風がそよがせる金糸のみ。

 けれどやがて白い指はサッシを掴み、靴を履いたままの爪先がフローリングを蹴る。

「ヴェスナ。どこへ行く気だ」

 声を、かけざるを得なかった。彼が窓の外へ身を乗りだす前に。根負けしたという意識が、語尾に恨みがましさを滲ませる。

「散歩だ。朝まで手持ち無沙汰でな」

 人の姿を象ってはいるものの、彼は生命を超越した存在で、睡眠も休息も求めない。紫紺の双眸は昼夜を問わず見開かれ、高みから人々を観察している。

 だから、よくよく知っているはずなのだ。祈りを疎む葬儀屋の、刹那的な生き方も。

「──寝ついた頃に襲うと言っただろう」

 ふ、と彼が息を止めたのがわかった。むろん晴澄をからかうべく、わかるように止めたのだ。舌打ちで返せば、今度こそ音を立てて笑ってみせる。

「そういう文句は寝ついてから言え」

 しかしてヴェスナは窓辺を離れた。獲物を狙う獣のように瞳を輝かせ、足音もなくベッドへ忍び寄って、そのくせわざとらしくスプリングを軋ませる。

「やれやれ、七面倒かつ殊勝なことよ。夢見る眠り姫のように口づけを待っていたと? 年はいくつだハル」
「うるさい。早く来い」
「何だ、3歳児か。眠くてご機嫌斜めなのか? はいはいよしよし」

 理性がぐらつく。いちいち腹の立つ言動と、その肌が纏う香りのせいだ。
 晴澄の髪を掻き回した彼の手はじきに両頬を包み、眼前には宇宙の瞳が迫る。抱き寄せた体は凍てつく風に晒されていたためにひんやりとしていて、知らず腕の力が強まった。

「冷たい……」
「おまえがふだん丁重に扱っているものには敵わんさ」

 体温を奪うようにしなだれかかりながら、男はくつくつと笑う。
 確かに、服越しには生者のぬくもりが伝わってきていた。潜りこませた指で撫であげる皮膚も酷くやわらかい。同じ生き物ではない以上、その中に何が詰まっているかは想像もできないが、生命を孕む器官さえ備わっていなければ晴澄としてはどうでもよかった。これも最低だ何だと非難される所以なのかもしれないが、お互い納得の上なのだから構うまい。

 性急な掌が足の間に触れた。そちらに口を寄せようとする彼の顎を掬い、唇を重ねる。絡めた舌は蕩けるほどに甘く、うなじを抱いて貪り食う。
 礼儀作法、などとのたまって、ヴェスナはこういうときだけ瞼を閉ざしてみせた。それ以外に従うべき礼儀はいくらでもあるはずだが、白皙の頬に睫毛の影が落ちる、無機なその表情に心を掻き乱されるのも事実だった。薄金の簾がおもむろに取り払われ、夜闇の煌めきが向けられる瞬間もそう。大変遺憾ではあるものの、それは本能を煽りたて、思考を鈍らせるのだ。
 いつも口うるさい男ではあるが、いざ事に及べば存外神妙で、下手にしなを作らないところも悪くなかった。晴澄の性質を熟知しているからこその態度で、違うベッドの上では別の顔を見せるのかもしれないが、そこまでは知ったことではない。
 利害の一致から関係を保っているだけで、晴澄とヴェスナは恋人同士でも何でもなかった。

「は……、……」

 濡れ光る赤で唇を舐め、彼は前髪を掻きあげる。億劫そうにシャツを脱ぎ捨てるのを手伝えば、鼻腔をくすぐる蝋花の香りが濃くなって、それだけで心臓がざわついた。こちらの服を剥ぎ取る手を受け入れ、裸の胸が密着するのを許し、細指が施す愛撫に息を詰める。

 ──これまで誰も教えてはくれず、初めこそ抵抗感があった愛を謳わないセックスは、意外と性に合っていた。

 結局のところ、晴澄が欲しているのは情ではなく生命の感覚だ。突きつめればそれは、燃える肌であり、乱れる呼吸であり、速まる鼓動でしかないのである。

「ん……」

 口づけを交わしながら、体重を預けられた膝を揺らしてみると、ヴェスナは無駄に長い足を晴澄の腰に巻きつけてきた。のぼせたように潤んだ紫眼。この体勢をご希望らしい。
 晴澄も特にこだわりがあるわけではないので、そのままベッドサイドのローションとゴムに──この男とのセックスにおいて必要な代物かどうかは不明なのだが、まあ、これも礼儀作法のうちだ──手を伸ばす。

「……ふ……、……ハル……」

 スラックスをずらし、ぬるつく指を肢体の奥に差し入れれば、掠れた呼び声が耳朶を撫でた。石膏の肌を淡く染めた彼は、羞恥の概念が備わっているかのように晴澄の肩に額を擦りつけ、内側からの刺激に睫毛を震わせる。
 とはいえ相手は色好みの手練れだ。処女じみた反応に反してその手つきには容赦がない。晴澄の下着に指先を引っかけ、反りたつ雄をいたずらに翻弄してくる。
 撥ねつける理由もなく、しばらくの間は互いがもたらす陶酔に浸り、吐息の熱を上げていく。

 ──先に焦れたのは晴澄のほうで、汗ばむ彼の腿を支え、自身の猛りに引き寄せた。

「……、挿れていいか」
「……」

 星影に彩られた恍惚の眼差しが頷く。目が合うだけで背筋がぞくぞくすることには嫌気が差しつつ、昂るそれを彼に添わせる。

「っ、は──」

 正しい鍵を選んだかのように、抵抗なく繋がる肉体。
 ゆらゆらとした腰の動きと満足げな笑みが溶けた理性を掻き混ぜ、晴澄を獣欲の渦に呑みこんでいく。

 明かりの落ちた部屋で至近距離にいると彼の瞳が妙に眩しく感じられ、視界がチカチカ明滅を繰り返した。かといって瞼を下ろせば嗅覚が過敏になり、香る肌に酔いそうになる。
 何にせよ、こうして享受するばかりでは気が散ってしまう。

 彼の膝を掴み、中の狭まったところを強く擦りたてる。

「あ、ん、……、はる……ッ」

 ヴェスナの声色から余裕が消え、10本の爪に背中の皮膚を抉られた。痛みは甘美な感覚となって脊髄を走り、忘我を促す。

 飛び散る汗。肉のぶつかる音。勢いづいた抽送に呼吸の間隔が狭まり、酸素を奪いあうように互いの唇を貪る。
 血は下腹に集中し、頭には靄がかかって、もはや快楽以外のどこかに意識が向くことはなくなっていた。

「ぁ、あ……!」
「は……、」

 絶頂の時が重なる。
 痙攣する体を掻き抱き、欲の奔流を奥へと注ぎこむ。

 しかしすべてではない。直後に襲う虚脱感も、狂熱を冷ますには至らない。
 未だ熱いそれをずるりと引き抜き、汚れたゴムを剥いで捨て、力なく凭れかかってくるヴェスナを今度こそシーツに組み敷く。

 綿の海に流れる白金の川。飲みきれなかった唾液が顎から首筋へ伝い、傷ひとつない肌を妖しく光らせている。誘われるままに歯で食い破ろうとして、囁くような溜息が、晴澄の前髪を揺らした。

「乱暴者……」
「この程度で?」
「これからの狼藉を見越して、だ。怖い怖い……完全に捕食者の顔だぞ、おまえ」

 覆いかぶさった晴澄に軽く蹴りを入れつつも、淫らに足を開き、眠らぬ男はその肉体を差し出した。
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