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1話 手首はどこへ消えた?
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「晴澄さん大変なんです正面玄関が開け放たれてて……ってうげええ、ヴェスナさん!? どうやってここへ!?」
夫人を車で送らせるべく平坂に電話をかければ、向こうもこちらに用事があったらしく、居場所を伝えた瞬間に控え室へ駆けこんできた。
「……その正面玄関から入ってきたみたいです。戸締まりには気をつけてくださいね、平坂さん」
などと注意しておいて悪いが、これについてはどうしようもないのが現実だった。この男は超常現象だ。どれほど厳重に閉ざされた扉も彼を前にすれば開いてしまうというのに、打てる対策があるなら教えてほしい。
「固まっている場合か、ヒラサカ。おれはおまえの左手の救済者だぞ? 心ゆくまで手厚く遇するがいい」
「ひい……相変わらず何言ってるかわかんないこの人……」
「おとなしくしてろヴェスナ。平坂さん、お願いしたいことが──」
事情を説明しているうちに平坂も夫人の存在に気付いたようだ。互いにペコペコ頭を下げあうのを適当なところで制し、駐車場まで見送りにいって、事務所へ戻ると時刻は午前2時。
冴えきった頭は鈴富家葬儀の要件をまとめだし、帰宅して眠りに就くという選択肢は魅力を失いはじめていた。予定どおり休んでしまえばかえって気が休まらなさそうである。
「んん……冷えるな。早く帰らねば部屋に霜が降りかねん」
あえてなのだろうか。わざとらしく伸びをするヴェスナの呟きが、晴澄の思考を乱しにかかった。
「……うちに何をした?」
「何もしていない」
「施錠は?」
「していない」
「……扉くらいは閉めただろうな」
「だから何もしていないと。別に盗難に遭って困るようなものもなかろう?」
「ふざけるなこの──」
「晴澄、奥さん帰った?」
処置を終えたらしい飛鳥の登場に口を噤む。子どもじみた口論は彼を面白がらせるだけだし、彼は基本的にヴェスナの肩を持つので、間に入られては勝ち目がないのだ。
誠に遺憾だが、自宅の玄関を丸一日開放しているわけにもいかない。すごすごと帰るほかないようだった。
飛鳥に鈴富夫人の真意と要望を掻いつまんで伝え、丸めて置いていたコートを羽織る。
「……すみませんが、あとのことはよろしくお願いします」
「おうよ。明日は──もう今日か、とにかく絶対連絡しないから、ヴェスナくんとゆっくり過ごしてくれな」
「……」
これで悪気がないのだから、本当に手に負えなかった。
渋々ヴェスナを連れて会社から退散する。
冬の澄んだ冷気は肉体の芯に痛いほど響くが、夜空を飾りたてるには打ってつけだ。主張の強い星々に見下ろされ、縋るような夫人の声が蘇る。
『それならきっと、あの人の気持ちも晴れますよね。空の向こうで……今度こそ、純粋にピアノを楽しめますよね?』
──死者が何かに応えることはない。
たとえ手の届く場所に亡骸があろうと、魂なき者に想いは伝わらない。葬儀屋である晴澄が表立って否定することは許されないが、安らかな眠りも冥福も、いくら祈っても無意味なのである。
それでも生者は祈るものだ。死を前にして、そうする以外にすべを持たないともいう。幾度となく触れてきた彼らの強い感情──無に帰す愛情に共鳴できぬ晴澄は、時に眩暈のような不全感に襲われるのだった。
「ハル」
突如横から腕を引かれ、物理的に視界がぶれる。
視線を動かす暇もなく唇に噛みつかれていた。白く濁りかけた溜息が彼の呼吸と混ざり、形を成さずに溶け果てる。
「……お前な……」
「何だ、もう邪魔は入らん。今夜はいちゃいちゃしたい気分だったんだろう? 任せろ」
「離せ。未来永劫そんな気分になる日は来ない」
胸を撫で下ろす指先を撥ねのけ、欲を唆す甘い香りから早歩きで距離を取る。
「おーおー、出かける前はやる気全開だったくせに。おれはていのいい性欲処理器か。サイテー」
「傷ついてもいない男が女子高生みたいな口をきくな」
「薄情者め、せめて否定したらどうだ。まあ、その減らず口もいずれ聞けなくなると思えば寂しいものだがな」
挑発的な口調に足を止めれば、彼は晴澄の肩に顎をのせ、甘える猫のように喉を鳴らす。
ただそこに在るだけで、“開く者”はすべてを開く。扉も道も、人の心さえも。
ヴェスナという名を持つ影は、ゆえに、固く閉ざされたものには並々ならぬ執着を見せた。
今は錠野晴澄という人間がその対象になっている、それだけの話──なのだが。
「……そんな日も来ない」
この男との関係を、憂鬱や不安を紛らわす性欲処理以上のものに発展させる気はない。所詮は心を“開く”までの付き合いなのだ。開いたが最後、興味を失われるとわかっていて、ただでさえ動きの鈍い自分の愛情が芽吹くはずがない。
一方で、それでは解決できない問題もある。
「ふうん? つまりおまえは、ずっとおれを傍に置いておきたいと」
「……」
晴澄が心を閉ざしているかぎり彼はここに存在し、押しかけ同然の同居生活を継続しようとすることだ。
「言ってて虚しくならないか……そうじゃないことはお前のほうがよく知ってるだろう」
「ふふ、強情なやつ。もうしばらくは退屈せずに済みそうだ」
生者と死者の別れを見守るしか能のない男など、まともな人間なら早々に飽きてしまうはずなのだが、残念ながら相手は人間ですらない。相互理解には時間がかかろう。
出会ってしまったのが運の尽き。
“開く者”が諦めるまで、晴澄は閉ざしつづけるだけである。
「で、セックスは?」
「しない。疲れた。帰ったら寝るから起こすな」
「この甲斐性なし。寝ついた頃に襲ってやる」
夫人を車で送らせるべく平坂に電話をかければ、向こうもこちらに用事があったらしく、居場所を伝えた瞬間に控え室へ駆けこんできた。
「……その正面玄関から入ってきたみたいです。戸締まりには気をつけてくださいね、平坂さん」
などと注意しておいて悪いが、これについてはどうしようもないのが現実だった。この男は超常現象だ。どれほど厳重に閉ざされた扉も彼を前にすれば開いてしまうというのに、打てる対策があるなら教えてほしい。
「固まっている場合か、ヒラサカ。おれはおまえの左手の救済者だぞ? 心ゆくまで手厚く遇するがいい」
「ひい……相変わらず何言ってるかわかんないこの人……」
「おとなしくしてろヴェスナ。平坂さん、お願いしたいことが──」
事情を説明しているうちに平坂も夫人の存在に気付いたようだ。互いにペコペコ頭を下げあうのを適当なところで制し、駐車場まで見送りにいって、事務所へ戻ると時刻は午前2時。
冴えきった頭は鈴富家葬儀の要件をまとめだし、帰宅して眠りに就くという選択肢は魅力を失いはじめていた。予定どおり休んでしまえばかえって気が休まらなさそうである。
「んん……冷えるな。早く帰らねば部屋に霜が降りかねん」
あえてなのだろうか。わざとらしく伸びをするヴェスナの呟きが、晴澄の思考を乱しにかかった。
「……うちに何をした?」
「何もしていない」
「施錠は?」
「していない」
「……扉くらいは閉めただろうな」
「だから何もしていないと。別に盗難に遭って困るようなものもなかろう?」
「ふざけるなこの──」
「晴澄、奥さん帰った?」
処置を終えたらしい飛鳥の登場に口を噤む。子どもじみた口論は彼を面白がらせるだけだし、彼は基本的にヴェスナの肩を持つので、間に入られては勝ち目がないのだ。
誠に遺憾だが、自宅の玄関を丸一日開放しているわけにもいかない。すごすごと帰るほかないようだった。
飛鳥に鈴富夫人の真意と要望を掻いつまんで伝え、丸めて置いていたコートを羽織る。
「……すみませんが、あとのことはよろしくお願いします」
「おうよ。明日は──もう今日か、とにかく絶対連絡しないから、ヴェスナくんとゆっくり過ごしてくれな」
「……」
これで悪気がないのだから、本当に手に負えなかった。
渋々ヴェスナを連れて会社から退散する。
冬の澄んだ冷気は肉体の芯に痛いほど響くが、夜空を飾りたてるには打ってつけだ。主張の強い星々に見下ろされ、縋るような夫人の声が蘇る。
『それならきっと、あの人の気持ちも晴れますよね。空の向こうで……今度こそ、純粋にピアノを楽しめますよね?』
──死者が何かに応えることはない。
たとえ手の届く場所に亡骸があろうと、魂なき者に想いは伝わらない。葬儀屋である晴澄が表立って否定することは許されないが、安らかな眠りも冥福も、いくら祈っても無意味なのである。
それでも生者は祈るものだ。死を前にして、そうする以外にすべを持たないともいう。幾度となく触れてきた彼らの強い感情──無に帰す愛情に共鳴できぬ晴澄は、時に眩暈のような不全感に襲われるのだった。
「ハル」
突如横から腕を引かれ、物理的に視界がぶれる。
視線を動かす暇もなく唇に噛みつかれていた。白く濁りかけた溜息が彼の呼吸と混ざり、形を成さずに溶け果てる。
「……お前な……」
「何だ、もう邪魔は入らん。今夜はいちゃいちゃしたい気分だったんだろう? 任せろ」
「離せ。未来永劫そんな気分になる日は来ない」
胸を撫で下ろす指先を撥ねのけ、欲を唆す甘い香りから早歩きで距離を取る。
「おーおー、出かける前はやる気全開だったくせに。おれはていのいい性欲処理器か。サイテー」
「傷ついてもいない男が女子高生みたいな口をきくな」
「薄情者め、せめて否定したらどうだ。まあ、その減らず口もいずれ聞けなくなると思えば寂しいものだがな」
挑発的な口調に足を止めれば、彼は晴澄の肩に顎をのせ、甘える猫のように喉を鳴らす。
ただそこに在るだけで、“開く者”はすべてを開く。扉も道も、人の心さえも。
ヴェスナという名を持つ影は、ゆえに、固く閉ざされたものには並々ならぬ執着を見せた。
今は錠野晴澄という人間がその対象になっている、それだけの話──なのだが。
「……そんな日も来ない」
この男との関係を、憂鬱や不安を紛らわす性欲処理以上のものに発展させる気はない。所詮は心を“開く”までの付き合いなのだ。開いたが最後、興味を失われるとわかっていて、ただでさえ動きの鈍い自分の愛情が芽吹くはずがない。
一方で、それでは解決できない問題もある。
「ふうん? つまりおまえは、ずっとおれを傍に置いておきたいと」
「……」
晴澄が心を閉ざしているかぎり彼はここに存在し、押しかけ同然の同居生活を継続しようとすることだ。
「言ってて虚しくならないか……そうじゃないことはお前のほうがよく知ってるだろう」
「ふふ、強情なやつ。もうしばらくは退屈せずに済みそうだ」
生者と死者の別れを見守るしか能のない男など、まともな人間なら早々に飽きてしまうはずなのだが、残念ながら相手は人間ですらない。相互理解には時間がかかろう。
出会ってしまったのが運の尽き。
“開く者”が諦めるまで、晴澄は閉ざしつづけるだけである。
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