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第二章 湖を臨む都

2.17 クリスの提案③

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「……あれは?」

 何かを見つけたらしいサシャの身体が、クリスの脇をすり抜ける。大急ぎで辺りを見回すと、大きな扉のような影がずっと向こうの崖に刻まれているのが、トールにも確認できた。

「扉?」

 何故、こんなところに? 首を傾げるサシャに頷き、もう一度、件の崖とその周りをしっかりと見据える。道らしき道は無いが、近くまで行くことはできそうだ。トールと同じことを確かめたサシャは、一人頷くと、崖に向かって慎重に歩を進めた。

「サシャ! どこに行くっ!」

 サシャの行動に驚いたクリスの声が、トールの背後に響く。

「道、無いから、足下、気をつけろっ!」

 サシャに付いてくるクリスの足が草を踏む音を確かめる前に、サシャとトールは、崖に刻まれた『扉』がよく見える位置まで辿り着いていた。

「これは……!」

 近づくと、『扉』の桁違いの大きさがよく分かる。躊躇うように足を止めたサシャの、少しだけ激しくなった鼓動を確かめながら、トールは半開きに見える、崖に刻まれた『扉』を見つめた。『扉』を支える『柱』の形に掘られた崖の部分には、北辺ほくへんの温泉の脇にあった壁画で見たものと同じ、獣頭人身の神々の姿が刻まれている。間違いない。これは、……古代人の遺跡!

 前の、打ち捨てられた遺跡に踏み込んだ時のように、時間が飛んだりはしないだろうか。サシャを刺す雨を思い出し、思わず、身構える。……何の力も持たないトールには、何があっても為す術は無いのだが。

「……」

 サシャの方も、トールと同じ思考に至っているらしい。

「サシャ?」

 背後から聞こえてきたクリスの言葉に、サシャが首を横に振るのが、見えた。

「これ、『扉』、だよな。やたらでかくて、変なものが描いてあるけど」

 躊躇いなく崖の方に歩を進めたクリスが、首を傾げてからサシャの方を振り向く。

「蔓、取りに来るときはいつも、森の木しか見てなかったから、気付かなかったぜ」

 その時。トールの視界に、白い物が入る。何だろう? 疑問のままに、トールはサシャに見えるよう、小文字を背表紙に並べた。

「取って、来るね」

 トールにしか聞こえない声でそう言ったサシャの足が、慎重すぎるほどゆっくりと動く。それでも時間を掛けることなく、トールとサシャは、崖に刻まれた『扉』の前に立つことができた。

「この『扉』、半開きのところが洞穴の入り口になってるんだ」

 驚きを含んだサシャの声に、こくんと頷く。

 残念ながら、明かりが無いので洞窟の中はどうなっているかは分からない。しかし洞窟の入り口近くに、白いものが二、三片落ちているのだけは、トールの目にもはっきりと映った。

「これ、……羊皮紙?」

 白いものの一片を拾ったサシャが、その短い指で、黒くなっている部分をなぞる。

「文字が、書いてある?」

 サシャの指の先を何気なく見つめたトールは、次の瞬間、言葉を失った。

〈な、何故?〉

 サシャが持つ紙のようなものに書かれていたのは、トールには馴染みの、漢字とひらがな。接触が無くとも読めるその日本語を一息で読み取ったトールの思考は、一旦停止した。

『弩の手配は終わった。どこから王を狙うか、見定める必要』

「これも、文字か?」

 箇条書きのようなその文章に息が止まるトールの視界に、日焼けした頬が割り込む。

「なんて書いてあるんだ?」

「僕にも、分からない」

 トールのことをクリスに悟られないように、サシャにこの文章の意味を知らせる必要がある。トールの思考が、音を立てて回る。誰にも怪しまれることなく、アラン師匠のような権力者に近しい者に、この危機を伝える術は、あるか?

[最初の文字の下を見て、サシャ]

 思いつくままに、言葉を背表紙に並べる。

[この形、『弓』に見えない?]

 ひらがなはともかく、漢字なら、形で意味を読み取ることは可能。

「弓?」

「え、これが?」

 サシャが指差した、羊皮紙の最初に書かれていた文字に、幸いなことにクリスが反応を示す。

「あ、でも、確かに、お祭りの時にやる近衛兵の武術訓練で、この形に似た武器を見た」

「じゃあ、これって」

[誰かが、王様を狙っている文章なんだ]

 クリスの言葉の隙を突いて、トールはサシャにアドバイスを投げた。

「武器のことが書いてあるのなら、アラン師匠に見せた方が良いと思う」

 サシャが出した結論に、ほっと息を吐く。

「帰ろう」

「もちろん!」

 何らかの陰謀を暴くことになったら、俺達英雄かな? 頬を上気させたクリスの言葉に、苦笑を腹の底に押し込める。サシャの身に、何も起こってほしくない。それが、トールの今の本音。
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