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桜の頃
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すれ違った影に、何となくの異様さを感じ、思わず振り向く。
ふらついた小柄な背中が頽れる様が目に映るや否や、セツナはペットボトル飲料入りの買い物袋を手に持ったままその影の方へと一息で近づいた。
「おい、大丈夫か?」
地面に落ちるギリギリのところで、背中から影をしっかりと抱きかかえる。
「ん……」
倒れかけた身体と街灯に照らされた青白い顔が、その人物の体調を如実に伝えていた。この顔は、見たことがある。この公園に花見に来ている、セツナと同じ経済クラスの新入生だ。
〈あいつら……〉
この新歓コンパの幹事である二回生の軽そうな面を思い浮かべ、舌打ちする。あれほど、未成年に酒は飲ませるなと指導教官に注意されただろうに、あいつらは。今セツナが手にしているペットボトル飲料も、新入生がお酒を飲まないよう、指導教官兼学年主任のアマギ教授から事前に預かったお金で買ってきた物だ。それはともかく。この子をどうにかしなければ。
「歩けるか?」
小柄な背中に声を掛けると、こくんと頷く仕草が見える。だが足下はまだふらついている。まあ、これくらいの体積なら、近くのトイレまで抱えて行けるだろう。そう思い、セツナは抱きしめた腕に力を込めた。
と。
〈……あれ〉
腕から伝わって来たえらく骨張った感覚に再び違和感を覚え、暫し固まる。この感覚は、女の子の感覚では絶対無い。男の子の感覚だ。戸惑いながらも、セツナは何とか公園横のトイレまで小柄な身体を引き摺って行った。
「大丈夫か、吐けるか?」
そう、声を掛けながら、小さな背中をさする。指をこの少年の口の中に入れて吐かせた方が良いか? そう思った矢先に、酸っぱい匂いがトイレの個室に充満した。
「大丈夫か?」
口の周りを袖で拭う少年にもう一度声を掛ける。セツナの言葉に、少年はこくんと頷いたが、顔色はまだ悪い。これは、早々にこの場所から退散させた方が良さそうだ。
まだふらつく足の少年を自分の車に乗せてから、ずっと手に持っていた買い物袋と共に公園の桜の木の下に向かう。今が満開の桜は、賑やかで華やかな空気の中でその威容を誇っているように見えた。その桜並木を少しだけ見上げ、けっと唾を吐く。この桜は、嫌いだ。セツナは今度は下を向いて、桜並木の傍で宴会を張っている、知っている顔が半分の集団の傍へと近付いた。
「あの、さ」
ペットボトルを集団のあちこちにばらまいてから、比較的酔っていない女子の集団に声を掛ける。
「空色のパーカーの、女の子っぽい? 新入生居ただろ? そいつの荷物ってどれかなぁ?」
「ああ、ユキね」
女の子の一人が、ビニールシートの隅に固めて置かれた鞄の中の一つを差す。
「多分、あの青色のディパック。大きなタグが付いているヤツ」
「ありがと」
できるだけ愛想良くお礼を言うと、目の前の女の子の顔が急に赤くなる。セツナの顔は、最近売り出し中のどこかのアイドルに似ているらしい。その所為か、持ってくるのを忘れた文具を借りる時や無くした授業プリントをコピーしてもらう時など、セツナの軽い依頼に応じてくれる女子は結構多い。あの両親に感謝できることはこれくらいだな。幼い頃にセツナを見捨てて離婚した両親のことを考え、セツナは心の中で舌打ちした。
それはともかく。女の子に教えられたディパックと、自分の肩掛け鞄を一緒に纏めて持ち、誰にともなく会釈してその場を離れる。騒ぎ声が十分遠ざかったと感じると同時に、セツナは自分の車に向かってダッシュした。
「遅くなった」
車に乗り込みながら、助手席の少年に声を掛ける。返事は、無い。驚いて少年の顔を覗き込んだセツナだが、次に聞こえた、少年の軽い寝息にほっと胸を撫で下ろした。……眠っている、だけだ。
〈まあ、仕方無い、か〉
セツナはふっと笑うと、おもむろに車のキーを回した。
セツナの家は、学生街の外れ、狭い路地に家々が窮屈そうに立ち並ぶ一角にある。去年亡くなった父方の叔父が残してくれた事務所兼住居が、セツナの住み処だ。その、シンプルだが機能的な居間に、眠っているユキという名の少年を運び込む。風呂を沸かし、着替えとタオルを用意してから、セツナはユキの身体をそっと揺すった。
「……あ、ここは?」
少女のような表情で、目を丸くするユキ。
「俺ん家」
その表情に和みながら、セツナは簡単に答えた。
「汚れたままじゃ気持ち悪いだろ。風呂入れよ」
「え。……でも」
セツナの言葉に、ユキは更に目を丸くし、そして遠慮するように首を横に振る。そのユキに、セツナは白いバスタオルをぽんと投げるように渡した。
「遠慮することはないさ。男同士だし」
「ん。……あ、ありがとう」
それでも、ユキは暫く躊躇っていたが、やがて決心したように立ち上がり、セツナが示した方向へ歩いて行った。その足取りは、もうふらついていない。連れて帰って良かった。セツナはそう思い、ほっとした。弱っている者を放っておくのは趣味に合わない。
と。
携帯の振動が、凭れ掛かっていた腰高のテーブルを揺らす。自分の携帯では、無い。と、すると、ユキのだろうか? セツナはユキのディパックを自分の方へ引き寄せた。当たりだ。震えを頼りに、ディパックから携帯を取り出す。振動は既に止まっていたが、小さな窓に「マリア」の表示が浮かんでいた。誰だろうか? 取り出した携帯をテーブルの上に置きながら、首を傾げる。しかしこればかりは、考えても分からない。ユキとだって、ちゃんと出会ったのは今日が初めてなのだから。
だから。
「携帯、鳴ってたぞ」
風呂から出てきたユキに、なるべく素っ気なくそう、言う。
「あ、マリア」
携帯を手にしたユキの声が微かに変わったのが、セツナにはすぐに分かった。
濡れた髪にタオルをあてる間もなく、ユキは携帯を開き、電話を掛ける。
「ユキっ! あなた、何処に居るのっ!」
すぐに、ヒステリックに甲高い声がセツナの耳にも届いた。
「あ、えっと」
戸惑うユキが、セツナを見る。セツナはすぐに、この場所の住所を教えた。
「すぐ行くから、そこから動かないのよ!」
そう言って、甲高い声が切れる。
「彼女か?」
「いとこ」
セツナの問いに、ユキはそれだけ答え、肩を竦めた。
「もう大学生なのに、過保護過ぎるよ」
それから十分後。
狭い路地に似つかわしくない四輪駆動のエンジン音が、辺りに響く。誰だ? こんな夜中に。セツナがそう訝しむ前に、セツナの家のチャイムが鳴った。
「ユキ!」
ドアを開けるなり、きつそうな顔の美人が飛び込んでくる。これが、件の『マリア』か? そう考える間もなく、マリアはセツナの横をすり抜け、セツナの後ろに立っていたユキをぎゅっと抱き締めた。
「マリア、ごめん」
「大丈夫? 気分悪くない?」
小さな声であやまるユキを、マリアはそのまま庇うように車へと連れて行く。そのマリアを呆れたように見やってから、セツナは首を伸ばして外を見た。路地には似つかわしくない、馬鹿でかい四駆のドアを開けたマリアの向こうに、背の高い、若い男がハンドルを手にしているのが見えた。従弟とはいえ、他の男を迎えに行くのに車を出す男とは、何者なのだろう。運転席の男に、セツナは少し同情を覚えた。そして更に。マリアからお礼の言葉が出ないことに、セツナは正直憤りを感じていた。
と。
「ありがとう。……えっと」
エンジン音に掻き消されるようなか細い声が、それでもセツナの耳に届く。ユキの、声だ。そう言えば、まだ名乗っていなかった。ようやくのことでそのことに気付き、セツナは無意識に舌打ちした。
だから。
「セツナだ」
大声で、そう叫ぶ。
次の瞬間。
「ありがとう、セツナ」
四駆に乗り込む直前の、ユキの声に、今までの憤りが悉く消える。
セツナはふっと笑いながら、去り行く四駆のテールランプを見送った。
次の週。
セツナは珍しく朝早く大学に来ていた。朝一の必修の授業に出る為だ。
人の疎らな大教室の前の方の席で、思った通りのディパックを見つける。やはり、予想通り、ユキは生真面目な人物らしい。
「よう」
そう声を掛けて、ユキの横に座る。
「あ、セツナ」
読んでいた本から顔を上げたユキは一瞬吃驚した顔になり、そしてすぐにはにかんだ。
「あ、借りたTシャツはまだ乾いて」
「良いさ、ゆっくりで」
そう言いながら、ユキの手元の本を見る。セツナはまだ購入していない、この授業の教科書のページが、少しへなっと萎れていた。やっぱり、ユキは真面目だ。
と。本の下に敷かれたチラシに気付き、そっと引っ張ってみる。現れたのは、セツナが中学生の時から世話になっている豚丼屋が大学の近くに新しい支店を構えたという宣伝だった。
「これ……」
「うん」
セツナの不思議そうな声に、ユキが俯く。
「美味しそう、なんだけど」
微かなつぶやきが、セツナを微笑させた。確かに、この店の豚丼は常に大盛りで、目の前の小柄で顔色の悪い青年が平らげられる種類の物ではない。それを、ユキ自身も理解しているのだろう。だからこそ。
「俺も、小腹が空いた時は頼むぜ、レディースセット」
ユキが唯一食べられそうなメニューを、口にする。
「え?」
予想通り、ユキの目が大きく見開かれた。
「本当に?」
「杏仁豆腐が付いているからな。この店のは旨いんだ」
セツナは、嘘は言わない。実際、この店の杏仁豆腐が目当てで、中学高校の買い食い時にはずっとレディースセットを注文していた。初めは勿論恥ずかしかったが、行きつけているうちに慣れた。
「ユキ、午後一の授業はあるか?」
更にもう一押しするように、声を掛ける。何故、自分はユキにこれほど親切にするのか、その理由も分からずに。
「え、ううん。午後二はあるけど」
「じゃ、決まり。昼をちょっと外して行った方が空いてるからな、この店」
そう言って笑うセツナを見て、ユキも少しだけ笑顔になる。
その笑顔が、セツナには何故か嬉しかった。
ふらついた小柄な背中が頽れる様が目に映るや否や、セツナはペットボトル飲料入りの買い物袋を手に持ったままその影の方へと一息で近づいた。
「おい、大丈夫か?」
地面に落ちるギリギリのところで、背中から影をしっかりと抱きかかえる。
「ん……」
倒れかけた身体と街灯に照らされた青白い顔が、その人物の体調を如実に伝えていた。この顔は、見たことがある。この公園に花見に来ている、セツナと同じ経済クラスの新入生だ。
〈あいつら……〉
この新歓コンパの幹事である二回生の軽そうな面を思い浮かべ、舌打ちする。あれほど、未成年に酒は飲ませるなと指導教官に注意されただろうに、あいつらは。今セツナが手にしているペットボトル飲料も、新入生がお酒を飲まないよう、指導教官兼学年主任のアマギ教授から事前に預かったお金で買ってきた物だ。それはともかく。この子をどうにかしなければ。
「歩けるか?」
小柄な背中に声を掛けると、こくんと頷く仕草が見える。だが足下はまだふらついている。まあ、これくらいの体積なら、近くのトイレまで抱えて行けるだろう。そう思い、セツナは抱きしめた腕に力を込めた。
と。
〈……あれ〉
腕から伝わって来たえらく骨張った感覚に再び違和感を覚え、暫し固まる。この感覚は、女の子の感覚では絶対無い。男の子の感覚だ。戸惑いながらも、セツナは何とか公園横のトイレまで小柄な身体を引き摺って行った。
「大丈夫か、吐けるか?」
そう、声を掛けながら、小さな背中をさする。指をこの少年の口の中に入れて吐かせた方が良いか? そう思った矢先に、酸っぱい匂いがトイレの個室に充満した。
「大丈夫か?」
口の周りを袖で拭う少年にもう一度声を掛ける。セツナの言葉に、少年はこくんと頷いたが、顔色はまだ悪い。これは、早々にこの場所から退散させた方が良さそうだ。
まだふらつく足の少年を自分の車に乗せてから、ずっと手に持っていた買い物袋と共に公園の桜の木の下に向かう。今が満開の桜は、賑やかで華やかな空気の中でその威容を誇っているように見えた。その桜並木を少しだけ見上げ、けっと唾を吐く。この桜は、嫌いだ。セツナは今度は下を向いて、桜並木の傍で宴会を張っている、知っている顔が半分の集団の傍へと近付いた。
「あの、さ」
ペットボトルを集団のあちこちにばらまいてから、比較的酔っていない女子の集団に声を掛ける。
「空色のパーカーの、女の子っぽい? 新入生居ただろ? そいつの荷物ってどれかなぁ?」
「ああ、ユキね」
女の子の一人が、ビニールシートの隅に固めて置かれた鞄の中の一つを差す。
「多分、あの青色のディパック。大きなタグが付いているヤツ」
「ありがと」
できるだけ愛想良くお礼を言うと、目の前の女の子の顔が急に赤くなる。セツナの顔は、最近売り出し中のどこかのアイドルに似ているらしい。その所為か、持ってくるのを忘れた文具を借りる時や無くした授業プリントをコピーしてもらう時など、セツナの軽い依頼に応じてくれる女子は結構多い。あの両親に感謝できることはこれくらいだな。幼い頃にセツナを見捨てて離婚した両親のことを考え、セツナは心の中で舌打ちした。
それはともかく。女の子に教えられたディパックと、自分の肩掛け鞄を一緒に纏めて持ち、誰にともなく会釈してその場を離れる。騒ぎ声が十分遠ざかったと感じると同時に、セツナは自分の車に向かってダッシュした。
「遅くなった」
車に乗り込みながら、助手席の少年に声を掛ける。返事は、無い。驚いて少年の顔を覗き込んだセツナだが、次に聞こえた、少年の軽い寝息にほっと胸を撫で下ろした。……眠っている、だけだ。
〈まあ、仕方無い、か〉
セツナはふっと笑うと、おもむろに車のキーを回した。
セツナの家は、学生街の外れ、狭い路地に家々が窮屈そうに立ち並ぶ一角にある。去年亡くなった父方の叔父が残してくれた事務所兼住居が、セツナの住み処だ。その、シンプルだが機能的な居間に、眠っているユキという名の少年を運び込む。風呂を沸かし、着替えとタオルを用意してから、セツナはユキの身体をそっと揺すった。
「……あ、ここは?」
少女のような表情で、目を丸くするユキ。
「俺ん家」
その表情に和みながら、セツナは簡単に答えた。
「汚れたままじゃ気持ち悪いだろ。風呂入れよ」
「え。……でも」
セツナの言葉に、ユキは更に目を丸くし、そして遠慮するように首を横に振る。そのユキに、セツナは白いバスタオルをぽんと投げるように渡した。
「遠慮することはないさ。男同士だし」
「ん。……あ、ありがとう」
それでも、ユキは暫く躊躇っていたが、やがて決心したように立ち上がり、セツナが示した方向へ歩いて行った。その足取りは、もうふらついていない。連れて帰って良かった。セツナはそう思い、ほっとした。弱っている者を放っておくのは趣味に合わない。
と。
携帯の振動が、凭れ掛かっていた腰高のテーブルを揺らす。自分の携帯では、無い。と、すると、ユキのだろうか? セツナはユキのディパックを自分の方へ引き寄せた。当たりだ。震えを頼りに、ディパックから携帯を取り出す。振動は既に止まっていたが、小さな窓に「マリア」の表示が浮かんでいた。誰だろうか? 取り出した携帯をテーブルの上に置きながら、首を傾げる。しかしこればかりは、考えても分からない。ユキとだって、ちゃんと出会ったのは今日が初めてなのだから。
だから。
「携帯、鳴ってたぞ」
風呂から出てきたユキに、なるべく素っ気なくそう、言う。
「あ、マリア」
携帯を手にしたユキの声が微かに変わったのが、セツナにはすぐに分かった。
濡れた髪にタオルをあてる間もなく、ユキは携帯を開き、電話を掛ける。
「ユキっ! あなた、何処に居るのっ!」
すぐに、ヒステリックに甲高い声がセツナの耳にも届いた。
「あ、えっと」
戸惑うユキが、セツナを見る。セツナはすぐに、この場所の住所を教えた。
「すぐ行くから、そこから動かないのよ!」
そう言って、甲高い声が切れる。
「彼女か?」
「いとこ」
セツナの問いに、ユキはそれだけ答え、肩を竦めた。
「もう大学生なのに、過保護過ぎるよ」
それから十分後。
狭い路地に似つかわしくない四輪駆動のエンジン音が、辺りに響く。誰だ? こんな夜中に。セツナがそう訝しむ前に、セツナの家のチャイムが鳴った。
「ユキ!」
ドアを開けるなり、きつそうな顔の美人が飛び込んでくる。これが、件の『マリア』か? そう考える間もなく、マリアはセツナの横をすり抜け、セツナの後ろに立っていたユキをぎゅっと抱き締めた。
「マリア、ごめん」
「大丈夫? 気分悪くない?」
小さな声であやまるユキを、マリアはそのまま庇うように車へと連れて行く。そのマリアを呆れたように見やってから、セツナは首を伸ばして外を見た。路地には似つかわしくない、馬鹿でかい四駆のドアを開けたマリアの向こうに、背の高い、若い男がハンドルを手にしているのが見えた。従弟とはいえ、他の男を迎えに行くのに車を出す男とは、何者なのだろう。運転席の男に、セツナは少し同情を覚えた。そして更に。マリアからお礼の言葉が出ないことに、セツナは正直憤りを感じていた。
と。
「ありがとう。……えっと」
エンジン音に掻き消されるようなか細い声が、それでもセツナの耳に届く。ユキの、声だ。そう言えば、まだ名乗っていなかった。ようやくのことでそのことに気付き、セツナは無意識に舌打ちした。
だから。
「セツナだ」
大声で、そう叫ぶ。
次の瞬間。
「ありがとう、セツナ」
四駆に乗り込む直前の、ユキの声に、今までの憤りが悉く消える。
セツナはふっと笑いながら、去り行く四駆のテールランプを見送った。
次の週。
セツナは珍しく朝早く大学に来ていた。朝一の必修の授業に出る為だ。
人の疎らな大教室の前の方の席で、思った通りのディパックを見つける。やはり、予想通り、ユキは生真面目な人物らしい。
「よう」
そう声を掛けて、ユキの横に座る。
「あ、セツナ」
読んでいた本から顔を上げたユキは一瞬吃驚した顔になり、そしてすぐにはにかんだ。
「あ、借りたTシャツはまだ乾いて」
「良いさ、ゆっくりで」
そう言いながら、ユキの手元の本を見る。セツナはまだ購入していない、この授業の教科書のページが、少しへなっと萎れていた。やっぱり、ユキは真面目だ。
と。本の下に敷かれたチラシに気付き、そっと引っ張ってみる。現れたのは、セツナが中学生の時から世話になっている豚丼屋が大学の近くに新しい支店を構えたという宣伝だった。
「これ……」
「うん」
セツナの不思議そうな声に、ユキが俯く。
「美味しそう、なんだけど」
微かなつぶやきが、セツナを微笑させた。確かに、この店の豚丼は常に大盛りで、目の前の小柄で顔色の悪い青年が平らげられる種類の物ではない。それを、ユキ自身も理解しているのだろう。だからこそ。
「俺も、小腹が空いた時は頼むぜ、レディースセット」
ユキが唯一食べられそうなメニューを、口にする。
「え?」
予想通り、ユキの目が大きく見開かれた。
「本当に?」
「杏仁豆腐が付いているからな。この店のは旨いんだ」
セツナは、嘘は言わない。実際、この店の杏仁豆腐が目当てで、中学高校の買い食い時にはずっとレディースセットを注文していた。初めは勿論恥ずかしかったが、行きつけているうちに慣れた。
「ユキ、午後一の授業はあるか?」
更にもう一押しするように、声を掛ける。何故、自分はユキにこれほど親切にするのか、その理由も分からずに。
「え、ううん。午後二はあるけど」
「じゃ、決まり。昼をちょっと外して行った方が空いてるからな、この店」
そう言って笑うセツナを見て、ユキも少しだけ笑顔になる。
その笑顔が、セツナには何故か嬉しかった。
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