桜花火

風城国子智

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恋ハ、必要デスカ? 3

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「カラオケ行きたい。ねえ、マリア、行こ!」
 マリアの背後、すぐ近くで、高い声が響く。
 振り返る前に、マリアの背に温かいものが覆い被さってきた。
「ねえ、マリアってば~」
 背後霊のようにマリアに抱きつくハルカ先輩は、いつもの香水の上にアルコールの匂いを纏っている。追いコンで大分飲んだのだろう、かなり酔っぱらっているようだ。こんなに酒癖の悪い先輩だったのか。普段のきりっとした状態とは打って変わった醜態に、マリアは思わず溜め息をついた。
「ねえ、行くの? 行かないの?」
 助けを求めるように、くるりと辺りを見回す。だが、路地に佇むのはマリアとハルカ先輩のみ。他の先輩達や友人達は既に解散したか二次会会場へと向かったのだろう、知り合いは誰も居なかった。
 二次会会場の場所を、マリアは知らない。興味が無かったし行く気も無かったので、聞いていなかったのだ。どうしよう。「カラオケ行きたい」を連発する先輩の声を背に、正直、途方に暮れる。カラオケボックスがある場所を知らないし、第一マリアは、カラオケが苦手なのだ。
 と、その時。
「マリア!」
 助けを求めるマリアの心の叫びを聞いたかのような、ソウの声に、ほっと胸を撫で下ろす。顔を上げると、路地に入って来た車からソウの顔が覗いた。
「あら、カッコいい」
 車から降り、マリアの方へ近付いてきたソウを見て、ハルカ先輩が声を上げる。
「一緒にカラオケ行きましょ」
「え?」
 そしてそのまま、ハルカ先輩はソウに抱きついた。ソウも、酔っぱらいだと分かっているのだろう、迷惑そうに身体を動かすが、あえてハルカ先輩を突き放そうとはしない。その光景に、ちくりと心が痛むのを感じる。これは、……嫉妬、なのか?
 と。
「あらあの人もカッコいい」
 ソウから上半身だけを離したハルカ先輩の声に、向こうを見る。路地の暗がりから出て来た顔に、マリアは思わず嫌悪の表情を作った。
「なにやってんだ、道の真ん中で」
 そのマリアの嫌悪に気付いていない、その男、セツナのぶっきらぼうな声が、暗い路地裏に響く。井川セツナ。ユキの、友人だった男。ユキを振り回し、あげくの果てにユキの命を縮めた、張本人。でも。……ユキは、この男と意気投合していた。それは、確かなこと。そして、マリアにとっては疑問の一つ。
 この男、セツナが、雪の日にユキを病室から連れ出した夜のことは、今でもはっきり覚えている。
「約束を、果たしただけだ」
 翌朝、眠っているユキを連れて病院へと戻ったセツナは、はっきりとそう、言った。
 『約束』の内容を、マリアは知らない。どうせ下らないものだったのだろうと、思う。だが、セツナが連れ出したユキは、眠ったまま、二度と目覚めなかった。そのことが、マリアには悔しくてならない。セツナが連れ出さなければ、ユキは、もう少し、生きられたはずなのだ。……ほんの、少しだけ、だが。
 マリアの感情には、全く構わず。
「こっちも、良い男ねぇ」
 ソウにしがみついていたハルカ先輩が、ソウの腕を掴んだままセツナの方へ身体を移動させる。確かに、和風顔のソウとは違い、セツナは、最近人気急上昇中の俳優に似ているとか似ていないとか、とにかく端正な顔立ちをしている。だが結構な大男で、しかも話し言葉はぶっきらぼう。女性と付き合っている噂など、全く耳にしない。性格の点で考えれば、ソウの方が上だ。マリアはそんなことを考えて、いた。いやいや、そういうことではなく。問題は。
「あなたも、一緒にカラオケ行かない?」
 酔っぱらって醜態を見せているハルカ先輩を、どうにかしなくては。マリアが対応策を考えつくより早く。
「別に良いけど」
 ソウとマリアの方を見て、セツナが言葉を紡ぐ。
「この辺のカラオケボックス、もう全部満席だぜ。追いコンの客ばっかりで」
 セツナ自身、近くのカラオケボックスにゼミの先輩達を押し込んできたばかりだという。
「なら」
 セツナの言葉を、ソウが継ぐ。
「郊外のカラオケボックスに行きましょう。車、ありますし」
「まあ、嬉しい」
 ソウの言葉に、ハルカ先輩が華やかな笑みを浮かべるのが、見えた。

 ソウの車に、四人が乗り込む。いつもは助手席のマリアだが、今回はハルカ先輩と共に後部座席に座った。よく分からない男であるセツナを酔っぱらったハルカ先輩と一緒にするわけにはいかない。男二人で前部座席が多少キツくなり、ソウには我慢してもらう他ないが、先輩の為だ。
 車が出発してすぐ、ハルカ先輩はマリアの膝を枕にして寝てしまう。
「家まで送って行った方が良いな。マリア、家、分かる?」
 ちらりと後ろを向いたソウの言葉に、マリアはハルカ先輩の住所を教えた。その住所を、助手席のセツナが器用にカーナビに打ち込む。ソウとセツナ、そしてマリアで車の中にいるなんて、なんだか変な気分。マリアはふっと息を吐くと、車の後部に投げるように置いてあったフリース毛布を先輩の身体に掛けた。マリアとユキ、そしてソウの三人でドライブした時も、マリアの膝の上で眠ってしまったユキの身体にこんな風に毛布を掛けてあげたことがあったっけ。そう、マリアが思った刹那。
「ここで、良いのか?」
 ソウの声に、我に返る。窓の外には、広い庭を持った四角い邸宅が見えていた。
「うん、多分」
 服装や香水から推測はしていたのだが、やはりハルカ先輩はお嬢様だったか。邸宅の広さに、息を呑む。実業家の父と多趣味な母とで慎ましく暮らすマリアとは、別の世界の人間だ。
 家に着いたのだから、とにかく、先輩を起こさなければ。だが、マリアが強く揺さぶっても、ハルカ先輩は呻くだけ。起きようとすら、しない。
「とにかく、呼び鈴を押してくれ。僕が運ぶから」
 ソウの言葉に頷いて、車を降りる。表札の傍にある呼び鈴を押すと、すぐに「どなたですか?」という、優しげな女の人の声がした。
「大学の後輩です。ハルカ先輩、酔っぱらってしまって」
 すぐに、玄関が明るくなる。門を押して玄関先まで入ったマリアと、ハルカ先輩を横抱きにしたソウを、おそらく先輩の母親だろう、ハルカ先輩に良く似た女の人が出迎えた。
「あらあら、ごめんなさいね」
 この子、飲むと限度を知らなくて。そう言った母親の瞳が、ソウで止まる。
「あら、あなたは。……早木医院の息子さん?」
 ハルカ先輩の母親は、専業主婦であるソウの母と同じ習い事をしているらしい。親しげになった口調が、マリアの気分を何時に無く苛立たせた。
「ちょっと部屋まで、娘を運んでくださいません」
「あ、はい」
 ハルカ先輩の母親に誘われ、ハルカ先輩を横抱きにしたまま家の中に消えていくソウを、静かに見送る。
「……嫉妬、してるだろ」
 いつの間に現れたのか、セツナの声が背後で響き、マリアはびくっと背を震わせた。……図星、だ。
「してないわよ」
 殊更はっきりとそう言って、セツナを睨みつける。そのやり取りの間にソウが戻ってきてくれて、マリアは二重の意味でほっとした。
 だが。
「また、来てくださいね」
 ハルカ先輩の母親の声に、思わずソウを見上げてしまう。
 暗いからか、ソウの表情は、マリアにはよく見えなかった。

 その、次の日。
 マリアは箒を手に、教会の前に立っていた。
 土曜日に教会の掃除の手伝いをするのが、最近のマリアの習慣。昨日付き合いで飲んだ少しのお酒で少し二日酔い気分があるが、このボランティアはマリアが決めた、小さい頃にお世話になった教会への恩返し。サボるわけにはいかない。
 表の掃除が終わったので、裏へ回る。すぐに。聞き知った声に、マリアは思わず近くの茂みに身を隠した。この声は、……昨夜聞いた。茂みを少しだけかき分け、声のした方を見る。
「昨夜は娘がお世話になりまして」
 予想通り、教会の裏手にあるソウの家を訪ねている、ハルカ先輩の母親の姿が見えた。先輩の母親の後ろには、当のハルカ先輩が小さくなっている。
「いえいえ」
 一方。応対するソウの母親の後ろに、ソウ自身が立っていることに気付く。隠れて見ていることが恥ずかしくなり、マリアはそっと立ち上がると音を立てないよう、誰にも気付かれぬよう用心しいしい教会の表まで戻った。
 明るいところで、自分の格好を見る。マリアが見たハルカ先輩は、柔らかな色合いのワンピースにカーディガンを羽織ってとても女らしく、可愛らしく見えた。対して自分はどうだろう。父にねだって譲ってもらった男物のダッフルコートにジーンズという、掃除には相応しいがソウと会うには相応しくない格好をしている。それが、少し、恥ずかしい。そこまで考えて、はっとする。何故自分は、ソウやハルカ先輩のことを気にしているのだろうか? ハルカ先輩なら、可愛いし、お嬢様だから、医院の御曹司であるソウには、自分よりも似合っているように、思える。そして。……それで、問題ないではないか。そう思うのに、この心の痛みは、何なのだろうか?

 その日の午後。
 マリアは、街のオープンカフェでのんびりと通行人を見つめていた。
 テーブルの上には、温かいコーヒーと甘いケーキ。そして買ったばかりの語学テキスト。英語も必要だが、将来を考えると中国や東南アジアなどアジア圏の言葉も知っておいた方が良いだろう。そう思い、お小遣いを叩いて買ったもの。CD付きだから、帰ったら携帯プレーヤーに落として聞いてみよう。テキストをぱらぱらめくりながら、マリアはそんなことを考えて、いた。
 と、その時。見知った影が、目の端を横切る。あれは……ソウ? でも、まさか。今日は勉強会があるって言ってなかったっけ? そして、その横で楽しげにソウと話しているのは。
〈ハルカ先輩!〉
 叫びそうになるのを、ギリギリで堪える。楽しげなハルカ先輩の手には、ソウが行きたそうにしていた恋愛映画のパンフレットがある。ハルカ先輩の母親が、先輩を映画に連れて行ってくれるようソウに頼んだのだろうか? 映画好きとはいえ、安請け合いするソウもソウだ。
 次の瞬間。別の声が、マリアの心に響く。
〈良いじゃない、別に、ソウが誰と映画に行っても〉
 それもそうだ。ふっと息を吐く。マリアは映画が苦手だ。だがソウは一人で映画館に入ることが嫌であるらしく、しばしばマリアを映画館へと引っ張って行く。それが苦痛であったことを、今更ながら思い出した。ハルカ先輩の趣味は映画鑑賞だと聞いたことがある。気の合う者同士、上手くやれば良い。気を取り直して、マリアは冷めかけたコーヒーに手を伸ばした。
 と。
 マリアの方をちらりと見たソウが、不意に、ハルカ先輩の腕を引いてその身体をソウ自身に密着させる。そしてそのまま、ソウはハルカ先輩と共に、人ごみの中へと、消えた。コーヒーを飲む余裕は、もう、無い。マリアは呆然と、ソウが消えた方向を眺めて、いた。

 その次の週の月曜日。
 英語科の校舎を出たマリアは、校舎の玄関前に腕組みをしたソウが立っているのを認めた。
 ソウにどう対応するかは、昨日決めた。今朝も、マリアの家の前に止まっていたソウの車を無視し、歩いて大学に行った。決めた通り、マリアはソウを無視すると、校舎の裏口から帰ろうとくるりと踵を返した。
 不意に、目の前が塞がる。見上げると、マリアのすぐ傍に、ソウの何時になく厳しい顔が、あった。
「一緒に、帰らないか?」
 たどたどしく、ソウが口に出す。
「断る」
 マリアの答えは、単純明快だった。それでも、声の震えを止めるのは、難しい。
「私の他に、いるでしょ? 助手席に乗せるのに相応しい人」
 何とかそれだけ、マリアは言った。
 次の瞬間。ソウの腕が、マリアの肩を掴む。何をされるかマリアが理解する前に、ソウの唇がマリアの唇を奪った。
「いやっ!」
 ありったけの力で、ソウを突き飛ばす。そしてそのまま、マリアはソウの横をすり抜け、全速力で走った。

 気が付くと、マリアは教会の中にいた。
 教会入り口傍の、昔かくれんぼに使っていた暗がりに、座っていた。
 涙が、止まらない。ソウの唇の感触が、生々しく残っている。その感触に、覚えたのは、間違いなく嫌悪感。
「ユキ……」
 呟きが、漏れる。ユキと交わした、あの冷たい口づけの方が、ずっと良い。
 どのくらい、泣いていただろうか。
「マリア、見つけた」
 幼い声に、はっと顔を上げる。まさか。でも、この声は、確かに。
「マリア」
 暮れかけた陽を背に、マリアの前に立っていたのは、ユキ。
「やっぱりここに居たんだ」
 かくれんぼの時はいつもここだね。そう言いながら、ユキは、驚きで何も言えないマリアの横に座る。そして。
「ごめんね」
 囁く声が、マリアの耳を打つ。
「僕は、マリアを泣かせるばかりで、何もできない」
「ううん」
 そんなことは、無い。ユキは、マリアに、こんなちっぽけな自分に『優しさ』を、くれた。それだけで、良いのだ。ただ一つ、言うとすれば。
「私は」
 一緒に、居て欲しかった。それだけ、呟く。我が儘だとは分かっているが、それが、マリアの本心。
「今でも、居るよ」
 徐に、ユキがマリアの胸元を、その小さな指で差す。
 そして。現れたときと同じように唐突に、ユキはマリアの前から姿を消した。
「……ユキ」
 再びの涙が、頬を濡らす。

 そうだ、ユキは、マリアと一緒に居る。
 ……マリアの、胸の中に。

 だから。

 その、次の日。
 大学で自習する為に家を出たマリアの前には、ソウが立っていた。
 昨日とは打って変わって、ソウの身体が小さく見える。だが、ソウを許したわけではない。許す許さないの問題ではないのだ。……私は、ソウの気持ちに答えることが、できない。ソウが嫌いだからではない。ユキの方が、ずっと好きだから。
 だから。
「昨日は、ごめん」
 頭を下げたソウを、昨日と同じように無視する。
「でも、僕は」
「バイバイ」
 ソウが言いかけた言葉を、マリアはぴしゃりと、封じた。
 そしてそのまま、雪が降りそうな空の下を、大学まで歩く。

 私ニハ、恋ハ、必要無イ。
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