子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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第2章 極悪上司の事情

6.極悪上司の苦手なもの

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それから二日ほどたったその日も、いつもどおり仕事をしていた。

「……救急車?」

遠くから響いてくる音に、不意に気づく。
この近辺には大きな病院もないし、オフィス街でマンションやなんかもほぼないから、かなり珍しい。
その音は次第に近づいてきた。

「どこかで病人でも出たんですかね……?」

「えっ、あっ、そうだな」

私の問いに、慌てて京塚主任が答える。

「どうかしたんですか?」

顔色が、悪い。
彼こそが救急車が必要なんじゃないか、って思うくらいに。

「あっ、なんでも、ない。
ちょ、ちょっと、コーヒー、買ってくるな」

あたふたと立ち上がり、彼が部屋を出ていく。
救急車は目的地に着いたのか、音は止まっていた。

「どうしたんだろ」

具合が悪いのなら、無理はしないでほしい。
気になって私は、京塚主任を探しにいった。

部屋を出て当たりを見渡したが、いない。
コーヒーを買うと言っていたし、自販機コーナーへ行ってみたら、ソファーであたまを抱えた京塚主任の姿が見えた。

「京塚しゅ……」

――ピーポー……。

「……!」

患者を乗せたのか、再び救急車のサイレンが聞こえてくる。
途端に彼はびくっと大きく身体を揺らした。

「京塚主任?」

「あ、ああ。
星谷、か」

私になんでもない顔をして見せた彼だけれど、やはり顔色が酷く悪かった。

「大丈夫ですか?」

「大丈夫って、なにがだ?」

彼は普通に話しているつもりかもしれないが、声が震えている。

「その、顔色が」

「あ、そう、か?」

徐々に、サイレンの音が小さくなっていく。
完全に聞こえなくなってようやく、彼はほっと息を吐き出した。

「……もしかして救急車が、苦手なんですか?」

彼の反応からしてそうとしか考えられない。
でも、なんで?

「あー、うん。
そうだな……」

とんとん、と彼が促すように自分の隣を叩くので、そこへ座る。
小さく深呼吸した彼は、言いにくそうに口を開いた。

「……透子は……あ、俺の妻だが、事故で、死んだ。
一昨年の話だ。
信号無視で交差点に突っ込んできた車に跳ねられ、さらにそこへ左折してきた車に轢かれて」

「……」

無邪気に、愛妻家だなんだと京塚主任へ言っていた自分を呪った。
どんな気分で彼は、聞いていたのだろう。

「近くで待ち合わせをしていたんだ。
でも時間厳守のアイツがなかなか来ない。
そのうち、救急車の音が聞こえてきて、行ってみたら人垣の中に倒れているのはアイツだった」

思いだしているのか、俯いている彼の、固く握りしめられた両手は細かく震えていた。
もう話さなくていい、そう言いたいのに声が出ない。

「救急車の音が聞こえると、そこにアイツが倒れているんじゃないかと思ってしまうんだ。
もうなにも映さない、虚ろなあの目で」

緊張を解くかのように、京塚主任は長く息を吐き出した。
なんと声をかけていいのかわからない。
それに、想像したら怖くなった。
自分の目の前で、愛する人が死んでいるのなど。

「そんなわけで、俺は救急車の音が苦手なんだ。
……それでも最近は、ましになってきてたんだけどな」

弱々しく彼が笑う。
この人は大きな試練を乗り越えようともがいている。
なのに私は、あんなことを。

「その。
……すみませんでした!」

精一杯の気持ちで京塚主任へあたまを下げた。
それしか、できない自分が歯痒い。

「なんで星谷があやまるんだ?」

しかし彼は意味がわからない、というふうに何度かまばたきをした。

「だって私、知らなかったからとはいえ、あんな無神経なことを言ってしまって」

「知らなかったんだからしょうがないだろ。
俺も言わなかったし、周りの奴も教えなかったんじゃないか?
ここではまだ少し、タブー扱いなところがあるし」

はぁっ、と短くため息をつき、呆れるように小さく彼が笑った。

「しかも、この指環だろ?」

愛しむように彼が、自身の左手薬指に嵌まる指環を撫でる。

「星谷が誤解しても仕方ない。
それに俺はまだ、透子を愛しているから」

泣きだしそうに眼鏡の奥で、彼の瞳が歪む。
その顔に心臓が、甘くとくん、と鼓動した。

……ああ。
こんなに京塚主任は亡くなった奥さんを愛しているんだ。
それはとても尊くて、そんな彼の気持ちを守りたい、そう私に思わせた。
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