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第5章 みんなとor春熙と?

5.絶対に、忘れるな

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エレベーターを降りてあたりをきょろきょろと探す。

「愛乃」

すぐに私を見つけた高鷹部長がこっちだと、軽く手を上げた。
それすらなんだか嬉しくて、急いで駆け寄る。

「お待たせしましたか」

「いや。
君、すぐに降りてきたし」

目を細めて高鷹部長が笑う。
その笑顔に胸がきゅんと締まる。

「少し歩きながら話そうか」

「はい」

ホテルを出て、海辺の道を並んで歩く。
なんでそれだけで、こんなに幸せなんだろう。

「その、もう大丈夫なんですか」

「ああ、大抵、全部吐けばすっきりするから問題ない」

「そんなもんですか」

いくら飲んでもけろっとしている私には、飲めない人の苦しみはわからない。
でも大丈夫っていうのなら大丈夫なのかな。

「そんなもんだ」

おかしそうに高鷹部長が笑う。
さらさらと風に煽られた髪を押さえる彼がきれいで、ずっと見ていたい。

「それで。
……東藤と結婚するのか」

上司として、聞かなきゃいけない問題だってわかっている。
私の場合、寿退社になるだろうし。

けれど――高鷹部長の口から、聞かれたくない。

「はい。
だいたい、去年の春には結婚するはずだったんです。
それがいろいろあって延び延びになっていただけで」

出てくるな、涙。
笑え、私。
悲しいことなんてなにひとつないはずじゃないか。

「君は本当に、それでいいのか」

じっと高鷹部長が私を見つめる。

「私は」

きっと、それでいいと言うのが正解なのだろう。
いままで通りすべてを諦めて、春熙を受け入れて。
けれどレンズの奥から私を見ている瞳は心の奥底まで見抜いているようで、嘘がつけない。

「春熙と結婚なんて、したくない……」

とうとう耐えきれなくなった涙がぽろりと落ちた瞬間、高鷹部長に抱き寄せられた。

「ずっと春熙と結婚するのが当たり前だと思っていました。
でもいまは」

「……うん」

「春熙と結婚なんかしたくない。
だって私は――」

――高鷹部長が、好き。

唐突に浮かんできた言葉で、声が途切れる。

「私は?」

高鷹部長はその先を促すが、その胸をそっと押して、腕の中から抜け出た。

「なんでもない、です」

無理に笑ってごまかした。
だってそれこそ、私には許されないことだから。

「なんでもない、か」

笑った高鷹部長はどこか泣きだしそうで、私も泣きたくなった。

「愛乃」

一度離れた私をまた、高鷹部長が抱き寄せる。
厚くはないけれど、頼もしい胸板。
春熙とは違う、甘いけれどスパイシーな香り。


「君が諦めないのなら、俺は世界のすべてから君を守ってやる。
たとえそれが父親でも、婚約者でも」

高鷹部長の両手がそっと、私の肩に乗る。
傾きながら近づいてくる顔を、ただぼーっと見ていた。
目を閉じる間もなく、柔らかいそれが私の唇に触れて離れる。

「……約束する、から」

「こうたか、ぶちょう……?」

じっと私を見つめたまま、ふっと唇を緩ませて高鷹部長が笑った。

「君も絶対に諦めるな」

無意識に、こくんとひとつ頷いていた。
嬉しそうに彼の手が、私のあたまを撫で回す。

「……子供扱い、ですか」

「んー、愛乃は小さくて可愛いからなー」

さっきまでの空気はもう、どこにもない。
あれはきっと、真夏の太陽が見せた幻。

「そろそろ戻るか。
東藤本部長が目を覚ましていたら大変なことになるからな」
「そうですね」

何事もなかったかのように来た道を戻る。
けれど高鷹部長の言葉は楔になって、私の胸の奥深くに打ち込まれていた。


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