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第1章 前世の婚約者ってなんですか
3.顔も知らない人と結婚しました
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「……は?」
手も持ったパウンドケーキがぽろりと落ちていく。
温人もぽかんと口が開いていた。
母はひとり、にこにこと笑っていたが。
「んー、ちょっと待って。
なにその、ファンタジー設定?」
まさか、五十も過ぎた父がいきなり、厨二病になったとかいうことはないと思いたい。
「だから清人くんはお前の前世の婚約者なんだ。
俺が清人くんと会ったのは……」
「ちょっと、ちょっと待って。
なんだかよくわからない」
前世語りをはじめようとした父を慌てて止める。
温人もうんうんと頷いていた。
母はにこにこと笑い続けているけど。
「いいから聞け。
俺は前世で鍛冶屋をしていた。
ある日、ジパング渡来の技術を導入してみたのはいいが、全く注文が入らなくなったんだ。
それで困っていたところを助けてくれたのが、清人くんだ」
「はぁ……」
設定がよくわからないが、とりあえず聞き流しておく。
「清人くんは領主をしていてな、俺に武具の注文をしてくれた。
それが評判になり、おかげでピンチを乗り越えて、娘を嫁にやると約束したんだ」
「ちょっと待って。
それはいいけど私が前世も父さんの娘とは限らないよね」
「お前も温人も前世でも俺の子供だったし、母さんは前世でも俺の嫁だった」
むすっと父はコーヒーを飲んでいるけれど……ん?
もしかしていま、のろけられた?
「とにかく、清人くんと偶然再会して、あのときの約束をいま果たすべきだと思ったんだ」
「はぁ……」
いや、そんな厨二病的な前世の話をされても困る。
温人なんてもう関心がなくなったのか、ゲームを再開しているし。
「んー、それで、その、雨山さんは納得したの?」
そうだそうだ、こんな話、普通の人が信じるはずがない。
「ああ。
お嬢さんをぜひくださいって、大喜びでサインしてくれたが?」
「あ……」
夫の欄記入済みの婚姻届をちらり。
父になにか弱みを握られて脅されて……なんて考えないわけじゃないが、この父に限ってそんなことはありえない。
じゃあこの人はなんでサインしたんだ?
あれか、やっぱり前世を信じている厨二病な人なのか。
やだな、そんな人。
「いいからここに、黙ってサインしなさい」
父がぐいぐいと私にペンを押しつけてくる。
なんでもいいがどうして父はここまで、焦っているのだろう。
「ねー、親父ー。
どうでもいいけどマジで姉ちゃん、嫁にやっていいの?」
ゲームをしながらどうでもよさそうではあるが……ナイスサポートだ、弟よ。
「姉ちゃん、家事が壊滅的にダメなの知ってんだろ。
料理したら殺人兵器ができるんだぜ?
一家全滅カレー事件、忘れたのかよ」
「うっ」
そう、あれは私が高三の夏。
将来のひとり暮らしを見据えてカレーを作ったまではよかったけれど……。
最初の一口を食べただけでバタバタと家族が倒れていった。
そんなはずはないと食べようとしたけれど、お前まで倒れられると困ると止められる始末。
結局、三日間ほどみんなを看病した。
あれ以来、二度と台所には立たせてもらえない。
「だからだ。
相手はあの、AAを中心にした、雨山ホールディングスの御曹司。
家事の一切はお手伝いさんがやってくれるから、心配はいらない」
「ちょ、待って!
AAの御曹司ってなに!?」
AAといえば国内どころか世界でもトップの売り上げを誇る自動車メーカーだ。
なんでそんなところの御曹司が、下町の自転車工場の娘なんて欲しがる?
「……ただの偶然だ」
ぷいっと、父が不機嫌に視線を逸らす。
あきらかになにかを隠している顔だけど、伊達に二十八年も娘をしているわけじゃない。
ああなるとなにも話してくれないのは経験済みだ。
「とにかく、これ以上ないいい条件が揃っている。
サインしなさい」
再び父がペンを押しつけてくるが、いくらいい条件でも見ず知らずの人とはい、そうですか、なんて結婚できるはずもない。
昔はそれが当たり前だったらしいけど、いまはもう令和なのだ。
「せめて!
せめて写真見せてよ!」
そうだ、そうだ。
見合いだってまず、写真からだ。
「ない」
「は?」
「だから、ない」
父は若干怒っているが……いや、顔も知らない相手と結婚しろだなんて、無理がありすぎない?
「じゃあ、会わせて。
会ってから考える」
「清人くんは海外に出張中で、帰ってくるのは来週末だ」
「じゃあ、それまで保留する」
「つべこべうるさいぞ!
それならお前が無駄に行った大学の学費、耳揃えていますぐ返せ!」
ドン、と父がテーブルを叩き、さすがに小さく飛び上がった。
傍観に徹してゲームをしていた温人も何事かと見ている。
ただ、母は変わらずにこにこと笑っていたが。
「えーっと」
大学の学費を返せは耳が痛い。
わざわざ大学に入ったものの、やりたいことはこれじゃなかったって卒業して改めて専門学校に入り直した身としては。
「返せないならいますぐここへ、サインしろ」
「……はい」
渋々だけどペンを握って妻の欄へサインをする。
もうこれ以上、父には逆らえない。
「よし。
途中で役所に寄るぞ」
私のサインを確認し、立ち上がった父を間抜けにもぽかんと見ていた。
「なんだ、焼き肉食いに行かないのか」
「いや、行くけどさ」
そもそもの目的はそれだったはずなのだ。
なのになんで、こんなことになっているんだろう。
あれか、うすうすこんなことになるのがわかっていながら焼き肉に釣られた私が悪いのか。
憎むべし、私の食欲。
「オレ、腹減ったー」
大きく伸びをして温人が立ち上がる。
ってあんた、さっきパウンドケーキぱくぱく食べまくっていましたが?
あれか、同じ二十代でも前半と後半でこんなに違うのか?
「じゃあ、行きましょうかね」
母も立ち上がり、準備をはじめた。
焼き肉屋に行く途中で役所に寄って、婚姻届を提出させられた。
これで見ず知らずの雨山さんと私は夫婦というわけだ。
「今日は祝いだ」
父は上機嫌に特上の肉をばんばん頼んでいる。
いや、このあたりでは珍しい、宮崎牛一頭買いの店で、さらにはA5ランクの肉ばかり食べられるのは嬉しいけれど。
本当にこれでよかったのだろうが。
喜び勇んできた焼き肉だったけど、味はちっともわからなかった。
手も持ったパウンドケーキがぽろりと落ちていく。
温人もぽかんと口が開いていた。
母はひとり、にこにこと笑っていたが。
「んー、ちょっと待って。
なにその、ファンタジー設定?」
まさか、五十も過ぎた父がいきなり、厨二病になったとかいうことはないと思いたい。
「だから清人くんはお前の前世の婚約者なんだ。
俺が清人くんと会ったのは……」
「ちょっと、ちょっと待って。
なんだかよくわからない」
前世語りをはじめようとした父を慌てて止める。
温人もうんうんと頷いていた。
母はにこにこと笑い続けているけど。
「いいから聞け。
俺は前世で鍛冶屋をしていた。
ある日、ジパング渡来の技術を導入してみたのはいいが、全く注文が入らなくなったんだ。
それで困っていたところを助けてくれたのが、清人くんだ」
「はぁ……」
設定がよくわからないが、とりあえず聞き流しておく。
「清人くんは領主をしていてな、俺に武具の注文をしてくれた。
それが評判になり、おかげでピンチを乗り越えて、娘を嫁にやると約束したんだ」
「ちょっと待って。
それはいいけど私が前世も父さんの娘とは限らないよね」
「お前も温人も前世でも俺の子供だったし、母さんは前世でも俺の嫁だった」
むすっと父はコーヒーを飲んでいるけれど……ん?
もしかしていま、のろけられた?
「とにかく、清人くんと偶然再会して、あのときの約束をいま果たすべきだと思ったんだ」
「はぁ……」
いや、そんな厨二病的な前世の話をされても困る。
温人なんてもう関心がなくなったのか、ゲームを再開しているし。
「んー、それで、その、雨山さんは納得したの?」
そうだそうだ、こんな話、普通の人が信じるはずがない。
「ああ。
お嬢さんをぜひくださいって、大喜びでサインしてくれたが?」
「あ……」
夫の欄記入済みの婚姻届をちらり。
父になにか弱みを握られて脅されて……なんて考えないわけじゃないが、この父に限ってそんなことはありえない。
じゃあこの人はなんでサインしたんだ?
あれか、やっぱり前世を信じている厨二病な人なのか。
やだな、そんな人。
「いいからここに、黙ってサインしなさい」
父がぐいぐいと私にペンを押しつけてくる。
なんでもいいがどうして父はここまで、焦っているのだろう。
「ねー、親父ー。
どうでもいいけどマジで姉ちゃん、嫁にやっていいの?」
ゲームをしながらどうでもよさそうではあるが……ナイスサポートだ、弟よ。
「姉ちゃん、家事が壊滅的にダメなの知ってんだろ。
料理したら殺人兵器ができるんだぜ?
一家全滅カレー事件、忘れたのかよ」
「うっ」
そう、あれは私が高三の夏。
将来のひとり暮らしを見据えてカレーを作ったまではよかったけれど……。
最初の一口を食べただけでバタバタと家族が倒れていった。
そんなはずはないと食べようとしたけれど、お前まで倒れられると困ると止められる始末。
結局、三日間ほどみんなを看病した。
あれ以来、二度と台所には立たせてもらえない。
「だからだ。
相手はあの、AAを中心にした、雨山ホールディングスの御曹司。
家事の一切はお手伝いさんがやってくれるから、心配はいらない」
「ちょ、待って!
AAの御曹司ってなに!?」
AAといえば国内どころか世界でもトップの売り上げを誇る自動車メーカーだ。
なんでそんなところの御曹司が、下町の自転車工場の娘なんて欲しがる?
「……ただの偶然だ」
ぷいっと、父が不機嫌に視線を逸らす。
あきらかになにかを隠している顔だけど、伊達に二十八年も娘をしているわけじゃない。
ああなるとなにも話してくれないのは経験済みだ。
「とにかく、これ以上ないいい条件が揃っている。
サインしなさい」
再び父がペンを押しつけてくるが、いくらいい条件でも見ず知らずの人とはい、そうですか、なんて結婚できるはずもない。
昔はそれが当たり前だったらしいけど、いまはもう令和なのだ。
「せめて!
せめて写真見せてよ!」
そうだ、そうだ。
見合いだってまず、写真からだ。
「ない」
「は?」
「だから、ない」
父は若干怒っているが……いや、顔も知らない相手と結婚しろだなんて、無理がありすぎない?
「じゃあ、会わせて。
会ってから考える」
「清人くんは海外に出張中で、帰ってくるのは来週末だ」
「じゃあ、それまで保留する」
「つべこべうるさいぞ!
それならお前が無駄に行った大学の学費、耳揃えていますぐ返せ!」
ドン、と父がテーブルを叩き、さすがに小さく飛び上がった。
傍観に徹してゲームをしていた温人も何事かと見ている。
ただ、母は変わらずにこにこと笑っていたが。
「えーっと」
大学の学費を返せは耳が痛い。
わざわざ大学に入ったものの、やりたいことはこれじゃなかったって卒業して改めて専門学校に入り直した身としては。
「返せないならいますぐここへ、サインしろ」
「……はい」
渋々だけどペンを握って妻の欄へサインをする。
もうこれ以上、父には逆らえない。
「よし。
途中で役所に寄るぞ」
私のサインを確認し、立ち上がった父を間抜けにもぽかんと見ていた。
「なんだ、焼き肉食いに行かないのか」
「いや、行くけどさ」
そもそもの目的はそれだったはずなのだ。
なのになんで、こんなことになっているんだろう。
あれか、うすうすこんなことになるのがわかっていながら焼き肉に釣られた私が悪いのか。
憎むべし、私の食欲。
「オレ、腹減ったー」
大きく伸びをして温人が立ち上がる。
ってあんた、さっきパウンドケーキぱくぱく食べまくっていましたが?
あれか、同じ二十代でも前半と後半でこんなに違うのか?
「じゃあ、行きましょうかね」
母も立ち上がり、準備をはじめた。
焼き肉屋に行く途中で役所に寄って、婚姻届を提出させられた。
これで見ず知らずの雨山さんと私は夫婦というわけだ。
「今日は祝いだ」
父は上機嫌に特上の肉をばんばん頼んでいる。
いや、このあたりでは珍しい、宮崎牛一頭買いの店で、さらにはA5ランクの肉ばかり食べられるのは嬉しいけれど。
本当にこれでよかったのだろうが。
喜び勇んできた焼き肉だったけど、味はちっともわからなかった。
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