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第五章 キスくらいならしてもいい……かも

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きっかり三十分後、腕時計が着信を告げる。

「はいはいはい、今会社を出ますよ!」

聞こえないとわかっていながらそれに返事をし、バタバタとパソコンを閉じて帰り支度をした。

「私が最後か」

もう九時近いとなると誰もいない。
その事実に気づき、急に背筋が冷えた。
電気を消し、部署を出る。
薄暗いホールでエレベーターを待ちながら、駒木さんにもらったペンダントを硬く握って辺りをうかがってしまう。

少ししてエレベーターが到着し、扉が開く。
乗ってなぜか、閉まるのボタンを連打していた。
ゆっくりと閉まっていく扉が焦れったい。
もうすぐ閉まると思ったとき、ガッ!と勢いよく手が差し込まれた。

「……すみません」

再び開いたドアから入ってきたのは俯いて背中を丸めた、若い男性社員だった。

「いえ……」

今度こそ扉が閉まり、エレベーターが降下していく。
さっき、職場には誰もいなかった。
ホールから見渡した先、給湯室だって電気が消えていた。
この人はどこで、なにをしていたんだろう。

ばくん、ばくん、と心臓が大きく鼓動する音ばかりが、私に耳につく。
ペンダントトップを握りしめる手が、じっとりと汗を掻いた。
さっきから腕時計は、震えっぱなしだ。
操作盤の前に立ち、じっと階数表示を見つめた。

「あの。
降りないんですか」

「えっ、あっ」

声をかけられて初めて、エレベーターはすでに一階に到着し、扉も開いているのに気づいた。

「すみません、ありがとうございます」

お礼を言って、扉を押さえてくれていた彼の傍を通り過ぎる。

「……またね、花夜乃ちゃん」

呟くような声とくすりと小さな笑い声が聞こえ、足が止まった。
おそるおそる振り返った私の脇を、足早に彼が通り過ぎていく。

「……え?」

足が竦んで動かない。
なんだったの、今の?

「花夜乃さん!」

乱雑な足音共に近づいてきた人を見て、気が抜けた。
そのせいで、その場にぺたりとへたり込んでしまう。

「大丈夫!?」

近づいてきたその人――駒木さんは私の前で膝を折り、抱き締めてくれた。
その肩に顔をうずめ、彼の匂いを胸いっぱいに吸い込む。
そのおかげで少しずつ、落ち着いていった。

「だ、大丈夫、……です」

証明するように、彼の背中をぽんぽんと叩く。
それでようやく安心したのか、彼は離れてくれた。

「ごめんね、また遅くなって。
警備員がなかなか入れてくれないからさ……」

駒木さんの視線が、あとから来た警備員のおじさんに向く。

「なにがあった?」

「なにもないです、なにも。
エレベーターで男性とふたりっきりになって、私が過剰に反応しちゃっただけで」

笑ってみせたものの、彼の不安は晴れない。
彼を呼びだす羽目になったのはそれだけだが、……でも、さっきのは?

「とりあえず、家に帰ろう。
そのほうが安心できるだろ?」

「そう、ですね」

駒木さんの支えで、立ち上がる。
足の震えは治まっていた。

「ほら、なんでもなかったじゃないですか。
……ひぃっ」

警備員はブツブツ言っていたが、駒木さんから冷たい視線を送られ、小さく悲鳴を上げた。

「なにかあってからじゃ遅いんだ。
そのための警備だろ」

「す、すみません!」

怯えたように警備員はビシッと姿勢を正し、少し可哀想だった。

駒木さんの運転で彼の家に帰る。

「晩ごはんはどうしようか。
外で食べるのはあれだよね……」

さっき、私の様子がおかしかったからか、彼は悩んでいるようだった。

「なにか出前を取ろうか。
それでいい?」

「はい」

異存はなかったので頷いた。

帰り着いて出前を頼む。
なにが食べたいか聞かれたが、さっきのあれで食欲はあまりない。
迷っていたら、最近気に入っているという洋食屋を勧めてくれた。
それでもどうしようかと悩む。

「じゃあ、僕が適当に決めちゃうね。
花夜乃さんは食べたいのを食べたいだけ食べたらいいよ」

そう言って、駒木さんが頼んでくれた。
こんなふうに気遣いのできる駒木さんって、凄いな。
私も、こうなりたい。

「それで。
なにがあったの」

出前を待つあいだ、ソファーで私の隣に座り、駒木さんがじっと見つめてくる。
話してもいいんだろうか。
でも、私の勘違いかもしれない。
少し考えたあと、おそるおそる口を開いた。

「エレベーターで一緒になった男性社員とすれ違うとき、『またね、花夜乃ちゃん』って言われて、小さく笑われた……気が、しました」

聞き逃すほどの声だったし、気のせいかもしれない。
けれど、ゾッとするほど愉悦を含んだ声だった。

「その男に心当たりは?」

「心当たり……」

そういえば私の部署に、あんな男性はいただろうか。
思い起こすが、該当する男性の顔は出てこなかった。
私がわからないと首を振り、駒木さんは軽く握った手を口もとに当て、なにか考え込んでいる。

「花夜乃さん、やっぱり少しのあいだ、会社、休まない?」

顔を上げた彼は、困っているように見えた。
駒木さんが私を守ってくれようとしているのはわかっている。
そのために、彼の指示に従ったほうがいいのも。
それでも、私は。

「コンペのプレゼン、来週なんです。
それまでは休めません」

レンズ越しに真っ直ぐ、駒木さんと視線をあわせる。
しばらくじっと見つめあったあと、彼はふっと表情を緩ませた。

「わかった。
僕のほうでなにかできないか、考えるよ」

「ありがとうございます」

精一杯の気持ちで頭を下げる。
本音をいえばきっと、彼は絶対に私を休ませたいのだろう。
でも、私のやりたいことを優先してくれた。
そういうところは、好きだと思う。

届いた料理で遅い夕食を済ませる。
料理は少しずつ、シェアしてもらった。

「そういえばどうやって、会社の中に入ったんですか?」

部外者は立ち入り禁止だから、警備員は駒木さんを中に入れなかった。
彼は文句を言っていたが、警備員は職務をまっとうしただけだ。

「中にいる人に危険が迫っているっていくら言っても、入れられないの一点張りだしさ。
警察だって手帳を見せた」

駒木さんは得意げだけれど。

「それって職権乱用では……?」

いいのか、そんなに簡単に警察手帳を出して。

「実際に花夜乃さんに危険が迫っていたんだから、問題ないよ。
せめて警備会社が、K'bだったらよかったんだけど」

しれっと言ってスプーンを駒木さんは口に運んでいる。
それはそうなんだけれど、本当によかったの……?
ちなみにうちの会社に入っている警備会社は、国内ではK'bと一、二位を争う別の会社だ。

「個人的に警備員を雇って花夜乃さんをガードできたらいいんだけど、そんなことしたら会社の中で目立っちゃうもんね。
ちょっと考えるよ」

「お手数おかけします」

私のせいで駒木さんに余計な手間をかけて、申し訳ない。

「いいんだよ、花夜乃さんのためだったらなんだってするって言っただろ」

彼の人差し指が、私の鼻をぷにぷにと押す。

「駒木さん?」

「キスしたいけど、好きでもない男からされても嫌だろうから、これで我慢」

くすくすと笑いながら、また彼が私の鼻を押す。

「ちょっ、やめてくださいよ!」

それから笑って逃げなら、彼とならキスしてもいいかも、などと思っていた。
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