恋と眼鏡

霧内杳/眼鏡のさきっぽ

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3.ご主人様の、婚礼準備

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祐典さまの結婚が決まった、そう鷹司さんから聞かされたのは翌日の午後だった。

いつもなら祐典さまの朝の身支度から呼ばれるのに、今朝はほかの用事を頼まれた。
さらには朝食の給仕も別の者に。

違和感を覚えながら午後、聞かされたのが祐典さまの結婚。

「加代。
どうかしたのか?」

「あ、……いえ」

心配そうに鷹司さんに顔をのぞき込まれ、はっと我に返る。
まるで誰かに殴られたみたいに衝撃は大きく、あたまの中が真っ白になっていた。

「奥方さまのお輿入れはひと月後。
祐典さまはおまえに、準備を任せたいそうだ」

「そんなの、無理です」

だって、私はここの使用人の中で一番年下で、だいぶできるようになってきたとはいえ、読み書きすらまだ満足にできない。

……それに。
祐典さまの婚礼の準備、とか。

悲しいことなんてなにもないのに、胸が張り裂けそうなくらい、痛い。

「私も反対したのだが、祐典さまがどうしても加代に任せたいというから仕方ない。
おまえはこちらの準備にかかりきりになって欲しい。
なに、重要なことは私がするから問題はない」

「……わかり、ました」

慰めるように鷹司さんにぽんぽんと肩を叩かれ、ただ頷くことしかできなかった。



この日から祐典さまは夜、私を呼ばなくなった。

奥方さまをお迎えになるのだから、もう女中とふたりきりで過ごすなんてことができないのはわかっている。

けれど、あんなに私を傍に置いてなにかと世話をさせていたのに、全くなくなった。

確かに、婚礼の支度にかかりきりになっている私には、祐典さまの身の回りのお世話をする余裕はない。

でも、私を避けるためにそうしたのではないかなどと思うのは、考えすぎだろうか。
婚礼の支度が着々と進んでいくにつれて、私の心はどんどん重くなっていく。

奥方さまになるお方は、あんなに嫌がっていた孝利さまの紹介らしい。

……どうして、あんなに嫌がっていた結婚をする気になったのだろう。
しかも、孝利さまの紹介とか。

祐典さまの考えていることが、私には少しもわからない。
最近は滅多に顔を合わせることもないが、たまに会うとするりと逃げられている気がする。

……もしかして、私のことがお嫌いになったとか。

だとすれば合点がいく。
顔も見たくないほど嫌いだから、避けている。

しかしどうして嫌われてしまったのか、考えてもわからない。
それでも祐典さまに嫌われてしまったという事実は私の心に重くのしかかり、そのせいかあまり食事がのどを通らなくなっていった。



「……はぁーっ」

「加代?」

「あっ、いえ、なんでもないです。
もう明後日ですもんね。
準備、急がないと」

ため息をついたところを鷹司さんに目撃されて、慌てて取り繕う。

……明後日。
明後日には祐典さまは奥方さまをお迎えになる。

お目出たいことなのに、素直に喜べない。
それどころか天変地異でも起きて、中止になればいいとか願ってしまう。

自分でも、なにを考えているのかわからない。


夜も更け、残りはまた明日にして部屋に下がる。
明日は今日よりさらに忙しくなる。
早く、寝ないと……。


ぱちぱちとなにかが爆ぜる音と、きな臭いにおいで目が覚めた。

「え……」

扉の隙間から入ってくる煙。
悩んだものの思い切って扉を開けると、……そこは火の海だった。

「なに、これ……。
ひぃっ」

――ガシャン。

近くで窓ガラスの割れる音にして、あたまを抱えてしゃがみ込む。
どうも私は逃げ遅れたみたいで、周囲に人の気配はない。

……逃げなきゃ。

わかっているんだけれど足が動かない。

――ガシャン。

再びガラスが割れ、怖くて膝を抱えて小さく丸くなった。

……きっと、罰が当たったんだ。
祐典さまの結婚が、中止になればいいとか願ったから。

このまま、死ぬのかな。

でも、死んでしまったら祐典さまが奥方さまの隣で笑っているのを見なくてすむ。
だって私は……祐典さまが、好き、だから。

「そっか。
私は祐典さまが好きだったんだ」

ぽろぽろ、ぽろぽろ、涙はこぼれ落ちていく。

初めて知った恋心。

好き。
祐典さまが好き。

でもこの想いは、たとえ祐典さまが結婚されなくたって叶うことはない。

ならいっそ。

「……焼け死ぬのは苦しいのかな」

少しでも苦しまないで死ねたらいいのだけれど……。

「加代!
加代はどこです!」

私がそう願うからなのかな。
いないはずの祐典さまの声が聞こえる。

「加代!
どこです!
返事をなさい!」

神様は意地悪だよ、最後の最後で私の気持ちを試すようなことをして。

「加代!
返事をなさい!」

「はい!」

何度も呼ばれ、思わず返事をしていた。
少しして私の目の前に現れた人に自分の目を疑った。

「加代!」

「ゆうすけ……さま?」

痛いくらいに強く、私を抱きしめているこの人が、なんでこんなところにいるのかわからない。

「よかった、怪我はないですね?」

「なん、で」

いるはずないのだ、こんな危険なところに。
高遠の当主である祐典さまが。

「ほら、逃げますよ。
早くしないと建物が崩れ落ちる」

「……嫌」

「加代?」

引っ張られた手を振り払うと、祐典さまが怪訝そうに私の顔をのぞき込んだ。

「嫌です。
加代はここで死ぬんです。
おひとりで行ってください」

「なにを言っているのですか?」

一歩、一歩。
少しずつ、後ろに下がって祐典さまから遠ざかる。

「加代はここで死ぬんです。
祐典さまがご結婚されるのなんて、見たくない
だって加代は――祐典さまが、好き、だから」

「加代!」

なにが起きたのかわからなかった。
逃げようとした私を引き留めるように、掴まれた手。
じんじんと内側から熱を持つ頬にそっと手をふれる。

……私は祐典さまに叩かれたんだ。

「しっかりなさい!
確かに、あなたと一緒にここで焼け死ぬのもひとつの幸せかもしれません。
でも、私は生きて、加代を幸せにしたい」

私を射る、祐典さまの強い瞳。

ああ、そうか。
祐典さまはずっと、私を……。

「いきますよ」

「はい!」

祐典さまに抱き抱えられ、燃えさかる建物内を逃げていく。

――パリン!

「……いっ」

「祐典さま!」

祐典さまの眼鏡が割れていた。
割れたレンズで切れたのか、頬を血が伝っていく。

「いくら見えないからって、炎の中を眼鏡をかけたままなど無謀でしたね」

私を安心させるように、苦笑いを浮かべた祐典さまに私も少し笑って頷く。

必ず生きて、ここを出る。

「祐典さま!
加代!」

建物を出ると珍しくうろたえて待っていた鷹司さんが、慌てて駆け寄ってきた。

「ご無事で……!」

「ああ、なんとか無事……」

……祐典さまが全部言い終わらないうちに、背後でガラガラと大きな音を立てて建物が崩れ落ちた。
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