128 / 129
最終話 契約書は婚姻届
6.ずっと一緒にいるんです
しおりを挟む
書類を確認する尚一郎の手は震えていた。
けれど、目を通し終えると何事もなかったかのようにテーブルの上に戻す。
「僕と二度と関わらないことを条件に、慰謝料を渡したはずだ」
「契約不履行ですよね、わかってます。
一生かかってでも働いてお返ししますから」
丸尾に尚一郎と交わした書類を見てもらうと、慰謝料は全額、尚一郎に返済しなければならないだろうと云われた。
きっと、自分が一生かかって働いたって返せないだろう。
でも、そんなことは朋香にとって、些細な問題だった。
「君との結婚は遊びだったと云っただろう?」
「……いま、五週目だそうです」
「は?」
その場にいた全員の目が朋香に向く。
ごそごそと横に置いてあったファイルから診断書を出すと、婚姻届の横に並べて置いた。
「尚一郎さんの子供を妊娠しています」
はぁーっ、診断書を確認した尚一郎はため息をつくと、それを机の上に投げ捨てた。
「子供を盾に僕に結婚を迫るのか?
産みたければ勝手に産めばいい。
認知はしない、十分な慰謝料は払ったしな」
きっと喜んでくれると思ったのは、自分の浅はかな期待だったのだろうか。
やはり、押部の家を途絶えさせるために不要だとでもいうのだろうか。
きつく唇を噛んで俯いてしまった朋香に尚一郎はなにも云わない。
「まさか、こんな馬鹿げた条件を出してくるとは思いませんでした。
このまま裁判を続けたければご自由にどうぞ。
それでは」
立ち上がった尚一郎を見上げるとレンズ越しに目があった。
碧い瞳が一瞬、揺らいだ瞬間を朋香は見逃さなかった。
……大丈夫。
尚一郎さんはいまだって、私を愛してくれてる。
「万理奈さんに会ってきました」
「……それがどうした?」
朋香の声に振り返った尚一郎は平静を装っていたが、その声は僅かに震えていた。
「尚一郎さんは幸せかって聞かれました」
「万理奈は僕の不幸を願っているからね。
きっと、いまの僕に喜んでいただろ?」
右の頬だけをつり上げて皮肉って笑う尚一郎に、ぶんぶんと力強く首を横に振る。
「違います。
万理奈さんは尚一郎さんの幸せを願ってた。
どうして尚一郎さんに怯えていたかわかりますか?
自分と一緒にいると尚一郎さんが不幸になるからですよ。
尚一郎さんを不幸にするからって、怯えるほど避けてたんです」
「そんなはずが……」
「私は万理奈さんと約束したんです。
絶対に尚一郎さんを幸せにしますって。
それに結婚式の時、ずっと尚一郎さんと一緒にいて、絶対にひとりにしないって神様に誓いました。
だから、尚一郎さんが嫌だって云ってもずっと一緒にいて、絶対に幸せにするんです……!」
「朋香……」
久しぶりに自分の名を呼ぶ声におそるおそる顔を上げると、涙で滲む視界につらそうな尚一郎が見えた。
「サイン、してください。
ここに」
ペンを突きつけると尚一郎はソファーに座り直した。
「いまのオシベの状態を知っているだろう?
そんなところの代表である僕のところに嫁いできたって、不幸になるだけだよ」
「望むところです。
尚一郎さんさえいれば私は別にかまいません」
「きっと、朋香も恨みを買うよ」
「かまいません」
「子供だって犯罪者の曾孫って不幸にするよ」
「私が絶対に、そんなことにはさせません」
「それに……」
「そんなに尚一郎さんは、私と一緒にいたくないんですか」
ぐいっと尚一郎の顔を両手で掴んでじっと見つめる。
レンズの向こうから泣き出しそうな目がこちらをじっと見ていた。
「私は尚一郎さんを……。
Ich liebe dchi.です」
「……Besten Dank(本当にありがとう),朋香」
尚一郎が一度瞬きするときれいな涙が一滴、落ちていった。
眩しそうに細められた目に、心臓がぎゅーっと締め付けられる。
尚一郎は握っていたペンで、婚姻届の夫の欄にサインした。
「あとで、やめとけばよかったって云ってももう遅いんだよ」
「かまいません」
「やっぱり朋香はとても、reizend(可愛い)」
尚一郎の顔が迫ってきて……ちゅっと唇にキスを落とされた。
離れると、嬉しそうにふふっと笑っている。
「……こほん」
小さな咳払いに、二人っきりではなかったことを思い出し、急に恥ずかしくなってくる。
ふと目をやると明夫は視線を泳がせていたし、丸尾と羽山はあらぬ方向を見ていた。
ただ、犬飼だけはにやにや笑っていたが。
「あー、では、我が社といたしましては、そちらからの和解を受け入れると云うことで」
少し赤い顔で、咳払いをした明夫が気まずそうに口を開く。
「はい、よろしくお願いします」
にっこりと笑う尚一郎は、熱い顔で黙ってしまった朋香と違い、平静になっていた。
いや、それどころかきらきらと星が飛んで絶好調になっている。
「……現金な奴」
ぼそりと呟かれた犬飼の言葉は尚一郎によって黙殺された。
けれど、目を通し終えると何事もなかったかのようにテーブルの上に戻す。
「僕と二度と関わらないことを条件に、慰謝料を渡したはずだ」
「契約不履行ですよね、わかってます。
一生かかってでも働いてお返ししますから」
丸尾に尚一郎と交わした書類を見てもらうと、慰謝料は全額、尚一郎に返済しなければならないだろうと云われた。
きっと、自分が一生かかって働いたって返せないだろう。
でも、そんなことは朋香にとって、些細な問題だった。
「君との結婚は遊びだったと云っただろう?」
「……いま、五週目だそうです」
「は?」
その場にいた全員の目が朋香に向く。
ごそごそと横に置いてあったファイルから診断書を出すと、婚姻届の横に並べて置いた。
「尚一郎さんの子供を妊娠しています」
はぁーっ、診断書を確認した尚一郎はため息をつくと、それを机の上に投げ捨てた。
「子供を盾に僕に結婚を迫るのか?
産みたければ勝手に産めばいい。
認知はしない、十分な慰謝料は払ったしな」
きっと喜んでくれると思ったのは、自分の浅はかな期待だったのだろうか。
やはり、押部の家を途絶えさせるために不要だとでもいうのだろうか。
きつく唇を噛んで俯いてしまった朋香に尚一郎はなにも云わない。
「まさか、こんな馬鹿げた条件を出してくるとは思いませんでした。
このまま裁判を続けたければご自由にどうぞ。
それでは」
立ち上がった尚一郎を見上げるとレンズ越しに目があった。
碧い瞳が一瞬、揺らいだ瞬間を朋香は見逃さなかった。
……大丈夫。
尚一郎さんはいまだって、私を愛してくれてる。
「万理奈さんに会ってきました」
「……それがどうした?」
朋香の声に振り返った尚一郎は平静を装っていたが、その声は僅かに震えていた。
「尚一郎さんは幸せかって聞かれました」
「万理奈は僕の不幸を願っているからね。
きっと、いまの僕に喜んでいただろ?」
右の頬だけをつり上げて皮肉って笑う尚一郎に、ぶんぶんと力強く首を横に振る。
「違います。
万理奈さんは尚一郎さんの幸せを願ってた。
どうして尚一郎さんに怯えていたかわかりますか?
自分と一緒にいると尚一郎さんが不幸になるからですよ。
尚一郎さんを不幸にするからって、怯えるほど避けてたんです」
「そんなはずが……」
「私は万理奈さんと約束したんです。
絶対に尚一郎さんを幸せにしますって。
それに結婚式の時、ずっと尚一郎さんと一緒にいて、絶対にひとりにしないって神様に誓いました。
だから、尚一郎さんが嫌だって云ってもずっと一緒にいて、絶対に幸せにするんです……!」
「朋香……」
久しぶりに自分の名を呼ぶ声におそるおそる顔を上げると、涙で滲む視界につらそうな尚一郎が見えた。
「サイン、してください。
ここに」
ペンを突きつけると尚一郎はソファーに座り直した。
「いまのオシベの状態を知っているだろう?
そんなところの代表である僕のところに嫁いできたって、不幸になるだけだよ」
「望むところです。
尚一郎さんさえいれば私は別にかまいません」
「きっと、朋香も恨みを買うよ」
「かまいません」
「子供だって犯罪者の曾孫って不幸にするよ」
「私が絶対に、そんなことにはさせません」
「それに……」
「そんなに尚一郎さんは、私と一緒にいたくないんですか」
ぐいっと尚一郎の顔を両手で掴んでじっと見つめる。
レンズの向こうから泣き出しそうな目がこちらをじっと見ていた。
「私は尚一郎さんを……。
Ich liebe dchi.です」
「……Besten Dank(本当にありがとう),朋香」
尚一郎が一度瞬きするときれいな涙が一滴、落ちていった。
眩しそうに細められた目に、心臓がぎゅーっと締め付けられる。
尚一郎は握っていたペンで、婚姻届の夫の欄にサインした。
「あとで、やめとけばよかったって云ってももう遅いんだよ」
「かまいません」
「やっぱり朋香はとても、reizend(可愛い)」
尚一郎の顔が迫ってきて……ちゅっと唇にキスを落とされた。
離れると、嬉しそうにふふっと笑っている。
「……こほん」
小さな咳払いに、二人っきりではなかったことを思い出し、急に恥ずかしくなってくる。
ふと目をやると明夫は視線を泳がせていたし、丸尾と羽山はあらぬ方向を見ていた。
ただ、犬飼だけはにやにや笑っていたが。
「あー、では、我が社といたしましては、そちらからの和解を受け入れると云うことで」
少し赤い顔で、咳払いをした明夫が気まずそうに口を開く。
「はい、よろしくお願いします」
にっこりと笑う尚一郎は、熱い顔で黙ってしまった朋香と違い、平静になっていた。
いや、それどころかきらきらと星が飛んで絶好調になっている。
「……現金な奴」
ぼそりと呟かれた犬飼の言葉は尚一郎によって黙殺された。
2
あなたにおすすめの小説
あまやかしても、いいですか?
藤川巴/智江千佳子
恋愛
結婚相手は会社の王子様。
「俺ね、ダメなんだ」
「あーもう、キスしたい」
「それこそだめです」
甘々(しすぎる)男子×冷静(に見えるだけ)女子の
契約結婚生活とはこれいかに。
思い出のチョコレートエッグ
ライヒェル
恋愛
失恋傷心旅行に出た花音は、思い出の地、オランダでの出会いをきっかけに、ワーキングホリデー制度を利用し、ドイツの首都、ベルリンに1年限定で住むことを決意する。
慣れない海外生活に戸惑い、異国ならではの苦労もするが、やがて、日々の生活がリズムに乗り始めたころ、とてつもなく魅力的な男性と出会う。
秘密の多い彼との恋愛、彼を取り巻く複雑な人間関係、初めて経験するセレブの世界。
主人公、花音の人生パズルが、紆余曲折を経て、ついに最後のピースがぴったりはまり完成するまでを追う、胸キュン&溺愛系ラブストーリーです。
* ドイツ在住の作者がお届けする、ヨーロッパを舞台にした、喜怒哀楽満載のラブストーリー。
* 外国での生活や、外国人との恋愛の様子をリアルに感じて、主人公の日々を間近に見ているような気分になれる内容となっています。
* 実在する場所と人物を一部モデルにした、リアリティ感の溢れる長編小説です。
数合わせから始まる俺様の独占欲
日矩 凛太郎
恋愛
アラサーで仕事一筋、恋愛経験ほぼゼロの浅見結(あさみゆい)。
見た目は地味で控えめ、社内では「婚期遅れのお局」と陰口を叩かれながらも、仕事だけは誰にも負けないと自負していた。
そんな彼女が、ある日突然「合コンに来てよ!」と同僚の女性たちに誘われる。
正直乗り気ではなかったが、数合わせのためと割り切って参加することに。
しかし、その場で出会ったのは、俺様気質で圧倒的な存在感を放つイケメン男性。
彼は浅見をただの数合わせとしてではなく、特別な存在として猛烈にアプローチしてくる。
仕事と恋愛、どちらも慣れていない彼女が、戸惑いながらも少しずつ心を開いていく様子を描いた、アラサー女子のリアルな恋愛模様と成長の物語。
先生
藤谷 郁
恋愛
薫は28歳の会社員。
町の絵画教室で、穏やかで優しい先生と出会い、恋をした。
ひとまわりも年上の島先生。独身で、恋人もいないと噂されている。
だけど薫は恋愛初心者。
どうすればいいのかわからなくて……
※他サイトに掲載した過去作品を転載(全年齢向けに改稿)
ヒ・ミ・ツ~許嫁は兄の親友~(旧:遠回りして気付いた想い)[完]
麻沙綺
恋愛
ごく普通の家庭で育っている女の子のはずが、実は……。
お兄ちゃんの親友に溺愛されるが、それを煩わしいとさえ感じてる主人公。いつしかそれが当たり前に……。
視線がコロコロ変わります。
なろうでもあげていますが、改稿しつつあげていきますので、なろうとは多少異なる部分もあると思いますが、宜しくお願い致します。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない
彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。
酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。
「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」
そんなことを、言い出した。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる