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最終話 契約書は婚姻届
6.ずっと一緒にいるんです
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書類を確認する尚一郎の手は震えていた。
けれど、目を通し終えると何事もなかったかのようにテーブルの上に戻す。
「僕と二度と関わらないことを条件に、慰謝料を渡したはずだ」
「契約不履行ですよね、わかってます。
一生かかってでも働いてお返ししますから」
丸尾に尚一郎と交わした書類を見てもらうと、慰謝料は全額、尚一郎に返済しなければならないだろうと云われた。
きっと、自分が一生かかって働いたって返せないだろう。
でも、そんなことは朋香にとって、些細な問題だった。
「君との結婚は遊びだったと云っただろう?」
「……いま、五週目だそうです」
「は?」
その場にいた全員の目が朋香に向く。
ごそごそと横に置いてあったファイルから診断書を出すと、婚姻届の横に並べて置いた。
「尚一郎さんの子供を妊娠しています」
はぁーっ、診断書を確認した尚一郎はため息をつくと、それを机の上に投げ捨てた。
「子供を盾に僕に結婚を迫るのか?
産みたければ勝手に産めばいい。
認知はしない、十分な慰謝料は払ったしな」
きっと喜んでくれると思ったのは、自分の浅はかな期待だったのだろうか。
やはり、押部の家を途絶えさせるために不要だとでもいうのだろうか。
きつく唇を噛んで俯いてしまった朋香に尚一郎はなにも云わない。
「まさか、こんな馬鹿げた条件を出してくるとは思いませんでした。
このまま裁判を続けたければご自由にどうぞ。
それでは」
立ち上がった尚一郎を見上げるとレンズ越しに目があった。
碧い瞳が一瞬、揺らいだ瞬間を朋香は見逃さなかった。
……大丈夫。
尚一郎さんはいまだって、私を愛してくれてる。
「万理奈さんに会ってきました」
「……それがどうした?」
朋香の声に振り返った尚一郎は平静を装っていたが、その声は僅かに震えていた。
「尚一郎さんは幸せかって聞かれました」
「万理奈は僕の不幸を願っているからね。
きっと、いまの僕に喜んでいただろ?」
右の頬だけをつり上げて皮肉って笑う尚一郎に、ぶんぶんと力強く首を横に振る。
「違います。
万理奈さんは尚一郎さんの幸せを願ってた。
どうして尚一郎さんに怯えていたかわかりますか?
自分と一緒にいると尚一郎さんが不幸になるからですよ。
尚一郎さんを不幸にするからって、怯えるほど避けてたんです」
「そんなはずが……」
「私は万理奈さんと約束したんです。
絶対に尚一郎さんを幸せにしますって。
それに結婚式の時、ずっと尚一郎さんと一緒にいて、絶対にひとりにしないって神様に誓いました。
だから、尚一郎さんが嫌だって云ってもずっと一緒にいて、絶対に幸せにするんです……!」
「朋香……」
久しぶりに自分の名を呼ぶ声におそるおそる顔を上げると、涙で滲む視界につらそうな尚一郎が見えた。
「サイン、してください。
ここに」
ペンを突きつけると尚一郎はソファーに座り直した。
「いまのオシベの状態を知っているだろう?
そんなところの代表である僕のところに嫁いできたって、不幸になるだけだよ」
「望むところです。
尚一郎さんさえいれば私は別にかまいません」
「きっと、朋香も恨みを買うよ」
「かまいません」
「子供だって犯罪者の曾孫って不幸にするよ」
「私が絶対に、そんなことにはさせません」
「それに……」
「そんなに尚一郎さんは、私と一緒にいたくないんですか」
ぐいっと尚一郎の顔を両手で掴んでじっと見つめる。
レンズの向こうから泣き出しそうな目がこちらをじっと見ていた。
「私は尚一郎さんを……。
Ich liebe dchi.です」
「……Besten Dank(本当にありがとう),朋香」
尚一郎が一度瞬きするときれいな涙が一滴、落ちていった。
眩しそうに細められた目に、心臓がぎゅーっと締め付けられる。
尚一郎は握っていたペンで、婚姻届の夫の欄にサインした。
「あとで、やめとけばよかったって云ってももう遅いんだよ」
「かまいません」
「やっぱり朋香はとても、reizend(可愛い)」
尚一郎の顔が迫ってきて……ちゅっと唇にキスを落とされた。
離れると、嬉しそうにふふっと笑っている。
「……こほん」
小さな咳払いに、二人っきりではなかったことを思い出し、急に恥ずかしくなってくる。
ふと目をやると明夫は視線を泳がせていたし、丸尾と羽山はあらぬ方向を見ていた。
ただ、犬飼だけはにやにや笑っていたが。
「あー、では、我が社といたしましては、そちらからの和解を受け入れると云うことで」
少し赤い顔で、咳払いをした明夫が気まずそうに口を開く。
「はい、よろしくお願いします」
にっこりと笑う尚一郎は、熱い顔で黙ってしまった朋香と違い、平静になっていた。
いや、それどころかきらきらと星が飛んで絶好調になっている。
「……現金な奴」
ぼそりと呟かれた犬飼の言葉は尚一郎によって黙殺された。
けれど、目を通し終えると何事もなかったかのようにテーブルの上に戻す。
「僕と二度と関わらないことを条件に、慰謝料を渡したはずだ」
「契約不履行ですよね、わかってます。
一生かかってでも働いてお返ししますから」
丸尾に尚一郎と交わした書類を見てもらうと、慰謝料は全額、尚一郎に返済しなければならないだろうと云われた。
きっと、自分が一生かかって働いたって返せないだろう。
でも、そんなことは朋香にとって、些細な問題だった。
「君との結婚は遊びだったと云っただろう?」
「……いま、五週目だそうです」
「は?」
その場にいた全員の目が朋香に向く。
ごそごそと横に置いてあったファイルから診断書を出すと、婚姻届の横に並べて置いた。
「尚一郎さんの子供を妊娠しています」
はぁーっ、診断書を確認した尚一郎はため息をつくと、それを机の上に投げ捨てた。
「子供を盾に僕に結婚を迫るのか?
産みたければ勝手に産めばいい。
認知はしない、十分な慰謝料は払ったしな」
きっと喜んでくれると思ったのは、自分の浅はかな期待だったのだろうか。
やはり、押部の家を途絶えさせるために不要だとでもいうのだろうか。
きつく唇を噛んで俯いてしまった朋香に尚一郎はなにも云わない。
「まさか、こんな馬鹿げた条件を出してくるとは思いませんでした。
このまま裁判を続けたければご自由にどうぞ。
それでは」
立ち上がった尚一郎を見上げるとレンズ越しに目があった。
碧い瞳が一瞬、揺らいだ瞬間を朋香は見逃さなかった。
……大丈夫。
尚一郎さんはいまだって、私を愛してくれてる。
「万理奈さんに会ってきました」
「……それがどうした?」
朋香の声に振り返った尚一郎は平静を装っていたが、その声は僅かに震えていた。
「尚一郎さんは幸せかって聞かれました」
「万理奈は僕の不幸を願っているからね。
きっと、いまの僕に喜んでいただろ?」
右の頬だけをつり上げて皮肉って笑う尚一郎に、ぶんぶんと力強く首を横に振る。
「違います。
万理奈さんは尚一郎さんの幸せを願ってた。
どうして尚一郎さんに怯えていたかわかりますか?
自分と一緒にいると尚一郎さんが不幸になるからですよ。
尚一郎さんを不幸にするからって、怯えるほど避けてたんです」
「そんなはずが……」
「私は万理奈さんと約束したんです。
絶対に尚一郎さんを幸せにしますって。
それに結婚式の時、ずっと尚一郎さんと一緒にいて、絶対にひとりにしないって神様に誓いました。
だから、尚一郎さんが嫌だって云ってもずっと一緒にいて、絶対に幸せにするんです……!」
「朋香……」
久しぶりに自分の名を呼ぶ声におそるおそる顔を上げると、涙で滲む視界につらそうな尚一郎が見えた。
「サイン、してください。
ここに」
ペンを突きつけると尚一郎はソファーに座り直した。
「いまのオシベの状態を知っているだろう?
そんなところの代表である僕のところに嫁いできたって、不幸になるだけだよ」
「望むところです。
尚一郎さんさえいれば私は別にかまいません」
「きっと、朋香も恨みを買うよ」
「かまいません」
「子供だって犯罪者の曾孫って不幸にするよ」
「私が絶対に、そんなことにはさせません」
「それに……」
「そんなに尚一郎さんは、私と一緒にいたくないんですか」
ぐいっと尚一郎の顔を両手で掴んでじっと見つめる。
レンズの向こうから泣き出しそうな目がこちらをじっと見ていた。
「私は尚一郎さんを……。
Ich liebe dchi.です」
「……Besten Dank(本当にありがとう),朋香」
尚一郎が一度瞬きするときれいな涙が一滴、落ちていった。
眩しそうに細められた目に、心臓がぎゅーっと締め付けられる。
尚一郎は握っていたペンで、婚姻届の夫の欄にサインした。
「あとで、やめとけばよかったって云ってももう遅いんだよ」
「かまいません」
「やっぱり朋香はとても、reizend(可愛い)」
尚一郎の顔が迫ってきて……ちゅっと唇にキスを落とされた。
離れると、嬉しそうにふふっと笑っている。
「……こほん」
小さな咳払いに、二人っきりではなかったことを思い出し、急に恥ずかしくなってくる。
ふと目をやると明夫は視線を泳がせていたし、丸尾と羽山はあらぬ方向を見ていた。
ただ、犬飼だけはにやにや笑っていたが。
「あー、では、我が社といたしましては、そちらからの和解を受け入れると云うことで」
少し赤い顔で、咳払いをした明夫が気まずそうに口を開く。
「はい、よろしくお願いします」
にっこりと笑う尚一郎は、熱い顔で黙ってしまった朋香と違い、平静になっていた。
いや、それどころかきらきらと星が飛んで絶好調になっている。
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