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濃厚接触、したい

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袴田はかまだ課長。
三番にお電話です」

「わかった」

短く返事をして、課長が電話を取る。

「お電話代わりました、袴田です。
……」

七三分けにした髪をきっちりオールバックにした彼は、いかにもお堅いサラリーマンの風貌をしていた。
そして中身もさらに。

小早川こばやかわ
この間の資料、助かった。
先方も大喜びだったぞ」

「ありがとうございます」

部下を褒めているというのに彼は真顔のままで、その表情はいつもと一ミリも変わらない。
きっと、前世に表情筋を忘れてきたんだと思う。
まあ別に、私に害はないからいいけど。

山田やまだ

「はい」

課長から呼ばれた途端、弾かれるように山田くんが椅子から立ち上がる。
彼はマッハの勢いで課長の前に立った。

「この仕様見積もり。
よくあの作りだともうひとつ薄い床材がいいと気付いたな。
ただ、誤字がいくつかあるから直しておけ」

「あの……課長、怒ってます?」

返された書類を受け取りながら、山田くんがこわごわと課長の顔をうかがう。

「なんでだ?
俺は褒めているのに」

「あ、そうですか。
ありがとう、ございまーす」

微妙な空気のまま、山田くんはそろーっと自分の席へ戻っていった。
でも、彼の気持ちはよくわかる。
だって無表情な課長の顔はややもすれば怒っているように見えるから。
しかも誤字があるとか指摘されたあとだと。

「袴田課長、もうちょっとどうにかならないですかねー」

「慣れろ」

こっそり愚痴った山田くんはすっぱりと同僚に切り捨てられた。
私たちはもう課長の顔には慣れっこだけど、最近配属されてきた彼にはまだ、無理らしい。
早く慣れるといいね、山田くん。


普段どおりの毎日がこれからも続いていくはずだった。
がしかし、危機というものは音もなく忍び寄ってくるもので。
局地的に発生した、薬の効かない病気はあっという間に全世界に広がった。
感染を防ぐために出社も厳しくなり、我が社もテレワークがはじまった。


「至急確認したい要件あり、ビデオチャット希望だと……!?」

パソコンの画面の前で、手がブルブルと震える。
今日はテレビ会議の予定などなかったから、高校時代のジャージにちょんまげヘアーのうえふたつくくり。
しかもすっぴんなんですけどー!!
弁明しておくが、これが私にとって、一番集中できるスタイルなのだ。
仕方ない。

「えっ、は?
どうするよ?」

わたわた慌てているうちに、ピコピコと呼び出し音が鳴り出す。
もう逃げられない。
仕方なく椅子に座り、応答ボタンを押した。

「小早川。
早速で悪いんだが……」

相手――袴田課長が画面に表示されると同時に自分のカメラも起動していることに気付き、慌ててカメラを切った。

「おい、小早川。
映ってないんだが」

眼鏡の影で眉間に僅かに皺を寄せ、小早川課長が私を軽く睨む。

「あー、カメラの調子、悪いみたいなんですよねー」

適当なことをいって誤魔化した。

「そうか。
画面の共有さえできればいいから問題ない。
それでだな……」

それ以上、課長はツッコんでこなくてほっと息をつく。
そのまま、何事もないかのように私も話に集中……できるわけあるかー!
普段はかけていない、黒縁ハーフリムの眼鏡をかけてさ?
髪だっていつもより緩くセットしてあるし。
ワイシャツだけどノータイで、ひとつ外したボタンからセクシーダダ漏れされてよ?
いやほんと、カメラ切って正解だったわー。

「って、聞いてるか?」

「えっ、はい!
聞いてます!」

相変わらず無表情だが、この破壊力はすさまじい。
これでちょーっとでも笑われたら私……抱いてくださいとか口走りそう。

「えっとそれで、なんでした……」

「ワン!」

「……ハイ?」

聞き逃したことを聞き返そうとしたら、画面の向こうから犬の鳴き声がした。

「あっ、こら!
向こうに行ってなさいって言っただろ!」

「ワン、ワン!」

初めて見る慌て姿の課長の向こうで、盛んに鳴く小型犬の声が聞こえる。

「すまない、ちょっと待っててくれ」

「あ、ハイ……」

課長が席を立ち、画面から消えた。
……のはいい。

「あとで遊んでやるから、仕事の邪魔をしないの!」

「ワン、ワン!」

「お部屋の外に出てなさい!」

「ワン、ワン、ワン!」

……あのー、袴田課長?
画面を切っているつもりなんでしょうが、ワンちゃんと追いかけっこしているの、丸見えですよー。

「……待たせた」

少しして再び現れた課長は、若干息が上がっていた。
おお、さらにセクシーさに拍車がかかって、鼻血吹きそうなんだけど!

――ダン!

思わず、堪らなくなって机を叩いていた。

「ん?
なんの音だ?」

「あー、すみません。
ちょっとカップが倒れたみたいで」

これで誤魔化されてほしい、というのはかなり無理がある……?

「そうか。
大丈夫か?」

しかしながら課長は全く疑っていないようで、心配までしてくれた。

「空だったので大丈夫です。
それで……」

極めて冷静さを保ち、話を再開する。
がしかし、顔はにやけっぱなしだし、鼻息が荒くなりそうで気を遣う。
とにかく仕事に集中しようとしたものの。

「くーん」

――ガリガリガリガリ。

今度は画面の外から、中に入れろと催促しているわんこのアピールが聞こえてくる。
しかも、かなりの悲壮感だ。

「だから、その……。
すまない、ちょっと待っていてもらえないだろうか」

「え、ええ。
はい」

あくまでも課長は冷静を装っているが、こっちとしてはもう、声が震えないか気を遣う。
唯一の救いは、課長には私の姿が見えないということだ。

またカメラを切らないまま、課長は席を外した。
すぐに犬と話す、課長の声が聞こえてくる。

「だーかーらー。
あとで散歩に連れていってやるから、おとなしく待っていなさい」

「ワン!」

ひときわ甲高い犬の声は、嫌だとでも言っているのだろうか。

「せっかく、小早川と話す口実を見つけたんだ。
邪魔をするな」

「ワン!」

……って。
それはいったい、なんの話ですか?
え、もしかしてわざわざ私と話したいがために、理由を探してきたの?
なぜにそんなことを?

「とにかく、おとなしくしていろ。
わかったな?」

バタンとドアの閉まる音と共に、課長が私の前に戻ってくる。

「すまなかったな」

「ああ、いえ。
別に」

犬との会話といつもの袴田課長とのギャップが……なんて喜んでいられないほど、動揺していた。
私はもしかして、聞いてはいけないことを聞いてしまったのでは?
そんな気がしてならない。

その後、仕事の話はつつがなく終わった。
さっきまでの話は聞かなかったことにした方がいいんだろうか、それとも正直に聞いてしまったと告白した方が?

「助かった。
ありがとう」

「いえ……」

ぐるぐる悩んでいるうちに会話は終わりを迎える。
課長もワンちゃんが待っているし、早く終わらせてしまった方がいいだろう。

「カメラ、直しておけよ。
設定がわからないならシステム事業部に……いや、俺が説明してやるし」

「そのときはお願いします」

課長に教えてもらうより、システムの人間にやってもらった方がいいに決まっている。
なのにこんなことを言うなんて、さっきのはやっぱりそういうこと?
聞かなければ考えなかったことが思い浮かんでいく。

「そういや袴田課長、家では眼鏡なんですね」

変なことを口走らない前に切り上げてしまうべきだとわかっていた。
なのに口は勝手に延長戦へと突入させていく。

「ああ。
本当はコンタクト、苦手なんだ。
昔、眼鏡がダサいと言われて、それで」

誰だ、そんなことを言った奴は!?
眼鏡の課長はこんなにエロいのに!!

「その。
……眼鏡の袴田課長、素敵だと思います」

「……ありがとう。
ならこれから、眼鏡にするかな」

照れくさそうにポリポリと課長が頬を掻く。
なんだその、可愛いのは!?
家モードで眼鏡の課長はヤバい。
エロ可愛すぎて、ごちそうさまです!!ってバンバン机叩きたくなる。

「お前は普段着ジャージも可愛いんだな。
いつもの凜とした姿とのギャップが……」

しまった、とみるみる課長の顔色が変わっていく。
慌てて設定を確認したら、カメラは見事にオンになっていた。
と、いうことは。
この姿をさらしただけではなく、課長の姿にハアハアしていた変態ぶりもさらしていたわけで。

「なんで早く言ってくれないんですかー!」

「だって言ったら、カメラ切られるだろ」

それはそうだけど!
そうだけれども!
でもいつからだ!?
課長は私の姿が見えないと最初は言っていた。
あれか、思わず鼻血を出しそうで机を叩いてしまったあれか!?

「それなら言いますけど、袴田課長だってカメラもマイクもオンにしたままだったから、ワンちゃんと話しているの、全部聞こえてましたけど!」

「……全部、だと?」

すーっと課長の周りの色が変わり、今度は私がしまったと悟る番だった。

「全部とはどこまでだ?」

くいっと課長が、その大きな手で覆うように眼鏡をあげた。

「あの、えっと……」

だらだらと変な汗が流れていく。
視線はあわせられずに、あちこちに泳いでいた。

「……まあ、いい」

諦めてくれたんだ、とほっと息をついたのも束の間。

「本音を言うと俺は、小早川と濃厚接触がしたい」

「……は?」

ニヤリ、と右頬だけを歪めて笑う課長を、間抜けにもぼーっと見ていた。
濃厚接触がしたい、とは?
いまは感染防止でそんなことは避けるように言われているのに?

「意味わかってんのか?」

「えっと……」

本当はたぶん、わかっている。
けれどあたまが理解することを拒否しているというか。

「抱き締めて、キスして、それから……」

僅かに目尻を下げ、うっすらと笑う袴田課長は酷く艶っぽい。
いつもは無表情のくせに、こんな顔をするなんて反則だ。
予想どおり、抱いてくださいと口走りそうになる。

「……なあ。
落ち着いたら小早川と、濃厚接触していいか」

くいっとまた、眼鏡を上げた袴田課長の前髪が、はらりと落ちる。

「えっ、その……」

眼鏡をただ上げるだけで、こんなにドキドキさせるものなんだろうか。
あの大きな手で触れられたら……そう考えて、身体の奥に熱が宿るのを感じた。

「考えておいて、くれな。
じゃあ」

ぷつっ、とそこで、通話は途切れた。
机の上に突っ伏し、あたまを抱える。

「あれいったい、なんなの!?」

心臓の鼓動はいつまでたっても落ち着かない。

「袴田課長と、濃厚接触……」

笑う眼鏡の彼を思い出し、身体が熱くなっていく。

「でもどうせ、当分は無理じゃん……」

このひきこもり生活がいつまで続くかなんてわからない。
また元通りの生活に戻れるのかすらも。
でもまた、気軽に人とふれあえるようになったとき。

――私は彼に、なんと返事をするのだろう。

いや、その前にもうすでに、明日はテレビ会議で顔をあわせるのだ。
冷静でいられる自信がない……。


【終】
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みんなの感想(3件)

johndo
2020.06.16 johndo

感想は一度書いたんです。
書いたんですけれども、今日も読んだら、やっぱり同じところで笑ってしまって。
(お気に入りなんです。もう何度も読んでいます)
局地的に発生した、薬の効かない病気も、収束こそしていませんが、緊急事態宣言も解除されたので、続きを書かれる予定などはありませんか。
二人が、あの後どうなったのか気になります。
ご検討どうぞよろしくお願いします。

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
2020.06.16 霧内杳/眼鏡のさきっぽ

お気に入り、ありがとうございます(≧∀≦)

続きはこう……気分が乗らないとあれなので……気分が乗ったら……。

解除
松本けむり
2020.05.13 松本けむり

机を叩きつける❤️❤️❤️接触編も⁉️

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
2020.05.13 霧内杳/眼鏡のさきっぽ

ありがとうございますwww
接触編は……うふふ。

解除
johndo
2020.04.30 johndo

いやー、オモロかった(笑)
二人のお互いモダモダしているところが、さいっこうに笑えました!
袴田課長のワンちゃんが何気にいい味出してるし(笑)
この二人には是が非とも!3密な濃厚接触してほしいですね!

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
2020.05.01 霧内杳/眼鏡のさきっぽ

ありがとうございます!!
楽しんでいただけてなによりです。
きっと落ち着いたあかつきには、濃厚接触することでしょう(笑)

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