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第3話 これは持ってはいけない感情だ

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帰ってきて社長が深里さんに挨拶をしたあと、並んでリビングのソファーに座る。

「夏音、手を出して」

ケースから指環を出し、天倉社長が私に微笑みかける。
どういう意味かはわかったが、素直に手を出せるわけがない。

「あ、いや。
自分で嵌めますので……」

「ダーメ。
僕が嵌めてあげる」

促すように、ここにのせろと左手を揺らされ、しぶしぶその上に自分の左手をのせた。

「仮初めの結婚とはいえ夏音は初婚なのに、結婚式は挙げないからね。
少しくらいそれっぽいことをしないと申し訳ないよ」

彼の手が、私に左手薬指に指環を嵌める。

「僕にも嵌めてくれるかい?」

「えっ、それは深里さんに申し訳ないです!」

ぶんぶんと勢いよく首を振ったものの、強引に社長から指環を握らされた。

「いいから」

「……はい」

押し切られ、仕方なく彼の指に指環を嵌める。

「今日からよろしくね、奥さん」

にっこり笑ったかと思ったら、――天倉社長の唇が重なった。

なにが起こったのかわからず、自分の唇に触れる。

……もしかして私、天倉社長とキス、した……?

自覚した途端、怒りと自分でもよくわからない感情が湧き上がってきた。

「……ファ」

「ふぁ?」

「ファーストキス、だったのにー!」

泣く必要はないのはわかっているが、それでもじんわりと涙が滲んでくる。

「え、夏音、ファーストキスだったのかい?」

黙ってこくこくと頷く。
そんな私に天倉社長ははぁーっと重いため息を落とした。

「……誤算、だったね」

困ったように彼が笑う。

「悪いけど、母や周囲の人間の目を欺くためには、キスくらい必要になる。
でも、これはただの演技だって夏音には割り切れないよね?」

もしかして天倉社長は、私が上司に啖呵を切った件からサバサバした、割り切れる性格だとでも思ったんだろうか。
事実、仕事や一般生活ではサバサバどころか若干がさつな私だが、恋に関してはいまだにウブなのだ。

「……反対に聞きますけど、天倉社長は深里さん以外とあんなに簡単にキスできるんですか?」

ごく自然な感じで、軽く唇を重ねられた。
今でも奥様を愛しているなんて嘘
そんな疑問が湧いてくる。

「……簡単なわけないだろ」

彼の声には静かな怒りが含まれていて、びくりと身体が反応した。

「ああ、ごめん」

私が怯えていると気づいたのか、安心させるように社長が微笑みかける。

「僕だって深里以外の人間とキスするのなんて嫌だよ。
でも、周りを騙すためにはしなければならない。
だから本当にできるか、試してみたんだけど……」

そこで彼は言いにくそうに、目を伏せた。

「僕はできたけど、夏音には無理だったね」

再び顔を上げた社長は、残念そうだ。
それを見て、自分が情けなくなった。
処女の私が彼の妻役を演じるなんて無理があると、自分でもわかっていたじゃないか。
それでも彼の尊い純愛を守るんだと決めたのも私だ。
だったらこれくらい、受け入れなければ。

「籍を入れる前に確認するべきだったね。
申し訳ない。
早々にこの関係は破棄……」

「待ってください!」

「え?」

私から言葉を遮られ、天倉社長は驚いたように顔を上げた。

「慣れてみせます!
慣れてみせますから、このままお願いします!」

ソファーから下りないだけで、半ば土下座するように頭を下げる。

「こんな無理、しなくていいんだよ?」

私の勢いに面食らっている彼は、私を心配してくれていた。
それがさらに、私の闘志に火をつける。

「大丈夫です。
上司のセクハラにだって耐えてきたんです。
これだって耐えられます」

そうだ、あのパワハラオヤジのセクハラにだって耐えてきたじゃないか。
それに比べたら天倉社長のほうが何倍もイケオジで清潔感もあるからマシだ。
いや、私が恋に奥手なウブ子だからあれなだけで、多少の好意がある女子なら彼にキスされたら喜ぶのでは?

「……セクハラ上司」

その例えは嫌だったのか、天倉社長は複雑そうだ。

「だから、大丈夫ですから、このままこの関係を続けさせてください。
それにいきなり離婚とか、怪しさ満載で会社に居づらくなります」

彼がまた、ため息を落とす。
呆れられている
それとも面倒臭い
それでも私には、引き下がる気はなかった。

「……わかったよ」

少しして気持ちが決まったのか、社長が頭を上げる。

「じゃあ、偽装結婚はこのまま続行。
僕も助かるしね」

私の顔を見て彼が笑う。
その顔は諦めたようでも、困った子だねとでも思っているようでもあった。

「ありがとうございます、天倉社長!」

よかった、このまま即離婚とかになったら、なんのために彼との結婚を決意したのかわからない。

「だったら、天倉社長は禁止だよ」

「ふが」

いきなり鼻を摘ままれ、変な声が漏れる。

「じゃあ、なんと呼べば」

「有史。
名前で呼んで」

男性を名前でなんて今まで、親戚のお兄ちゃんくらいしか呼んだことがない。
新たにやってきた試練に怯みそうになったが、私がこの関係を続けると決めたのだ。

「ゆ、……有史、さん」

呼んだ途端、顔があっという間に熱くなる。
しかも私から出た声は、酷く小さかった。

「うん。
よくできました」

それでも天倉社長――有史さんから褒めるように頭をぽんぽんされ、機嫌がよくなっていた。

「じゃあ僕は部屋に行くね」

先に有史さんがソファーから立ち上がる。
廊下との境まで行って、彼はこちらを振り返った。

「そうだ。
夏音は深里と言うことが似ているから、キスしてもいいって気持ちになったんだ……とか言っても、なんの慰めにもならないか。
ごめん、変なこと言ったね。
忘れて」

照れたように人差し指でポリポリと頬を掻き、今度こそ有史さんはリビングを出ていった。
もしかして有史さんは、私を深里さんの代わりのように見ているんだろうか。
それはよくない、よくないよ。
私は有史さんと彼女の純愛を見守りたいだけで、代わりになりたいわけではないのだ。

「もうちょっと自重しよう」

……って、なにをしていいのかわからないが。

私も部屋に帰り、ここにも連れてきたペンギンのぬいぐるみを抱いてベッドに寝転ぶ。

「ファーストキス、か……」

いきなりキスされて怒りはあったが、嫌ではなかった。
だから、慣れてみせるなんて言えたのだと思う。
それに。

「有史さんと、キス……」

あのとき、自分でも理解できない感情が湧き上がってきた。
嬉しいような、そんな感情。
でも、私はそれを、彼に対して抱いてはいけない感情だと思った。
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