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1章

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温室の中央にあるソファーに腰掛ける。大きめのソファーにはたくさんのクッションが敷いてあり、少し沈み込む感じがする。二人が席に着いたことを確認すると侍女がすぐにお茶の準備を始めた。しかし、そこで準備されたお茶は一つだけで、その一つもカタリーナの前に置かれる。侍女が独断でこのようなことをするはずがないため、おそらくエヴァトリスの指示であろう。どういう意図か確かめるために赤みの残る顔をあげエヴァトリスに視線を写した。
「母上との晩餐をさすがにこの姿で行くわけにはいかないからねえ、少し体を綺麗しにしてくるよ。カタリーナはそれまでここでゆっくりしていて」
帰って来たばかりで疲れているエヴァトリスの気遣いが嬉しくも、それ以上に申し訳ない気持ちになる。
「気がつかずに申し訳ありません。なんどもエヴァトリス殿下に来ていただくのも申し訳ないですし、私も一緒に戻ります。王宮内の図書館で過ごさせていただきますので、終わったら誰か遣わせてくださいませんか?」
カタリーナの中では精一杯気を使ったつもりだったが、エヴァトリスは納得しない。
「・・・本当に何のために私室に移動したのか分かってない。」
ため息混じりでエヴァトリスが呟いた言葉はカタリーナには届かなかった。
「えっ、今何か・・?」
聞き取れなかった言葉を確認するためにカタリーナが声をかけるとエヴァトリスはにっこりと微笑む。
「カタリーナが選べるのは私の部屋で待つか、ここで待つかどちらかだよ。」
温室に惹かれているカタリーナは少し悩んだが、エヴァトリスに負担をかけない方を優先すべきと思いはっきりと返事をする。
「では、申し訳ありませんが殿下の私室で待たせていただいてもよろしいですか?」
その返答にエヴァトリスは目を開き驚きを隠せない様子をみせたが、カタリーナの何も変わらない様子に大きなため息をはく。腰掛けていた椅子から立ち上がりカタリーナの横まで移動すると親指と人差し指でカタリーナの顎を持ち視線をあげさせる。そのままエヴァトリスは視線を少しずつ近づけた。
「それはどういう事か分かって言ってるんだよね?私が部屋のシャワーを浴びている間、婚約者のカタリーナはその部屋で待つ。私たちの婚約は崩れることはないものだから、大っぴらに咎める人はいないかもしれないけれど・・・」
エヴァトリスの言葉を聞くたびにカタリーナの顔はどんどん赤くなっていく。
「ただ、問題なのは2時間じゃ終わらないだろうから、母上との食事には遅れてしまうね」
最後の言葉はカタリーナの耳元に唇が触れるような距離で話された。

カタリーナの頭の中でエヴァトリスの言葉が繰り返される。『シャワーを浴びているのを部屋で待つ』『2時間じゃ終わらない』2つの言葉が頭の中でぐるぐると回る。前世の記憶があり、そういう行為も経験したことがある。しかし、この世界で生き男女のことから離れすぎた。この国の王子と婚約関係にあるのだから、いつかは通る道であるがカタリーナはエヴァトリスとそういう事を・・・と考えると恥ずかしくなる。
「も、申し訳ありません」
カタリーナは真っ赤な顔でそのまま視線を下げた。恥かしさでエヴァトリスの顔を見ることができないがそれを見たエヴァトリスは優しく微笑んでいた。その表情をカタリーナは見ることはできないが、エヴァトリスの幸せそうな表情に側にいた侍女たちも目元が緩んだ。
「恥かしそうにはしているけれど、嫌ではないみたいだね。あまりカタリーナを困らせると嫌われてしまいそうだから、私は行くよ。私が戻ってくるまでここでゆっくりしていて。」
カタリーナの手をとり甲に口付けを落とす。そのままカタリーナの返事を聞くことなく、エヴァトリスは温室を後にした。

残されたのは数人の侍女と、温室の前の護衛、そして一人ソファーに腰掛けるカタリーナだった。
エヴァトリスが温室を離れると少しだけ冷静さを取り戻したが、カタリーナは先ほどの会話を頭の中で繰り返し赤面を続けている。
「何か冷たいものはある?」
顔だけではなく体の火照りも自覚していたカタリーナはそばに仕えていた侍女に声をかけた。しばらくするとシャーベッドが運ばれてくる。冷凍システムも魔力で賄うことはできているが、それを所有している人はごくわずか。公爵家でも冷蔵システムの保有はあっても冷凍システムまでは完備していない。声をかけ短時間で運ばれたところをみると、常にストックはあるのだろう。さすがは王宮であると、カタリーナは変なところで感心をしながらもシャーベッドを口の中に運ぶ。甘酸っぱい果物の香りが口の中に広がり思わず口元が緩む。
一息ついたためか、カタリーナの中に少しずつ冷静さが戻ってきたため自身の失言に気づく。
(誤解が生まれないように、殿下の部屋へ行くのを避けていたのに・・・)
急なところで気が動転したこともあるが、最近のカタリーナはエヴァトリスと一緒にいると冷静ではいられないことが増えており、自身の言動に対してしばらく嫌悪しながらエヴァトリスの帰りを待つのだった。

自己嫌悪の中にいても美味しいものは美味しい。甘味は正義であると自負しているカタリーナは、そんな中でも出してもらったシャーベットはしっかりと完食した。しばらくすると、着替えを済ませたエヴァトリスが温室に戻ってくる。
「ごめんね、少し遅くなってしまったね。」
いつもの優しげな笑顔にカタリーナも嬉しくなり、反射的に笑顔になる。
「いえ、こちらこそお手を煩わせてしまい申し訳ありませんでした。」
エヴァトリスはテーブルの上にある空のガラス容器にすぐに気づきカタリーナに声をかけた。
「何か食べてたの?」
「はい。少し冷たいものが欲しくなって、シャーベッドをいただきました。とても美味しかったです。あとで、シェフにもお礼を伝えたいくらいです。」
よほど美味しかったのだろう、カタリーナの笑みは深まるばかりであり、それをみたエヴァトリスも自身のことのように微笑む。
「私が部屋を出る時真っ赤だったものね。少しでも落ち着いたみたいでよかった。」
すこしだけ意地の悪い言い方のエヴァトリスだが、口角は上がっており機嫌が良いことは容易に想像できる。エヴァトリスの思惑通りにカタリーナはすぐに顔を真っ赤にしたが、それも嬉しいエヴァトリスは椅子に座ったままのカタリーナを後ろから抱き込む。そのままカタリーナの頭の上に自身の顎をのせた。
「あぁ、カタリーナは本当に可愛いね。」
その行動と言葉に固まったカタリーナは何も反応できず、固まったままだ。至近距離からエヴァトリスはカタリーナの顔を覗き込むと真っ赤な顔でフリーズしているカタリーナがそこには居た。エヴァトリスは自身の言動にカタリーナが反応してくれることが嬉しくてついついやりすぎてしまう。
「温室の中を少し散歩したら、母上との食事に向かおうか。転ぶといけないから、私にエスコートさせてね。」
立ち上がると、ここに来た時と同様に腰を支えられて歩き始める。いつもよりも近い距離にカタリーナは戸惑いを隠しきれないがエヴァトリスを言い含める方法も思い浮かばない。それに先ほど繰り返した失言についても忘れていないカタリーナは言いたいことを飲み込みエヴァトリスにエスコートされ歩き始めるのだった。

エヴァトリスとカタリーナは王妃との食事会場に向かう中、何人かとはすれ違い頭をさげられる。特段何か言われることはないが、目は口ほどにものを言う。恥ずかしげに視線をそらす人や生暖かい視線を向けてくる人、そして一部の若い令嬢には思いっきり睨まれた。その顔はエヴァトリスには見せない方が良いとは思うがこの状態では指摘することはできない。いや、例えエヴァトリスがいなかったとしても火に油を注ぐようなことをカタリーナはできないだろうと思い直す。恋人同士の様に近すぎる距離を考えると恥ずかしくて仕方ないが、ここまで来たらどうにもできない。現状をあまり考えないようにしながらエヴァトリスに支えながらカタリーナは歩き続た。
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