冒険者の受難

清水薬子

文字の大きさ
上 下
21 / 32
女冒険者サナ

慰留

しおりを挟む
 前に訪れた時と変わらず、カインの家の中は殺風景なままだった。

 あれよあれよというまに外套を剥がされ、雪を払われ、気がつけばソファに座っていた。
 魔法で温めたというホットワインを渡されては受け取らざるを得ず、どうしたものかと考えを巡らせても結局答えは見つからない。

「飲まないのか?」

 家に通されてから無言だったカインが口を開いた。
 視線は私の持つマグカップに入れられたワインに注がれている。
 折角温めてもらったものを飲まずに冷ますのも失礼だと思い至ってルビー色の液体に口をつける。

「いえ、いただきます……あつっ」

 碌に冷ましもせず飲んだせいで舌がヒリヒリして、単に温かいものを飲んだ以上に喉が熱を持つ。

 情けない姿を晒してしまったことを恥じながら息を吹きかけて少しだけ冷ます。
 今度こそ、と意気込んで口に含めば、表面こそ冷ましたもののその下にある液体はやはり熱いままだった。

「大丈夫か? 舌、見せてみろ」
「大丈夫です!」

 隣に座ったカインが喉の奥で笑いながらも容態を尋ねてきた。
 どうも無様な姿しか彼に晒していない気がして、唇を尖らせてむくれながら顔を逸らす。

「いいからほら、見せてみろって。火傷してるかもしれないだろ」
「分かりましたよ……」

 あまりにもしつこく求めてくるものだからついには折れて、しずしずと舌先を唇から覗かせる。
 多少ひりつくもののそれほど痛みはないので大した火傷ではない。
 これで満足しただろうと思って舌を引っ込めようとすると彼の目が咎めるように鋭くなる。

「舌先だけじゃあ、分からないんだが」
「えぇ……?」

 困惑しながらも、どうにでもなれと開き直って精一杯舌を出す。

「小さい舌だな」

 カインの顔が近づいて、にゅるりと舌を舐められる。
 驚いて引っ込めようとすれば彼の指に挟み込まれて阻まれた。
 私の唾液を一粒残さず舐めとろうとしているのか、それとも自分の唾液を塗そうとしているのか。
 何度も何度も、繰り返し丹念に舌を這わせ、吸い上げ、軽く歯を当てられる。
 その度にぞくぞくとした悪寒が背中を駆け上がって、手に持ったマグカップからちゃぽちゃぽとワインが危なげに揺れた。

「んっ、んぁ……」

 最後に強く吸われてようやく解放された。
 ソファーの背もたれに体を預けながら肩で大きく息をする。

「特に問題ないな」

 隣に座る彼は飄々とそれだけ言うと、指についた誰のものかも分からない唾液を吸い取って、唇をぺろりと舐めた。
 自分だけが翻弄されて動揺していることが悔しくて、手に持っていた温くなってしまったワインを呷る。
 温くなってしまえばこっちのもので、一気に飲みこそしないが熱かった時よりは飲みやすい。

「あ、十時……」

 どちらも喋ることなく過ごしていたおかげで、教会の時を告げる鐘の音が聞こえた。
 思っていたよりも長い時間滞在していたことに気づき、これ以上長居するわけにもいかないと残りのワインを下品でない程度に素早く飲み干す。

「ワイン、ご馳走様でした。コップは流しに置いておきますね。それじゃあ、遅くならないうちに……」

 居心地の悪さから逃げ出そうとすれば、手を掴まれた。
 そのまま引き寄せられて抱きしめられた。

「帰るのか?」

 囁くような低い声と吐息が耳に当たって鼓膜が震えて、全身に鳥肌が立つ。
 またもぞわぞわとした悪寒が駆け上がってきて思わず一歩退こうとしてもそれは叶わない。
 それどころか背中に回された腕の力が強くなる。

「流石にこれ以上長居するわけにも行きませんから……カインさん?」

 離してくれる気配もなく、首を動かしてカインの顔を見る。
 頰に掌を添えられて顔を掬い上げられた。

「あの、離して……んう!?」

 おずおずと願い出ても彼は何も言わない。
 私を引き止めたとしてもカインが得をするようなことはないと思うのだが、彼は抱きしめる力を緩めてはくれない。
 不審に思って身をよじれば、強引に唇を重ねられた。
 押し付けるだけに飽き足らず何度も吸い付かれ、間を割り込むように舌を捻じ込まれる。

「んっ、んぐっ……」

 このままだとカインのペースに飲まれてしまうと危惧して、咄嗟に抵抗を試みる。
 彼の腕や胸板を叩いても後頭部に回された手は微塵も離すつもりはないといわんばかりに固定していた。

 歯列をなぞって、上顎を擽るように突つき、舌を絡めて。
 意識を他に逸らして自我を保とうとすればするほど口内を嬲られる感触が鮮明に伝わってきてしまう。
 碌に呼吸もできないでいるとついに限界が来て、ガクガクと不安定に揺れる膝ではまともに立つことすら難しくなってきた。
 強く舌を吸われたことがとどめになって崩れ落ちれば、逃すまいと彼も追い掛けてくる。

「ひゃあ! んぶっ、んっ……んう!?」

 背中からソファに倒れ込んでも後頭部や背中に回された彼の手がクッションになって特に痛みはない。
 結構な勢いで倒れ込んで下敷きになったというのに、カインは痛みに怯んだ様子もなく口内を舐ることをやめるつもりはないようだ。
 ただでさえ呼吸ができなくて苦しいと言うのに、彼の唾液が舌を伝い、重力に従って流れ落ちてくる。
 味がしないはずの唾液に鉄錆のような苦いものが混じる。
 執拗に上顎を舌先で擦られて意に反して口の中の液体を飲み込んでしまう。

「んくっ、けほっ、けほっ!」

 酸欠でクラクラとした頭ではもう逃げる気力も抵抗する体力も沸かない。
 血と唾液の味の違いが分からなくなってきた頃、ようやく唇が離れた。
 朱の混じった唾液が伸びて糸を引く光景を涙で滲んだ視界でぼんやりと眺めていると、ちゃぷちゃぷと液体が瓶の中で跳ねる音が響く。

 音がした方を見れば、カインの手にスキットルが握られていた。
 器用に歯で蓋を外して中身を少し呷った後、痛みに顔をしかめた。

「思ったより滲みるな」

 私はというと突然酒を摂取するという彼の奇行を気にかける余裕なんてなく、口の中の血の味と久方ぶりの酸素に咽せながら荒く息をしていた。
 カインは再びスキットルを傾けて口に含むと顔を近づける。
 いつぞやみたく、口移しで液体を流し込まれた。

「んんっ……」

 流し込まれた液体はこれまで飲んだ他のどの酒よりもアルコール度数が高くて、焼けるように熱を持つ。
 反射的に吐き出そうとしても後頭部に回した手がそれを許さない。
 ピチャピチャと水音を立てながらまたも上顎の裏を舐められると生理的な反射で飲み込んでしまう。
 喉を滑っていった酒が胃の中に入ると全身がカッと燃え上がって思考がふわふわとし始める。

「はぁっ、はぁっ。そんなに飲んだらまともに歩けないだろ?」
「なん、で……?」

 飲みきれずに溢れたのも指で掬い上げて口の中に押し込まれる。
 彼の蒼い双眸を細めながら

「今日、泊まっていくか?」

 このままだと確実に流される。
 床に手をついて上体を起こそうとしても体に力が入らない。
 ぐらぐらと回り始めた視界では立ち上がるなんて出来ない。

「強情なやつ」

 提案に対して無言でいると、彼がムッと眉を顰めた。
 覆いかぶさってきた彼の肩を押すが、手首を掴んで縫い付けられる。

「カインさん、待ってください、なんで、なんでこんなことっ!」

 喋っているのも煩わしいと言わんばかりに唇を封じられた。
 角度を変えて何度も唇を啄んでくる。

「カインさん、ってばぁ! んむっ、んう」

 侵入を拒もうとした唇はいつのまにか彼を受け入れていた。
 舌の根や裏、頬の内側まで舌で舐められてまたも血の味が口内に広がる。
 ふわふわした頭は彼の舌の感触を鋭敏に感じ取って、抵抗することも忘れてその動きにひたすら翻弄される。
 荒々しい乱れた呼吸とは裏腹に舌の動きは優しく、それが却って生々しい。
 今度は息が切れる前に彼の舌が引き抜かれた。

「ふあっ、はーっ……はーっ……」

 それでもやはり酒の入った酸素不足の頭にはなかなか辛いもので、胸を激しく上下させて息を吸い込む。
 さすがにカインも長い間キスしていたからなのか、荒い息をして手の甲で唇を拭った。
 拭う直前、彼が口角を歪めていたような気がしたが、顔を近づけてきたので思考を中断して顔を逸らす。

「や、やだ……」
「何でだ?」

 一旦近づくのを止めてカインが私の顔を覗き込む。
 咎めるようなその視線に居心地が悪くなって余計彼の方を見れない。

「血の味がして不味い、から……」
「ああ、そういえば舌を切っていたな。失念していた」

 私の背中に手を回して支えながら起き上がらせた。
 最初の時と同じく隣り合ってソファに座っているが、一つ違う点として彼の手が腰に回されていることだ。
 酔いもあって急な姿勢の変更にほんの少し目眩がした。

「出血はマシになったが、やっぱまだ治ってないな」

 蓋が開いたままになっていたスキットルを傾け、カインが中身を一口飲んで呻き声をあげた。
 忌々しげに目を瞑りながら親指で自身の舌に触れ、唾液にまだ朱が混じっていることに気付いて舌打ちした。

 嫌味の一つでも言ってやろうと思ったが、酔いから来る倦怠感を押し除けてまで言うほどのものでないと思い直した。

 それよりも全身にうっすらと発汗したせいで服が気持ち悪い。
 雪が降るし夜は冷え込むから、と厚着をしたせいで服は汗で張り付いていた。
 ついに暑さと不快感に耐えかねて上着を脱いで首回りのシャツのボタンを一つ緩める。
 普段は畳むなり鞄の上に置くなりするところだが、ぼうっとする意識ではソファーと自分の間に置くのが精一杯だった。

 数秒間の無言が続き、腰に回されていたカインの手が肩に置かれる。
 グイと引き寄せられて抱きしめられた。

「やっぱりいい匂いがする」

 されるがままでいると彼が私の首筋に顔を埋めて深呼吸した。
 汗をかいているのでいい匂いであるはずもないのだが、もう彼の気が済むまで好きにさせる。

 もう片方の手で髪を梳くように撫で始めた。
 大して手入れをしているわけでもないので触っていて楽しいような手触りではないというのに、彼は飽きる様子もなく一定の間隔で撫で続ける。
 大きな掌と指先が地肌を擽って首筋に、宥めて慈しむかのような触り方のそれは酔いも手伝って睡魔がやってきた。

「もう夜も遅い」

 うつらうつらしていると遠くに鐘の音が聞こえた。

 私の頭を撫でていた手が離れて膝の裏を抱え上げる。
 額に軽いリップ音と共に額に柔らかいものが触れた。

「ベッドに行こうか」
しおりを挟む

処理中です...