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忠珍鱈

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あんなことがあったとしても、仕事を休めないのは社会人の辛いところだ。

佐谷も羽根田も、もともと大して会話もなかったというのは不幸中の幸いというか何というかだが、表面上はいつもとは変わらずにやれていた。

だが、仕事をしているだけでこんなに胃が痛くなる経験なんて、今まで一度としてなかったはずだ。
締め切りに追われて徹夜を重ねに重ねたときでさえ、ここまで苦しんだ覚えはない。

「樋野サン、大丈夫っすか?」

あの出来事はすでにあちらこちらに広まっているらしい。
駈の様子を心配して駆けつけてきた藤河に連れられ、行きつけのカフェへ。
ついいつものように濃い目のブラックを頼んでしまい、受け取りながら思わずため息を漏らしてしまう。

「マジで疲れてますね……」
「いや、大したことないって」
「またそんなこと言って。顔色悪いですよ」
「別に……いつも通りだよ」
見え透いた樋野の強がりに、困ったものだ、とでも言いたげに藤河はふん、と鼻を鳴らした。

「でも、あんなことがあってどうして、部署の異動申し出なかったんですか。せっかく希望調査もあったっていうのに」
「……」
「別に、ここで異動したからって逃げることにはならないと思いますよ」
しれっと痛いところを突いてくる後輩に「そういうことじゃない」とコーヒーを口にする。
尖った苦みが舌の上を通り過ぎていく。

「時田さんからの推薦でここに来て、まだ1年も経っていないんだ。自分からどうこうなんて……」
「ああ、あの恩のある部長ですか。この会社に拾ってくれた、っていう」
駈は深く頷く。

「これもまあ、ひとつの試練だと思って頑張るさ」
すると彼はうーん、と顔をしかめた。
「僕だったら、絶対耐えられないな」

無理だけはしないでくださいよ。そう念押しされ、エレベーターホールで後輩と別れる。
自分のフロアに降り立つだけでまたキリキリと胃が痛み始める。
いったいどれだけ繊細なんだ、馬鹿らしい――そういくら心の中で喝を入れようとも、身体が付いていかないのではどうしようもないのだった。


「ああ、いらっしゃい……って、どうしたんだい、その顔」

数週間ぶりに顔を出した例のバーで、入るなりマスターにまでそう言われてしまう。
「いえ、何でもないですよ」
「いやいや、これは何かあったに決まってるでしょ?」

その声と共に現れたのは、今度はピンクに髪をブリーチしたタクヤだった。
「ああ、タクヤさん……って、この前はすみませんでした。お金……」
財布から札を引っ張り出そうとすると、タクヤはその手を掴んで無理やりそれを戻させると、マスターに声を掛けた。
「俺ビールね。それで、この人には……何かうんと優しいやつで!」

またいつものように隣のスツールにどさりと腰を下ろしたタクヤは、しかしいつものテンションを引っ込め、駈へと身体を寄せた。
「で、どうしたよ……なんかヤなこと、あった?」
「……」

優しい声とそのまなざしに、絆されてしまいそうになる。
「……ん、まぁ、ちょっとだけ……」
駈は小さく頷くと、差し出された甘いカクテルに口を付けた。

「へぇ……今のコなのに結構言うんだねぇ」

例の出来事を適当にぼかしつつ説明すると、タクヤは感心したようにそう呟いた。
「何ですか、それ」
向こうの肩を持つような言い方に少しムッとしてそう返す。
「いやだってさ、今のコってそういう対立したりだとか面倒くさがりそうじゃん?」
「まぁ……そうですけど」
「ああでも、言い過ぎだとは思うけどね俺も」
「でも……それだけ、腹に据えかねたってことでしょ」
「あれ、意外と冷静だねぇ。で……傷ついちゃった、ってワケか」

「……」
じとりとタクヤを睨み付けると、彼は「ごめんごめん」と眉を下げ、ポン、と駈の頭に手を乗せた。

「前から思ってたけど、カケルって素直だよね。心配になっちゃうぐらい」
駈のグラスに勝手に自分のグラスを合わせると、タクヤはその手でぐりぐりと駈の髪をかき回した。

「頑張りすぎなんだよ、きっと」
「……そんなんじゃ、ないです」
手の中のカクテルを眺めながら、駈はその重い口を開いた。
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