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忠珍鱈

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静かな廊下に、駈の足音が小さく響く。

人生で初めて訪れたその有名な総合病院は、エントランスからして桁違いの広さだった。
突如現れたモニュメントや巨大な絵画にいちいち圧倒されつつ、駈は迷路のような院内を恐る恐る進んでいったのだが……一歩入院患者の病棟の方へと足を踏み入れると、そこは想像以上にひっそりとしていた。

「ええと、○○号室、○○号室……」
教えてもらった番号を探しながら歩いていると、とうとう突き当りに目的の番号を発見する。
個室であるその部屋のネームプレートを確認した後、駈はすうっと息を吸い、ふうーっと長く吐き出す。
そして、よし、と小さく気合いを入れると、駈はドアの手すりに手を掛けた。

「こんにちは……」
遠慮がちにそう声を掛ける。
すると、中からすぐに「はーい」という元気な声が返ってきた。
「どうぞ、入って」
「はい、失礼します……」
ゆっくりとドアを開ける。

「樋野君、久しぶりだね」

既に整えられたベッドの上、ジーンズにセーターといういで立ちの時田部長が駈へと手を挙げていた。

「すみません、退院の日に……」
「いいのいいの。この通りもう準備は済ませてしまったし、妻が迎えに来るまでの間、退屈でしょうがなかったからね」
温和な笑みを浮かべ、時田は駈を迎え入れた。

時田に促され、ベッド脇の椅子へと腰掛ける。
彼の言う通り、長い入院生活を送っていたはずのその場所からはすっかりその痕跡は消えていて、ベッドの上にボストンバッグが一つ、置いてあるだけだった。

「あの……手術、成功したって伺ったんですが、その、身体の方は……」
慎重に言葉を選びながら途切れ途切れにそう尋ねる。
すると、時田はにこっと微笑んで、
「おかげさまで、この通りすっかり元気になったよ」
と、自分の下腹を叩いて見せた。

「ようやく職場復帰の目途も立ってね。妻には『子供たちのためにもまだまだ稼いでもらわないと困る』ってプレッシャー掛けられ続けていたから、本当にホッとしたよ」
「そう……ですか」
冗談交じりにそんなことを言う彼に、駈は笑って応えようとしたが、上手くいかなかった。

「すみません」
駈は目線を落とすと、そうぽつりと呟いた。
「もっと早くにお見舞いに来るべきだったのに、俺……」

目の前の彼をもう一度見つめる。
痛々しい程に痩せた彼の姿は、病との闘いがいかに過酷だったかを十分すぎるほど表していた。

もちろん、見舞いに来たからと言って彼の病気には何のプラスにもならなかっただろう。それでも、ごく最近まで何も知らず、自分のことばかりを考えていた自分が恥ずかしくて不甲斐なくて……駈はきつく唇を噛み締めた。

すると時田は「そんな暗い顔しないで」と駈の肩を軽く叩くと、わずかに顔を上げた駈へとゆっくりと話し始めた。

「私が頼んだんだよ、佐々木くん……ええと、社長にね。あんまり大ごとにされて、余計な心配掛けるのもな、って思っていたからね」
特に君とかね、と付け足され、駈はいたたまれず目を泳がせた。

時田は目じりにしわを寄せ、穏やかに駈を見つめていた。
駈は何と返すべきか分からず、また口を噤んでしまう。

そんな駈に、時田はフッと目を細める。
そして、低い声で「それにね」と言葉を続けた。

「謝らないといけないのは、私の方だよ」

「……え?」

駈はポカンと口を開ける。

「どうして、時田さんが謝るんですか……?」

そんな駈の姿に、時田は一度息を吐くと、膝の上で組んだ手に視線を落とした。

「あの部署に、君を推したのは私だ」

駈がひゅっと息を飲む。時田は言葉を続けた。
「樋野君ほど幅広い知識を持っている人は、この会社中を探してもなかなかいないからね。だからこそ、したい仕事ではないと分かっていてなお、私は君をあの部署に推薦したんだ」

「……」

駈はぐっと眉間にしわを寄せる。
そうでもしないと、みっともなくこの人の前で泣いてしまいそうだったからだ。

「でも、俺……あんなこと……」

先日のあの事件については、長く現場を離れていた時田の耳にも間違いなく届いているはずだ。
彼はきっと、あのような事故を防ぐために駈をそこに配置したのだろう。
それなのに、駈はその期待に応えるどころか、社長に頭を下げさせるという最悪の事態を招いてしまった。

(そうだ……俺は結局、この人の思いも裏切ったんだ)

堪えていた涙腺がじわりと緩んでくる。
泣いてどうなる、余計に心配を掛けるだけだろうと自分に言い聞かせても、なかなか身体は言うことを聞いてくれなかった。

ぎりぎりと膝に爪を立てる駈に、時田は「それは違うよ」ときっぱりと言い切った。

「あの事は君のせいじゃない」
「いや、でも……!」
即座に否定しにかかる駈に、時田はゆっくりと首を振った。

「君はよくやってくれたよ。仕事内容もそうだが、あの難しい連中をあそこまで育て上げてくれたじゃないか。君でなければできなかったことだよ」
「そんなこと……」
「本当に、君はよくやってくれた……できなかったのは、この私だ」

そして、時田は駈へ向かって、深々と頭を下げた。

「肝心なとき、私は何の力にもなれなかった。君を少しも、守れなかった。本当に、本当に……すまなかった」
「やめてください!」

病室に響く駈の声。
駈はハッと時田を見る。目を丸くしている彼に、駈は慌てて頭を下げた。
「すっ、すみません……っ」
場所も場所だが、目の前にいるのは大病から回復したばかりの人だ。
そんな病み上がりの人の前で何をやっているんだ……と、自分で自分を殴ってしまいたくなる。

と、そのとき。

「ふ、ふふっ……!」

思わず顔を上げる。
そこにいたのは、口に手をやり、身体を震わせる時田だった。

「時田さん……?」
一体どうしたのかと戸惑う駈に、時田はその笑いをなんとか鎮めると、「ごめんね」と小さく首を竦めた。

「許しを乞うている人間が急に笑い出すなんて、あまりに不誠実だと思ったんだけど……君のその声を聴いたら、思い出してしまってね」
「……?」
何のことだろう、と駈がきょとんとしていると。
時田は目元に滲んだ涙を拭うと、穏やかな声で駈へと語り掛けた。

「あのときだよ、あのとき……君が、会社を辞めたい、と言ってきたときさ」
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