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踊り子の決意
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心臓が大きく跳ねて、頭がずきずきと痛む。たったの数日で薬漬けにされ、壊された幸せに耐えきれず自ら手放した記憶が一気に蘇り、アミーラの目に涙が溢れた。
「マリ、ク……わたくし、ごめんなさい、マリク……!」
制御できない感情が彼女を支配して、目からはとめどなく涙が零れる。怒りや悲しみ、今まで味わった不当な扱いへの憤り、それら全てを差し置いて、彼女の胸には後悔が募った。
「アミーラ、お前、記憶が……」
「あなたを殺そうとするなんて、わたくし、なんてことを……! あんな男に、騙されて……!」
座長は、あの覆面の男だった。最悪な環境で輪姦されていたところから助け出されたと思っていたのは、人質として連れ去られただけだったのだ。そのうちにマリクが指揮しての討伐により、盗賊団のアジトは壊滅し、根無し草となった覆面の男はマリクへの復讐を誓って旅芸人に扮していた。逆恨みも甚だしいが、『ラーケサ』になっていたアミーラはそれを信じ込まされた。彼女は危うく一番恨むべき男のために、最愛の夫を殺してしまうところだった。暗殺に気付いてそれをマリクが阻止してくれたのは良かったが、それでアミーラが犯した罪が消えるわけではない。
けれど当のマリクは、首を振った。
「お前のせいじゃない。謝ることなんて何一つないんだ、アミーラ。俺は、お前が生きていてくれただけでいい」
嗚咽をあげるアミーラの身体を抱きしめて、マリクは言い聞かせる。
「いつ……いつ、気付いていたの?」
主語のない問いだったが、マリクは正確にそれを理解して答える。
「良からぬ企みをしていると気付いていたのは、最初からだ。あの男が旅芸人を名乗って、芸の披露をしたいと言ってきたとき、声ですぐ判った。あいつは俺と話すときいつも顔を隠していたからバレていないとでも思ったんだろうがな。殺したい相手を忘れるわけがない」
吐き捨てるように言ってから、マリクは溜め息を吐いた。
「まさか暗殺者としてお前を差し向けてくるとは思わなかったが……アミーラなら俺が油断すると踏んだんだろう」
「ごめんなさい……」
目を伏せたアミーラは、ただただ涙を流す。今の興奮した彼女には、何を言っても無駄なのだろう。それでもマリクは言葉を重ねる。
「何度でも言うが、悪いのはお前じゃない」
「でも……わたくしは罪を犯したわ。未遂だとしても、許されないことよ」
顔を覆った彼女に、マリクは奥歯をぐっと噛む。
「お前が悪いことをしたのだというなら、それは俺のせいだろう。俺が守ってやれなかったせいでお前は……あの日からずっと、罪を背負っている。あの時の俺に力があれば……」
「そんなわけないわ! あなたに罪なんてない! あの男が……!」
そこまで言って、アミーラは言葉を切る。そう言ってしまえば、マリクはアミーラの罪だってなかったことにないのだと主張するだろう。
(それは違うわ)
「アミーラ」
黙り込んだ彼女に、静かな声でマリクは名前を呼んだ。
「今日は色々と疲れただろう。そろそろ、寝るといい」
「でも」
「お前は今、記憶を取り戻したばかりで、混乱してるだろう? 今はゆっくり休んで、気持ちの整理は、少しずつつけていけばいい」
言い含めるようにゆっくり言って、マリクはアミーラの背中をぽんぽんと叩いた。まるで幼子を落ち着かせるような仕草だが、これは彼がアミーラに対して昔よくやっていたものだ。それを思い出して、アミーラはまた泣きそうになる。
「……ええ。そうね……」
マリクの言う通りではあった。今日は、色々なことがありすぎた。部屋から脱走し、座長の裏切りを知り、マリクに長時間責め立てられ、極めつけに記憶を取り戻した。日中に気を失っていた時間もあるが、目を閉じてしまえば疲労がどっと襲う。頭が興奮しているのも確かだったが、マリクの暖かな手に背を叩かれているうちに、アミーラはほどなくして意識を落とした。
***
次に目を覚ました時、マリクは部屋にいなかった。代わりに世話のための使用人が控えている。
「お嬢様、お目覚めですか」
身体を起こしたアミーラに気付いた使用人が近寄ってきて、彼女の顔色をうかがう。使用人の女性は顔を布で覆っていて目元しか見えないが、その眼差しと聞きなれた声に気付いたアミーラは苦笑する。
「わたくし、もうお嬢様なんて呼ばれる身分じゃないわ、ばあや」
「……っお嬢様は、お嬢様です」
喉に詰まらせたような声で、使用人が言う。彼女はアミーラがガシェー家に身を寄せるよりも前から、身の回りの世話をしてくれていた乳母だった。乳母はアミーラが踊り子としてこの部屋にやってきたときからずっと、記憶のない彼女のことを毎日献身的に世話をしてくれていた。記憶が戻ったことに気付いてもそれに言及しないでいることも、乳母がここにいることも、きっとマリクが采配した気遣いなのだろう。
真実を知れば憎いだけの座長の本性について、アミーラが傷つくというだけの理由で、隠していてくれた。わざと挑発するようなことばかりを言っていたのは、生きる気力を失っていた彼女に少しでも奮起させるためだったのかもしれない。
アミーラが知らないうちに、マリクに与えられていた数々の優しさに今更になって気付いて、アミーラは胸が痛くなる。
「……ありがとう」
乳母の手を握ったアミーラは、静かに言葉を返して、心を決める。
「ねえ、ばあや。わたくしがここにきたときの服。あれはあるかしら?」
「ありますが……いかがなさいました?」
「久しぶりに踊りたくなったの。部屋の中から出るつもりはないから、いいでしょう? マリクにもう一度見てもらいたいのよ」
アミーラがねだるのに、乳母は少し考えるようにしたが、やがて頷いた。
***
その夜、アミーラは久々に踊り子の衣装を身につけた。足首にアンクレット、アンクレットと揃いのデザインの飾り帯に、飛べば太ももがむき出しになる薄衣の衣装。口元を覆う布をして、頭には髪飾りをつける。
完璧な踊り子の状態で、アミーラはタブラの音もなく、一人で舞う。観客はマリク一人である。音がなくとも、彼女の身体の中には何年も刻み込まれたリズムが蘇る。旅をして国の中を周り、隠すべき肢体を惜しげもなく晒し、男を惑わせていた。その舞いを、マリクの前で再び踊る。
軽やかに飛ぶたびにしゃらんしゃらんと飾りが音をたて、くるりと回るたびに美しい黒髪と右肩の極彩色の花が見え隠れする。蠱惑的な目線を時折マリクに向けて流し、一通りの踊りを終えると、彼女は再会したときと同様に、優美な礼を取って見せた。
「……見事だな」
終始無言で彼女を見つめていたマリクは、拍手と賛辞を送る。その言葉に顔をあげたアミーラは微笑んで「ありがとうございます」と、踊り子のように告げた。
「お願いがございます」
口調がおかしいことに気付き、ぴくりと眉を動かしたマリクはさっと立ち上がり、アミーラに近寄る。
「どうかわたくしを、自由にしてくださいませ」
「何を言ってる」
肩をつかんだマリクに、アミーラは動じずにふわりと笑んでみせる。
「わたくしは卑しい踊り子の身。王の寵愛を受けるような身分ではございません」
「阿呆か、お前は俺の妻だろう!」
マリクの言葉に、アミーラは口元に笑みをたたえたまま、眉尻を下げた。
「では、暗殺者として処刑なさいませ」
ぱんっ、とマリクの腕を払ったかと思えば、髪にさしていた髪飾りを引き抜き、勢いよく振りかぶる。けれどその攻撃が、マリクに届くはずもなかった。あっけなく腕を取られ、髪飾りを叩き落されたアミーラは彼の腕に抱き込まれる。
「そんなこと、できるわけがないだろうが。やっと……やっとお前に会えたんだぞ。阿呆なことを言うな」
苦しそうな声が、耳元で囁かれる。お願いだ、と呟かれた言葉で、アミーラは彼を抱きしめ返しそうになったが、とっさに拳を握ってこらえた。
「……いや」
口にすると、アミーラの目にじわりと涙が浮かんだ。
「いやだ、殺してよ。わたくしを、殺して。そうでないなら、わたくしを捨てて!」
抱きしめられた身体を離そうともがいて、アミーラは懸命に腕を身体の間に差し入れる。けれど抱きしめるマリクの腕の力は、一向に弱くならない。
「わたくし、今、あなたをまた殺そうとしたのよ。反逆だわ。処刑するには、充分な理由でしょう?」
「殺意なんかなかっただろう。わざわざ憎まれる理由なんか作らなくていい」
「わざと憎まれるようなことを言って、わたくしを傷つけないようにしたのは、マリクじゃない」
「俺はそんな優しい男じゃない。お前に記憶がないのが判っていて、無理やり抱いて、嫉妬で酷い言葉をお前にぶつけていただけだ」
そこで言葉を切ったマリクは、「ああ」と自嘲するように声を漏らした。
「俺は恨まれて当然の男だからな。もう、俺のことは嫌いになったか?」
「そんなわけ……!」
言下に否定しかけて、アミーラは唇を噛む。けれど、そこまで言ったらもう最後まで言ったも同然だ。
「そうじゃないなら、俺から離れるなんて言うな。お前は俺の傍で、もう幸せになるだけでいいんだ」
「っだめよ!」
とっさに出た声は、もう涙声になっている。
「わたくしはあなたに優しい言葉をかけられるような資格なんてない! 殺そうとしたことだけじゃないわ。わたくしの踊り、見たでしょう? 男の前で、こんな、はしたない格好で……! マリクのことを忘れて、わたくしは……わたくしは、他の男にだって……」
マリクを裏切って、股を開いていた。
そのことが、いやでいやで仕方がなかった。この数年、記憶のなかったアミーラは最低な環境でずいぶんと生き汚くなった。だからこそ愛しい人を失ったと思った後ですら、前を向いて生きていこうと思えていたのに、マリクを裏切っていたというそのことだけが、死を選びたくなるほどに、辛い。
きっとマリクはアミーラを裁けない。それが判っていたから、マリクの前から去ろうと決めたのだ。踊り子の身分では、この先もずっと男に身体を預ける最低な生活を強いられるだろう。記憶を取り戻した今となってはアミーラにとって目的もない苦痛でしかないが、夫を裏切った女にはそれが相応しい。
「わたくしは、もう、汚された醜い身体なのよ」
最後は嗚咽で、ほとんど言葉にならなかった。彼女の言葉に息を飲んだマリクは、そっと彼女の顔を覗き込んで、両手で彼女の頬を包みこむ。涙に濡れた紫の瞳が、まっすぐにマリクを見つめる。苦しみに歪められた彼女の額に、マリクはそっと唇を落とした。
「誰が何と言おうと、お前は綺麗だ」
それは何年も前に秘密を共有したときと同じ言葉だった。けれども、あのときとは状況が違いすぎるのが、アミーラの胸を更に痛める。
「……違うわ」
「違わない。今も昔、お前は世界で一番綺麗だ。それとも俺の言葉は信じられないか?」
(信じられないわけないのに)
かつて右肩の痣の秘密を打ち明けたときだって、マリクだから肌を見せた。秘密を共有しようと思えたのも、彼だったからだ。
「アミーラ、あの夜、お前は誓ったんじゃないのか? 俺に生涯を捧げてくれると」
確かに誓った。誓ったからこそ、他の男に身体を許した自分が許せないのだ。たとえ自分の意思でなかったとしてもマリクを裏切ったという事実がある限り、彼女を苛み続けるだろう。だからこそ離れようと思ったのだが。
「俺の子を産んでくれるんだろう?」
「……っ」
再会してからというもの、マリクはことあるごとに、くりかえし『孕め』と責め立ててきていた。きっと彼がずっとアミーラを手放すつもりがなく、夫婦として子を成すつもりだったからだろう。そんなマリクの気持ちが、記憶を取り戻してやっとアミーラにはわかる。
抱かれていた間に吐かれていた言葉一つ一つが、彼の想いだった。どうあっても、アミーラと一緒にいるのだと。
「だって、こんなの……」
(マリクが、わたくしと一緒にいることを望んでくれるなんて、甘すぎる夢だわ)
そう思いながら、アミーラは次の言葉を発する。
「破婚しなきゃ」
「誰がそんなことするか」
それは右肩の痣を見せたときと、同じ問答だった。マリクが唇を重ねてきたが、それを制止したまま拒まず、アミーラはまた涙をこぼした。
「わたくしなんかが……一緒にいて、いいの?」
「お前じゃなきゃ、俺は困る」
真摯に見つめて言われる言葉に、きっと嘘はないだろう。嘘をつけないアミーラに対して、マリクは隠し事はしても嘘を吐かない。だから、後にも先にも抱くのはアミーラだけだと言ったあの言葉だって、ずっと貫くつもりに違いない。だとすれば。
(今逃げるのは、マリクに対する裏切りを重ねることではないの?)
都合のいい言い訳だと思った。けれど、きっと、自分を許せないままマリクに寄り添うことが、彼女にとっての一番の罰だ。少なくともそうすれば、マリクをこれ以上裏切ることにはならい。
「俺の子を、産んでくれるか?」
「……ええ。わたくしを、孕ませてちょうだい」
彼の唇がもう一度重なったのを、アミーラは目を閉じて受け入れ、舌で応え始めた。
「マリ、ク……わたくし、ごめんなさい、マリク……!」
制御できない感情が彼女を支配して、目からはとめどなく涙が零れる。怒りや悲しみ、今まで味わった不当な扱いへの憤り、それら全てを差し置いて、彼女の胸には後悔が募った。
「アミーラ、お前、記憶が……」
「あなたを殺そうとするなんて、わたくし、なんてことを……! あんな男に、騙されて……!」
座長は、あの覆面の男だった。最悪な環境で輪姦されていたところから助け出されたと思っていたのは、人質として連れ去られただけだったのだ。そのうちにマリクが指揮しての討伐により、盗賊団のアジトは壊滅し、根無し草となった覆面の男はマリクへの復讐を誓って旅芸人に扮していた。逆恨みも甚だしいが、『ラーケサ』になっていたアミーラはそれを信じ込まされた。彼女は危うく一番恨むべき男のために、最愛の夫を殺してしまうところだった。暗殺に気付いてそれをマリクが阻止してくれたのは良かったが、それでアミーラが犯した罪が消えるわけではない。
けれど当のマリクは、首を振った。
「お前のせいじゃない。謝ることなんて何一つないんだ、アミーラ。俺は、お前が生きていてくれただけでいい」
嗚咽をあげるアミーラの身体を抱きしめて、マリクは言い聞かせる。
「いつ……いつ、気付いていたの?」
主語のない問いだったが、マリクは正確にそれを理解して答える。
「良からぬ企みをしていると気付いていたのは、最初からだ。あの男が旅芸人を名乗って、芸の披露をしたいと言ってきたとき、声ですぐ判った。あいつは俺と話すときいつも顔を隠していたからバレていないとでも思ったんだろうがな。殺したい相手を忘れるわけがない」
吐き捨てるように言ってから、マリクは溜め息を吐いた。
「まさか暗殺者としてお前を差し向けてくるとは思わなかったが……アミーラなら俺が油断すると踏んだんだろう」
「ごめんなさい……」
目を伏せたアミーラは、ただただ涙を流す。今の興奮した彼女には、何を言っても無駄なのだろう。それでもマリクは言葉を重ねる。
「何度でも言うが、悪いのはお前じゃない」
「でも……わたくしは罪を犯したわ。未遂だとしても、許されないことよ」
顔を覆った彼女に、マリクは奥歯をぐっと噛む。
「お前が悪いことをしたのだというなら、それは俺のせいだろう。俺が守ってやれなかったせいでお前は……あの日からずっと、罪を背負っている。あの時の俺に力があれば……」
「そんなわけないわ! あなたに罪なんてない! あの男が……!」
そこまで言って、アミーラは言葉を切る。そう言ってしまえば、マリクはアミーラの罪だってなかったことにないのだと主張するだろう。
(それは違うわ)
「アミーラ」
黙り込んだ彼女に、静かな声でマリクは名前を呼んだ。
「今日は色々と疲れただろう。そろそろ、寝るといい」
「でも」
「お前は今、記憶を取り戻したばかりで、混乱してるだろう? 今はゆっくり休んで、気持ちの整理は、少しずつつけていけばいい」
言い含めるようにゆっくり言って、マリクはアミーラの背中をぽんぽんと叩いた。まるで幼子を落ち着かせるような仕草だが、これは彼がアミーラに対して昔よくやっていたものだ。それを思い出して、アミーラはまた泣きそうになる。
「……ええ。そうね……」
マリクの言う通りではあった。今日は、色々なことがありすぎた。部屋から脱走し、座長の裏切りを知り、マリクに長時間責め立てられ、極めつけに記憶を取り戻した。日中に気を失っていた時間もあるが、目を閉じてしまえば疲労がどっと襲う。頭が興奮しているのも確かだったが、マリクの暖かな手に背を叩かれているうちに、アミーラはほどなくして意識を落とした。
***
次に目を覚ました時、マリクは部屋にいなかった。代わりに世話のための使用人が控えている。
「お嬢様、お目覚めですか」
身体を起こしたアミーラに気付いた使用人が近寄ってきて、彼女の顔色をうかがう。使用人の女性は顔を布で覆っていて目元しか見えないが、その眼差しと聞きなれた声に気付いたアミーラは苦笑する。
「わたくし、もうお嬢様なんて呼ばれる身分じゃないわ、ばあや」
「……っお嬢様は、お嬢様です」
喉に詰まらせたような声で、使用人が言う。彼女はアミーラがガシェー家に身を寄せるよりも前から、身の回りの世話をしてくれていた乳母だった。乳母はアミーラが踊り子としてこの部屋にやってきたときからずっと、記憶のない彼女のことを毎日献身的に世話をしてくれていた。記憶が戻ったことに気付いてもそれに言及しないでいることも、乳母がここにいることも、きっとマリクが采配した気遣いなのだろう。
真実を知れば憎いだけの座長の本性について、アミーラが傷つくというだけの理由で、隠していてくれた。わざと挑発するようなことばかりを言っていたのは、生きる気力を失っていた彼女に少しでも奮起させるためだったのかもしれない。
アミーラが知らないうちに、マリクに与えられていた数々の優しさに今更になって気付いて、アミーラは胸が痛くなる。
「……ありがとう」
乳母の手を握ったアミーラは、静かに言葉を返して、心を決める。
「ねえ、ばあや。わたくしがここにきたときの服。あれはあるかしら?」
「ありますが……いかがなさいました?」
「久しぶりに踊りたくなったの。部屋の中から出るつもりはないから、いいでしょう? マリクにもう一度見てもらいたいのよ」
アミーラがねだるのに、乳母は少し考えるようにしたが、やがて頷いた。
***
その夜、アミーラは久々に踊り子の衣装を身につけた。足首にアンクレット、アンクレットと揃いのデザインの飾り帯に、飛べば太ももがむき出しになる薄衣の衣装。口元を覆う布をして、頭には髪飾りをつける。
完璧な踊り子の状態で、アミーラはタブラの音もなく、一人で舞う。観客はマリク一人である。音がなくとも、彼女の身体の中には何年も刻み込まれたリズムが蘇る。旅をして国の中を周り、隠すべき肢体を惜しげもなく晒し、男を惑わせていた。その舞いを、マリクの前で再び踊る。
軽やかに飛ぶたびにしゃらんしゃらんと飾りが音をたて、くるりと回るたびに美しい黒髪と右肩の極彩色の花が見え隠れする。蠱惑的な目線を時折マリクに向けて流し、一通りの踊りを終えると、彼女は再会したときと同様に、優美な礼を取って見せた。
「……見事だな」
終始無言で彼女を見つめていたマリクは、拍手と賛辞を送る。その言葉に顔をあげたアミーラは微笑んで「ありがとうございます」と、踊り子のように告げた。
「お願いがございます」
口調がおかしいことに気付き、ぴくりと眉を動かしたマリクはさっと立ち上がり、アミーラに近寄る。
「どうかわたくしを、自由にしてくださいませ」
「何を言ってる」
肩をつかんだマリクに、アミーラは動じずにふわりと笑んでみせる。
「わたくしは卑しい踊り子の身。王の寵愛を受けるような身分ではございません」
「阿呆か、お前は俺の妻だろう!」
マリクの言葉に、アミーラは口元に笑みをたたえたまま、眉尻を下げた。
「では、暗殺者として処刑なさいませ」
ぱんっ、とマリクの腕を払ったかと思えば、髪にさしていた髪飾りを引き抜き、勢いよく振りかぶる。けれどその攻撃が、マリクに届くはずもなかった。あっけなく腕を取られ、髪飾りを叩き落されたアミーラは彼の腕に抱き込まれる。
「そんなこと、できるわけがないだろうが。やっと……やっとお前に会えたんだぞ。阿呆なことを言うな」
苦しそうな声が、耳元で囁かれる。お願いだ、と呟かれた言葉で、アミーラは彼を抱きしめ返しそうになったが、とっさに拳を握ってこらえた。
「……いや」
口にすると、アミーラの目にじわりと涙が浮かんだ。
「いやだ、殺してよ。わたくしを、殺して。そうでないなら、わたくしを捨てて!」
抱きしめられた身体を離そうともがいて、アミーラは懸命に腕を身体の間に差し入れる。けれど抱きしめるマリクの腕の力は、一向に弱くならない。
「わたくし、今、あなたをまた殺そうとしたのよ。反逆だわ。処刑するには、充分な理由でしょう?」
「殺意なんかなかっただろう。わざわざ憎まれる理由なんか作らなくていい」
「わざと憎まれるようなことを言って、わたくしを傷つけないようにしたのは、マリクじゃない」
「俺はそんな優しい男じゃない。お前に記憶がないのが判っていて、無理やり抱いて、嫉妬で酷い言葉をお前にぶつけていただけだ」
そこで言葉を切ったマリクは、「ああ」と自嘲するように声を漏らした。
「俺は恨まれて当然の男だからな。もう、俺のことは嫌いになったか?」
「そんなわけ……!」
言下に否定しかけて、アミーラは唇を噛む。けれど、そこまで言ったらもう最後まで言ったも同然だ。
「そうじゃないなら、俺から離れるなんて言うな。お前は俺の傍で、もう幸せになるだけでいいんだ」
「っだめよ!」
とっさに出た声は、もう涙声になっている。
「わたくしはあなたに優しい言葉をかけられるような資格なんてない! 殺そうとしたことだけじゃないわ。わたくしの踊り、見たでしょう? 男の前で、こんな、はしたない格好で……! マリクのことを忘れて、わたくしは……わたくしは、他の男にだって……」
マリクを裏切って、股を開いていた。
そのことが、いやでいやで仕方がなかった。この数年、記憶のなかったアミーラは最低な環境でずいぶんと生き汚くなった。だからこそ愛しい人を失ったと思った後ですら、前を向いて生きていこうと思えていたのに、マリクを裏切っていたというそのことだけが、死を選びたくなるほどに、辛い。
きっとマリクはアミーラを裁けない。それが判っていたから、マリクの前から去ろうと決めたのだ。踊り子の身分では、この先もずっと男に身体を預ける最低な生活を強いられるだろう。記憶を取り戻した今となってはアミーラにとって目的もない苦痛でしかないが、夫を裏切った女にはそれが相応しい。
「わたくしは、もう、汚された醜い身体なのよ」
最後は嗚咽で、ほとんど言葉にならなかった。彼女の言葉に息を飲んだマリクは、そっと彼女の顔を覗き込んで、両手で彼女の頬を包みこむ。涙に濡れた紫の瞳が、まっすぐにマリクを見つめる。苦しみに歪められた彼女の額に、マリクはそっと唇を落とした。
「誰が何と言おうと、お前は綺麗だ」
それは何年も前に秘密を共有したときと同じ言葉だった。けれども、あのときとは状況が違いすぎるのが、アミーラの胸を更に痛める。
「……違うわ」
「違わない。今も昔、お前は世界で一番綺麗だ。それとも俺の言葉は信じられないか?」
(信じられないわけないのに)
かつて右肩の痣の秘密を打ち明けたときだって、マリクだから肌を見せた。秘密を共有しようと思えたのも、彼だったからだ。
「アミーラ、あの夜、お前は誓ったんじゃないのか? 俺に生涯を捧げてくれると」
確かに誓った。誓ったからこそ、他の男に身体を許した自分が許せないのだ。たとえ自分の意思でなかったとしてもマリクを裏切ったという事実がある限り、彼女を苛み続けるだろう。だからこそ離れようと思ったのだが。
「俺の子を産んでくれるんだろう?」
「……っ」
再会してからというもの、マリクはことあるごとに、くりかえし『孕め』と責め立ててきていた。きっと彼がずっとアミーラを手放すつもりがなく、夫婦として子を成すつもりだったからだろう。そんなマリクの気持ちが、記憶を取り戻してやっとアミーラにはわかる。
抱かれていた間に吐かれていた言葉一つ一つが、彼の想いだった。どうあっても、アミーラと一緒にいるのだと。
「だって、こんなの……」
(マリクが、わたくしと一緒にいることを望んでくれるなんて、甘すぎる夢だわ)
そう思いながら、アミーラは次の言葉を発する。
「破婚しなきゃ」
「誰がそんなことするか」
それは右肩の痣を見せたときと、同じ問答だった。マリクが唇を重ねてきたが、それを制止したまま拒まず、アミーラはまた涙をこぼした。
「わたくしなんかが……一緒にいて、いいの?」
「お前じゃなきゃ、俺は困る」
真摯に見つめて言われる言葉に、きっと嘘はないだろう。嘘をつけないアミーラに対して、マリクは隠し事はしても嘘を吐かない。だから、後にも先にも抱くのはアミーラだけだと言ったあの言葉だって、ずっと貫くつもりに違いない。だとすれば。
(今逃げるのは、マリクに対する裏切りを重ねることではないの?)
都合のいい言い訳だと思った。けれど、きっと、自分を許せないままマリクに寄り添うことが、彼女にとっての一番の罰だ。少なくともそうすれば、マリクをこれ以上裏切ることにはならい。
「俺の子を、産んでくれるか?」
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リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
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