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元騎士は旧友の甘い執着に堕ちて
1.転生した元騎士
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ずぶずぶと身体は深い深い水底へと沈んでいく。水面から差し込む光は、男の身体が沈むごとに濁り、暗くなる。それは男の視界も同様で、もがくこともできないままに、意識は遠ざかっていく。
(いやだ! 私は、こんなところで死ぬわけには……!)
男は騎士としての叙勲を受け、明るい未来に向かってようやく歩み出したところだった。鍛えた身体も剣術も、全ては敵を屠るため。だが、結果はどうだろう。戦闘の最中に船から突き落とされ、鎧の重みで泳ぐこともままならず、あっけなく騎士の命は奪われたのだ。
***
きっと、その後悔が強すぎたのだろう。彼は、またたきのときを経て、目を覚ました。ただし、それは元の彼ではない。彼が死んだ直後の時間に、赤子として生まれ変わっていた。
(……まだ、生きよ、ということか。神に、感謝せねば。そして私は、必ず……)
決して元の身体ではない。だが、二度目の生を受けることができた事実に彼は感謝をしたのだった。だが、一つだけ誤算があった。
転生から十九年の月日が経ち、彼は裕福な生家のもとでごく健やかに成長した。
「お嬢様。先生がいらっしゃいましたよ」
部屋に入ってきた乳母の呼び声に振り向いたのは、不機嫌そうな顔をした女性だった。彼女は、一言でいえば月の女神のように美しい。
月を思わせるような青銀の髪はゆるやかなウェーブを作って腰まで下ろされており、特に整えられていないが、普通なら下品なはずのその髪型が不思議と似合っている。彼女の物憂げな瞳は、髪と同じ青銀の長いまつ毛がたっぷりと縁取っていて、伏し目がちになると、わずかに覗く紫紺の瞳もあいまって、彼女の神秘的な美貌をより際立たせるようだった。流行りとはずれたコルセットのない緩やかなスタイルのドレスでさえ、彼女の優美さを彩っている。
乳母の顔を見て、女性は小さくため息を吐いた。
「……私を『お嬢様』と呼ぶなと何度も言っているだろう。『ジェレミー様』と呼べ」
「あらあらまあまあ。お嬢様、またそんな男のような言葉遣いをされて……それだから嫁ぎ先が見つかりませんのよ。お気をつけくださいませ」
不機嫌そうな低い声の女性の様子を意に介さず、乳母はたしなめる。
「私は嫁ぎ先が見つからないんじゃない。嫁ぐつもりなどないだけだ」
「また子どものようなことをおっしゃって。いずれ素敵な旦那様が見つかりますよ、お嬢様」
ころころと笑った乳母の言葉に、女性――ジェイミーはぎゅっと眉間に皺を寄せた。だが、乳母にそれ以上の反論はせずに黙り込む。
(……私は、男なのに)
心に浮かんだ苦渋の声を、ジェイミーは乳母に伝えることなく、呑み込んだ。
新たな生を得られたのだから、騎士として身を立てる夢が叶うと思った。だが、この月のように美しい女に、男の騎士であった彼は転生してしまったのだ。女として生まれなおし、十七年間を女として暮らし、身体つきも必要以上に魅力的なカーブを描いた年齢になってなお、ジェイミーは自身が女の身であることを、未だに受け入れられていない。それは、転生する前の名も、同じ『ジェイミー』だったからなのかもしれない。
だからこそ、このところ婚約者をあてがう話や結婚を催促するふうの周囲に、ジェイミーは辟易していた。
「……そんなお辛そうな顔をされないで、お嬢様。ウィルズ卿がいらっしゃってますよ。今日も剣術を習われるのでしょう?」
「! クリフォードがもう来てるのか!」
「あらあら、ウィルズ卿をそんなふうにお呼びして」
「すぐに仕度する!」
暗い顔だったジェイミーは一転して顔を輝かせ、急いで着替えを手に取る。貴族の女性ならばメイドに仕度を手伝ってもらうものだが、彼女は転生前の癖で極力一人で着替えをする。それを呆れながらもビスチェの背中の紐だけは結ぶのを乳母が手伝って、仕度を済ませた。
庭に出ると、すでに目当ての人物はそこにいた。
アッシュグレーの髪が印象的な偉丈夫だ。年のころは既に四十だが、覇気に満ちた男である。片手に木剣を持っているのは、ジェイミーの剣術の稽古をつけるためだ。彼がジェイミーの指南役である、クリフォード・ウィルズだった。
「ウィルズ卿! ……と、お父様、ごきげんよう」
声を弾ませて駆け寄りかけたジェイミーは、偉丈夫の隣にさらにもう一人いることに気づいて、内心慌てながらもゆったりとした動作で淑女の礼を取った。彼女の服は剣術の稽古用にゆったりとしたズボンを履いているが、それすらも様になる優美さだ。
「こんにちは」
「おお、ジェイミー。来たか。我が娘ながら今日も愛らしい」
にこにこと両手を広げた父は、ジェイミーとそっくりな銀の髪に紫紺の瞳だ。彼は身体を鍛えているわけではないので、余計に繊細そうな空気をまとっているが、ジェイミーに対しては親ばからしく屈託のない笑顔を浮かべている。挨拶は返したものの、その隣でウィルズはただ親子の会話を黙って見守っている。
「ありがとうございます。お父様、今日はどうしてこちらに?」
軽く抱擁を交わして、ジェイミーは尋ねる。その言葉遣いは、貴族の令嬢そのものだ。彼女の父は、領主としての仕事で、忙しさゆえに朝食すら共にできないことが多い。いつもジェイミーの兄たちと共に領地のあちこちに顔を出しては長期間留守にしているので、会うことすら珍しい。そんな父親に育ててもらっている恩を、仇で返したくない。だからこそ、乳母の前でこそ普段の口調ではあるものの、ジェイミーは父や外部の者の前では令嬢らしく振舞っている。
「ははは。この時間しかなくてな。せっかくの剣術の時間を邪魔してすまない」
「いいえ、わたくしのわがままで、剣を習わせていただいているのですもの。邪魔だなんてとんでもありませんわ。それにお父様に久々にお会いできて嬉しいです」
にこにこと笑ってジェイミーは言う。これは本心だった。
貴族令嬢が剣を習うなんてとんでもない。それは誰が聞いたってそうだ。護身術の心得を軽く習う者ならばいるが、それだって普通の令嬢なら嫌がるところを、ジェイミーは積極的に習いたがった。普通、手にまめができて美しくないと言われる剣術を娘に習わせたがる親はいない。だが、ジェイミーの父は、娘可愛さにそれを許してくれているのだ。
「そうかそうか。我が娘は今日も可愛いことを言う。……そんな娘に、無理を言う父を許しておくれ。今度の夜会にはジェイミーも必ず出席するように」
苦渋を滲ませた様子の父に、ジェイミーは首を傾げる。彼女はすでに社交デビューを去年済ませている。夜会は定期的に顔を出しているのだから、それが『無理』だと言われる理由がわからなかった。
「……ブライトン伯の子息に、ジェイミーを紹介してほしいと頼みこまれているのだ」
その言葉で、ジェイミーはやっと理解した。
「…………婚約者の、候補ですか?」
「お前が乗り気でないのはわかっているよ。気に入らなければいつものように断ればいい。だが……会いもしないで断ることはできないからね」
ジェイミーの顔にわずかに浮かんだ憂いの色を、敏感に感じ取った父は彼女の肩を労わるようにさする。だが、ジェイミーの心は晴れなかった。
「はい……わかっています」
「何、挨拶だけすればよい。そのときには私も一緒だし……ああ、ウィルズ卿、あなたも今度の夜会には参加の予定でしたな」
ジェイミーの精彩に欠けた返事に、父は慌てたように隣をうかがう。クリフォードはといえば、ほんの一瞬だけ反応が遅れたが、鷹揚に頷いた。
「ええ、私も参加予定です」
「そうなのですか……?」
「お会いできるのを楽しみにしていますよ」
ウィンクした彼に、ジェイミーの顔がやっと緩んだ。
「……はい。ありがとうございます」
(クリフォードはいつも夜会になど参加しないのに。これは私のために参加してくれるのだな)
申し訳なくもありがたく思って、ジェイミーは笑みを浮かべる。それでやっと父も安心したのだろう。
「悪いな」
それはジェイミーに向けたものか、ウィルズに向けたものなのか。ともかくも父はまだ忙しいらしく、ジェイミーに向き直るともう一度ハグする。これはもう行く、という合図だ。
「それでは夜会で会おう、ジェイミー」
「はい、お父様。お仕事でご無理をなされませんよう」
そう告げて淑女の礼で父を見送り、その場にはクリフォードとジェイミーだけが残される。
「……わたくしのために、手間をかけさせてしまい、申し訳ございません」
父に声が聞こえないくらい離れてから、ジェイミーはそう言ったが、それに対してクリフォードはとぼけたように首を傾げた。
「ふん? 俺がジェイミーの剣術指南をするのはいつものことだろう?」
父がいなくなったために砕けた口調になったクリフォードは、ぽんぽんと木刀で肩を叩きながら言う。夜会のことを言われているのだとわかっていて、気にする必要はないのだと、彼は仄めかしているのだ。そんな彼に、ジェイミーは笑いを漏らす。
「それより、まだ婚約者を探しているのか?」
「……わたくしは探しておりません。結婚するつもりがありませんから」
「そういってもう何人、男をすげなくフってきたんだ?」
笑うクリフォードに「知りません」とジェイミーは答えた。
昨年、社交デビューをして以来、ジェイミーには求婚状がいくつも届いている。だがそれらの全ては断られているのだ。それが叶うのも一重に、彼女の気持ちを優先してくれる父と、そして、ジェイミーの家が侯爵家という高い地位にあるおかげだろう。
「好きな相手をよりどりみどりで選べるだろうに。結婚したくない理由はなんだ? まさか俺と結婚したいわけでもあるまい」
親子ほども年の離れた男だと思わせない悪戯っぽい顔に、ジェイミーは吹き出す。
「ウィルズ卿はそんな冗談ばっかり」
(理由を言えたら、どんなに楽だろうな)
浮かんだ苦々しさに、心が冷えたが、それでもジェイミーは笑みを貼り付けた。
「結婚したくない理由くらい、教えてくれたっていんじゃないか? みんな気にしてるぞ?」
「それをおっしゃるなら、ウィルズ卿だって。どうして独身なんです? 誰にも教えてらっしゃらないんでしょう?」
矛先を自分から逸らすために、ジェイミーはあえてそう問いかける。
(クリフォードがいくら男爵だからって、今まで腐るほど縁談があったろうに)
そうは思うものの、四十を迎えた彼は、妻に先立たれたわけでもなく、ただ独身を貫いている。
「そりゃ、結婚したい相手がいないからだな」
(はぐらかすかと思ったのに。……いや、これもはぐらかしてはいるのか)
「それはとんでもなく理想が高いというわけですか」
「いいや、一生を共にしたいと思ったやつは、もう……死んだからな」
からかったつもりの言葉に、真面目な返事が返ってきてジェイミーは言葉を失う。
「それは……ごめんなさい。わたくしは、なんて……配慮のない」
「はは、気にすることない。もうずっと昔の話だ。それに、俺が勝手に想っていただけの話だからな」
「……そう、なのですか……」
(想い人がいたなんて、全然知らなかったな。いや……今じゃ知らないことのほうが多いか)
トーンの低くなったジェイミーに、まだ彼女が気に病んでいると勘違いしたのだろう。クリフォードはことさら明るく「それで?」と声をかける。
「俺の事情は話したんだ。ジェイミーの理由を、俺にくらい話してくれたっていいだろう?」
「……話しませんよ」
「なんだ、冷たいな」
(そういう問題ではないのだがな)
苦笑して、ジェイミーは首を振った。
「わたくしの結婚だなんて、つまらない話はやめにしませんか?」
「……つまらん話ね」
「あなたとの時間を無駄にしたくありませんので」
「告白か、オジョウサマ」
「まさか」
軽口を交わしてジェイミーは笑う。
「そろそろ稽古をお願いします」
ジェイミーが言えば、クリフォードはおどけたように肩をすくめて見せてから、彼女に木剣を渡す。そうして、ジェイミーに一抹の憂いを残しながらも、今日も稽古は始まったのだった。
(いやだ! 私は、こんなところで死ぬわけには……!)
男は騎士としての叙勲を受け、明るい未来に向かってようやく歩み出したところだった。鍛えた身体も剣術も、全ては敵を屠るため。だが、結果はどうだろう。戦闘の最中に船から突き落とされ、鎧の重みで泳ぐこともままならず、あっけなく騎士の命は奪われたのだ。
***
きっと、その後悔が強すぎたのだろう。彼は、またたきのときを経て、目を覚ました。ただし、それは元の彼ではない。彼が死んだ直後の時間に、赤子として生まれ変わっていた。
(……まだ、生きよ、ということか。神に、感謝せねば。そして私は、必ず……)
決して元の身体ではない。だが、二度目の生を受けることができた事実に彼は感謝をしたのだった。だが、一つだけ誤算があった。
転生から十九年の月日が経ち、彼は裕福な生家のもとでごく健やかに成長した。
「お嬢様。先生がいらっしゃいましたよ」
部屋に入ってきた乳母の呼び声に振り向いたのは、不機嫌そうな顔をした女性だった。彼女は、一言でいえば月の女神のように美しい。
月を思わせるような青銀の髪はゆるやかなウェーブを作って腰まで下ろされており、特に整えられていないが、普通なら下品なはずのその髪型が不思議と似合っている。彼女の物憂げな瞳は、髪と同じ青銀の長いまつ毛がたっぷりと縁取っていて、伏し目がちになると、わずかに覗く紫紺の瞳もあいまって、彼女の神秘的な美貌をより際立たせるようだった。流行りとはずれたコルセットのない緩やかなスタイルのドレスでさえ、彼女の優美さを彩っている。
乳母の顔を見て、女性は小さくため息を吐いた。
「……私を『お嬢様』と呼ぶなと何度も言っているだろう。『ジェレミー様』と呼べ」
「あらあらまあまあ。お嬢様、またそんな男のような言葉遣いをされて……それだから嫁ぎ先が見つかりませんのよ。お気をつけくださいませ」
不機嫌そうな低い声の女性の様子を意に介さず、乳母はたしなめる。
「私は嫁ぎ先が見つからないんじゃない。嫁ぐつもりなどないだけだ」
「また子どものようなことをおっしゃって。いずれ素敵な旦那様が見つかりますよ、お嬢様」
ころころと笑った乳母の言葉に、女性――ジェイミーはぎゅっと眉間に皺を寄せた。だが、乳母にそれ以上の反論はせずに黙り込む。
(……私は、男なのに)
心に浮かんだ苦渋の声を、ジェイミーは乳母に伝えることなく、呑み込んだ。
新たな生を得られたのだから、騎士として身を立てる夢が叶うと思った。だが、この月のように美しい女に、男の騎士であった彼は転生してしまったのだ。女として生まれなおし、十七年間を女として暮らし、身体つきも必要以上に魅力的なカーブを描いた年齢になってなお、ジェイミーは自身が女の身であることを、未だに受け入れられていない。それは、転生する前の名も、同じ『ジェイミー』だったからなのかもしれない。
だからこそ、このところ婚約者をあてがう話や結婚を催促するふうの周囲に、ジェイミーは辟易していた。
「……そんなお辛そうな顔をされないで、お嬢様。ウィルズ卿がいらっしゃってますよ。今日も剣術を習われるのでしょう?」
「! クリフォードがもう来てるのか!」
「あらあら、ウィルズ卿をそんなふうにお呼びして」
「すぐに仕度する!」
暗い顔だったジェイミーは一転して顔を輝かせ、急いで着替えを手に取る。貴族の女性ならばメイドに仕度を手伝ってもらうものだが、彼女は転生前の癖で極力一人で着替えをする。それを呆れながらもビスチェの背中の紐だけは結ぶのを乳母が手伝って、仕度を済ませた。
庭に出ると、すでに目当ての人物はそこにいた。
アッシュグレーの髪が印象的な偉丈夫だ。年のころは既に四十だが、覇気に満ちた男である。片手に木剣を持っているのは、ジェイミーの剣術の稽古をつけるためだ。彼がジェイミーの指南役である、クリフォード・ウィルズだった。
「ウィルズ卿! ……と、お父様、ごきげんよう」
声を弾ませて駆け寄りかけたジェイミーは、偉丈夫の隣にさらにもう一人いることに気づいて、内心慌てながらもゆったりとした動作で淑女の礼を取った。彼女の服は剣術の稽古用にゆったりとしたズボンを履いているが、それすらも様になる優美さだ。
「こんにちは」
「おお、ジェイミー。来たか。我が娘ながら今日も愛らしい」
にこにこと両手を広げた父は、ジェイミーとそっくりな銀の髪に紫紺の瞳だ。彼は身体を鍛えているわけではないので、余計に繊細そうな空気をまとっているが、ジェイミーに対しては親ばからしく屈託のない笑顔を浮かべている。挨拶は返したものの、その隣でウィルズはただ親子の会話を黙って見守っている。
「ありがとうございます。お父様、今日はどうしてこちらに?」
軽く抱擁を交わして、ジェイミーは尋ねる。その言葉遣いは、貴族の令嬢そのものだ。彼女の父は、領主としての仕事で、忙しさゆえに朝食すら共にできないことが多い。いつもジェイミーの兄たちと共に領地のあちこちに顔を出しては長期間留守にしているので、会うことすら珍しい。そんな父親に育ててもらっている恩を、仇で返したくない。だからこそ、乳母の前でこそ普段の口調ではあるものの、ジェイミーは父や外部の者の前では令嬢らしく振舞っている。
「ははは。この時間しかなくてな。せっかくの剣術の時間を邪魔してすまない」
「いいえ、わたくしのわがままで、剣を習わせていただいているのですもの。邪魔だなんてとんでもありませんわ。それにお父様に久々にお会いできて嬉しいです」
にこにこと笑ってジェイミーは言う。これは本心だった。
貴族令嬢が剣を習うなんてとんでもない。それは誰が聞いたってそうだ。護身術の心得を軽く習う者ならばいるが、それだって普通の令嬢なら嫌がるところを、ジェイミーは積極的に習いたがった。普通、手にまめができて美しくないと言われる剣術を娘に習わせたがる親はいない。だが、ジェイミーの父は、娘可愛さにそれを許してくれているのだ。
「そうかそうか。我が娘は今日も可愛いことを言う。……そんな娘に、無理を言う父を許しておくれ。今度の夜会にはジェイミーも必ず出席するように」
苦渋を滲ませた様子の父に、ジェイミーは首を傾げる。彼女はすでに社交デビューを去年済ませている。夜会は定期的に顔を出しているのだから、それが『無理』だと言われる理由がわからなかった。
「……ブライトン伯の子息に、ジェイミーを紹介してほしいと頼みこまれているのだ」
その言葉で、ジェイミーはやっと理解した。
「…………婚約者の、候補ですか?」
「お前が乗り気でないのはわかっているよ。気に入らなければいつものように断ればいい。だが……会いもしないで断ることはできないからね」
ジェイミーの顔にわずかに浮かんだ憂いの色を、敏感に感じ取った父は彼女の肩を労わるようにさする。だが、ジェイミーの心は晴れなかった。
「はい……わかっています」
「何、挨拶だけすればよい。そのときには私も一緒だし……ああ、ウィルズ卿、あなたも今度の夜会には参加の予定でしたな」
ジェイミーの精彩に欠けた返事に、父は慌てたように隣をうかがう。クリフォードはといえば、ほんの一瞬だけ反応が遅れたが、鷹揚に頷いた。
「ええ、私も参加予定です」
「そうなのですか……?」
「お会いできるのを楽しみにしていますよ」
ウィンクした彼に、ジェイミーの顔がやっと緩んだ。
「……はい。ありがとうございます」
(クリフォードはいつも夜会になど参加しないのに。これは私のために参加してくれるのだな)
申し訳なくもありがたく思って、ジェイミーは笑みを浮かべる。それでやっと父も安心したのだろう。
「悪いな」
それはジェイミーに向けたものか、ウィルズに向けたものなのか。ともかくも父はまだ忙しいらしく、ジェイミーに向き直るともう一度ハグする。これはもう行く、という合図だ。
「それでは夜会で会おう、ジェイミー」
「はい、お父様。お仕事でご無理をなされませんよう」
そう告げて淑女の礼で父を見送り、その場にはクリフォードとジェイミーだけが残される。
「……わたくしのために、手間をかけさせてしまい、申し訳ございません」
父に声が聞こえないくらい離れてから、ジェイミーはそう言ったが、それに対してクリフォードはとぼけたように首を傾げた。
「ふん? 俺がジェイミーの剣術指南をするのはいつものことだろう?」
父がいなくなったために砕けた口調になったクリフォードは、ぽんぽんと木刀で肩を叩きながら言う。夜会のことを言われているのだとわかっていて、気にする必要はないのだと、彼は仄めかしているのだ。そんな彼に、ジェイミーは笑いを漏らす。
「それより、まだ婚約者を探しているのか?」
「……わたくしは探しておりません。結婚するつもりがありませんから」
「そういってもう何人、男をすげなくフってきたんだ?」
笑うクリフォードに「知りません」とジェイミーは答えた。
昨年、社交デビューをして以来、ジェイミーには求婚状がいくつも届いている。だがそれらの全ては断られているのだ。それが叶うのも一重に、彼女の気持ちを優先してくれる父と、そして、ジェイミーの家が侯爵家という高い地位にあるおかげだろう。
「好きな相手をよりどりみどりで選べるだろうに。結婚したくない理由はなんだ? まさか俺と結婚したいわけでもあるまい」
親子ほども年の離れた男だと思わせない悪戯っぽい顔に、ジェイミーは吹き出す。
「ウィルズ卿はそんな冗談ばっかり」
(理由を言えたら、どんなに楽だろうな)
浮かんだ苦々しさに、心が冷えたが、それでもジェイミーは笑みを貼り付けた。
「結婚したくない理由くらい、教えてくれたっていんじゃないか? みんな気にしてるぞ?」
「それをおっしゃるなら、ウィルズ卿だって。どうして独身なんです? 誰にも教えてらっしゃらないんでしょう?」
矛先を自分から逸らすために、ジェイミーはあえてそう問いかける。
(クリフォードがいくら男爵だからって、今まで腐るほど縁談があったろうに)
そうは思うものの、四十を迎えた彼は、妻に先立たれたわけでもなく、ただ独身を貫いている。
「そりゃ、結婚したい相手がいないからだな」
(はぐらかすかと思ったのに。……いや、これもはぐらかしてはいるのか)
「それはとんでもなく理想が高いというわけですか」
「いいや、一生を共にしたいと思ったやつは、もう……死んだからな」
からかったつもりの言葉に、真面目な返事が返ってきてジェイミーは言葉を失う。
「それは……ごめんなさい。わたくしは、なんて……配慮のない」
「はは、気にすることない。もうずっと昔の話だ。それに、俺が勝手に想っていただけの話だからな」
「……そう、なのですか……」
(想い人がいたなんて、全然知らなかったな。いや……今じゃ知らないことのほうが多いか)
トーンの低くなったジェイミーに、まだ彼女が気に病んでいると勘違いしたのだろう。クリフォードはことさら明るく「それで?」と声をかける。
「俺の事情は話したんだ。ジェイミーの理由を、俺にくらい話してくれたっていいだろう?」
「……話しませんよ」
「なんだ、冷たいな」
(そういう問題ではないのだがな)
苦笑して、ジェイミーは首を振った。
「わたくしの結婚だなんて、つまらない話はやめにしませんか?」
「……つまらん話ね」
「あなたとの時間を無駄にしたくありませんので」
「告白か、オジョウサマ」
「まさか」
軽口を交わしてジェイミーは笑う。
「そろそろ稽古をお願いします」
ジェイミーが言えば、クリフォードはおどけたように肩をすくめて見せてから、彼女に木剣を渡す。そうして、ジェイミーに一抹の憂いを残しながらも、今日も稽古は始まったのだった。
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