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元騎士は旧友の甘い執着に堕ちて
13.従兄の視線にこめられた熱
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庭での一件のあと、ジェイミーはクリフォードを避けるようになった。初夜のあとだってぎこちなくも交わしていた会話を断ち、食事も時間をずらすようにしている。剣術の稽古がある日だったにもかかわらず、剣を握らなかったのは、あれが初めてのことだった。
別にクリフォードがいなくても素振りは一人でだってできる。だというのに、ジェイミーはそれすらする気が起きなかった。男爵夫人としての采配を覚えねばならない期間だが、それまでその役を担っていた家令からは「奥様のお加減がよくなってからにしましょう」と言われ、引継ぎが中断されている。このところのジェイミーは、食が細くなって顔色が悪いのだ。
そのせいで、ジェイミーは日がな部屋に籠っていた。
「ジェイミー様。お散歩でも行きませんか……?」
朝起きて、室内着に着替え、朝食は摂る気にならないとジェイミーはソファに腰掛けていた。そこへイヴォンが気遣うように声をかけたが、ジェイミーは首を振った。
ジェイミーがクリフォードを避けるようになってから数日経つが、今でもジェイミーのドレスは毎朝クリフォードが選んでくれているらしい。今の彼女は、全てクリフォードに甘やかされ、彼の厚意で全ての生活がまかなわれている。
毎朝ドレスを差し出されるたびに、ジェイミーはそれを意識するのだ。
(このままでは何も解決しないのに)
そうは思うものの、どう感情の整理をつけていいかわからず、何もやる気が出ない。
「……お手紙が届いていますが、読まれますか?」
「手紙?」
ずっと窓の外を見ていたジェイミーが、やっと顔を動かしてイヴォンのほうを見る。差し出されている手紙の封蝋の紋は、馴染み深いものだった。
「オリヴァーから……?」
受け取ったジェイミーは、その手紙に目を通す。近況を窺う内容の最後に『お茶会に来ないか』と書き添えられていた。
(……茶会……)
それは、不倫に誘うものだとクリフォードは言った。
(ばかばかしい。オリヴァーがそんなことをするはずないだろう。オリヴァーは家族なのに)
ため息を吐いたジェイミーは、なかばむきになっていたのだろう。素早く手紙を書き、返事を返した。それからさらに二日後、彼女はオリヴァーの屋敷に招かれていたのである。
イヴォンを伴ってオリヴァーの屋敷を訪ねたジェイミーは、すぐにティールームに通された。てっきり丸テーブルに椅子のセットがあるのだと思っていたが、談話室も兼ねているらしく、暖炉前に設置されたローテーブルを挟む形で置かれた長ソファがある部屋だった。そのソファの片方に腰掛けて、ジェイミーはオリヴァーを待つが、お茶会というわりにジェイミー以外誰もいないのが気にかかる。
「ジェイミー、よく来たね」
部屋に入ってきたオリヴァーは、なぜかティーワゴンを自ら押していた。メイドにやらせないのかと内心首を傾げたジェイミーだったが、記憶を辿ればオリヴァーはよくメイドの手を煩わせるのをいやがって手ずから給仕をしていることがあったと思い出す。
「お久しぶり……と言っても、まだ一カ月も経っていませんね」
ソファから立ち上がったジェイミーは淑女の礼をとりながら笑う。前回の再会が二年ぶりだったのに対し、今回は二週間も経っていないのでさほど久しぶりな気もしなかった。訪ねれば会える距離に住んでいるにも関わらず、ジェイミーが今まで特にオリヴァーと会う機会を作らなかったのはとある理由があった。
「ところで、奥様は今日はどちらに? お茶会でご一緒できると思っていたのだけど……」
ジェイミーが、オリヴァーが不倫になど誘うわけがないと断じた理由が、これだった。数年前までレノン家に居候していたオリヴァーは、結婚と同時に婿養子に入る形でこの現在の屋敷に移り住んだ。結婚した若い男の家に、未婚の令嬢が行くのはどう考えても外聞が悪いから、今まではときおり手紙を送る程度の交流に留めていたのだ。オリヴァーは愛妻家で、夫婦仲も良いと噂なのだから、ジェイミーに手を出すはずがない。
ジェイミーの尋ねに対し、オリヴァーは穏やかな笑顔のまま、首を振った。
「妻は別の茶会に出かけてしまってね」
「えっ今日はいらっしゃらないのですか? じゃあ、他のお客様は?」
「……悪いな、茶会に誘ったていにしたけど、本当はお前がどうしてるか気になって呼んだだけなんだ」
「そう……なのですか?」
(私を気遣って……?)
そう思ったが、なんだか違和感がある。オリヴァーが結婚してから今までこんなふうにわざわざ会ったりしなかったのに、どうして今さら、と考えかけて、ジェイミーはその思考に蓋をかける。
(クリフォードのことがあったからって、家族の厚意を邪推してどうする)
「とりあえず、茶を飲もう。お前ちょっと顔色悪いぞ。茶菓子でも食べて近況を聞かせてくれよ」
「……ええ、そうですね」
頷いたジェイミーがソファにかけなおすと、オリヴァーはワゴンからティーセットを下ろしかけて手を止めた。
「あれ、しまった。肝心の茶葉を忘れてたな。取りに戻らないと。ジェイミー少し待っててくれるか?」
そう言って踵を返そうとしたオリヴァーに、イヴォンが「恐れながら」と声をかけた。
「私がかわりに参ります」
「そうかい? じゃあお願いしようかな」
あっさりとイヴォンの申し出を受け入れたオリヴァーは、ティールームを出て行ったイヴォンを見送ると、ソファに腰掛けた。しかしそれはジェイミーの正面ではなく、隣である。
「ジェイミー。本当にやつれたね。もしかして夫婦仲がうまくいってないんじゃないか?」
すっと距離を詰めたオリヴァーは、指の腹でジェイミーの頬を撫でた。そんな気安い動作に、ジェイミーの背にぞわりと悪寒が走る。
(こんなスキンシップをする人だったか?)
思わず眉間に皺を寄せたジェイミーは、やんわりとオリヴァーの手を押しのけた。
「お兄様。互いに結婚した身なんですから、距離が近すぎるのはよくないと思いますわ。わたくし、あちらに座りますね」
そう言って立ち上がろうとしたジェイミーの手首を、オリヴァーがつかんだ。
「僕も、妻とうまくいってないんだ」
沈んだ声で告げたオリヴァーは、そのままジェイミーの腕を引き寄せて、彼女の腰を抱き込んだ。
「離して、お兄様」
「茶会に行ってるなんて嘘だ。あいつは今、他の男の元へ行ってるのさ。いいご身分だよな」
低い声が恨めし気に響いて、それからぎらついた目がジェイミーを見つめる。きっと、この状況でなければ、オリヴァーに対して同情をしただろう。だが、今ジェイミーの頭の中にあるのは腰を掴んでいるこの手を、どう離してもらうかということだけだ。
「なあ、ジェイミー。本当はずっとお前が好きだった」
熱を帯びたそのセリフを聞いた途端に、ジェイミーはぞっとした。胸が痛んだわけでも、ときめきを感じたわけでもない。ただ、浮かんだのは嫌悪だ。
「……離して」
先ほどと同じようにやんわりと彼の手を押して、ジェイミーは離れようとする。だが、オリヴァーは彼女を離すつもりがないらしい。焦れた感情を隠しもせず、オリヴァーはさらに見当違いな愛を囁く。
「お前もそうだったろう? 僕たちは好き同士だったんだ。家の問題で結婚はできなかったけど……僕だって結婚したし、諦めようと思った。でも、もう無理だよ。お前も、あんな男に嫁がされて悔しかったよな? もう初夜は済ませたんだろう?」
初夜という言葉に、またジェイミーの背中にぞわりと悪寒が走る。瞬間に服を脱がされクリフォードに組み敷かれたあの夜のことが脳裏によぎる。だが今彼女の腰に触れているのは、オリヴァーだ。その指先から、何か汚らしいものが浸食しているかのように感じられて、不意にジェイミーの抵抗の手が怯えで止まる。その彼女をどう思ったのだろう、オリヴァーは目元を緩ませて、顔を近づけてきた。
「……僕が、上書きをしたい」
甘ったるく告げられたその言葉は、今からジェイミーを抱きたいという意味だ。瞬時にそれを理解して、どうしようもないほどに鳥肌が立つ。なんとか穏便に済ませようと思っていた彼女の理性は振り切れ、とうとう我慢の限界を迎えた。
「いい加減にしろ!」
ぱしん、と乾いた音が響いて、掌が痛む。そのじんわりとした痛みを自覚して、ジェイミーは自分がオリヴァーの頬を叩いていたことに気づく。だがもう彼女は止まれなかった。先ほどまでやんわりと押そうとしていた腕を、乱暴に振り払ってジェイミーは立ち上がる。引っ叩かれた驚きでオリヴァーはたじろいでいるのか、先ほどと打って変わってあっけなくその腕から逃げることができた。
「私とお前が両想いだなんて勘違いも甚だしい! 私に不倫をしろとでも言うのか?」
「ジェイミー」
「触れるな、おぞましい!」
縋るように伸ばされた手を、またぱしん、と払ってジェイミーは吐き捨てる。
きっと、オリヴァーは本当にジェイミーと両想いだと思っていたのだろう。彼女の激しい拒絶の言葉に、顔を強張らせて固まっている。
「……おぞましい、なんて……ジェイミー、お前だって僕のことを好きだったじゃないか」
「家族だと思いこそすれ、異性として好意を寄せたことなど一度もない!」
「か、ぞく……?」
愕然としたオリヴァーは、ぽつりと呟いた。オリヴァーに向けた過去の笑顔は、全て家族に向けたものである。憂いの女神とも称される彼女が、オリヴァーに微笑みかけていたのだから誤解していた者もいるのかもしれない。だが、ジェイミーがオリヴァーに向けたのは、恋情ではなく単純な血縁に対する親愛だ。それを、この男はずっと勘違いしていたのだろう。その雷に撃たれたかのような表情は、これまで何度も見たことがある。友人だと思っていた男たちが、掌を返してジェイミーに好意を告げ、それを断ったときのあの顔だ。
数年を共に暮らし、気心の知れた兄として接していたオリヴァーが、見知らぬ男に見える。そこにあるのはショックでもなんでもなく、純然たる嫌悪だった。
幾分か落ち着きを取り戻したジェイミーは、ソファから数歩離れた。
「……お兄様。いいえ、オリヴァー卿。わたくしが夫とどんな仲であろうと、わたくしは不貞を犯すような女ではありません」
言った途端に、脳裏に声が蘇る。
『俺に、操を立ててくれ』
クリフォードの声は酷く切羽詰まったように思い出されて、ジェイミーはますます表情を険しくした。
(そんなの、誓うまでもない)
「……わたくしを、そんなふしだらな女だと思わないで」
ぎゅっと握った拳の指先が白くなるほどに力をこめて、ジェイミーはなんとか殴りかかりたい気持ちを抑え込む。そんな彼女の毅然とした態度に、オリヴァーは激昂するでもなく、ただ肩を落とした。
「ジェイミー……そう、か。すまない……僕の勘違いだったんだね……」
「男爵夫人とお呼びください、オリヴァー卿。……わたくしとあなたの縁も、これまでです。どうぞ、奥様とお幸せに」
そう告げて淑女の礼を取ったジェイミーは、さっと身を翻してティールームを出る。ちょうどティールムーへと向かってくるイヴォンと合流して、彼女はオリヴァーの屋敷を訪問して一刻も経たずに辞したのであった。
別にクリフォードがいなくても素振りは一人でだってできる。だというのに、ジェイミーはそれすらする気が起きなかった。男爵夫人としての采配を覚えねばならない期間だが、それまでその役を担っていた家令からは「奥様のお加減がよくなってからにしましょう」と言われ、引継ぎが中断されている。このところのジェイミーは、食が細くなって顔色が悪いのだ。
そのせいで、ジェイミーは日がな部屋に籠っていた。
「ジェイミー様。お散歩でも行きませんか……?」
朝起きて、室内着に着替え、朝食は摂る気にならないとジェイミーはソファに腰掛けていた。そこへイヴォンが気遣うように声をかけたが、ジェイミーは首を振った。
ジェイミーがクリフォードを避けるようになってから数日経つが、今でもジェイミーのドレスは毎朝クリフォードが選んでくれているらしい。今の彼女は、全てクリフォードに甘やかされ、彼の厚意で全ての生活がまかなわれている。
毎朝ドレスを差し出されるたびに、ジェイミーはそれを意識するのだ。
(このままでは何も解決しないのに)
そうは思うものの、どう感情の整理をつけていいかわからず、何もやる気が出ない。
「……お手紙が届いていますが、読まれますか?」
「手紙?」
ずっと窓の外を見ていたジェイミーが、やっと顔を動かしてイヴォンのほうを見る。差し出されている手紙の封蝋の紋は、馴染み深いものだった。
「オリヴァーから……?」
受け取ったジェイミーは、その手紙に目を通す。近況を窺う内容の最後に『お茶会に来ないか』と書き添えられていた。
(……茶会……)
それは、不倫に誘うものだとクリフォードは言った。
(ばかばかしい。オリヴァーがそんなことをするはずないだろう。オリヴァーは家族なのに)
ため息を吐いたジェイミーは、なかばむきになっていたのだろう。素早く手紙を書き、返事を返した。それからさらに二日後、彼女はオリヴァーの屋敷に招かれていたのである。
イヴォンを伴ってオリヴァーの屋敷を訪ねたジェイミーは、すぐにティールームに通された。てっきり丸テーブルに椅子のセットがあるのだと思っていたが、談話室も兼ねているらしく、暖炉前に設置されたローテーブルを挟む形で置かれた長ソファがある部屋だった。そのソファの片方に腰掛けて、ジェイミーはオリヴァーを待つが、お茶会というわりにジェイミー以外誰もいないのが気にかかる。
「ジェイミー、よく来たね」
部屋に入ってきたオリヴァーは、なぜかティーワゴンを自ら押していた。メイドにやらせないのかと内心首を傾げたジェイミーだったが、記憶を辿ればオリヴァーはよくメイドの手を煩わせるのをいやがって手ずから給仕をしていることがあったと思い出す。
「お久しぶり……と言っても、まだ一カ月も経っていませんね」
ソファから立ち上がったジェイミーは淑女の礼をとりながら笑う。前回の再会が二年ぶりだったのに対し、今回は二週間も経っていないのでさほど久しぶりな気もしなかった。訪ねれば会える距離に住んでいるにも関わらず、ジェイミーが今まで特にオリヴァーと会う機会を作らなかったのはとある理由があった。
「ところで、奥様は今日はどちらに? お茶会でご一緒できると思っていたのだけど……」
ジェイミーが、オリヴァーが不倫になど誘うわけがないと断じた理由が、これだった。数年前までレノン家に居候していたオリヴァーは、結婚と同時に婿養子に入る形でこの現在の屋敷に移り住んだ。結婚した若い男の家に、未婚の令嬢が行くのはどう考えても外聞が悪いから、今まではときおり手紙を送る程度の交流に留めていたのだ。オリヴァーは愛妻家で、夫婦仲も良いと噂なのだから、ジェイミーに手を出すはずがない。
ジェイミーの尋ねに対し、オリヴァーは穏やかな笑顔のまま、首を振った。
「妻は別の茶会に出かけてしまってね」
「えっ今日はいらっしゃらないのですか? じゃあ、他のお客様は?」
「……悪いな、茶会に誘ったていにしたけど、本当はお前がどうしてるか気になって呼んだだけなんだ」
「そう……なのですか?」
(私を気遣って……?)
そう思ったが、なんだか違和感がある。オリヴァーが結婚してから今までこんなふうにわざわざ会ったりしなかったのに、どうして今さら、と考えかけて、ジェイミーはその思考に蓋をかける。
(クリフォードのことがあったからって、家族の厚意を邪推してどうする)
「とりあえず、茶を飲もう。お前ちょっと顔色悪いぞ。茶菓子でも食べて近況を聞かせてくれよ」
「……ええ、そうですね」
頷いたジェイミーがソファにかけなおすと、オリヴァーはワゴンからティーセットを下ろしかけて手を止めた。
「あれ、しまった。肝心の茶葉を忘れてたな。取りに戻らないと。ジェイミー少し待っててくれるか?」
そう言って踵を返そうとしたオリヴァーに、イヴォンが「恐れながら」と声をかけた。
「私がかわりに参ります」
「そうかい? じゃあお願いしようかな」
あっさりとイヴォンの申し出を受け入れたオリヴァーは、ティールームを出て行ったイヴォンを見送ると、ソファに腰掛けた。しかしそれはジェイミーの正面ではなく、隣である。
「ジェイミー。本当にやつれたね。もしかして夫婦仲がうまくいってないんじゃないか?」
すっと距離を詰めたオリヴァーは、指の腹でジェイミーの頬を撫でた。そんな気安い動作に、ジェイミーの背にぞわりと悪寒が走る。
(こんなスキンシップをする人だったか?)
思わず眉間に皺を寄せたジェイミーは、やんわりとオリヴァーの手を押しのけた。
「お兄様。互いに結婚した身なんですから、距離が近すぎるのはよくないと思いますわ。わたくし、あちらに座りますね」
そう言って立ち上がろうとしたジェイミーの手首を、オリヴァーがつかんだ。
「僕も、妻とうまくいってないんだ」
沈んだ声で告げたオリヴァーは、そのままジェイミーの腕を引き寄せて、彼女の腰を抱き込んだ。
「離して、お兄様」
「茶会に行ってるなんて嘘だ。あいつは今、他の男の元へ行ってるのさ。いいご身分だよな」
低い声が恨めし気に響いて、それからぎらついた目がジェイミーを見つめる。きっと、この状況でなければ、オリヴァーに対して同情をしただろう。だが、今ジェイミーの頭の中にあるのは腰を掴んでいるこの手を、どう離してもらうかということだけだ。
「なあ、ジェイミー。本当はずっとお前が好きだった」
熱を帯びたそのセリフを聞いた途端に、ジェイミーはぞっとした。胸が痛んだわけでも、ときめきを感じたわけでもない。ただ、浮かんだのは嫌悪だ。
「……離して」
先ほどと同じようにやんわりと彼の手を押して、ジェイミーは離れようとする。だが、オリヴァーは彼女を離すつもりがないらしい。焦れた感情を隠しもせず、オリヴァーはさらに見当違いな愛を囁く。
「お前もそうだったろう? 僕たちは好き同士だったんだ。家の問題で結婚はできなかったけど……僕だって結婚したし、諦めようと思った。でも、もう無理だよ。お前も、あんな男に嫁がされて悔しかったよな? もう初夜は済ませたんだろう?」
初夜という言葉に、またジェイミーの背中にぞわりと悪寒が走る。瞬間に服を脱がされクリフォードに組み敷かれたあの夜のことが脳裏によぎる。だが今彼女の腰に触れているのは、オリヴァーだ。その指先から、何か汚らしいものが浸食しているかのように感じられて、不意にジェイミーの抵抗の手が怯えで止まる。その彼女をどう思ったのだろう、オリヴァーは目元を緩ませて、顔を近づけてきた。
「……僕が、上書きをしたい」
甘ったるく告げられたその言葉は、今からジェイミーを抱きたいという意味だ。瞬時にそれを理解して、どうしようもないほどに鳥肌が立つ。なんとか穏便に済ませようと思っていた彼女の理性は振り切れ、とうとう我慢の限界を迎えた。
「いい加減にしろ!」
ぱしん、と乾いた音が響いて、掌が痛む。そのじんわりとした痛みを自覚して、ジェイミーは自分がオリヴァーの頬を叩いていたことに気づく。だがもう彼女は止まれなかった。先ほどまでやんわりと押そうとしていた腕を、乱暴に振り払ってジェイミーは立ち上がる。引っ叩かれた驚きでオリヴァーはたじろいでいるのか、先ほどと打って変わってあっけなくその腕から逃げることができた。
「私とお前が両想いだなんて勘違いも甚だしい! 私に不倫をしろとでも言うのか?」
「ジェイミー」
「触れるな、おぞましい!」
縋るように伸ばされた手を、またぱしん、と払ってジェイミーは吐き捨てる。
きっと、オリヴァーは本当にジェイミーと両想いだと思っていたのだろう。彼女の激しい拒絶の言葉に、顔を強張らせて固まっている。
「……おぞましい、なんて……ジェイミー、お前だって僕のことを好きだったじゃないか」
「家族だと思いこそすれ、異性として好意を寄せたことなど一度もない!」
「か、ぞく……?」
愕然としたオリヴァーは、ぽつりと呟いた。オリヴァーに向けた過去の笑顔は、全て家族に向けたものである。憂いの女神とも称される彼女が、オリヴァーに微笑みかけていたのだから誤解していた者もいるのかもしれない。だが、ジェイミーがオリヴァーに向けたのは、恋情ではなく単純な血縁に対する親愛だ。それを、この男はずっと勘違いしていたのだろう。その雷に撃たれたかのような表情は、これまで何度も見たことがある。友人だと思っていた男たちが、掌を返してジェイミーに好意を告げ、それを断ったときのあの顔だ。
数年を共に暮らし、気心の知れた兄として接していたオリヴァーが、見知らぬ男に見える。そこにあるのはショックでもなんでもなく、純然たる嫌悪だった。
幾分か落ち着きを取り戻したジェイミーは、ソファから数歩離れた。
「……お兄様。いいえ、オリヴァー卿。わたくしが夫とどんな仲であろうと、わたくしは不貞を犯すような女ではありません」
言った途端に、脳裏に声が蘇る。
『俺に、操を立ててくれ』
クリフォードの声は酷く切羽詰まったように思い出されて、ジェイミーはますます表情を険しくした。
(そんなの、誓うまでもない)
「……わたくしを、そんなふしだらな女だと思わないで」
ぎゅっと握った拳の指先が白くなるほどに力をこめて、ジェイミーはなんとか殴りかかりたい気持ちを抑え込む。そんな彼女の毅然とした態度に、オリヴァーは激昂するでもなく、ただ肩を落とした。
「ジェイミー……そう、か。すまない……僕の勘違いだったんだね……」
「男爵夫人とお呼びください、オリヴァー卿。……わたくしとあなたの縁も、これまでです。どうぞ、奥様とお幸せに」
そう告げて淑女の礼を取ったジェイミーは、さっと身を翻してティールームを出る。ちょうどティールムーへと向かってくるイヴォンと合流して、彼女はオリヴァーの屋敷を訪問して一刻も経たずに辞したのであった。
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