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元騎士は旧友の甘い執着に堕ちて

19.愛に惑う

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 騎士を志した前世で、母親の容姿を受け継いで美しく生まれたジェイミーは、男児ではあったものの、まるで箱入りの姫であるかのように蝶よ花よと育てられた。なかなか父には会えなかったが、寂しいと思う暇もない。なんといっても、母のためだけに建てられた真新しい屋敷の中で、多数の使用人に囲まれて遊び相手には困らないし、何不自由なく暮らす生活だったのだ。だが、そんな満ち足りた暮らしにも、徐々に影がさすようになった。

 父は嫌いではない。だがたまにしか会えない父は、ジェイミーがベッドに入ったあとに帰ってくることも珍しくなかった。その日は父が帰ってくると聞いたので、ジェイミーは辛抱強く待っていたが、やはりベッドに入る時間までに父が戻ることはなかった。運よく夜中に目が覚めたジェイミーは、父に会いにいって驚かせてやろうとベッドを一人抜け出した。そうして、談話室や食堂を探して、とうとう母の寝室までやってきたのだった。

「あなた……」

 部屋の奥から声が聞こえて、父がいるのだと思ったジェイミーは顔を輝かせた。いつ部屋に飛びこめば二人を驚かせられるかと、耳を澄ませて気配を窺う。それがよくなかった。

「んっあ、ああ……っゆる、して……もう、もう……あっああっ」

「まだまだ足りんだろう。いやらしく腰を揺らしおって」

「いやぁっあなた、あっやぁあ……っ!」

 ぎしぎしとベッドの軋む音に、聞いたことのないような上ずった母の声と、低く威圧するような父の声。

(母様が虐められている……!?)

 ジェイミーがそう勘違いしたのは、営みの声に違いない。ドアの隙間から覗いた二人は、裸で睦みあい、父はけだもののように母を見つめ、犯していた。そのときのジェイミーは激しくまぐわう二人が、ただただ恐ろしくてたまらず、その場から逃げ出してしまった。

 ジェイミーが寝ている間に帰ってくる父は、どうやら毎度そのように母を責め立てるだけ責め立てて、用が済むと再び屋敷から出て行ってしまう。そんなことをくりかえしているらしいと気づいたころには、あれが虐めなのではなく、情事なのだとメイドの噂話で知った。

 たまにしか会えなくても、優しい父が大好きだったのに、ただ母を辱めるかのように抱くために帰ってくる父のことが、それからは嫌いになった。

 そして、母でさえも。

「あの方が来ない……また新しい女ができたんだわ……」

 優しかった母は、ときどきそうして恨み言を言い、昼間から酒に溺れるようになった。たまに父が来ても悋気を起こして暴れ、だというのに組み敷かれては喘いで父に縋り、屋敷をあとにする父を恋しがっては泣いた。

「お父様はね、新しい女に夢中なのですって。わたくしよりもうんと若くて、美しい……わたくしが、わたくしが美しくなくなったから……うぅ……」

 そう言って母がジェイミーに縋って泣くようになったころには、彼も理解していた。母は父の正妻なんかではなく、愛人として囲われているだけなのだと。

「ジェイミー、ジェイミー。あなただけは私を裏切らないわよね? ねえ?」

 日に日にやつれていくのに目だけはらんらんと光っていて、母は、ジェイミーにとって母親ではなく、ただ愛に溺れた女になりさがっていた。幼いころに優しく抱き締めてくれた母の姿はそこになく、日々、ジェイミーは女を疎むようになっていき、比例してその原因を作った父に対しても嫌悪が募った。

 浮気がちで他の女にうつつを抜かしてはいても、ジェイミーという男児を産んだ母のことは無碍にはできなかったらしい。母のために建てられた屋敷はいつでも仕送りが潤沢だったが、その生活も唐突に終わることになった。

「お前ね。旦那様を誑かして、堂々と不貞の証まで作っていた女は」

 ある日突然、腹の大きい女が屋敷に乗り込んできて、事件は起きた。乗り込んだ女は、父の子を孕んだ正妻だったらしい。ジェイミーが見るその目の前で、嫉妬に狂った正妻は、母を複数の使用人に手ひどく犯させた挙句に、ナイフでめった刺しにしてむごたらしく殺したのだ。父は母を囲っていただけでなく、正妻までいたらしい。その正妻にやっと子どもができて、今まで目を瞑られていた母の存在を消すことにしたようだ。

「旦那様が子どもは傷つけるなとおっしゃるから、命だけは助けてあげる」

 怒りと嫉妬で血走った目でジェイミーを見つめる正妻は、血まみれになった顔で笑う。その姿に、心底ぞっとした。

 この屋敷の場所は、ずっと隠されていた。だというのに正妻が乗り込んできたのは、父が母を見捨てたからだ。そうして正妻という女の悪魔が訪れたその日に、ジェイミーは屋敷での生活の全てが終わったのだ。

 その後のジェイミーの処遇については、正妻に連れられて父の前に出されたところで決められることになった。

「後見人になってやることは叶わぬが、仕事につけるよう便宜を図る。……ああ、今まで気づかなんだが、お前は母によく似ているな。そうだ、働かずとも……」

 父の目に一瞬浮いたのは、母を責め立てるときに見せたあのけだもののような色だった。男が情欲の熱を灯した、おぞましい目。

「騎士になります!」

 反射的にジェイミーはそう叫んでいた。

「騎士として身を立て、あなたには迷惑はかけず、ひっそりと家庭を築きます」

 騎士になって家庭を持つ、と告げたのはただそうするのが当たり前だと思ったからかもしれないし、女狂いの父のように女を囲んだりしないという決意だったのかもしれない。あるいは高位の貴族で資産だけは潤沢にあり、ろくに戦いもしない父とは全く逆の暮らしをしたかったのかもしれない。いずれにせよ、見習い騎士になるにはずいぶんと遅くはあったが、ジェイミーは騎士を志し、恋愛とは関わらない道を選んだのであった。

 そうして父の手引きで、騎士団に入ることのできたジェイミーは、配属初日に洗礼を受けるはめになった。

「ああ、お前が新しく見習いに入る……」

 先輩騎士は、ジェイミーの身体をつま先から頭のてっぺんまで舐めるように目で検分する。その瞳は、うっすらと父の目に似ていた。

(気持ち悪い……)

 ジェイミーが嫌悪を隠すこともできずにその先輩騎士を睨み返すと、彼は機嫌を悪くするどころか、情欲の炎を目に宿す。

「なかなか可愛いじゃないか。皆に夜も可愛がってもらえる・・・・・・・・・・・だろうよ。せいぜい励めよ?」

「一刻も早く騎士となれるよう、訓練に励みます」

 慰み者になるだろうと暗に匂わされ、ジェイミーはさらに顔を顰める。そこで襲われるようなことはなかったが、不愉快なのには変わりない。

(男という生き物は、みんな下半身で生きているのか? 私は男だぞ。おぞましい。女が嫉妬に狂う魔性なら、男は下半身で生きるけだものか。どっちもどっちだ)

 とはいえ、ジェイミー自身も男の身である。歯ぎしりしながら、これから寝泊りすることになる部屋に案内され、ジェイミーはまたもげんなりすることになる。

 部屋に入ったジェイミーは、舐められまいと低い声で挨拶をした。

「これから同室として世話になる。ジェイミーだ。よろしく頼む」

 固い口調で告げたその挨拶に、同室の男は、ぽかんとしてジェイミーを見る。まだ背の伸びきっていないジェイミーに対して、すでに背の高い同室の男は、見上げるような形になってしまう。組み敷かれれば、今のジェイミーには勝てなさそうなその体格差さえ、今の彼には苛立ちの対象になった。騎士見習いのくせに柔らかそうな癖毛の前髪が長い。切れ長で二重の目元にすっきりと通った鼻筋は整っていて、やや厳めしくもあるものの、色男の風情を醸し出している。偏見でしかないが、その整った顔立ちと雰囲気に、いかにも女を転がして分別なく性を発散していそうだとジェイミーは思ってそれがさらに腹が立つ。

 ぽかんとジェイミーを見つめるその目線には、情欲の炎など灯っていないが、まぬけな顔を晒して見つめてくるのが不快だった。そろそろ何か言え、とジェイミーが文句を言おうとしたそのときである。

「可愛い顔をしてるな」

 開口一番がそれだった。瞬間にぎゅっと眉間に皺を寄せたジェイミーは拳を握って荷物を床にほおる。

「喧嘩なら買うぞ」

 さらに低い声ですごんで見せれば、あろうことか目の前の男は吹き出した。途端に、厳めしかった色男の目が細まってくしゃりと歪み、幼くも見える表情になる。

「はは、悪かった。俺はクリフォードだ。よろしく」

 喧嘩を買うと告げたにも関わらず、屈託なく笑って握手を求めたクリフォードに目を奪われる。

「ああ……」

(変なやつだ……)

 その差し出された手に、思わず手を差し出して握手を交わして、ジェイミーは苛立っていた気持ちが妙に落ち着かされたのを感じていた。

 それからの騎士見習いとしての日々は、嫌なこともあったし、不快なこともあった。身体が華奢ではなくなっても、堂々とジェイミーの身体を狙ってくる不届き者は絶えなかったし、男所帯にも関わらず、色恋沙汰に巻き込まれるのは辟易していた。

 だが、いつだってクリフォードだけは、そんなふうに辟易しているジェイミーを笑い飛ばし、情欲の目を向けずに接してくれ、元気をくれた。いっそのこと騎士ではない道を目指したほうがいいのではないかと思うこともあったが、あの生活を耐えられたのは、クリフォードがいたおかげだろう。

 だからこそというべきか、恋人の話についても、ジェイミーはこう答えたのだろう。

「いっそ恋人でも作れば、先輩がたも諦めるんじゃないか?」

「恋人か。考えたこともなかったな……」

「ジェイにはまだそういうのは早いか」

 騎士として身をたててから家庭を持つ。そんなふうにぼんやりと考えてはいたが、そもそも恋愛に前向きになれないのだ。結婚するのが当たり前だからそう考えていただけで、いつか誰かを愛したいなどと思っていたわけではない。

 そういうのは早い、と言われれば、その通りなのだ。もしかしたら一生、『早い』のかもしれない。でもそれでも構わないと思えるのはきっと、この問いかけをしたのが、親友だからだろう。

「……ああ、そうだな。まだ私には早いさ。女性といるよりもお前といるほうが楽しいんだからな、クリフォード」

(このままずっと、この関係が続けられればいい。誰も好きにならず、狂わずに……)

 騎士を志していたころのジェイミーは、生い立ちのせいで、そんなふうに思っていたのだった。


***


 クリフォードに組み敷かれたまま、凄惨な過去を思い出してジェイミーは唇を噛む。顔を覆った手の内では、勝手に涙がこぼれた。

(女なんかになったら、狂ってしまう)

 つまりジェイミーが今の身体を受け入れられないのは、前世の両親たちのせいだ。世の中の男女が全て、女狂いの下半身で生きる男でも、嫉妬に狂って精神を病み、子の目の前で親を辱め殺すような女ではない。ジェイミー・レノンの両親のように、互いを慈しみ穏やかに愛しあい、尊重しあっている夫婦だって多い。むしろ前世の父のように不誠実にあちこちで女を作ることや、嫉妬の末に殺人まで犯すような女のほうが珍しいのだろう。

 それを頭ではわかっていても、ジェイミーはついぞトラウマを克服できず、今の今まで女である自身の身体を受け入れられなかったのだ。

「私は、女になんかならないし……お前に好きだなんて、絶対に言わない」

 言いながら堪えきれない嗚咽がこぼれて、ジェイミーはそれ以上の言葉が続かない。

「ジェイ……お前、もう俺に告白してるようなもんだぞ、それは」

 呆れたような、それでいて困ったようなクリフォードの言葉を、ジェイミーはすぐにでも否定したかった。けれど、涙が溢れて止まらない。

「……お前が、何を怖がってるのか知らないが、好きなら両想いでいいんじゃないのか?」

 大きな手が、ジェイミーの頭を柔らかに撫でる。先ほどまで情欲をかきたてるように触れていたクリフォードの手が、今はまるで幼子をあやすかのようだ。

「でも……でも、わたしは、女になん、か……」

 嗚咽混じりにようやく言えたのがこれだ。だが、クリフォードはなおも頭を撫で続ける。

「勘違いするな。俺はお前が女だから好きなわけじゃないし、お前の身体が女だから抱きたいと思ってるわけじゃない」

「いやだ」

「初めて会ったときからずっと、お前に惚れてた。お前が色恋沙汰をいやがってたからずっと言えなかっただけだ。男も女も関係ない。お前だけが好きなんだ」

「そんなの、うそだ」

「嘘なものか」

 否定してばかりいるジェイミーを、クリフォードは、ふ、と小さく息を漏らして笑んで見つめる。

「ジェイミーは、ジェイミーだ」

 クリフォードの穏やかな声に、顔を覆ったままのジェイミーがぴくんと震える。それは、クリフォードに生まれ変わりを告白したあの夜に言われたのと同じ言葉だった。

 身体が変わっても、クリフォードの好きなジェイミーは、ジェイミーただ一人だ。

 あのとき気づけなかった言葉を補われて、彼女は震えた。こんなにもジェイミーはクリフォードに想われている。なのに、ジェイミーは首を振った。

「……だめ、だ……」

「何がだ?」

「クリフォードを……好きになった、ら……嫉妬してしまう……」

 女になれば、そしてクリフォードを好きになれば、あの恐ろしい正妻のように、酒に溺れて怨嗟を吐いた母のように醜く嫉妬するに違いない。そして浮気をされる。クリフォードは現に、ジェイミーを好きだと言いながら他の女を抱いたことがあるのではないか。それはもちろん、ジェイミーが死んだあとの話なのだろうし、十年以上もの間、健全な男に何もなかったとしたら、そちらのほうがおかしい。だというのに、ジェイミーは胸が痛んで涙が止まらない。

(……もう、私は嫉妬してる)

 それはつまり、ジェイミーがあの恐ろしい正妻の姿になる日もありえるということだ。

「困ったやつだな、ジェイミー」

 頭をずっと撫でていたクリフォードの手が、やんわりとジェイミーの手に触れて顔からどかす。涙で滲んだジェイミーの視界に映ったクリフォードは、苦笑していた。

「お前は、親友じゃなきゃ、いやなんだ……」

「好き合ったら親友をやめないといけないなんて決まりはないだろう」

「違う! だって、し、親友は嫉妬しない!」

 言下に叫んで、ジェイミーは胸の内を叫ぶ。

 前世で先輩騎士に組み敷かれるのがいやだったのは、単純に女のように扱われるのが不愉快だったからではない。誰かと恋愛関係になって、自分が浮気をしたり、浮気されたり、嫉妬をしたりするような存在になりたくなかったのだ。

「クリフォードだけは……だめだ。お前だけは、ずっと一緒にいてくれなきゃ……」

「ジェイ」

「……だって、好きなんだ」

 泣きじゃくるジェイミーを撫でようとしたクリフォードの手が止まった。そして口走った本人であるジェイミーでさえも自身の言葉に愕然とする。衝動的に想いを口にして、気づきたくもなかった自身の本音を思い知らされたジェイミーの目に、新しい涙がこみあげた。

「クリフォードが、好きなんだ」

(そうだ。だから……)

 うわごとのようにくりかえして、ジェイミーは自身の想いを噛みしめる。

「ふ……ぅっお前とだけは、こんな関係になりたくなかった……お前と結ばれたら、私は醜く嫉妬して、おぞましい女になってしまう……!」

 それはきっと、ずっと昔からしまい込んでいた想いだった。

 見苦しい嫉妬をする女になりたくなかった。クリフォードが好きだからこそ、結ばれてしまえば嫉妬にかられた人間になるのはわかりきっていた。だからこそ彼のことは親友だと言い聞かせて、ジェイミーは自身の気持ちに気づかないふりをしていただけだ。クリフォードに触れられるのだけが気持ち悪くないだなんて、当たり前の話だろう。蓋で覆い隠した気持ちが抑えきれなくなることがわかっていたからこそ、クリフォードにだけは抱かれたくなかった。

(なのに。なのに、抱かれるかもしれないとわかってて、ここにきた。なんて、浅ましい……)

 自身の愚かさが情けなくて、激情の粒がこぼれて止まらない。気持ちを受け入れられないのに、クリフォードと上辺の付き合いをすることさえも拒んだのは、結局ジェイミーがすでに自身の本音に引きずられていたせいだろう。

「ジェイ。……ジェイミー」

 その涙を、クリフォードの指先が拭って、頬に添えられた。

「嫉妬なんて、誰だってするもんだ。俺だってする」

「……クリフォードが?」

「初夜に抱いたのは、嫉妬だ。従兄にお前をとられたくなくて。……ばからしいだろう。でももういい。お前が、俺の腕の中にいるから」

 笑った顔が、近づいてくる。唇が触れそうになったのを、ジェイミーはとっさに「だめだ」と顔を逸らした。だが、クリフォードは構わないとばかりに頬に口づけをくりかえして、ゆっくりと彼女の顔を戻し、最後に唇を軽く重ねる。

「どうせ俺はお前しか見てない。だがそれでもお前が苦しいのなら、いくらでも嫉妬すればいい。そうしたらジェイが心配にならねえように、俺はお前を抱き締めるだけだ。それじゃだめか?」

「でも……」

 なおも頷かないジェイミーに、クリフォードはふっと笑う。それは獲物を狙う猛禽類の獰猛な笑みだ。

「俺だってお前が好きなんだ。ジェイが俺を好きなら、いやだって言ったって、もう手放してやらねえよ」

 言うや否や再び唇が重なり、クリフォードの舌が差し込まれる。

「んん……ふっ」

 身体でわからせてやると言わんばかりの彼に、ジェイミーは泣き笑いを零す。そうして、ジェイミーは自身の腕を、クリフォードの首に回したのだった。
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