うちの神様はうまく泣けない ~金平糖とかささぎの夏~

有沢楓花

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第2話 契約社員は崖っぷち

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 今年の梅雨は名前ばかりで、土に香る雨を嗅ぐ暇もなかった。アスファルトにできた久々のまだら模様も、夏に追い立てられるように消えていく。

 関東地方の梅雨明けが気象庁に宣言された、七月下旬。
 地面と同化しかけた茶色い紫陽花の萼を避けながら、踵の減ったスニーカーの爪先で、稲葉のどかは長い坂道を下りていく。

 申し訳ばかりに色は黒の靴とお揃いの、清涼素材の黒いカーディガンと安物のワンピース。それにミディアムロングの黒髪と、薄化粧。
 二十代半ば過ぎにはやや地味な黒ずくめのオフィスカジュアルは、焼けたアスファルトと、傾いてなおじりじりと照り付ける日差しに挟まれて熱を持っている。

 昨晩、都心のコンクリートは夜中に熱を放出しきれないんです、と、ニュースキャスターが空調と照明の効いたスタジオから語り掛けていたことを思い出す。
 汗で額に貼り付く髪を追いやり、素の爪先に触る溶けかけたファンデーションにため息をつく。 
 会社に忘れた日傘を取りに戻るべきだったか。
 そんなことをくたびれた頭で考えて、できない理由――遅くまで残っているだろう編集長のにやけ顔を思い出せば目頭に力が入る。 

「なにが『死人に口なし』よ。ものには限度があるっていうの」

 和の仕事は、編集兼ライターだ。
 大学の日本文学科を卒業後、希望の郷土史関連の仕事に就いたものの地方公務員の任期付職員の雇用期限は三年で、任期延長も再任用もなかった。
 転職活動の末、旅行や民俗学、オカルト関係の出版物を扱う小さな会社の契約社員になったのは去年のこと。部署の編集長は正社員登用試験を勧めてくれて、いずれ受けるつもりでいた。この前初めて公式サイトに載せる企画――「小さな神社巡り」が通り、任せてもらえた矢先に、彼が異動してしまうまでは。

 残念ながら新しい編集長は、性格もPVを稼ぐための手法も前任とまるで別だった。

「旅行コンテンツに『神社の事故は神の祟り』だとか、誰が喜ぶと思ってるんだろ。全方向に失礼だし地元民にも迷惑……」

 先月だか、神社の立ち入り禁止区域に勝手に入った男性が、足を滑らせ池に落ち、怪我をしたらしい。この偶然だろう事故を、悪い方に膨らませて注目を集めろ、というのだ。

 和は今まで噂や都市伝説を集めても、でっち上げは勿論、神様や怨霊の祟りだ、なんて嘘を書いたことはない。取材の結果を淡々とした文章で記すのにも気を遣うのは、扇情的なデマが引き起こすいじめなどの悪影響が馬鹿にできないからだ。

 実際、都市伝説『口裂け女』は一九七九年中部地方から端を発したが、目撃情報と繰り返される報道という、メディアをハブとした再生産があったと研究されている。
 「口避け女を見た」とテレビカメラの前で初めて証言した人物が、本気だったのかハナから虚偽のつもりだったかは定かではない。
 けれど日夜センセーショナルに放映される「証言」や「現場」が、ぼやけた「証拠写真」が――「自分が見たあれもそうだったのかも」と語る第二第三のテレビの証言者を、クラスで語る友人を、彼ら彼女らを信じる者たちを増やし続けたのだ。
 だからこそ瞬く間に社会現象になり、全国の小学生にパニックを引き起こした――集団下校が行われたり、パトカーまで出動した地域もあるという。

 それに和は知っている。たいていの人でないものは、人間相手に言葉で抗議できない。インターネットへの書き込みも、だ。そこで流布される説話には、今やネットロアという名前が付いている。

 その、今まさに動くという点で死者より厄介な生者である、二十歳年上の男性上司の口が、一時間前に誘ってきた。
「『小さな神社巡り』なんて真面目な企画じゃさ、今時見向きもされないでしょ。『本当は怖い近所の神社』なんてどう? 飲みながら話し合おうよ」
 話し合いという名の説得。それも就業後に二人きり、飲酒あり――となればろくなものじゃない。上司の視線を考えれば、買ったばかりの、着やせして見えると評判の黒いカーディガンは無駄な出費になったらしい。

「どっちの異動も、そうそう通るわけないしなあ」

 告発なんて実質不可能だ。万が一叶ったとして、居心地が最悪になるのが目に見えている。今だって寝付きが悪く、その日のうちに眠れたのがいつだったか思い出せない。

「……次の仕事、探した方がいいかな」

 預金残高と手間と時間。それから履歴書の汚点になってしまう文字列を思えば気が重い。「なぜこの会社を辞めたんですか」。一見ベストな選択肢を続けない人間に、面接官はそんなに優しくない。そして次の会社が今よりマシなんて保証もどこにもない。

「上手くかわして、そのために記事だけは従順に――嘘、つくしかないのかな」

 でも、これも不向きだ。今日も昼食抜きで書き上げた妥協の産物にダメ出しを受けたばかり。通れば通ったで記事には署名が残り、転職活動で不利そうだ。もし参考文献一覧に載る時が来るなら『デマの発生と流布』の研究対象としてだろう。

 和は茹だる思考を冷まそうと、握ったままのペットボトルの水を喉に流し込んだ。
 ぷは、と小さな息を吐くと、ポケットから出した古びた紙片に目を落とす。
 そこには藍色のインクで書かれた、駅からのごく簡単な道順と店名。
 ――「喫茶 夜見」。
 面倒見の良い祖母が他界する前に、病床で渡してくれたメモだ。

「この辺りのはずだけど。お祖母ちゃんの言ってたお店」

 ぐるりと見回せばいつの間にか薄暗く、遠く沈みかけた太陽の赤が混ざった地上との境界は絵の具のパレットのよう。
 その下で夕暮れに沈んでいく、東京のアップダウンが激しい下町。段々畑のような法面に密集した住宅と植栽。通りに面するのは写真映えを意識し始めたかき氷屋や、地元密着の個人商店の惣菜屋。
 昔ながらの面影を残した情緒のある下町風情だが、勿論、祖母の訪問から年月が経って移転や廃業している可能性は考えた。

 それなのにネットで検索もせず直接足を運んだのは、お守りのように財布に入れっぱなしになっていたメモが、ひょっこりカード入れの間から顔を出したから。
 そして、祖母の言葉をふと思い出したからだ。

「誰にも相談できないことがあったら、この店に行ってごらん」

 昼間の件もあり、今日の和は狭いアパートに帰って料理する気にも、カップ麺をすする気にもなれなかった。
 いや、そもそも最近はずっと料理も食事も億劫だった。胃もたれするし、何度も野菜をしなびさせた自分にうんざりして、冷蔵庫の中身は日持ちのする食材ばかりになっていた。

 ――体に優しくて、のどごしの良い、野菜たっぷりの料理……冷たいスープとか、うどんがあるといいな。

 ふと、坂道に不自然な切れ目をつくる路地が目に留まる。
 両脇の木々が枝を差しかけて作るアーチの、切り絵のようなシルエット。その奥に、頭上から迫る夜と同じ藍色のインクを垂らして固めたような瓦屋根の木造建築が見えた。淡い黄色を帯びた灯が、夜に飲み込まれるまでの時間稼ぎをしている。

「青い屋根の、蕎麦屋みたいなお店……」

 聞いていた外観と重なり、ここだと直感した和は路地に足を踏み入れて――とたんに、道路を走る車の音や人の声が遠くなった。代わりに前方から小さな川の流れが聞こえてくる。アスファルトはいつの間にか飛び石と土に変わっていた。

 どこか森に迷い込んでしまったような気分で足を進めれば、暖簾と格子戸に刻まれた光が終点の敷石を淡く照らし、営業中であることを示していた。
 脇の壁付けのレトロなランプが照らす藍色の看板には、白抜きで「和カフェ 夜見」。喫茶店から転向したのか――まだちゃんと、店は存在していた。
 視線を下ろせば、イーゼルのような黒板に、次の文面が端正なチョークで綴られている。

 営業時間:18:00~23:00
 日替わり定食:大葉タルタルの唐揚げ、または鮭と野菜のホイル焼き
 本日のデザート:抹茶のテリーヌ、または和紅茶のアフォガード、ほうじ茶ゼリー

 値段はどれも普段使いに丁度良い。
 それから最後に、丸みを帯びた字で「一見いちげんさん歓迎、二見にげんさん大歓迎」と付け足されていた。
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