3 / 10
第3話 和カフェ「夜見」と祖母の残り香
しおりを挟む「二見さん?」
一瞬意味を取りあぐねたが、リピーター歓迎という意味だろうと納得して引き戸を開けた。
流れ出す程よい冷気の中に足を踏み入れれば、灰色の石が敷かれた土間の右手にレジ台があり、左手によく手入れされた飴色のカウンターと椅子が幾つか、手前の壁際にテーブルの二人席が二セット用意されている。
十人も入れば満員になってしまうが、カウンター脇の上がり框から奥の座敷に続いているようだ。
額縁のような窓枠には赤紫の紫陽花が古びた花瓶に咲き、隣の一輪挿しには、熊笹の枝が一本。
落ち着いた内装の中に、どこか神社と同じ清廉な空気が香る。
そしてそれは主に、カウンターに立つ藍の着物に襷姿の男性から漂っていた。
年齢は判然としない。二十代前半か、それとも三十過ぎにも見える。年齢不詳の原因のひとつは、毛穴もなさそうな滑らかで白い肌をしていたからだろう。
さらさらの黒髪が耳の上で切り揃られ、柳眉と長い睫毛、鼻梁が控えめに美しく配置されていた。右目の下に泣きぼくろがひとつ。
ちょうど、染付の焼き物のような佇まいだ。
彼は器を拭いていた手を止めると、その黒くどこか藍色を重ねたような瞳を客である和に向けて静かに微笑んだ。
「いらっしゃいませ、お一人様ですね。お好きな席へどうぞ」
耳に心地良い、涼やかで落ち着いた声の案内――それが、一つめの小さな違和感。
ですか、ではなく、ですね。
断定に引っかかるものを感じつつ窓辺の席に向かえば、上がり框の奥からパタパタと軽い足音がした。かと思うと、高校生くらいの可愛らしい女の子が顔を出した。
「いらっしゃいませー! って、あ、聡子ちゃん!?」
――一つめよりずっと大きい、二つめの違和感。
和の顔を見て丸い目を見開いた彼女は、臙脂色の矢絣の着物と袴の上からフリフリのエプロン、という大正時代のカフェーの女給を思わせる姿をしていた。
そのまま低い位置で結んだポニーテールと、エプロンの紐が泳ぐように旋回して、彼女は青年と、框の奥に溌剌とした声を掛ける。
「ねえねえ、早瀬さん、澄くん! 聡子ちゃんだよ」
「ちょっと声が大きいよ。あのね茜ちゃん、今は令和で――」
少女を追うように薄茶の髪ふわりと揺らして現れた少年は、薄青と襷の着物姿。こちらも優しげな声に甘い顔立ちの美少年だ。
彼は声を低めて控えめに和を一瞥すると、意外なものを見るように一瞬、色素の薄い目を瞬いた。それから少女の手にある木のトレイとメニュー表に視線を移す。
彼の様子が、二つめの違和感を強化する。
「――人違いだよ。まずはお客様をご案内しよう?」
「そ、そうだった。……済みませんお客様、お席へどうぞ!」
和が窓際の席に腰を下ろすと、ぺこりとお辞儀をした彼女は慣れた様子で、丁寧にメニュー表と、水の入ったグラスをことりと置いた。
にこにこと待っている彼女に、和は注文の前にと、口を開く。
「あの……」
「はいっ」
「聡子は、……稲葉聡子のことでしたら、私の祖母です。実はここも祖母の紹介で来ました」
「お孫さん! お話には聞いてました。見間違えてごめんなさい……聡子ちゃんはお元気ですか?」
茜という少女は人懐こい笑みを浮かべた。
祖母と和の年齢差で人違いするだろうか。笑顔にむしろ募る違和感に、和は若い頃の写真を見たのかもと正常化バイアスをあえて働かせ、遠回しに尋ねた。
「祖母はこちらの常連か、年の離れたお友達だったんでしょうか」
そして決定的な、違和感。
カウンターの奥の早瀬と呼ばれた青年が応えて、静かに口にした言葉。
「店主の早瀬です。お祖母様のこと、心よりお悔やみ申し上げます」
***
「初めまして。稲葉聡子の孫、稲葉和です」
和は席に座ったまま、軽く頭を下げた。
顔を上げれば目尻に涙を浮かべる茜、気まずそうにしている澄。そして落ち着き払っている早瀬が目に入る。
どうやら早瀬は何かしら知っているようだが、いかにも純粋そうな茜には話していなかったらしい。
「祖母はこの店と親しかったのでしょうか」
祖母は他界する前、長く病床にいた。几帳面にまとめられた連絡先は和も一通り確認したが、この店の名はなかった。自分がもらったあのメモにだけだ。
「失礼ですが、お祖母様からは、どこまでお聞きになっていますか?」
「それは……何かあったら行くように、というくらいで」
「そうですか……」
一瞬考えるような顔をしてから、彼は続けた。
「では、メニューの最後をご覧ください」
和は答えない早瀬に更に疑問を深めつつ、促されるまま墨黒の表紙を開いた。
内側には日替わりメニューやお茶、デザートが並んでいる。
いわゆる食事は日替わり定食のみ。肉か魚のメインの料理に味噌汁か豚汁が付き、日替わりのデリの中から三品を選ぶ方式だ。今日はほうれん草のごま和え、きんぴらごぼう、だし巻き卵、ごま豆腐、エビマヨ、肉団子の甘酢あん。
添えられた写真はどれも美味しそうで不審な点はない。
デザートのページを過ぎ、煎茶やほうじ茶、和紅茶といった飲み物のストレートティーと、黒糖ラテなどのアレンジメニューをめくると、最後に現れたのは奇妙な文章だった。
――次回ご来店時、思い出のレシピをお作りいたします。
次回という奇妙な言葉。しかもリピーターを増やすにしては手間がかかりすぎるのではないか。
ふつう思い出のメニューと言えば、老舗店の定番・名物料理か、以前来たときに何か記念すべきことがあったか、だ。
この文面では「二見さん」にその実家の肉じゃがでも提供するように読める。
和が訝しんで顔を上げれば、早瀬と自然に視線が合った。じっと見られても上司と違って不快感がないのは、佇まいが静かすぎるからだろうか。
空気や水のようだなと、和は思った。
「お祖母様が初めて来店されたのは、学生さんの時でした」
何十年前のことだろうか、まるで見てきたように早瀬は語る。
「それからも度々いらっしゃって、入院前にはお電話をいただきました」
「それは、数年前のことですよね……?」
「ええ。いつか同じように孫が来るだろうから、その時には料理を作ってあげて欲しいと」
和の中の違和感はこれで三、いや四つになった。
注文の多い料理店ならぬ、疑問が多いカフェ。いつもなら席を立っただろうが、彼らの穏やかな声や態度から下心は感じられない。
祖母が勧めた店だ、きっと理由がある――いやこれは言い訳で、単に疲労と空腹のせいかもしれない。
それから祖母の秘密を知っている店への、好奇心が勝った。
「では、こちらをお願いします」
素直に頷けば、茜は顔をぱっと明るくして席を離れる。
早瀬が手を洗う水飛沫の音が耳を濯ぎ、静かな室内に響く包丁と木のまな板がぶつかるトントンというリズム、ことことと鍋の煮える音に、和の肩から次第に力が抜けていく。
無防備に音に身を任せていると、やがてことり、と目の前で音がした。
「お待たせいたしました、豆乳のお粥・あり合わせ風です」
茜の声にいつしか閉じかけていた瞼を開く。
やや小さめのどんぶりの中で湯気を立てているのは、軟らかく煮た白い粥だ。野菜やシメジの浮かぶ中心にこんもりとしらすが盛られ、小葱の緑が彩りを添えている。
添えられたスプーンでひと匙掬えば、乳白色に崩れる米の中に押し麦が姿を現した。
ひと口、運ぶ。
「……同じ味……」
暖かい米粒がほろりと口の中でほどけ、滋味深い味が広がる。
柔らかい中にシメジの歯ごたえ。しらすの塩気と小葱の香りがアクセントになっていた。
驚いたのは何より「同じ」だったことだ。味だけでなく薄く切った大根も、シメジのちょっと荒い房のちぎり方も。豆乳のまろやかさと鰹出汁の奥にある、知らない隠し味も。
あり合わせなのは、親と喧嘩をして避難した時に、祖母が冷蔵庫の残り物で作ってくれたからだ。成長につれ食べる機会も減って、思い出す機会も用事に紛れてしまって、遂にレシピを聞くことはなかった。
祖母の声が、眼差しが、古い畳の匂いが、おやつにくれた金平糖の瓶が。テレビから聞こえるニュースが塊となって、ぶわりと脳裏に蘇る。
一人の心細さも、否定された悔しさも、嘘をつかずに話せた安心感も。
和は幼い頃、神社や郊外の茂みの合間に、小さな人間のような存在を何度か見かけたことがあった。ちょうど童話で小人の話を読んだばかりだったので、実在したのだと、母親や友達に大喜びで話して回った。
今から考えれば当然のことだが、友達には嘘つきだと囃し立てられ、母親には二度と話すな、ときつく戒められた。
和は家出を決行して祖母に泣きついた。祖母が時折、庭で彼女の言う「小さなひと」に声をかける姿と優しい眼差しを覚えていたから。
――お母さんがね、目に見えないものの話なんてするなって言うの。友達がいなくなっちゃうよって。お祖母ちゃんには見えるんでしょう? お祖母ちゃんは嘘つきじゃないよね?
――あの子は和が意地悪されるんじゃないかって、心配なだけなのよ。
あれから和は、祖母以外には小さなひとの話はやめた。成長するにつれ見かけることもなくなった。けれど今でも何となく、彼らや人でないものの気配を感じることがある。
だから、取材先の神社を。供えられた果物の近くに漂う小さな善良そうな気配たちを、祟りや怨霊だと書きたくなかった。
ひと匙、もうひと匙。懐かしさを味わうように口に運べば温かさが染みていく。
半分以上食べたところで手を止め顔を上げると、カウンターの中の早瀬と目が合う。変わらず静かな眼差しだ。
「聡子さんは時々庭や窓際で絵本を描かれたり、娘さんをお連れになってお団子を召し上がったりしていました」
「……母も」
彼は手を拭うと波紋模様が入ったガラス戸棚から一冊のファイルと、絵本を取り出した。
ファイルはレシピ帳のようだが、絵本の柔らかい水彩画の表紙は知っている。絵本作家だった祖母が人里で暮らす「小さなひとたち」を描いたシリーズの一作目だ。もしおどろおどろしく書かれていたなら、和は外出を怯えるようになっていただろう。
「祖母は保育園や学校帰りに迎えに来てくれて、昔話や絵本の話を良くしてくれたんです」
自身にも思いがけず、しまっていた思い出はするりと言葉になった。和も祖母のように、見えないものがあることを残すために、現在と未来にいる誰かと話すために保存し、書く道を選んだ――日頃のあれこれに、忘れそうになっていた。
「絵本の中に川が描かれているでしょう?」
「ええ。あの世に続く坂と川の途中、林に囲まれた廃屋。小さな神々が暮らしているそこには、時々生きている者が訪れ――」
まさか。ページを繰れば、先ほど目にしたばかりの、藍色屋根の日本家屋が描かれている。まるで蕎麦屋のような。
和は言葉を切って、早瀬を見上げる。変わらぬ微笑の藍色の瞳が深い水底のように、一瞬見えた。
「そうです。この店は、現世と常世の境にあります。そして常世に紛れ込もうとする人々に、『死者のレシピ』をお渡しする場所です」
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
「貧相な小娘」と罵った第一王子へ。番(つがい)は貴方ではなく、国王陛下(お父様)でした
しえろ あい
恋愛
「お父様、わたくし、あの方と目が合った瞬間、分かってしまったのです」
十六歳のデビュタントの夜、ルーセント侯爵令嬢フェリシアを待っていたのは、残酷な罵倒だった。第一王子カシウスは、可憐な白いドレスを纏った彼女を「貧相な小娘」と呼び、己の番(つがい)であることを真っ向から否定する。
会場に響く冷笑と、愛用の刺繍に込めた自信さえ打ち砕くような屈辱。しかし、絶望の淵に立たされた彼女を見つめていたのは、王子ではなく、圧倒的な威厳を放つ「ある男」だった。
魂を焦がすような熱い視線が重なり、静まり返る謁見の間。この出会いが、王室を揺るがす大事件の幕開けになるとは、まだ誰も知らない。自身の価値を否定された少女が、真実の愛によって世界で最も幸福な王妃へと駆け上がる、逆転溺愛ストーリー。
※小説家になろう様にも投稿しています※
「地味な婚約者を捨てて令嬢と結婚します」と言った騎士様が、3ヶ月で離婚されて路頭に迷っている
歩人
ファンタジー
薬師のナターリアは婚約者の騎士ルドガーに「地味なお前より伯爵令嬢が
ふさわしい」と捨てられた。泣きはしなかった。ただ、明日から届ける薬が
一人分減るな、と思っただけ。
ルドガーは華やかな伯爵令嬢イレーネと結婚し、騎士団で出世する——はずだった。
しかしイレーネの実家は見栄だけの火の車。持参金は消え、借金取りが押し寄せ、
イレーネ本人にも「稼ぎが少ない」と三行半を突きつけられた。
3ヶ月で全てを失ったルドガーが街角で見たのは、王宮薬師に抜擢された
ナターリアが、騎士団長と笑い合う姿だった。
「なあ、ナターリア……俺が間違っていた」
「ええ、知ってます。でも、もう関係のない話ですね」
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
異世界に転移してしまった私、古民家をもらったのでカフェを始めたら大盛況。国王陛下が頻繁に来るのですが、どうしたらいいですか?
来栖とむ
ファンタジー
ブラック企業で疲れ果てた30歳の元OL・美里(みさと)が転移した先は、見渡す限りの深い森。
そこで彼女が授かったのは、魔女の称号……ではなく、一軒の**「日本の古民家」**だった!
亡き祖母が遺したその屋敷には、異世界では失われたはずの「お醤油」「お味噌」「白いお砂糖」という禁断の調味料が眠っていて――。
「えっ、唐揚げにそんなに感動しちゃうの?」
「プリン一口で、国王陛下が泣いちゃった……!?」
おにぎり、オムライス、そして肉汁溢れるハンバーグ。
現代日本の「当たり前」が、この世界では常識を覆す究極の美食に。
お掃除のプロな親子や、お忍びの王様、さらにはツンデレな宮廷料理人まで巻き込んで、
美味しい香りに包まれた、心もお腹も満たされるスローライフが今、始まります!
主婦が役立たず? どう思うかは勝手だけど、こっちも勝手にやらせて貰うから
渡里あずま
ファンタジー
安藤舞は、専業主婦である。ちなみに現在、三十二歳だ。
朝、夫と幼稚園児の子供を見送り、さて掃除と洗濯をしようとしたところで――気づけば、石造りの知らない部屋で座り込んでいた。そして映画で見たような古めかしいコスプレをした、外国人集団に囲まれていた。
「我々が召喚したかったのは、そちらの世界での『学者』や『医者』だ。それを『主婦』だと!? そんなごく潰しが、聖女になどなれるものか! 役立たずなどいらんっ」
「いや、理不尽!」
初対面の見た目だけ美青年に暴言を吐かれ、舞はそのまま無一文で追い出されてしまう。腹を立てながらも、舞は何としても元の世界に戻ることを決意する。
「主婦が役立たず? どう思うかは勝手だけど、こっちも勝手にやらせて貰うから」
※※※
専業主婦の舞が、主婦力・大人力を駆使して元の世界に戻ろうとする話です(ざまぁあり)
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる