3 / 5
第一章 常に還り続ける
1.1 家族
しおりを挟む
街のシルエットが、電車の車窓に映るケシの疲れた姿を通り過ぎていく。
1年5ヶ月。
永遠。
自分を行方不明者として届け出た人はいるだろうか?自分の顔写真が載った張り紙がどこかに存在しているのだろうか?
だが、「行方不明者」という言葉はしっくりとこなかった。
それは「家出少年」という言葉も同じだった。
自分が何者であっても、それはあくまで一時的な状態に過ぎない、とケシは思った。ルナを見つけるまで、あと少しの間だけ耐えなけばならないものだと。
そしたら、もとの自分に戻ることができる。
ケシはもう一度、ルナにつながる可能性のある場所を頭の中で挙げていった。ルナやルナの父親……または母親のことを知っている人がいる場所を。
ルナの家族の過去はすべて知っていたし、頭の中で詳細に整理されていた。両親の出身校、二人が初めて出会った場所、紹介してくれた人、父親が教鞭を執った学校、育った地域。ルナの家族のことは自分自身の家族よりもよく知っていた。そして、田舎へ引っ越した13年間を除けば、それらは全てここ、東京で起きたことだった。
それに、東京はルナの父が確かにいたことが分かってる最後の場所だ。
ケシはガラス越しに流れゆく外を見つめた。
手がかりがあるとしたら、あのぼやけた流れのどこかにあるはずだ。
そう、消えたのはルナだけではなく、待宵一家全員だった。
ある日突然、いなくなった。置き手紙も、電話も、葉書も、メールも、何もなく、ただ……
煙のように。
「この電車は、山手線内回り、目黒行きです。次は、恵比寿、恵比寿。お出口は右側です。湘南新宿ラインはお乗り換えです」
様々な噂が飛び交った。夫が不倫をしていた。妻が誰にも告げずに娘を連れて母国へ帰った。借金に追われ、誰かの助けを借りて夜逃げした……。
──ばかげている。
……だからといって、ケシに見当がつくわけでもなかった。ケシも他の人と同様、不意打ちをくらった。むしろ、ケシだけは彼らが突然消えるような人たちではないと知っていたからこそ、その衝撃は大きかった。
ケシが生まれた時からずっと隣人だった待宵一家は、家族同然の存在だった。ルナの母ソフィーは子供の頃からケシの世話をしてくれた。ケシのおむつを替えたり、アルファベットを教えたり、お弁当を作ったり、ケシの母親が人手不足の時は老人ホームの手伝いまでしてくれることもあった。
子供の頃、ルナの父親のダイスケはよくケシとルナを旅行に連れて行ってくれた。その後、ケシだけを連れて出かけることも度々あった。魚の釣り方やバッタの捕まえ方、回路基板にワイヤーをはんだ付けする方法、自転車のブレーキの交換方法。ビーチ・ボーイズのことだって、ケシは全てダイスケのおかげで知っていた。
彼らを失うだけでも辛かったのに、ルナまで……。
ルナはケシにとって親友以上の存在だった。自分の精神的な双子。そして——
突然、喉に熱いものが込み上げてきた。
……いなくなると知っていたら、ルナは教えてくれたはずだ。絶対に。
警察にもそう伝えたが、全く相手にされず、ケシは彼らが田舎の手抜き捜査を進めるのをただ傍観するしかなかった。最終的に犯罪の可能性が否定されると、バリケードとテープは撤去され、待宵の家は空っぽのままそこに残された。
事態が落ち着いたある夜、ケシは合い鍵を使ってこっそり家の中に入った。そこで見た光景は一生忘れられないだろう。 待宵家の持ちものが、根こそぎ漁られゴミのように床に散らばっていたのだ。その家は以前にも増して犯罪現場のように見えた。
吐き気がした。まるでケシ自身も何らかの形で侵害されたかのように。
その次の週、ケシは夜中にこっそり抜け出して警官たちの後片付けをし、一家の持ちものを全て元の場所に戻した。同時に、警察が見落としたかもしれない手がかりを探し続けた。
それも人に見つかって終わった。母親は激怒し、激しい言い争いに発展した。母親がケシの合鍵を取り上げ、ケシは家を飛び出した。公園で眠れない一夜を過ごし、翌朝、ケシが家に戻ると、意外にも母親は怒鳴らず、何事もなかったかのように振る舞った。そんな態度は母親らしくなかった。
後になって、ケシは後悔した。
母親も友人を失ったのだ。
それ以来、ケシは隣の家には行かなくなった。夜、布団に入ると、家をこっそり抜け出して夜行バスに乗る空想をした。学校への道の途中で左のところを右へ曲がり、電車に乗ることも。誰もやろうとしないことを成し遂げるために。
そう、彼らを見つけること。
たが、母親を一人にするわけにもいかなかった。
そこで、その後3年間かけて計画を練った。ルナとその家族について、思い出せる限りの詳細を書き留めた。後々手がかりになるかもしれないあらゆる事柄、例えば車の中でルナの父親が語った話、母親が二人の初デートについて言った冗談、写真や家の中のものを見て思い出した場所。それが彼のバカげたリストの始まりだった。
ケシは視線を足元に落とした。
東京は想像していたよりはるかに大きかった。
そして、長い時間をかけて……ついに辿り着いた先に……何も見つからなかった。
ルナの父親が教鞭を取った記録も。
大学でルナの母親の授業を担当した人も。
狛江では、待宵家や彼らの小さな電気店のことを聞いたことがある人は誰もいなかった。
狛江はそれほど広い地域ではない。聞いて回った人たちの中で、一家を知っている者が一人もいないなんてありえるのだろうか? 自分は詳細を間違って覚えていたのだろうか?そんな思いが頭の中を巡った。
確かに、ケシの記憶は年々頼りにならなくなってきた。出来事がぼんやりと霞み、順序が入れ替わり、名前と顔がごちゃ混ぜになる。 かつて確信していたことも、流動的な可能性の羅列に過ぎなくなっていた。
しかしルナが消えたあの日は、心の風景の中で、確固たる、実体のある、永久に存在する物体として存在し続けていた。それは、人生で最も苦痛に満ちた時期の始まりを刻んだ、一枚岩のような存在だった。
まだ深みにはまったままの、終わりの見えない長い夜。
「次は、目黒、目黒。終点です。お出口は右側です。東急目黒線はお乗り換えです。平域 D-4 検問所へお越しの方はこちらでお降りください」
だが、これはケシに限ったことではなかった。ルナがいなくなった後、全世界が地獄に変わった。
1年5ヶ月。
永遠。
自分を行方不明者として届け出た人はいるだろうか?自分の顔写真が載った張り紙がどこかに存在しているのだろうか?
だが、「行方不明者」という言葉はしっくりとこなかった。
それは「家出少年」という言葉も同じだった。
自分が何者であっても、それはあくまで一時的な状態に過ぎない、とケシは思った。ルナを見つけるまで、あと少しの間だけ耐えなけばならないものだと。
そしたら、もとの自分に戻ることができる。
ケシはもう一度、ルナにつながる可能性のある場所を頭の中で挙げていった。ルナやルナの父親……または母親のことを知っている人がいる場所を。
ルナの家族の過去はすべて知っていたし、頭の中で詳細に整理されていた。両親の出身校、二人が初めて出会った場所、紹介してくれた人、父親が教鞭を執った学校、育った地域。ルナの家族のことは自分自身の家族よりもよく知っていた。そして、田舎へ引っ越した13年間を除けば、それらは全てここ、東京で起きたことだった。
それに、東京はルナの父が確かにいたことが分かってる最後の場所だ。
ケシはガラス越しに流れゆく外を見つめた。
手がかりがあるとしたら、あのぼやけた流れのどこかにあるはずだ。
そう、消えたのはルナだけではなく、待宵一家全員だった。
ある日突然、いなくなった。置き手紙も、電話も、葉書も、メールも、何もなく、ただ……
煙のように。
「この電車は、山手線内回り、目黒行きです。次は、恵比寿、恵比寿。お出口は右側です。湘南新宿ラインはお乗り換えです」
様々な噂が飛び交った。夫が不倫をしていた。妻が誰にも告げずに娘を連れて母国へ帰った。借金に追われ、誰かの助けを借りて夜逃げした……。
──ばかげている。
……だからといって、ケシに見当がつくわけでもなかった。ケシも他の人と同様、不意打ちをくらった。むしろ、ケシだけは彼らが突然消えるような人たちではないと知っていたからこそ、その衝撃は大きかった。
ケシが生まれた時からずっと隣人だった待宵一家は、家族同然の存在だった。ルナの母ソフィーは子供の頃からケシの世話をしてくれた。ケシのおむつを替えたり、アルファベットを教えたり、お弁当を作ったり、ケシの母親が人手不足の時は老人ホームの手伝いまでしてくれることもあった。
子供の頃、ルナの父親のダイスケはよくケシとルナを旅行に連れて行ってくれた。その後、ケシだけを連れて出かけることも度々あった。魚の釣り方やバッタの捕まえ方、回路基板にワイヤーをはんだ付けする方法、自転車のブレーキの交換方法。ビーチ・ボーイズのことだって、ケシは全てダイスケのおかげで知っていた。
彼らを失うだけでも辛かったのに、ルナまで……。
ルナはケシにとって親友以上の存在だった。自分の精神的な双子。そして——
突然、喉に熱いものが込み上げてきた。
……いなくなると知っていたら、ルナは教えてくれたはずだ。絶対に。
警察にもそう伝えたが、全く相手にされず、ケシは彼らが田舎の手抜き捜査を進めるのをただ傍観するしかなかった。最終的に犯罪の可能性が否定されると、バリケードとテープは撤去され、待宵の家は空っぽのままそこに残された。
事態が落ち着いたある夜、ケシは合い鍵を使ってこっそり家の中に入った。そこで見た光景は一生忘れられないだろう。 待宵家の持ちものが、根こそぎ漁られゴミのように床に散らばっていたのだ。その家は以前にも増して犯罪現場のように見えた。
吐き気がした。まるでケシ自身も何らかの形で侵害されたかのように。
その次の週、ケシは夜中にこっそり抜け出して警官たちの後片付けをし、一家の持ちものを全て元の場所に戻した。同時に、警察が見落としたかもしれない手がかりを探し続けた。
それも人に見つかって終わった。母親は激怒し、激しい言い争いに発展した。母親がケシの合鍵を取り上げ、ケシは家を飛び出した。公園で眠れない一夜を過ごし、翌朝、ケシが家に戻ると、意外にも母親は怒鳴らず、何事もなかったかのように振る舞った。そんな態度は母親らしくなかった。
後になって、ケシは後悔した。
母親も友人を失ったのだ。
それ以来、ケシは隣の家には行かなくなった。夜、布団に入ると、家をこっそり抜け出して夜行バスに乗る空想をした。学校への道の途中で左のところを右へ曲がり、電車に乗ることも。誰もやろうとしないことを成し遂げるために。
そう、彼らを見つけること。
たが、母親を一人にするわけにもいかなかった。
そこで、その後3年間かけて計画を練った。ルナとその家族について、思い出せる限りの詳細を書き留めた。後々手がかりになるかもしれないあらゆる事柄、例えば車の中でルナの父親が語った話、母親が二人の初デートについて言った冗談、写真や家の中のものを見て思い出した場所。それが彼のバカげたリストの始まりだった。
ケシは視線を足元に落とした。
東京は想像していたよりはるかに大きかった。
そして、長い時間をかけて……ついに辿り着いた先に……何も見つからなかった。
ルナの父親が教鞭を取った記録も。
大学でルナの母親の授業を担当した人も。
狛江では、待宵家や彼らの小さな電気店のことを聞いたことがある人は誰もいなかった。
狛江はそれほど広い地域ではない。聞いて回った人たちの中で、一家を知っている者が一人もいないなんてありえるのだろうか? 自分は詳細を間違って覚えていたのだろうか?そんな思いが頭の中を巡った。
確かに、ケシの記憶は年々頼りにならなくなってきた。出来事がぼんやりと霞み、順序が入れ替わり、名前と顔がごちゃ混ぜになる。 かつて確信していたことも、流動的な可能性の羅列に過ぎなくなっていた。
しかしルナが消えたあの日は、心の風景の中で、確固たる、実体のある、永久に存在する物体として存在し続けていた。それは、人生で最も苦痛に満ちた時期の始まりを刻んだ、一枚岩のような存在だった。
まだ深みにはまったままの、終わりの見えない長い夜。
「次は、目黒、目黒。終点です。お出口は右側です。東急目黒線はお乗り換えです。平域 D-4 検問所へお越しの方はこちらでお降りください」
だが、これはケシに限ったことではなかった。ルナがいなくなった後、全世界が地獄に変わった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
大絶滅 2億年後 -原付でエルフの村にやって来た勇者たち-
半道海豚
SF
200万年後の姉妹編です。2億年後への移住は、誰もが思いもよらない結果になってしまいました。推定2億人の移住者は、1年2カ月の間に2億年後へと旅立ちました。移住者2億人は11万6666年という長い期間にばらまかれてしまいます。結果、移住者個々が独自に生き残りを目指さなくてはならなくなります。本稿は、移住最終期に2億年後へと旅だった5人の少年少女の奮闘を描きます。彼らはなんと、2億年後の移動手段に原付を選びます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
