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第一章 常に還り続ける
1.3 AMIクリニック
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「……である先日、武装した人物がアイコア製造元のテクノロジー大手、テロス・インダストリアルの本社に乱入した間を受け、インプラントの安全性に関する議論が再燃しています」
ケシは薄汚い地下アジトを想像していたが、行き着いた場所はなんの変哲もない待合室だった。
全てがほぼ順調に進んでいた。受付係の男に予約があるかと聞かれ、ケシは「はい」と答え、こっそりと現金を手渡した。手入れされた長髪と落ち着いた雰囲気を持つその男は、ためらうことなく封筒を受け取ると、ケシに「お好きな席にどうぞ」と告げた。それだけだった。
それでもケシは神経を尖らせ、不安で貧乏ゆすりをしながら周囲を静かに見渡した。
ケシの向かい側には、だぶだぶの緑のジャージを着て椅子にぐったりと寄りかかって眠る老人がいた。その大きないびきは、受付カウンターの上に設置されたテレビからかすかに聞こえるニュースの音をかき消していた。受付係は赤いポピーの花瓶の陰に姿を隠している。おそらく札束を数えているのだろう。
「容疑者である19歳の久保リュウは、違法に入手したEMP兵器を用いて被害者のニューラルインプラントを攻撃し、その結果5名が死亡しました」
いっそ薄汚れたアジトの方がよかった、とケシは心の片隅で思った。実際の病院のような独特の臭いや、吐き気を催すような雰囲気こそなかったが、それでもこのクリニックにはケシがよく知り、嫌悪するようになったあの鋭い無菌的な感覚が漂っていた。
東京に来た時、どんなに具合が悪くても二度と病院やクリニックには行かないとケシは誓った。あの空気を吸うことも、壁の殺風景な絵をじっと見つめることも、硬くて居心地の悪い椅子に座り、自分なら絶対に選ばないテレビ番組を、小さすぎて聞こえない音量で眺めることも、二度としないと。
「久保容疑者は複数の人質に向かって発砲した後、空中狙撃兵により狙撃されました」
その全てから逃れるためにトイレに何度も行ったことを覚えている。だが、それすらも、息が詰まるような体験の一部となってしまった。
「この攻撃の全容は複数のテロス社員によってライブ配信され、ニューロネット全体に発信されました。 2D形式に再編集し、最後の部分を省略した映像をご覧ください」
ケシは壁に貼られたポスターを1枚1枚ゆっくりと眺めた。ほとんどが個人の健康を増進するための一般的な案内だ。そのうちの一つに、「法律により、当施設ではニューラルインプラントに関連した治療の提供はできません」という警告が書かれていた。
「お願いだ!誰か助けてくれ!俺に語りかけてくる!俺を操っている!」
ケシが点滴チューブや病院食のトレイ、嘔吐物などのことを考えながら一人で座っていると、銃声と悲鳴がかすかに聞こえ、思わずテレビに向かって振り返った。
「取り出せ!!お前が俺の頭に植え付けたんだろ!今すぐ取り出せ——」
突然、建物全体が揺れ始めた。ニュースキャスターの映像が、IPコードが中央に表示された緊急放送画面に切り替わる。IPコードの上には、「35°37'08”N, 139°46'35”E 地点にて地震検知」と太字で書かれている。
誰も反応しなかった。受付係は顔を上げず、ポピーの花瓶の中の水は揺れているものの、花瓶自体はしっかりとその場に固定されている。老人もそのまま眠り続けた。
誰もが地震には慣れていた。大洪水以降、週数回の頻度で発生しているからだ。
だが、すでに不安を感じているケシにとって、その揺れは緊張を加速させるだけだった。
その地震は、始まった時と同じくらい突然におさまった。
「皆さん大丈夫ですね?」
ケシが振り返ると、ベビーブルーのスクラブを着てタブレット端末を持つ医師が見えた。20代半ばから後半ほどのその男は、顎まで伸ばした青黒い髪を真ん中で分け、禿げて後退した生え際を隠していた。背が高く、か弱く見える程に細身で、礼儀正しく申し訳なさそうな態度を見せている。
誰も医師の質問には答えなかった。
「安心しました。そこの青年、私についてきてください。準備が整いました」
ケシは部屋を見回したが、そこにいたのは自分と老人だけだった。
⋆ ⋆ ⋆
ケシは医師に続いて廊下を歩いた。
驚いたことに、ケシは待合室から個室の診察室へ通され、そこで「サービスとして」全身の検査を受けた。結果、わずかに血圧が高い以外は全く問題がなかった。
医師の落ち着いた対応が、ケシの緊張をほんの少し和らげた。
それでも、この男にはどこか違和感を感じた。目を開いたのはケシがシャツを脱いだ時だけで、それ以外は顔がまるで一つの表情に固定されているかのように、ずっと拍子抜けするほど穏やかな微笑みを浮かべていた。
ケシはその場を去りたくて仕方なかった。
「それで……時間はどれくらいかかりますか……?」
「約20分。迅速で無痛の外来手術です」
30分後にはアイコアが手に入る。
奇妙な感覚に襲われた。現実になろうとしている。
9歳の時にアイコアが一般発売され、他の子たち同様、ケシは20歳になるのが待ちきれなかった。
「誰にでもなれる」
それがアイコアのニューロネット初代スローガンであり、完全に没入できる仮想世界が約束されていた。ネット上では、誰もが自ら創造した、あるいは選んだあらゆるアバターとして存在することができた。
ありきたりな約束。だが、アイコアほどそれを実現させたものはなかった。これほどまでにリアルな感覚はかつてなかった。
アイコアは脳と相互作用し、感覚を欺く。軽度の無緊張状態を誘発することで、ユーザーの意識が遠のき、身体感覚を純粋な知覚として体験できるようになる。明晰夢に似た状態である。
これらの擬似感覚は、物理的な感覚には決して及ばなかった。特に嗅覚は再現が難しく、味覚は完全に禁止された。味覚は生命維持機能と密接に結びついており、ユーザーが飲食を完全に断つ危険性があったためである。
しかしそんなことは関係ない。それはまるで魔法だった。
ケシは母親と一緒に見た深夜のニュース特番を今でも覚えている。社会から離脱し、ほとんどの時間をニューロネット内で過ごす人々についての番組だ。ある女性は、ネットでは本来の自分へと変わることができ、現実よりもリアルだと語った。 たとえ食べているケーキの味を感じられなかったとしても。
彼らにとって、人生とは現実の中で存在するために自分を変えることではもはやなかった。自分に合わせて現実を変えるようになっていたのだ。
しかし一方で、自己の境界線を完全に失い始める者たちもいた。
今や新たな次元で憧れの有名人や著名人と繋がることが可能になった。五感すべてを使った配信、「ライフストリーム」が一般的となり、視聴者は少なくとも配信が終わり、自らの生活や肉体へと戻るまでのあいだ、まるで配信者自身になったかのような感覚を楽しむことができた。
テロス社は後にスローガンを「無限の可能性が待っている」に変えた。しかし、彼らが最初に約束した、「別の人間になること」こそ、ケシや多くの者を惹きつけたのだ。
長い間、特にルナがいなくなってからは、それだけがケシの望みだった。母が病気になってからはなおさらだった。
医師は廊下の端にある、黄色い帯状の警告テープが張られていたエレベーターの前で立ち止まった。
片方のドアには、「危険:エレベーター破損のため使用停止中」と書かれた張り紙がある。
医師はケシの方を向くと、今までと同様、楽しげに目をぎゅっと閉じて微笑んだ。ケシは、どうやって前を見ているのだろうと疑問に思った。
「認可クリニックと同じ手術用ロボットを使用しています。それが少しでも安心材料になれば良いのですが」
医師は振り返りエレベーターのボタンに手を伸ばすが、ふと途中で手を止めた。
ふたつのボタンが鮮やかなオレンジ色の膜で覆われていた。 医師は微かに苛立った表情を浮かべる。そしてため息をつくと、ポケットからハンカチを取り出し、その物質を拭いながら小さな声で呟いた。
「最悪だ……」
ボタンがきれいになったところで、医師は上下の矢印ボタンを同時に押した。エレベーターのドアがチンという音とともに開く。
医師は警告テープをはがし、ケシに中に入るよう手招きした。
⋆ ⋆ ⋆
ドアが閉まるあいだ、ケシは検問所まで無事に戻れるかどうか考えた。エイジには携帯電話をアパートに置いてくるよう念押しされたし、道順を書いた紙は受付係に金と一緒に渡してしまった。
もっとも、頭の中にGPSが搭載されるのだから、それらはもう必要ではないのだが。
ケシは思わず笑いかけた。
これからは、多くのことが楽になるのだ。
アイコアは、日常生活の些細な不都合をすべて合理化すると言われていた。そして、大半の人が実際にそうなったと主張するだろう。本格的な普及にはわずか数年しかかからなかったし、それ以来、社会はアイコア中心に本質的に再構築されてきた。
ケシは、アイコアが頭を整理するのにも役立つだろうかと考えた。
もしかしたら、自分を付きまとっていた雲が、ようやく晴れるかもしれない。
医師は、ハンカチでくるんだ指で、いくつかの階数ボタンをパスコードのように続けて押した。
ボタンはそれぞれ、先ほどと同じ奇妙な物質で覆われている。
「アイコアは……頭の中のモヤにも……効果がありますか?」
医師はケシの質問に気を取られ、手を止めた。一瞬だけ、彼の礼儀正しい態度が揺らぐ。
「クソ。どこまでいった?」
ケシは驚いて瞬きをした。
医師は指を動かし、手順のどこまで進んだか思い出そうとする。
「そうか」
医師は素早く残りのコードを入力した。
「今のモヤを手放して、別の種類のモヤを手にいれる……といった感じかな」
そういうと、医師はケシの方を向いて微笑んだ。
「もっとも、君が得るのはアイコアではないが……」
その言葉を聞き、ケシは冷たい電気が皮膚を流れるような感覚を受けた。
──なんだって?
各ボタンが点灯し、床パネルからアルペジオの音が鳴り響いた。
ケシが反応する間もなく、耳をつんざくようなシューッという音がし、続いて金属のコンッという音が響いた。エレベーターのドア内部で油圧式デッドボルトが次々と閉まり、2人を閉じ込めてゆく。
ケシの心臓が激しく鼓動し始める。
──アイコアではない?
二つ目の圧力ロックが解除される音がし、ケシは振り返った。右側の壁面の板が浮き上がっている。
──そういえば、エイジがインプラント改造について何か言っていた……。
ケシはこれを、デジタルIDの年齢修正など、些細な改造のことだと思っていた。
医師は壁板に付いた取っ手を掴み、引き開けた。すると、地下へと続く急勾配のL字型階段のある、狭い通路が現れた。
突然、ケシは自分がどこにいるのか、何をしているのかをはっきりと理解した。
「ついてきてください」
医師は身をかがめて通路に入ると、ゆっくりと階段を降りていく。
ケシはただそこに立ち尽くし、階段の揺らめく明かりを凝視した。ざわざわと頭の中で音がして、本能が彼に引き返せと叫んでいる。
一瞬、安全な自分のアパートの暗がりが頭に浮かび、初めてそこが帰るべき場所のように感じられた。
──帰るべき場所。
その言葉が溶けた破片のように彼の頭蓋骨を貫き、喉に突き刺さる。
その一言が与える刺すような痛みは、もう麻痺して感じないものだと思っていた。
しかしまるで呪文をかけられたかのように、ケシは引き戻された。八月下旬へと。
ケシは深く息を吸い込み、耳元で鳴り響く蝉の鳴き声を静めようとした。
後戻りはできなかった。戻る場所などどこにもなかった。
ケシの「帰るべき場所」は、ただ寂しく空っぽの部屋に過ぎない。それは、混雑したテント、地下道、湿った公園の芝生、またはコンクリートの階段と、何ら変わらなかった。むしろ、それ以下だった。
路上生活がケシにもたらしたことが一つあるとすれば、それは心と精神の集中だった。
ほんの数ヶ月で、自分の体のあらゆる臓器について知り尽くすようになった。
胃。
喉。
肌。
車や朝の通勤ラッシュの音。ビールで濡れた草の酸っぱい匂い。夜に聞こえてくる大きな声やぼんやりとした明かり。そして一度だけ、小便をかけられた感覚。全て知っていた。
デパートのトイレで何回服を洗っただろうか? 屋外の噴水で体を洗った回数は? 何度、配給の列に並んだ? 食事を全く摂らずに過ごした夜の数は?
熱があるのに、暖をとりに行く場所がない惨めさを、知っていた。
一文無しでなんとか生きること。
生き延びること。
すべて、自分ひとりで。
なのに……何を恐れている?
その時、気づいた。自己満足に陥っていたのだ。
それまでの人生で、あまりにも多くのことがケシに降りかかってきた。変える力などない出来事ばかりだった。そのせいで、ケシは夢遊病者のようになった。常に他人と外の力に流されるまま。常に漂っていた。
それが、たった一年、住む場所が保証されていただけで、元に戻ってしまった。安らぎと安全へと。
──情けない。
ケシの中で何かが動いた。
階段に片足が当たるのを感じた。 そしてもう一方の足も。いや、自分自身の意思で、階段を降りていった。
地下バンカーへと降りながら、ケシは冷淡な真実を自分に言い聞かせた。
──帰るべき場所などもう存在しない。
長い間で初めて、ケシは完全に目を覚ました。
ケシは薄汚い地下アジトを想像していたが、行き着いた場所はなんの変哲もない待合室だった。
全てがほぼ順調に進んでいた。受付係の男に予約があるかと聞かれ、ケシは「はい」と答え、こっそりと現金を手渡した。手入れされた長髪と落ち着いた雰囲気を持つその男は、ためらうことなく封筒を受け取ると、ケシに「お好きな席にどうぞ」と告げた。それだけだった。
それでもケシは神経を尖らせ、不安で貧乏ゆすりをしながら周囲を静かに見渡した。
ケシの向かい側には、だぶだぶの緑のジャージを着て椅子にぐったりと寄りかかって眠る老人がいた。その大きないびきは、受付カウンターの上に設置されたテレビからかすかに聞こえるニュースの音をかき消していた。受付係は赤いポピーの花瓶の陰に姿を隠している。おそらく札束を数えているのだろう。
「容疑者である19歳の久保リュウは、違法に入手したEMP兵器を用いて被害者のニューラルインプラントを攻撃し、その結果5名が死亡しました」
いっそ薄汚れたアジトの方がよかった、とケシは心の片隅で思った。実際の病院のような独特の臭いや、吐き気を催すような雰囲気こそなかったが、それでもこのクリニックにはケシがよく知り、嫌悪するようになったあの鋭い無菌的な感覚が漂っていた。
東京に来た時、どんなに具合が悪くても二度と病院やクリニックには行かないとケシは誓った。あの空気を吸うことも、壁の殺風景な絵をじっと見つめることも、硬くて居心地の悪い椅子に座り、自分なら絶対に選ばないテレビ番組を、小さすぎて聞こえない音量で眺めることも、二度としないと。
「久保容疑者は複数の人質に向かって発砲した後、空中狙撃兵により狙撃されました」
その全てから逃れるためにトイレに何度も行ったことを覚えている。だが、それすらも、息が詰まるような体験の一部となってしまった。
「この攻撃の全容は複数のテロス社員によってライブ配信され、ニューロネット全体に発信されました。 2D形式に再編集し、最後の部分を省略した映像をご覧ください」
ケシは壁に貼られたポスターを1枚1枚ゆっくりと眺めた。ほとんどが個人の健康を増進するための一般的な案内だ。そのうちの一つに、「法律により、当施設ではニューラルインプラントに関連した治療の提供はできません」という警告が書かれていた。
「お願いだ!誰か助けてくれ!俺に語りかけてくる!俺を操っている!」
ケシが点滴チューブや病院食のトレイ、嘔吐物などのことを考えながら一人で座っていると、銃声と悲鳴がかすかに聞こえ、思わずテレビに向かって振り返った。
「取り出せ!!お前が俺の頭に植え付けたんだろ!今すぐ取り出せ——」
突然、建物全体が揺れ始めた。ニュースキャスターの映像が、IPコードが中央に表示された緊急放送画面に切り替わる。IPコードの上には、「35°37'08”N, 139°46'35”E 地点にて地震検知」と太字で書かれている。
誰も反応しなかった。受付係は顔を上げず、ポピーの花瓶の中の水は揺れているものの、花瓶自体はしっかりとその場に固定されている。老人もそのまま眠り続けた。
誰もが地震には慣れていた。大洪水以降、週数回の頻度で発生しているからだ。
だが、すでに不安を感じているケシにとって、その揺れは緊張を加速させるだけだった。
その地震は、始まった時と同じくらい突然におさまった。
「皆さん大丈夫ですね?」
ケシが振り返ると、ベビーブルーのスクラブを着てタブレット端末を持つ医師が見えた。20代半ばから後半ほどのその男は、顎まで伸ばした青黒い髪を真ん中で分け、禿げて後退した生え際を隠していた。背が高く、か弱く見える程に細身で、礼儀正しく申し訳なさそうな態度を見せている。
誰も医師の質問には答えなかった。
「安心しました。そこの青年、私についてきてください。準備が整いました」
ケシは部屋を見回したが、そこにいたのは自分と老人だけだった。
⋆ ⋆ ⋆
ケシは医師に続いて廊下を歩いた。
驚いたことに、ケシは待合室から個室の診察室へ通され、そこで「サービスとして」全身の検査を受けた。結果、わずかに血圧が高い以外は全く問題がなかった。
医師の落ち着いた対応が、ケシの緊張をほんの少し和らげた。
それでも、この男にはどこか違和感を感じた。目を開いたのはケシがシャツを脱いだ時だけで、それ以外は顔がまるで一つの表情に固定されているかのように、ずっと拍子抜けするほど穏やかな微笑みを浮かべていた。
ケシはその場を去りたくて仕方なかった。
「それで……時間はどれくらいかかりますか……?」
「約20分。迅速で無痛の外来手術です」
30分後にはアイコアが手に入る。
奇妙な感覚に襲われた。現実になろうとしている。
9歳の時にアイコアが一般発売され、他の子たち同様、ケシは20歳になるのが待ちきれなかった。
「誰にでもなれる」
それがアイコアのニューロネット初代スローガンであり、完全に没入できる仮想世界が約束されていた。ネット上では、誰もが自ら創造した、あるいは選んだあらゆるアバターとして存在することができた。
ありきたりな約束。だが、アイコアほどそれを実現させたものはなかった。これほどまでにリアルな感覚はかつてなかった。
アイコアは脳と相互作用し、感覚を欺く。軽度の無緊張状態を誘発することで、ユーザーの意識が遠のき、身体感覚を純粋な知覚として体験できるようになる。明晰夢に似た状態である。
これらの擬似感覚は、物理的な感覚には決して及ばなかった。特に嗅覚は再現が難しく、味覚は完全に禁止された。味覚は生命維持機能と密接に結びついており、ユーザーが飲食を完全に断つ危険性があったためである。
しかしそんなことは関係ない。それはまるで魔法だった。
ケシは母親と一緒に見た深夜のニュース特番を今でも覚えている。社会から離脱し、ほとんどの時間をニューロネット内で過ごす人々についての番組だ。ある女性は、ネットでは本来の自分へと変わることができ、現実よりもリアルだと語った。 たとえ食べているケーキの味を感じられなかったとしても。
彼らにとって、人生とは現実の中で存在するために自分を変えることではもはやなかった。自分に合わせて現実を変えるようになっていたのだ。
しかし一方で、自己の境界線を完全に失い始める者たちもいた。
今や新たな次元で憧れの有名人や著名人と繋がることが可能になった。五感すべてを使った配信、「ライフストリーム」が一般的となり、視聴者は少なくとも配信が終わり、自らの生活や肉体へと戻るまでのあいだ、まるで配信者自身になったかのような感覚を楽しむことができた。
テロス社は後にスローガンを「無限の可能性が待っている」に変えた。しかし、彼らが最初に約束した、「別の人間になること」こそ、ケシや多くの者を惹きつけたのだ。
長い間、特にルナがいなくなってからは、それだけがケシの望みだった。母が病気になってからはなおさらだった。
医師は廊下の端にある、黄色い帯状の警告テープが張られていたエレベーターの前で立ち止まった。
片方のドアには、「危険:エレベーター破損のため使用停止中」と書かれた張り紙がある。
医師はケシの方を向くと、今までと同様、楽しげに目をぎゅっと閉じて微笑んだ。ケシは、どうやって前を見ているのだろうと疑問に思った。
「認可クリニックと同じ手術用ロボットを使用しています。それが少しでも安心材料になれば良いのですが」
医師は振り返りエレベーターのボタンに手を伸ばすが、ふと途中で手を止めた。
ふたつのボタンが鮮やかなオレンジ色の膜で覆われていた。 医師は微かに苛立った表情を浮かべる。そしてため息をつくと、ポケットからハンカチを取り出し、その物質を拭いながら小さな声で呟いた。
「最悪だ……」
ボタンがきれいになったところで、医師は上下の矢印ボタンを同時に押した。エレベーターのドアがチンという音とともに開く。
医師は警告テープをはがし、ケシに中に入るよう手招きした。
⋆ ⋆ ⋆
ドアが閉まるあいだ、ケシは検問所まで無事に戻れるかどうか考えた。エイジには携帯電話をアパートに置いてくるよう念押しされたし、道順を書いた紙は受付係に金と一緒に渡してしまった。
もっとも、頭の中にGPSが搭載されるのだから、それらはもう必要ではないのだが。
ケシは思わず笑いかけた。
これからは、多くのことが楽になるのだ。
アイコアは、日常生活の些細な不都合をすべて合理化すると言われていた。そして、大半の人が実際にそうなったと主張するだろう。本格的な普及にはわずか数年しかかからなかったし、それ以来、社会はアイコア中心に本質的に再構築されてきた。
ケシは、アイコアが頭を整理するのにも役立つだろうかと考えた。
もしかしたら、自分を付きまとっていた雲が、ようやく晴れるかもしれない。
医師は、ハンカチでくるんだ指で、いくつかの階数ボタンをパスコードのように続けて押した。
ボタンはそれぞれ、先ほどと同じ奇妙な物質で覆われている。
「アイコアは……頭の中のモヤにも……効果がありますか?」
医師はケシの質問に気を取られ、手を止めた。一瞬だけ、彼の礼儀正しい態度が揺らぐ。
「クソ。どこまでいった?」
ケシは驚いて瞬きをした。
医師は指を動かし、手順のどこまで進んだか思い出そうとする。
「そうか」
医師は素早く残りのコードを入力した。
「今のモヤを手放して、別の種類のモヤを手にいれる……といった感じかな」
そういうと、医師はケシの方を向いて微笑んだ。
「もっとも、君が得るのはアイコアではないが……」
その言葉を聞き、ケシは冷たい電気が皮膚を流れるような感覚を受けた。
──なんだって?
各ボタンが点灯し、床パネルからアルペジオの音が鳴り響いた。
ケシが反応する間もなく、耳をつんざくようなシューッという音がし、続いて金属のコンッという音が響いた。エレベーターのドア内部で油圧式デッドボルトが次々と閉まり、2人を閉じ込めてゆく。
ケシの心臓が激しく鼓動し始める。
──アイコアではない?
二つ目の圧力ロックが解除される音がし、ケシは振り返った。右側の壁面の板が浮き上がっている。
──そういえば、エイジがインプラント改造について何か言っていた……。
ケシはこれを、デジタルIDの年齢修正など、些細な改造のことだと思っていた。
医師は壁板に付いた取っ手を掴み、引き開けた。すると、地下へと続く急勾配のL字型階段のある、狭い通路が現れた。
突然、ケシは自分がどこにいるのか、何をしているのかをはっきりと理解した。
「ついてきてください」
医師は身をかがめて通路に入ると、ゆっくりと階段を降りていく。
ケシはただそこに立ち尽くし、階段の揺らめく明かりを凝視した。ざわざわと頭の中で音がして、本能が彼に引き返せと叫んでいる。
一瞬、安全な自分のアパートの暗がりが頭に浮かび、初めてそこが帰るべき場所のように感じられた。
──帰るべき場所。
その言葉が溶けた破片のように彼の頭蓋骨を貫き、喉に突き刺さる。
その一言が与える刺すような痛みは、もう麻痺して感じないものだと思っていた。
しかしまるで呪文をかけられたかのように、ケシは引き戻された。八月下旬へと。
ケシは深く息を吸い込み、耳元で鳴り響く蝉の鳴き声を静めようとした。
後戻りはできなかった。戻る場所などどこにもなかった。
ケシの「帰るべき場所」は、ただ寂しく空っぽの部屋に過ぎない。それは、混雑したテント、地下道、湿った公園の芝生、またはコンクリートの階段と、何ら変わらなかった。むしろ、それ以下だった。
路上生活がケシにもたらしたことが一つあるとすれば、それは心と精神の集中だった。
ほんの数ヶ月で、自分の体のあらゆる臓器について知り尽くすようになった。
胃。
喉。
肌。
車や朝の通勤ラッシュの音。ビールで濡れた草の酸っぱい匂い。夜に聞こえてくる大きな声やぼんやりとした明かり。そして一度だけ、小便をかけられた感覚。全て知っていた。
デパートのトイレで何回服を洗っただろうか? 屋外の噴水で体を洗った回数は? 何度、配給の列に並んだ? 食事を全く摂らずに過ごした夜の数は?
熱があるのに、暖をとりに行く場所がない惨めさを、知っていた。
一文無しでなんとか生きること。
生き延びること。
すべて、自分ひとりで。
なのに……何を恐れている?
その時、気づいた。自己満足に陥っていたのだ。
それまでの人生で、あまりにも多くのことがケシに降りかかってきた。変える力などない出来事ばかりだった。そのせいで、ケシは夢遊病者のようになった。常に他人と外の力に流されるまま。常に漂っていた。
それが、たった一年、住む場所が保証されていただけで、元に戻ってしまった。安らぎと安全へと。
──情けない。
ケシの中で何かが動いた。
階段に片足が当たるのを感じた。 そしてもう一方の足も。いや、自分自身の意思で、階段を降りていった。
地下バンカーへと降りながら、ケシは冷淡な真実を自分に言い聞かせた。
──帰るべき場所などもう存在しない。
長い間で初めて、ケシは完全に目を覚ました。
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