いつか最後のその時まで

白詰

文字の大きさ
1 / 1

いつか最後のその時まで

しおりを挟む
「じゃ、今日からよろしくね」
 軽い調子の言葉と数枚の紙幣によって、鷹華の身柄はあっさりと引き渡された。
 人身売買だった。
 と言うと、たった三秒前まで鷹華の保護者とも言うべき「店長」は、しかめっ面で鼻を鳴らして「人材派遣業だ」と訂正することだろうが、つい今しがた鷹華の新しい保護者となった軽い感じの女は、まさしく鷹華と全く同一の認識を持って店長へと紙幣を渡しているはずだった。
 ガラクタ山に囲われ閉じ込められたこの街ではこれっぽっちも珍しいことではないし、女はいかにも手慣れていたし、店長とも以前からの知り合いであるようだった。つまりはお得意様だ。
 右から左へ。よくあることだ。
 だから、テーブル一つ椅子一つのオープンカフェで、店仕舞いも近い夕方にふらっとやって来た見慣れない女が、ちらと鷹華に目を向けて、店長と立ち話を始めた時に、ああ、と鷹華はあっさり自分の行く末を受け入れていた。

 店長との話を終えた女は身をかがめて、鷹華よりも頭一つ分近く高いところにある目を鷹華に合わせた。
「あたしは、ええっと、キリギリス。あなたの名前は?」
 女は明らかに言い慣れていない偽名丸出しの名前を名乗って鷹華に笑いかける。
「鷹華と申します。よろしくお願いいたします」
「よーか? ふぅん。向こうの名前は聞き慣れないな」
 キリギリスは寝癖のついた自分の髪をまさぐって跳ね放題にする。肩のあたりまで伸びた髪はきちんとすれば綺麗に見えるだろうに、もったいないと鷹華は思う。
 くたびれた着古しの服はかろうじて浮浪者には見えないくらいで、とてもじゃないが外に出て平気でいる格好ではない。見た目には無頓着な方なであるようだった。
 キリギリスは店長に目を向け、
「このおっさんからは聞いてないだろうから一応言うけど」
 そう前置きをして鷹華に言った。
「あたしはね、レズビアンではないからね」

 キリギリスが鷹華に求めるのは、人並みの家事ができない自分に代わり家事全般を行うことだった。
 キリギリスの住まいであるアパートの部屋は殺風景そのもので、その上、大した家具があるわけではないのにいくつものダンボールが転がっており、冷蔵庫には数本の缶ビールといった有様。
 部屋に入るなり生活空間の改善に勤しむことになった鷹華が、今日のところは妥協してもいいというところまでの作業が完了したのは、日付が変わった頃のことだった。
「いやーすごいすごい。なんだか普通に人が住む部屋みたいだよ」
 拍手をしながら他人事のように言うキリギリスは、鷹華の作業の間は手持ち無沙汰に部屋をふらつくばかりで、一切の手伝いをすることはなかった。人並みの家事ができないというより、する気がないのかもしれない。
「しっかしまあ、あれだね」
 鷹華の基準ではまだまだ改善が必要な部屋をキリギリスは見渡して、
「今まで一人で住んでたんだけど、よく考えたら今日から二人で住むんだよね」
 なにを当たり前のことを、と思い鷹華も見渡し、気づいた。
「ベッドが一つしかない」
 それも当たり前のことではあった。
 じゃあ仕方ないか、とキリギリスは口元も隠さず大あくびをした。
「今日のとこは二人で寝ようか」
 鷹華は床で寝ると言ったが、キリギリスが許すことはなく、だからといって自分が床で寝るつもりは全くなく、結果、少しでも身じろぎすれば簡単に身体が触れるベッドの中だった。
 あまり眠れそうにないな、と鷹華は思う。一つのベッドに二人で入るようなことは初めてだ。それも今日会ったばかりの人と。
 昨日までとは少し低いけれど眺めは大して変わらない天井をじっと見つめ、目を閉じる。
 どうせすぐ慣れる。
 右から左へ。いつもと、あるいはいつかと同じだ。
「起きてる?」
 すぐ隣、キリギリスの声。鷹華は目を開いて、天井を見つめて返事をする。
「はい、なんでしょう」
「眠れない?」
「まあ、そうですね」
「あたしも同じ。おしゃべりでもしよっか」
「おしゃべり、ですか?」
「そうそう。鷹華のこと、聞きたいな。その歳でさ、どっから流れてきたの?」
 鷹華は素直に答えた。
「さあ。わたしにもわかりません」
 往来にテーブルと椅子を置くだけ置いて、客に対してにこりともしないのに、こともあろうにオープンカフェを経営しているなどと言い張る店長に拾われたのが三年前。
 三年より前の記憶は鷹華にはないが、記憶を取り戻したいとはあまり思わない。店長が拾った時には一人でガラクタ山に半ば埋もれるように倒れていたらしいというのだから、思い出して愉快なことがあるとは到底思えなかった。
それから三年もろくろく人が来ないカフェで働いていれば、この街がどういった場所であることはよく分かる。だから、店長の言うところの「人材派遣業」こそが、自分を拾った人間の本業であって、この街ではありふれたことだというのは嫌でも理解できることだった。
「そっか。まああるよね、そういう話」
「ありますね、こういう話」
 キリギリスが言って、鷹華も同意した。
 それから、少しの沈黙。キリギリスが口を開いて、
「聞かないの? そっちは、とか」
「あ、そうですね。そちらは? ええと、キリギリスさん」
 慌てて聞き返した鷹華に、キリギリスは小さく笑った。
「あんまり興味、なさそうね?」
「そんなことは」
 ないです、と口にするより早くキリギリスは会話を打ち切った。
「似たようなもんよ」

 鷹華とキリギリスの生活が始まった。
 とはいっても店長の元にいた時にも家事全般を行っていた鷹華のやることはそう変わらない。
 ともすれば売れないカフェのウェイトレスをやっていた時よりも忙しいくらいだったが、それはともかく、一ヶ月を過ぎてもキリギリスについてはわからないことが多かった。
 朝早くにふらっと出かけて夜中に帰ってきたり帰ってこなかったりすることがあったかと思えば、ヒマそうに一日中部屋でゴロゴロしていることもある。
 どんな仕事をしているのか窺い知ることもできないが、金に困っている様子はない。
 ろくでもないことをやっているのだろう、とは思うし、鷹華は詮索することはなかった。

 この日のキリギリスは床に寝転びながら、異国の文字で書かれていると思しき本をつまらなそうに読んでいた。
「……キリさんて、インテリ?」
 鷹華の疑問に、キリギリスは「きょうび言わないよ、インテリなんて」とやはりつまらなそうに答えて、
「インテリだったら、こんな街にいないと思うよ」
それはその通り。ぐうの音も出ない。
「なにか趣味でも探してみたらどうですか?」
 無駄だろう、と思いながら鷹華は提案してみた。果たして結果は予想通りで、「んー」などという明らかに乗り気ではない唸り声が返ってきた。
「やってるやってる、パズルとか」
「投げるじゃないですか」
「投げるまでが趣味」
「めっちゃ迷惑です」
 こんな調子ではあるが、キリギリスは鷹華を邪険にすることはなかった。気だるげでなにも考えていないであろう言葉であっても、鷹華を傷つけるようなことは絶対に口にしなかったし、暴力などを振るうこともなかった
鷹華の仕事は正真正銘の家事全般のみであって、それ以上ではなかった。
そして、キリギリスはちょっとした手伝いであっても一切の家事をすることはなかった。

「キリさん、お皿洗いくらいしません?」
 一度、ことさら恨みがましい響きを乗せて鷹華は言ってみせた。
 この時、鷹華は洗い物をしてて、その背でキリギリスは鷹華が淹れた食後のコーヒーを優雅そうに飲んでいた。
「割るよ、あたし」
 さらっとキリギリスは言った。鷹華は反論する。
「お皿洗いで割るって、やろうと思わないとそうそうできないですよ」
「あたしは、他人ができないことをやれる人間になりたい」
「それ、一般的には落ちこぼれって言いますからね」
「一般論に囚われては真実は見通せないのだよ、鷹華くん」
「なにごっこだよ」
 意地でも手伝うつもりがないらしいキリギリスに鷹華は呆れた。

 鷹華の朝はキリギリスチェックからはじまる。
 鷹華の全身を顕微鏡のような目つきで眺めて一言、
「ダメ」
 キリギリスは自分の身なりに無頓着なくせに、鷹華の身だしなみにはやけに厳しかった。
 鷹華は自分としては無頓着というつもりはなかったが、さりとてどこの誰に出しても恥ずかしいというほど整えてもいない。
 見せる相手もいないし、なによりおしゃれをするような金銭的余裕もなかった。
 と言うとキリギリスは憤慨する。
「見せる相手はあたし。お金はある」
「もったいないって話です。両方とも」
「鷹華さ、最近あたしに対してきつくない?」
「きつくしてもいい相手だと分かったので」
 キリギリスは嬉しそうに笑った。鷹華は気味悪そうに訊く。
「……なんで笑うんですか」
「いや、いいことだなって。じゃあ、いつか出かけようか。それならおしゃれしてくれるでしょ」
「どこにですか? 正直この街でおしゃれしたってしょうがないと思いますよ」
「もちろん、街の外に」
 街の外。それは鷹華にとって夢物語と同義だった。入るは易く、出るは不可能。そもそもこのゴミ山に囲われた街に出口などあるのか鷹華は知らない。
 だが、キリギリスはこともなげに言った。
「仕事が一段落したら外に行こう。だから、それまでにおしゃれ学んでおいてね」

 この街は世界中のガラクタが行き着く最後の場所だ、物も人間も、とはいつかキリギリスが言ったことだった。
 どういう流れだったかはすでに記憶にないが、鷹華が同意したことは確かに憶えている。
 世界にありとあらゆる物が多くなりすぎた結果、粗悪品があぶれてつまはじきにされることは必然だった。
 チリが積もって山となる。ガラクタと負け犬が流れ集まって街となった。ガラクタはさらなるガラクタを作って、負け犬は新しい負け犬を生んだ。
 そんな成り立ちの街だから、治安はよろしくない。はっきり悪い。朝方にはどこかの誰かの悲鳴で目が覚めることがある、夜中には車の急ブレーキ音が鳴り響く、あるいは風船を割ったような安っぽい音が断続的に聞こえたりする。なにが起こっているかはあまり考えたくはない。
 たとえ、昼に往来を歩けば赤い汚れを拭い去りきれていない地面が目に入ったとしても。人のまぶたはこのためにあるのだ。
 もっとも、明るいうちはそこまで怯えすくむ必要はない。なにせ人が多い。ことに、鷹華がいつも生活用品を買うために来る大通りなら、女子供が一人で歩いていようと安全だ。決して無法地帯ではないのだ。
 が、なにが起こるかわかったものじゃない。近頃は特にそうだ。だから、鷹華はこの日も生活必需品だけを買って、市場を冷やかしたりはすることなく、早々に帰路についていた。
「あ、店長」
 ただでさえ厳つい面をいつものようにしかめて所帯じみた紙袋を持っている姿は、紛れもなく鷹華の元保護者であった。
 ん、と頷きはすれど足を止めない店長に、鷹華は小走りをして隣に並んだ。
「買い物とか、するんですね」
 鷹華のあんまりと言えばあんまりな素直な感想に、店長は鼻を鳴らした。バカにされたように感じて、鷹華は口を尖らせる。
「だって、わたしがいた時には全くしなかったじゃないですか」
「今はいない」
「そりゃそうですけど」
 店長の顔はキリギリスよりもさらに高いところにあり、鷹華は早歩きにならざるを得ない。
「お店はどうですか? わたしはちょっと行く気になれないですけど、お客さんは来てます?」
 不意に店長が口を開いた。
「よくしゃべる」
「あ、えっと、迷惑ですか?」
 店長はそれには答えずに、
「あいつの影響か」
 鷹華は今更に思い返す。店長に拾われてから三年間、一つ屋根の下で共に暮らしていたにも関わらず、店長について知っていることといえば、愛想笑いの一つもできないのになぜか客商売を続けながら人の売り買いもする、見た目おっかなくて、ろくでもないおっさんであるということくらいだ。
 キリギリスとは以前からの知り合いであるようだった。
「……キリさんとは、どういうお知り合いなんですか?」
「腐れ縁だ」
 なにか言葉が続くものだと思って待った。が、次の言葉は鷹華の期待したものではなかった。
「あいつには気をつけておけ」
 虚を衝かれた鷹華は目を丸くする。いきなりなんの話だと思う。
 店長は鷹華に構わず続けた。
「あいつにはお前が知らないことがあるという話だ」
 鷹華は少し目を細める。
「でもそれは、店長も同じですよね」
 言ってから、自分の不機嫌そうな声に自分で驚いた。
 店長はわずかに口元を歪めただけでそれにも答えなかった。さっきから一方的だ。鷹華が、今度ははっきりと自覚して抗議をしようとしたところに、
 店長が突然鷹華に向けて物を放おった。
「わ、わ、わわ」
 鷹華は慌てて買い物袋を持っていない方の手で受け止める。手の中にあったのは花をあしらった髪飾りだった。
「……なんです? これ」
「ご機嫌取りだ」
「……冗談ですよね?」
 鷹華はついぞ見たことのない輝き。色彩の概念が全く別物であるかのよう。ただただ眩しくて直視できない。
 ろくに手入れもしていないがさがさの手から今にも反発してしまいそうで、自分が手にしているいう事実が罪に問われそうな気すらして、右見て左見て、それからようやく店長へと尋ねた。
「……なんです? これ」
 二度目だった。
「持っておけ。お守りだ」
 なにやらものすごく恐ろしいことを言われた。
「……いや、あの、なんでこんな物、」
「形見だ」
 誰の、と尋ねる間もなく、店長は足を早めた。鷹華は手の中の髪飾りが恐ろしくて店長を追うことができない。終始一方的な会話だった。
 店長とあんなに会話を続けたのは、初めてだったかもしれない。
「影響」
 店長の言葉を反芻する。受けているのだろうか。自分には分からない。
 店長を追う気にはなれず、今度こそ帰路につくことにする。
「ただいま戻りました」
 キリギリスのアパートに戻って、帰宅報告の言葉がするりと出てきた。あの店長だ。こんな言葉はきっとそれまで使っていなかった。
「おかえりおかえり。寄り道でもしたー?」
 出迎えこそなくても、部屋の中からキリギリスの言葉が返ってくる。それは今日だけのものではなく、この前もその前も、そしてきっとこれからも。
「なんか持ってるの?」
 買い物袋を片付けている最中、手伝いもせずヒマそうにしていたキリギリスが髪飾りを目ざとく見つけた。
「へえ、きれいじゃない。どうしたの?」
「あ、その、店長がいきなり。盗んだとかでは、ないですよ」
 なにも悪いことをしていないのに哀れなくらい動揺している鷹華の弁解を耳にして、キリギリスは訝しげに眉をひそめた。
「いや、盗ったとかは思ってないけど、あのおっさんが?」
「はい、いきなり」
 キリギリスは鷹華が部屋に引き入れていた虫の飛行軌道を目で追いながら少し考えるようにする。
 三秒間、
「あの、ほんとに盗んだりしてないですよ?」
「……いや、考え過ぎか。ねえ、つけて見せてよそれ」
 今日の恐ろしい言葉ふたつめ。
「え、いや、その、捕まりません? それ」
「捕まらないわよ。なに言ってんの」
「だって……」
「よく似合うと思うよ」
 なおも鷹華が渋っていると、キリギリスは「はーやーくーはーやーくー」などと手を叩き始めた。子供かあんた。
 せめてシャワーくらい浴びさせてほしいと言ったが、もちろん聞き入れられることはなく、仕方なく、鷹華は震える手で自らの髪に髪飾りをつけた。
「おお、似合う似合う。いいじゃん、やっぱり」
 喜色満面のキリギリスに鷹華は無理やり鏡の前に連れて行かれるが、どうしても直視できない。太陽を直視するごとく、目が潰れるのではないか。
 やはり、機会を見て店長に返そうと鷹華は固く決心した。

 実のところ、キリギリスがなにをやって生計を立てているのか、鷹華は全く検討がついていなかったわけでもない。
 三ヶ月だ。それだけの期間を共に過ごしていれば、なんとなく察することのできる瞬間はいくつかあったし、キリギリスは隠そうと思っていなかった節もある。
 だから、キリギリスが不在の日、机の引き出しに無造作に突っ込んであった口径9ミリで装弾数8発のそれを発見した時、さしたる感想を抱くことはなかった。
 せいぜいが、小さいなと思ったくらいだ。自分でも持てることだろう。
 鷹華は少しだけ迷って、そのまま引き出しを閉じた。
 鷹華が目にする限りでは、引き出しを開ける前となにか違うところはなかったはずである。が、キリギリスが外出から戻って、机を見て、即座、露骨に嫌そうな顔をした。
「……中、見た?」
「はい」
「なんで一度開けたのに閉めたの」
「えっと、なんとなく」
 キリギリスは長いため息をついた。
「まあいいんだけどね、でも遊んじゃだめよ。危ないものだからね」
「それは子供ではないのでわかりますけど。それでこれは、」
「それはね、仕事道具です」
「はあ。仕事道具」
「人を撃ちます」
 まさか刑事ではないだろうとは思っていた。
 やや疲れたような雑な動作でキリギリスは椅子に腰を下ろして天井を見上げた。
「いつか言おうとは思ってたんだけどね。ずるずると」
 弁解めいた口調。そしてキリギリスは苦笑して、
「普通の人と一緒にいたりするのって、初めてだったから」
「普通、ですか?」
 鷹華は言葉の意味を掴みかねて首を傾げる。「そう、普通」と続けたキリギリスが自らの右手を天に伸ばす。
 その右手を見つめながら、
「一般論でもなんでもないし例外あるんだろうけどさ、普通じゃない人は、できないんだよね家事」
 キリギリスを見る。鷹華の視線に目を向けることはないが、キリギリスは天を見上げながらうなずくように少し首を動かした。
「そう。あたし。あとあのおっさんとかも」
「なんでですか?」
「手が震える」
 鷹華がなにも言えないままでいると、
「あたしはこの手で人の命を奪っている」
 キリギリスははっきりと言い切った。
「楽しくてやってるわけじゃなくて、あたしはあたしが生きるためにそれをやってる」
 キリギリスは視線を落とす。鷹華を正面に見据える。
「あたしが生きるために誰かが死んでる」
 キリギリスは「基本、ろくでもないやつだけどね」と冗談めかした言葉を加えるが、顔は笑っていなかった。
「なんか、それは、だめでしょ」
「だめ」
「ううん、人に説明するの難しいな、頭わるい。そう、道理に合わないとか、そんな感じ」
 おそらく自分の中でも完全に言語化できているわけではないのだろう、キリギリスは、つっかえつっかえ、時には数分間考え込みながら、少しずつゆっくりと言葉を紡ぐ。
「なんでお前はのうのうと生きてて、あいつは死んでるんだ、とか言われてあたしはその人が納得できることを言えないというか、おこがましいっていうか、普通じゃないやつがなに普通みたいなことしてるんだっていうか」
 身振り手振り交えて、考えつくままに言葉を捻り出しているよう。細かいところは、キリギリスの拙い説明では鷹華にはよく分からない。
「結局、あたしが納得してるかどうかってことなんだろうと思う。あたしは納得しない。いつか、そう決めた」
 鷹華の頭には八割入ってこなかったしどろもどろな説明を終えて、キリギリスは言った。
「自分が納得しないから、手が震えるようになった?」
「そう」
「思い込みですよね」
「思い込みよ。でも、決めたから、今も続けていられる」
 けじめ、みたいなものだろうか。鷹華にはおぼろげに想像することしかできない。
 キリギリスは口端を上げた。
「それでいいのよ、それで。わかるっていうのは、ろくでもない人間ってことだからね」
 そこまで話して、キリギリスはごく自然に「コーヒー」と鷹華に向けて言った。鷹華は立ち上がっていそいそと準備を始める。
「わたしを使うのは、いいんですか?」
「うん。鷹華は普通の人だから」
「へんなの」
「だから、鷹華はろくでもないことをしちゃだめよ。あたしはまだ鷹華にコーヒーを淹れてほしいからね」
 そう言ってキリギリスは笑った。

 流れるような半年が過ぎた。にわかに街が騒がしいと鷹華が気づいたのはその頃だ。
 行きつけのスーパーの品揃えが少し悪くなった。顔見知りの店員が買い置きをしておいた方がいいと言い出した。
 近所のホームレスが忽然と消えた。まだまだ元気そうな人だったと記憶している。
 見慣れないチンピラが真っ昼間から往来で威嚇していることが日に日に多くなった。以前は昼間ならば面倒くさそうな顔をした警官が意外なほど迅速にしょっぴいてくれていたのだが、あからさまに動きが鈍くなった。
「上の勢力が変わったらしいのよ」
 キリギリスはつまらなげに窓から外を眺めて鷹華に説明した。
 鷹華は首を傾げた。
「上?」
「このへんを縄張りにしてるマフィアかなんか。ちょっと前までは穏健派が幅きかせてたみたいなんだけど、今はまあ、チンピラに毛が生えたやつ」
「はあ。お知り合いですか?」
「そうじゃないけど。外、出る時は気をつけなよ」
「なんだか住みづらくなりそうですねえ」
 いつの間にか、外を眺めるキリギリスの目が険しくなっていることに鷹華は気づいた。「少し忙しくなるか」というつぶやきが聞こえた。

 一週間、鷹華はキリギリスを一目でも見ることができない日々が続いた。
 キリギリスは、以前からふらっと出かけて真夜中まで帰ってこないといったことがたびたびあったが、一週間続けて帰ってこないことは初めてだった。
 鷹華には実感がわかなかった。近所のスーパーで品揃えが悪くなったり、近所のホームレスが姿を消したり、街中の治安が悪くなったり、キリギリスが情勢を説明しても、いまいちピンと来なかった。そりゃあ悪い方向に変わっているというのはさすがに理解できたが、いつもと同じ、自分の置かれた状況が少し変わるだけのことだと思っていた。
 右から左へ。いつものように、いつかのように。
 実際、少しだけ変わっただけのことのはずだ。なにか目立った直接的な被害はない、住む場所や仕事が変わったわけではない。ただ、キリギリスがいないだけだ。
 そうではないのだろうか。いつもとは違うのだろうか。それとも、いつかとは自分が変わってしまっているのだろうか。
 鷹華は一人、部屋の隅で自分の身体を抱いていることしかできない。

 一週間ぶりにキリギリスと顔を合わせた。
 アパートに戻ってきたキリギリスは、髪は乱れ顔は煤け、元々よれよれだったコートはあちこち破けているといった有様だった。
 部屋に入るなり崩れ落ちるように座り込んだが、それでも、駆け寄った鷹華に億劫そうではあっても口を開いてくれた。
「ごめん、一度どっかで戻ってこようとは思ったんだけど」
「それはいいんですけど、大丈夫なんですか」
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
 キリギリスにタオルを差し出しながら、鷹華はキリギリスの身体にさっと目を走らせる。少なくとも、目に見える範囲では怪我などしているようには見えず、ほっと一息ついた。
 キリギリスは乱れ放題の髪を整えようとしているのかさらに乱そうとしているのか分からない手付きで髪をまさぐって、
「話とは少し違った」
 キリギリスは顔をうつむかせ、息をひとつ。鷹華を正面から見据えた。
「外に出るよ、鷹華」
「外?」
「街から出る」
 唐突だった。冗談だと思った。
「えと、仕事一段落したらって」
「話が違う。なんかおかしい。原因はわからない。わかった時には手遅れな気がする。なんかやばい」
「でも、どうやって」
「穴がある。外からいろんな物が流れてくるんだから、中からだって外に出られる。時期が悪いから、強引な手を使うけど」
 キリギリスは一気にまくし立ててから立ち上がった。机に近づき引き出しを開ける。中の物を取り出し、鷹華の手に持たせた。
 口径9ミリで装弾数8発の、鷹華がいつか自分でも持てそうだと思った物だった。感想通り、鷹華の手にもすっぽりと収まっている。
 キリギリスは言う。
「持っておいて。お守り」
「えっと、でもわたしこんなの」
「持ってるだけでいい。別に、撃てなんて言わないわ。というか、撃たないで。ほら、あたしはまだ鷹華に家事してほしいからね」
 最後の言葉でいつものキリギリスが戻ってきたようで、鷹華はようやく少しだけ笑うことができた。
「準備しといて。あたしはちょっと外見てくる。まさかこんな街中で襲われるとかそんなことはないだろうけど、用心。すぐ戻るから待ってて」
 背を向けたキリギリスに、鷹華は少し迷って声をかけた。
「あの、これ、わたしからもお守りです」
 キリギリスに差し出したのは、いつか店長から投げ渡された髪飾りだった。返そうと思って肌身離さず持ち歩いていたが、あれ以来店長を見かけていない。カフェも開いていないようだった。
 キリギリスは目を丸くして、
「いや、でもこれ鷹華の」
「わたしのって言えるかは微妙ですけど、でもわたしが渡せるのってこれくらいしかないですから」
 躊躇うキリギリスに半ば強引に持たせる。日頃は見られない強引さにキリギリスは苦笑した。
「わかったよ、じゃ持っとく」
 今度こそ鷹華に背を向けて数歩、なにかを思い出したようにキリギリスは振り向いて、
「順番逆になったけど、外出たらちゃんとおしゃれするんだよ?」
「う、……キリさんもするなら」
「そうね、それもいいか。じゃ、楽しみにしてるから」
 鷹華はドアが開いて閉まるのを見送る。

 少しあとになって分かったことがある。
 鷹華がキリギリスに渡した髪飾りの裏側によく目を凝らさないと気づかないノミみたいな機械がひっついていた。発信機か盗聴器かのようだった。
 鷹華は恐れ多いとほとんど手に取って見ることはなかったし、今受け取ったばかりのキリギリスはそれどころではなかった。
 ことが終わるまでそんなものがあることに気づくことはなかった。
 まさかこんなできることが限られていそうな小さな機械に頼って目的を果たそうとは思っていなかったはずで、おそらくは保険かなにかのつもりだったのだろうと鷹華は推測している。
 だが、結果的にその小さな機械は期待以上の役を果たすこととなった。
 だから、これから先に起こったことはすべて鷹華が原因ということだった。

 キリギリスが部屋を出て、三十分ほど経った。三十分しか経っていない。何度時計の針を見ても時間は変わらない。たった三十分。鷹華には何倍にも引き伸ばされているように感じられた。
 街の外に出る。考えもしなかったことだし、不安であるのは間違いないが、それは自分の置かれた状況が変わるだけのことだ。いつもと同じ右から左へ行くのと同じだけのこと。
 これまでなかったのは、隣に誰かがいたこと、今は隣に誰かがいないこと。
 いつの間にか自分は隣にキリギリスがいることを当たり前と考えていて、隣にいないだけでこうも落ち着かないようになっていたのか。
 すぐ戻ると言った。それに、一週間いなかったことに比べれば今はたったの三十分だ。慌てるような時間ではない。ないのだが、
 座り込んでいた鷹華は立ち上がった。それは、半ば被害妄想に近いくらいの予感だった。
 右から左へ。いつも鷹華はなにかに流されてきたし、今度も流されるままに街の外に出ようとしている。
「だけど、これはわたしが決めたことだ。わたしの意志で、決めたことだ」
 自分に聞かせるためにあえて口に出して行動を決めた。銃を握りしめる。

 キリギリスがどこから外へ出るつもりなのかは鷹華は知らない。だが、まさか大通り表通りを通って出られるとも思えない。
 そう考えて細い人気のない路地に入った。襲われる、とかそんな話もしていたから一応は慎重になっていたのは最初だけだった。
 五分、当たり前のように見つからないキリギリスに鷹華は焦った。早足になる。走り出す。全くあてもなく、入り組んだ路地を駆ける。
 いくつかの角を曲がった。なんでこんなに入り組んでいるんだと思う。行き違いになったのではないかと希望的観測が湧いてくる。
 足を止める。息を整える。再び駆け出す。何度か繰り返した。
 そして、見つけた。
 見慣れた後ろ姿。息も絶え絶えで、口を開こうとして、
 乾いた音がした。たまに聞こえる風船が割れるような音。なのに、あまり安っぽく聞こえず、ひどく耳に響く。
 後ろ姿が倒れた。
「は?」
 ありえないほど冷静な頭のどこかが、恥ずかしいくらい間抜けな声だったと指摘する。
 撃たれたのだ、と判断したのも頭の同じ部分だった。
 これで生きているのなら撃たれて死ぬ人間などいないと思えるほどの量の血が流れている。だくだく、と。
 誰が、とは思わなかった。視線の先にはかつて店長と呼んだ男がいる。
 なぜ、とも思わなかった。話が違う、というキリギリスの言葉を思い出す。
 沸騰でもしそうなくらい頭がフル回転した結果として目頭が熱い。きっと見ることはできなかったであろう走馬灯が代わりに巡っているようにこれまでの全ての時間が流れていく。
 手の中にある物を意識した。自らの指が独立した意思を持っているかのように動いてロックを外す。
 腕がひとりでに持ち上がる。銃口を向ける。まるで自動化されたような動作で初めてのことだというのに淀みない。他人事のように驚いている。
 だけど、引き金を引くのは自分の意思だった。

 鷹華の隣にはもう誰もいなくなった。これから先も誰もいない。
 そもそも、これから先などあるのだろうか。
 鷹華は歩き出した。やり方は分からないけれど、街の外に出ようと思った。そして、おしゃれをしよう。最後に約束したのだから。
 少しだけ寂しいと思うことがある。鷹華の右手はもうきっとコーヒーを淹れることもできないのだ。あの人がそう言った。
 それでも、これは自分で決めて行ったことだった。流されることなく、自分で決めた。これから先もそうする。いつか、最後のその時まで。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

「『お前に書く手紙などない』と言った婚約者へ、私は7年間手紙を書き続けた——ただし、届け先は別の人でした」

歩人
ファンタジー
辺境伯令嬢リゼットは、婚約者に7年間手紙を書き続けた。返事は一度もなかった。 「お前に書く手紙などない。顔も覚えていない」——婚約破棄。しかしリゼットは 泣かなかった。手紙の本当の届け先は、最初から別にあったから。前世の情報分析 能力で辺境の異変を読み解き、暗号として織り込んだ7年分の手紙。それを受け取り 続けていたのは第一王子。リゼットは誰にも知られず、王国を守っていた。 婚約破棄の翌朝、王子からの手紙が届く。「7年間、ありがとう。迎えに行く」

失った真実の愛を息子にバカにされて口車に乗せられた

しゃーりん
恋愛
20数年前、婚約者ではない令嬢を愛し、結婚した現国王。 すぐに産まれた王太子は2年前に結婚したが、まだ子供がいなかった。 早く後継者を望まれる王族として、王太子に側妃を娶る案が出る。 この案に王太子の返事は?   王太子である息子が国王である父を口車に乗せて側妃を娶らせるお話です。

三十年後に届いた白い手紙

RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。 彼は最後まで、何も語らなかった。 その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。 戴冠舞踏会の夜。 公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。 それは復讐でも、告発でもない。 三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、 「渡されなかった約束」のための手紙だった。 沈黙のまま命を捨てた男と、 三十年、ただ待ち続けた女。 そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。 これは、 遅れて届いた手紙が、 人生と運命を静かに書き換えていく物語。

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い

青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。 神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。 もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。 生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。 過去世と同じ轍を踏みたくない……

真実の愛を見つけたとおっしゃるので

あんど もあ
ファンタジー
貴族学院のお昼休みに突然始まった婚約破棄劇。 「真実の愛を見つけた」と言う婚約者にレイチェルは反撃する。

婚約者が聖女を選ぶことくらい分かっていたので、先に婚約破棄します。

黒蜜きな粉
恋愛
魔王討伐を終え、王都に凱旋した英雄たち。 その中心には、異世界から来た聖女と、彼女に寄り添う王太子の姿があった。 王太子の婚約者として壇上に立ちながらも、私は自分が選ばれない側だと理解していた。 だから、泣かない。縋らない。 私は自分から婚約破棄を願い出る。 選ばれなかった人生を終わらせるために。 そして、私自身の人生を始めるために。 短いお話です。 ※第19回恋愛小説大賞にエントリーしております。

【1話完結】あなたの恋人は毎夜わたしのベッドで寝てますよ。

ariya
ファンタジー
ソフィア・ラテットは、婚約者アレックスから疎まれていた。 彼の傍らには、いつも愛らしい恋人リリアンヌ。 婚約者の立場として注意しても、アレックスは聞く耳を持たない。 そして迎えた学園卒業パーティー。 ソフィアは公衆の面前で婚約破棄を言い渡される。 ガッツポーズを決めるリリアンヌ。 そのままアレックスに飛び込むかと思いきや―― 彼女が抱きついた先は、ソフィアだった。

処理中です...