照(テル)と怜(レイ)

須弥 理恩(しゅみ りおん)

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1話  捜査の旅へ

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「怜夜君、新たに頼まれてほしい監視業務がある」

 警視庁捜査二課の局長・武多警視鑑から新たな司令が下ったのは、麗らかな晴れた日の午後だった。
 
 局長のデスクの背後の大窓からブラインドを透かして漏れる日光で、やや薄暗くなった部屋の中、怜夜と呼ばれた長身の若者は、多少の緊張と高揚で端整な顔を固くしつつ直立不動で佇んでいた。警視庁内において砕けた印象の美形として親しまれている彼も、無論この時は後ろでしっかり手を組みながら背筋を伸ばして傾聴する姿勢を守っている。
 武多たけだ局長の方は、大音楽家を思わせる優雅にウェーブの掛かった厚みのある焦茶髪が特徴の中年男性だ。重荘な肩書きが連想させるイメージと裏腹に、フレンドリーな気質で父親のように広く親しまれている。眼鏡を掛けた瞳と口元に人柄を体現する茶目っ気があるが、時折積年のプロに相応しい鋭さを覗かせて抜け目なく光る。

「 標的ターゲットは彼だ」


 言いながら武多は、二本指で写真一枚を相手の見える程度の距離まで押し出す。L判サイズの枠の中には、どことなく一昔前に流行したリーゼントヘアを彷彿とさせる髪型をした陰険な顔つきの中年男が映っていた。真正面から見る者を睨みつけている。怜夜は緊張の走るはずの場面であるにも関わらず、咄嗟に噴き出すような詰まり声を漏らしかけたが、すんでのところで呑み込んだ。

「ある組織犯罪を追っていたら浮上した人物でね。勤続年数の長い大学教授なのだが、多額の研究資金を暴力団に横流しにしている疑いが持たれている」

 教授の人物像については、あまり素行が良いとは言い難いらしい。事務課の職員や学生を問わず、学内の接触する人間全てに対して意味もなく威圧的な態度や言動を取っていたという。怜夜は、あからさまに人相を裏切らない振舞いをするのかと呆れた心地がした。
 少し考えて話し合えば解決しそうな物事に対し、感情に任せて食ってかかっては難儀だと敬遠されているということだった。

「この場合、横暴な振舞いが作戦の一環としてわざと行われている節もある。なるべく他者を不用意に寄せつけぬようにとな。講義も甚く不人気だそうで、自身の希望する分野が彼しかいないという理由のために腹を括って止むを得ず受講している連中が十人にも満たない、という有様だそうだ」

 暴力団との繋がりが疑われたきっかけは、数ヶ月前の大学の春季閉講期間に溯る。財務課の職員の一人が会計管理をしていると不審な点があることに気づいた。教授の研究室を訪ねようとしたが不在で、今まで通じていたはずの教務課に登録されたメールアドレスは全てリターンで送信エラー、電話番号も音信不通、どころか現在使用されていないという音声案内が繰り返されるのみだった。
 
 彼は一切助手を雇うことをしていないので、教授の講義に出席した経験のある学生何人かを掴まえて問うたところ、四月の開講期まで海外の大学に留学すると言っていたらしい。だがそのような予定があるのなら、研究費用の関係で事務課に事前に申請する必要がある。教務課に問い合わせたが、申請書の提出を受けたことはないという。

 また、教授が海外留学に行っているはずの時期に、彼と似た特徴の人相を有する男が深夜、大学のある都市部から電車で一時間程の離れた人気のない山麓付近の町を歩いているのを見たという目撃情報があった。地域住民が皆遠縁を含む親戚となるような場所で、見慣れない容貌の者が出入りしていると自治体長にマークされていたようだ。いきなり尋ねるのも何だということで、農家の仲間に数人、見張りを任せようと思ったが、何度か出没はするものの、時刻も出現する日の間隔も疎らで容易ではない。恐らく最近仕事の関係で現れた業者だろうと特に気にしないことにしたようだ。

 しかし地元では数年前より、畑地帯より大分離れた山の中に立ち入り禁止の区画が作られたと言われており、怪しげな不法投棄も噂されている。住民の中には、夜更けに現金輸送車両を思わせる大型トラックが農道を通過して鉄柵の中に進入していくのを見たという者もいる。この区画の手前まで男が行くところを見た者がいなかったが、ひょっとしたらあながち繋がりはないわけではないかもしれないと自治体長は睨んだ。

 一度昼間に、自治体長である古老を始めとしたグループが探りに行こうと敷地の入り口前まで向かっていったが、鉄門の前にはインターフォンも組織名を書いた表札もなく、おまけに雑草に覆われて閑散としている。更に奇妙だったのが、大型車両の出入りが確認できたのだから、当然あるはずと思われた建造物が、全く柵から見えなかったことだ。

 これは犯罪組織絡みではないかと地元の交番に通報があったのが、現在、武多部長が怜夜と話している日より数ヶ月前、二月上旬である。不思議と謎の男の目撃情報もその時点で途絶えることになる。当然、交番の警官では手に負えない範囲となるので警視庁まで操作依頼が行くこととなった。

 一方、大学の財務課が春の開講期まで待ち、教授の研究室を訪問してみたところ、何食わぬ面持ちで平然と対応された。問題の件を訊くと、予想通りの横柄な剣幕で怒鳴り声と共に取り付く島なく門前払いしたという。

 郊外での目撃情報が大学にまで及んだのは翌日だった。閉講期間中、輸送トラックのアルバイトで訪れていた在学生が、幾度かの出没期間の内の一回に遭遇していたのである。受講生である彼の友人から教授の行動予定を小耳に挟んでいたため、妙に思って教務課に問い合わせたというのだ。それを知った財務課が秘かに警視庁へ連絡して現在に至るのだそうだ。
 ちょうど先に集落付近の謎の施設について調査を開始した矢先であり、教授の件も合わせて進めていく方向に上の会議で決定したという。

「暴力団関係の疑いで先に捜査を進めていた検察側からは、こんな情報が入っている。どうやら男の素情そのものが偽装の可能性が高くてね。経歴詐称の疑いがあるんだ。本名も異なる。実は過去に、当大学に民俗学の研究者として在籍していたことがあるようだが、名誉棄損に触れるような行き過ぎた行為を働き、追放の処分を受けている。当時の顔も現在とは異なっていて、彼の来店記録のある整形外科を洗いだしたところ整形して大学に潜り込んでいたということが発覚したそうだ。過去の在籍時の写真はこれだ。教員録に掲載されていたものを拡大コピーしたものだがね」

 武多は、先に置いた写真と並べるように差し出した。顔つきは現在のものと比較すると、痩せぎすでやや覇気が薄い。どこか神経質そうな眼差しは似ているが、狐目である今と異なり狸寄りの緩やかな形状で、とても強硬な感情を見境なく露にする人物と思えなかった。

「ヤクザとの繋がりや、金を流している理由など具体的な部分についてはまだわかっていない。そこで、監視と潜入、いわば大学での内偵捜査を頼みたいのだ。断定できる段階には至らせるためにも、何としても裏付けを取りたいと考えている」

 大学は自治の原則が強いこともあり、いきなり突撃で正面から捜査というわけにはいかない。怜夜の役割は、被疑者の一人である教授の行動のパターンを細かく把握し、取り押さえて動機を確認した後、逮捕に至れる場を作り出すことだ。不審施設の捜査はチーム編成で別に行われるという。

「被疑者はどうして威圧感の強い、頑固な男だ。帳簿をネタにしただけでは動かないだろう」

「……ところでこの男……今の写真の方ですが、妙に生え際が後退してません?」

 大人しく聞いていた怜夜が、突飛な指摘を洩らした。決してふざけているわけではない。
 怜夜はふとした瞬間に、時と場合を問わず軽い台詞が零れ出ることがある。それは、本人の人間性から来る、至って自然なテンポによるものだった。

「ああ、それはカツラなのそうだ。ストレスで当時の髪の量が大分減ったのだろう」

 対する武多もあっさりと応じる。にこやかな表情を常とするフランクな男性だが、時々絶妙に毒を含ませた言葉を紡ぐ。現在の位置まで昇りつめたことは決して伊達ではないという、彼の切れ者らしさが掻間見える瞬間ではないかと怜夜は思っている。

 「今後のスケジュール等、詳しい話は猫目石君からしてもらう。猫目石君、それでは後は頼んだよ」
 
 先刻より隣に控えていた明るい髪色の男に促した。言葉を受けた男は、慇懃に頷く仕種をした後、怜夜に向けてにっこりと笑いかけた。

「今日もよろしゅうね、怜夜くん」

 客観的には愛嬌のある無垢な笑顔だ。しかし、受け手である若い男の眉間が一瞬苦々しげに歪むのを気配りに長けた武多は見逃さなかった。
 指名された直属の上司の存在が、怜夜にとって未だ煮え切らぬものがあることは充分承知している。慣れない部署で歩み始めたばかりの若き部下の背中を押すべく、気遣いの言葉をかけてやることにした。

 平静にしている明るい髪の男と、溜息を呑み込んだような表情で身を固くしている怜夜を交互に見比べた後、やおら後者に向かって労わるように切り出す。

「……まだ、着任してからそれほど時間が立たないところ、多大な労をかけるな。だが、指令を受ける立場がどう切り出すかで拓ける大きさは変わる。まとめる者としてせめてもの言葉だ、健闘を祈りたい」

「こっちやで、怜夜君」

 武多が言い終わるのを合図にするかのようなタイミングで、控えていた猫目石は機敏に静かな歩調で怜夜を別所へ導いた。彼は廊下の近くにあるラウンジのような一角まで手招きすると、スツールに腰を下ろした。ラウンジには、曇りガラスでできた仕切りによって等間隔に数個設置された小さな机と、それを両側から挟む形で向かい合わせにスツールが立ち並ぶ箇所がある。二人が足を運んだのはその一角だ。
 促されて、怜夜も腰を下ろす。

「部長も心配性な人やねえ。長いこと秘書やってきてんのに、そんな僕でも不安なんやろか。せやたら端から委ねんかったらええのにねえ」

 当の本人はさして痛手を受けた風でもなく、あっけらかんとした締まらない笑顔を浮かべていた。

「……ところで話変わるけど、さっきから不機嫌丸出しやね。僕と二人きりになる段階で、いっつも顔のどっかが歪んどんのやね。ここに配属されて二年も経つのにどーかと思うねんけど。ついでに男前の魅力も半減やで?」

 部下の未熟度を呆れて嗜めるというより、親しくなり掛けた友に見放された時のような物寂しげな口調で指摘する猫目石。怜夜の胸中は悪化の一途を辿った。

(あんたこそまだ気づかねーのかよ……。誰かさんが糺してくんねーから、露骨に顔しかめてんだろ……。俺も、警察関係者として以前に社会人として出来ればやりたくねーわ)

 苦笑いを押し殺すかのような調子で内心悪態をつく。言う通り自分でも毎回わかっているのだが、もし第三者が介入すれば、客観的に見て止むを得ない必然だと納得してくれるだろうと怜夜は希望的観測をしている。

 先程から自身と向き合っている男――猫目石安胤は非常に奇妙な成りをしているのだ。

 猫目石安たねは警察関係者だ。警視庁の建物内で業務をしていれば百%当たり前の事実だが、“非常に奇妙な成り”をしているということは明らかな異常を示している。

 まず頭髪の色が、目が醒めるほどに明るい。茶色に染めることは昨今珍しくないし許されるが、彼は大胆にも金髪だ。しかし中途半端に眉は黒い。染めたものであることが明白である。自分のように、先天的に肉体の一部において青い色素を備えているのとは異なるため、何となく不自然な色合いに映る。

 青い縁眼鏡を掛けている点に関しては、とことん普通だ。白い無地のポロシャツに灰色のスラックスを着ているのも平凡の範疇である。だがその上に三毛柄のサスペンダーを付けてしまうのはどういう了見だろう。そしてネクタイにまでしつこく三毛柄を選ぶなど徹底具合が半端ない。
 
 対人の物腰は柔和且つにこやかで、眼鏡を光らせた白皙の面長は同性の怜夜から見ても整っているのに、金髪と三毛柄が強烈な違和感の二重奏となって綺麗な土台を木端微塵に破壊する。先刻から怜夜が形の良い眉を変にしかめているのは七割方このせいなのだ。
 異様なファッションについては何も本日から始まったことではない。現在の部署にスカウトされた当時からこの様相だった。初対面の際は、正常な思考で相手の話を聞こうとするのに二分ほど費やした。 関係者が変人でもつき合いを経れば慣れていくものかと思っていたが、残念ながら結果は未だに猫目石の言葉で言うところの「二人きりになる段階で、いっつも顔のどっかが歪」む始末である。
 ちなみに大の男が三毛柄なんてファンシーなものを使っているのは、特徴的な己が名字に基づくものであろうと怜夜は勝手に推測している。敢えて質問を実行していないのは、何故かなんとなく触れてはならない領域を突くようで不気味に思えたからだ。

 しかし何より最大の恐怖且つ謎だと感じるのは、現在の部署に足を踏み入れて以来、周囲の人間の内、誰一人として猫目石に服装の異常性を指摘・注意・叱責する人間を見たことがないということだ。
 怜夜は目を疑い、開いた口が塞がらずに困った。猫目石を紹介されてから数分後、意識が再びはっきりした時、武多の表情を伺ったが怜夜の視線の意味を察した様子はなく、側近の部下の特殊な服装には一言も触れずにその日の挨拶は終わった。

 こんなおかしな者を容認しているということは、この部署も相当に特殊な思考回路を持った超変人の集まりなのか。いや、恐らく何度も注意を試みたのだろうが、彼特有の飄々とした態度でのらりくらりとかわし続ける挙句、疲れ果てて諦めたのか―。いや、度重なる巧みな回避の結果、容認というより黙認せざるを得ない状況に落ち着いたと見るのが正しいだろう。
 或は、周囲が沈黙を守っているのは、捜査二課最年少のエースとして、過去の記録を更新するほどの優秀な実績を幾つも叩き出していること故の特権が働いているのか。
 そのような理由を無理矢理にでもでっちあげない限り、現実的に罷り通らないはずの現象なのだ。風紀を乱すというレベルを遥かに超えている。少なくとも、強固な集団で規律と一律を当然の最原則とするころを出発点として務めて来た自分からすれば、有り得ない現実だった。それどころか、命を天秤にかける規模だった。こんな遊び半分にしか見えない恰好で許される世界など、どこまでもふざけているようにしか映らない。カジュアルスタイルの認められている部署もところによっては存在すると聞くが、現在の国内における警察機構に限っては耳にしない。

 怜夜にとって現在の居場所に身を置いているのは仕方の無い成り行きだったとは言え、このような上司に拾われたことがつくづく情けなく思える。

 現在、所属している人間の中では一番後から入って来た自分が割を食わされている。できれば先輩方の手で始末をつけておいてほしかった。運悪くハズレくじを引く羽目になったのだろう。
 おまけに怜夜を悩ませる直属の上司の“根本的な部分”とは服装のことに留まらない。身なりは人を物語るというが、ある意味正鵠を得た表現だろう。
 絵に描いたようなと言うべきか。漫画的なまでに懐の読めないタイプであったところが、悪印象を二倍マシにしていた。

 真っ直ぐなやり取りを好む怜夜にとっては天敵に近いと言っても過言ではないほど苦手な種類なのだ。声の調子は柔和だが、どこかとぼけた、人をからかうような底の知れない言動で話しかけてくる。この態度が意図の読み悪さを増幅して警戒心を駆り立てていた。
 チームワークを比較的大きく求められる組織にあっては、腹を割った間柄を築き合うべきとされるのに、逆に不信感を生んでどうするのか。絶望的な現状だが、ほぼ永久的に垣根は越えられないだろう。

 司令塔の武多は人格者なのに、よりによって滅茶苦茶な軟派者を秘書役として脇に置いているなんて、よほど重度の人手不足に見舞われていたのだろうか。 服装に目を瞑っている不手際については先に指摘した通りである。精神バランスの平衡が取れた若々しい紳士に見えて、案外ヤキが回っているのかもしれない。
 まあ、このように思考を掘り下げていったところで堂々巡りに陥るのが常だ。結論を導く作業に疲れを覚えたところで中止するのがお約束である。以前の部署も性質上肉体的波乱があったが、今回の部署は精神的な面で体調を案じることになるだろう。
 怜夜とて、同じ警視庁に属するからには、例え場所を違えども任務自体には常に誇りを持って取り組む気でいる。至極当然のことだ。いつどのような状況でも、場面でも、決してそれは変わることはない。

 しかし、篤い信条の維持も今対面にいる人物と出会うまでの話となってしまった。

 例外として出現したこの中間管理職の上司が儚く覆したのだ。故に怜夜も、不遜な態度を露骨に押し出すことを躊躇わない。

「武多さんの丁寧な説明が既にありましたからね。もう充分に実行するべきことは頭に入っています」

 本当に世の中分からない。これで捜査二課最年少のエースとして過去の記録を更新するほどの優秀な実績を幾つも叩き出しているというのだから、狂っている。

「やあん、無愛想☆ 君、以前おった武闘派の部署の中でもヒョウキンなタチやったって、聞いてんのに、いつから堅なってしもたん? 今からやんの、潜入捜査やで? 変装とか柔軟な真似を必要とするところで、気難しさ出すのまずない?」

 怜夜の素っ気なさに、微塵もたじろかぬ無神経さで返す。台詞の一つ一つが煽り立てる要素として機能していることに気づかぬ様子である。
テーブルの下で青筋が膨れ上がろうとする両の拳を宥めながら、怜夜は引き続き胸の裡で罵倒の突っ込みを飛ばした。

(任務は任務としてまともに当たるに決まってんだろ! 俺の態度と関係ねえし、つうか、その原因生み出してんの誰だっつー話なんだよ)

 奥歯を噛み締めつつ肩を震わせる部下の面持ちには構わず、猫目石は至って穏然とした口調で言葉を続けた。

「堅いと言うたら……。君のお父上、群青冷泉警視総監は、堅物の見本みたいなお方やなあ。そこは親子の遺伝なんかもしれへんね。せやけど、冷泉さんの堅さはベテランの経験値と年齢、役職に相応して働いてるもんやから……君の頑なさと釣り合い取ろうとすんのは失礼になるやろな」

「父を引き合いに出すのは止めてください」

 間髪入れず言い放った。
 たいてい猫目石は嫌味と解釈の仕様がある言動を取るが、実際のところ本人には恐ろしいまでに嫌味を込める意図がない。短いつき合いでも思い知らされた事実だ。その点は、この瞬間に際しては問題ではなかった。
 鼻に付く口調を抜きにしても、冷夜にとっては、実父が話題に上ること自体、鬼門なのである。
 単純に、不機嫌な感情が訪れたというには重たい色合いで、真っ直ぐに相手を睨み据える。目つきは紛れもなく剣呑でありながら、制止を求める際の口調は嘆息混じりで、諦観の念が潜んでいるようでもあった。

 連続していた平坦な流れが歪に途切れたような、硬い空気が二人の間に一瞬にして垂れこめていた。
 にこにことしていた猫目石の糸のように細い目が、僅かに見開かれて止まる。
 怜夜は、暗く冷たい視線を投げ掛けてから暫くすると、目を逸らして黙り込んだ。屈辱感を喉元に詰まらせたように、時折唇が緩んでは堅く結ばれている。

「お? 偉大な父親は重荷ゆーあれですかいね?」

 それでも持ち前のノリは呆気なく再開した。悪びれる気配など窺えない。
家庭事情が絡んですら、軽率な口の効き方に歯止めがかからないのか。空気を一向に読まない、賑やかしのつもりであろうおどけた調子が更に神経を逆撫でした。

(今さらだけど、これだからうんざりだよなあ……)

 偶然、親が同じ職場内にいるという状況を有する者であれば、誰もが一度は抱えた苦悩だろう。話題に上り軽く触れられることも辛いが、あまつさえ並べられるというのは煩わしく面白くない。しかも、比較対象が一部署に留まらず尊敬と畏怖を集めるトップとくれば、重圧は如何ほどのものか。

 別部署であったのが未だ幸いだと改めて思う。もし部隊形式を離れるなら、従来華型とされる捜査一課に加わりたいと望んだものだが、父が君臨しているなら別だ。癇に障る上司など一時のものとして、今の環境で腹を括るしかないだろう。皮肉なことだが、父の存在を思えば猫目石の荒唐無稽な出で立ちなどまろやかなものに映る。

 組織内で群青怜夜が名字で呼ばれることがない理由は、以上の事情を踏まえてのことだった。警視庁で群青と
付く名前の人間と言えば、捜査一課にて警視総監を務める群青冷泉のことになる。いかに名高い重鎮として組織の存在を大きく占めるのか明らかだ。仲の良し悪しや部署の違い、立場の上下や知り合いの程度を問わず、交わった全ての者が必ず怜夜を下の名で称する。姓名ファミリーネームを聞いた瞬間、問答無用で警視総監の子息と判るからだ。結果、新人にまで教え込まれるべき一つの慣習として根付いてしまったのだ。
 つまり、自身の存在はどこに居ようと筒抜けであり、あらゆる方向から評価と比較の目に晒され続けているというわけである。

「あー、わかった、わっかた。話逸れてもうてゴメンゴメン、お父様はどーでもええよねホンマ。よし、ほなこっからイヨイヨ本題やで」

 部下の瞳に疼く微妙に粘着性の込められた怨めしさを流石に嗅ぎ取ったのだろうか。会話の中に父の名を持ち出してことについて、一応は謝罪めいた一言をくれた。直後にテンポ良く舵を取り直す。 
 かなり強引な軌道修正だと思えたが、平常運転の一種なので別段取り合わない。ここまで極まると、逐一目くじらを立てることも億劫となる。
(なら早くしろよ)と内心から苛立ち満タンに急かす怜夜の手前、飄けいとして泰然自若な猫目石は世間話の続きのような調子で切り出した。

「潜入と言えば身分偽装やねえ……」

「フィクションの学園ドラマとか刑事ドラマみたいなノリで呟かないでください」

 防衛本能のように、思考するより先に突っ込みが飛び出た。掴みどころのない相手が現在最も直近で身の振り方を決定する存在であることから身構えていた矢先、何を言い出すかと思えばスパイの真似事を課そうとしていたらしい。
 別段、組織柄からして不自然でも珍しいことでもない。第三課の有名な張り込み捜査ならずとも、標的となるホシの手掛かりを確実なものとして固めるべく、探偵のように多少肩書きを偽って潜り込む手法は一種の定例だ。

 怜夜が敢えて警戒に近い心情と共に、前持って咎めるような言い方をするのは提案者の姿勢を憂慮してのことである。
 こいつの場合、公私混同の場合があり得る。ゾワリと嫌な予感が泡立ったが、顔の上では平静を気取り更なる次の言葉を待ち構えた。潜入先で、あわよくば自信のある己の容姿によって異性の集目を企んでいた彼にも人のことは言えるのであるが。
 常識的に納得のいく範疇ではなく、どこか妙な方向に逸脱した形式内容で任されてしまうのではという危惧があったのだ。
 実際、待機中の緊張感に生唾を飲み込む暇も与えられぬ間に 〝嫌な予感〟は的中した。的中は訪れた。こちらの悪寒に染まった顔色を読み取った風もなく、無神経な上司は突っ込みを受けた僅か2秒後にのんびりと運命を語り始めたのだ。

「容疑者は大学に在職中の人間。その条件で潜入捜査というからには、やっぱり君には他でもあらへん、“現役大学生”の役を演じてもろたいと思うねん。……気分、若返るやろ?」

「はあああああっ!?」

  心の底から滑稽なほど素っ頓狂な声が溢れ出たのは何年ぶりだろう。声と同時に、肉体にも大袈裟な動作反応リアクションは表出し、目の玉がひん剥かんばかりに飛び出るという事態が文字通り引き起こされた。自慢の美しい青瞳も、この瞬間にはコメディリリーフでしかない。

「俺、二十五っすよ? そりゃ浪人とか六年制の学部だったら珍しくないっすけどねえ……キツイっすよ、コドモのフリは。だって最近の大学生って、ガキじゃないすか!?」

 自分でも酷い偏見だと思いつつ、彼の中にある拭い去れぬ価値観も手伝って同列視される扱いに忌避が働いた。何より、高校卒業後すぐに社会人になった彼にとって学生の身分を課されるのは屈辱的である。

「あと、若返るとか慰めにもならない蛇足の一言要らないですっ!」

「ほな、特別のルートで先方の学生課にニセの転入書出しとくから。まあ雰囲気で教養部の三回生にしとこか」

 抵抗を込めた必死の叫びも馬耳東風で意に介さず、勝手にさくさく進めている。悪企みを愉悦する陰湿な笑みでも浮かんでいればまだやり易い気がするのだが、好青年らしい涼しげな調子を崩すことがないだけに始末が悪い。

「せめて非常勤講師にしてくださいよ……。教壇に立つ身分の方が、女の子の視線も否応なく向くし……」

 最後、尻窄みに付け加えた一言は、窮地に対して気を落ち着かせる怜夜なりのジョークでもあった。
 女好きであるのは、警視庁の女性職員間でも広く知られた彼の紛れもない特質だったが。
 非常勤講師というのは自然な予測の内として上げたことだ。言うまでもなく、年齢相応に教導側を割り振られると思っていたのだ。
 苦言を受けた猫目石は、無邪気さを詰め込んだ屈託ない満面の笑みを貼り付けつつ禁句に近い言葉を放った。 

「君、童顔傾向やない?? 先生として見るには幼な過ぎんでえ~。女子大生さん達も、可愛い後輩か憧れの先輩くらいには思ってちやほやしてくれるやろうけど。ま、新入回生にされるよりは格段にマシやろ? 」

 世の中には、幾ら正当な弁論を重ねても無駄な輩が存在する。そのような者の脳内には、気遣いや配慮といった単語も概念も端から無いのだろう。
 怜夜は腹を決めた。

「上等っすよ!? 言いましたね、言いましたよね猫目石さん!? ええ、部隊経験者の俺はこれしきのしょ~もない戯言一つでパワハラ騒ぎなんてしませんとも!?」

  実際口から吐き出している台詞とは裏腹に、表情は童子じみて嫌気を正直過ぎるほど露呈していた。怒声を発すると共に、乱暴に席を立っていたことが彼の興奮具合を物語っていた。

「ダメやでえ、怜夜君。上司に〝売られた喧嘩は買う〟なんて言っちゃあ。お父様の権限でもそれは許されへんよ?」

  あからさまな激昂を目の当たりにしても、わざとなのか、間延びした言い方で平然と爆弾を投下し続ける。徹底した無自覚な挑発と嫌味を連ねる姿には、いっそ清々しい後光さえ見えそうだ。怜夜はそんな錯覚を催す。

「曲解と拡大解釈はやめてください!! いつどのタイミングで“喧嘩”の単語出ましたか!? あといい加減耳にタコです、親父は関係しません!  というか、そもそも俺を助けるようなことはしません!! ……さあ、必要なことは伝え終えましたよね、もう行きますから!」 

 強制的な打ち切りだった。やけっぱちな口調で一方的に叩きつけた時には、廊下の方向へ身を翻している。

「行動する元気が溢れて来たみたいで良かったわ~。ほなねえ、気ぃつけて行ってらっしゃ~い☆ あ、追加の詳細事項とか捜査期間の日程に関してはメールでまた連絡するからよろしゅうねえ~」

 この世の全てから一切の悪意を刺し向けられても、その経緯を考慮することもなくかわし切る人間がいるとすれば猫目石安胤を置いて他にいないに違いない。彼の方は穏やかに着席したまま、むしろ、からかうのが愉しくて仕方ないという風情さえ孕んで、見る間に距離を離していく部下を視線で追う。

 憤懣遣る方なく肩を怒らせながら、大股な足取りで床を踏み鳴らし去って行くその背を猫目石はあくまで微笑ましげに見送っていた。



 曲がり角に入り、五歩程度進んだ辺りの位置まで来たところで怜夜は、さすがに大人げなかったかと冷静な思考がもたげてきた。大袈裟な動作に力を入れていた熱が鎮静化してくる。

 その時、ちょうど前方から、二人の人物が歩いて来るのが見えた。

 先頭を進んでいるのは、ベージュ色のパンツスーツに身を包んだ女性だ。小柄だが凛とした顔つきをしている。恐らく怜夜と然程年齢差のない頃だ。なかなかの美人だったが、堅い雰囲気なのは若干怜夜の好みからは逸れる。
 だが、そんなタイプの女性が伴われているのには事情がある。彼女の主君というべきやや後方を歩く男が、鋭利な雰囲気に見合う程の威圧感を隠さず滲み出していたからだ。

 日本人にして丈一メートル九十センチを超える頑強な体付きを鎧のように固めているのは、まるで墨汁でも流し込んだように隅々まで暗黒に染まり切ったスーツだ。 それはさながら、月明かりも星明かりも見出せない重厚な闇夜を彷彿とさせた。
 格闘家ほど隆起の目立つ大柄ではない。頬骨さえ出た四角寄りの面が痩せた形を漂わせている一方、明らかに隙なく締まり切った体躯が圧倒するような凄みを放っている。
 信頼感の湧くボディーガードというよりは、夜道を不安にする死神を思わせる。
 
 警視庁内で知らない者はいない人物だった。彼と擦れ違えば決まって、怜夜の美麗な青に煌めく双瞳には苦渋の影が落ちる。鍛錬を欠かさない全身も、彼の前では袋の鼠の如く無力に強張っていた。
 厳格な修行僧を思わせる冷泉という名も強烈な印象インパクトを滲ませると共に、直入に人と成りそのものを物語っている。定型の人物像に恐ろしく当て嵌められた例であろう。
 気不味いとも言えることに怜夜は彼と、珍しいとも言える姓によって瞭然たる切れない関係に結び付けられていた。比較され、関連づけられることを免れる血のえにしと生業。

 他でもない、彼こそ自身の実の父――かの群青冷泉なのだった。猫目石が引き合いに出していた存在その人である。
厳めしくも端整な人相は、怜夜とは何となく親子であると周囲にも充分な納得を与える。
 しかし、纏う雰囲気は随分異なっていた。

 父親の冷泉の方は、百獣の獅子に匹敵せんばかりに頑強たる王者の風格を醸し出していながら、確実に積年を生きた者特有の苦渋を物語るような皺がどこか鋭いラインでもって全身に幾重にも刻まれている。
 だがそれでいて、老衰を匂わせない精悍に張り詰めた瑞瑞しさ・猛々しさが決して強くない主張で漲っている。何より、裏打ちするように切れ長い双眸が由々しい眼光でもって空間を睨めつけていた。
 本人には、睨んでいる意図はないのかもしれない。しかし、例え生れつきの形であったとしても、彼の眼前を取り巻く者全てを圧殺しかねない空気に覆われていることは事実であった。
 気さくに人の輪へ割って入ることで緩く縁を繋ぐやり方の息子とは、どこまでも対照的で異質だ。

 また、規律を原則とする職場の中であっても、怜夜の方は割合人間的欲求に正直であったが、冷泉警視総監の方は厳粛なまでに禁欲的であった。
 いつ何時に誰に対して姿を晒そうと、その姿勢は常に盤石として揺らぐことがない。
 感情的な怜夜にはどこか機械的かつ人形的に思えて、理想とされる完璧 や威厳性を通り越し不気味に映ることがある。宿命的に相容れぬ性分だからだろう。

 ちょうど、男の先を歩く女性と肩の先で擦れ違う寸前、女性の方が怜夜に会釈をした。事務的な堅い顔色は崩れなかったが、たった一言「失礼します」と簡潔に囁かれた声は透明感があり、この瞬間には怜夜も本能的な部分が働いて親身な調子の受け答えを返した。

「お疲れさん。大変でしょ?」

 生真面目そうな風貌から機嫌を損ねるかもしれないと危惧したが、声をかけた途端、新雪のように白い頬が染まるのが視認できた。愛想に乏しい面構えだと思ったが、意外に可愛げもある女性らしい。
 身分は秘書官かと思っていたが、近い位置にまで来た際に彼女の胸元に付けられた名札を見ると、本来の肩書きは刑事のようだ。若い側近は秘書的業務を任される面もあるから、忠実な部下として勤勉にこなしているのだろう。
 後方の男のことは、その場にいないかのように一声も掛けず前方だけを意識して突き進んだ。相手も同様に、沈黙と堅い無表情を保ったまま通過する。
 共通して意図的な無視を決め込んでいるのか、一瞥も寄越して来なかった。
 そんな親子の対比を、女性刑事は不思議そうに見比べていた。
 姿が遠ざかりつつある間、幾度か振り返り様に、怜夜のどこか曇った表情を窺っている様子であった。
 心配をかけられているらしいことに胸中がほんのり温かくなると同時、第三者である彼女に対して申し訳なさを感じた。訝るのも無理はない。
 無愛想で冷めきった親子関係のようだが、事実、喜怒哀楽の感情を問わず砕けて話し合うことはない。あくまで仕事場だからという理由でビジネスライクに割り切っているとか、そのような次元の問題でもなかった。

 父とは言葉を交わす気が起きない。起こしようもない。起こす気力も勇気も湧いてこない。怖い親を相手にする純然たる幼児のような脅えとは異なる種類の忌避感があった。誰にも上手く説明し得ないもどかしさが悶々と燻る。

(まあ、常にほぼ一瞬のことだからな)

 一気に脱力したかの如く、次の瞬間には打って変ってやれやれと軽薄な苦笑に唇を緩めると、何事もなかったという気分を自身に装いつつ廊下を直進し続けた。

 食堂に近い場所まで差し掛かった時である。見覚えのある姿が視界に浮かび上がった。
 見覚えがあるも何も、かけがえなく懐かしい相手だった。

 刈り上げた茶髪のショートカットとそれを雄々しく引き立てる整った爽やかな顔。強健さを備えながら、ひょうきんな印象に輝く円らな瞳が親しげな頼れる兄貴風の印象を醸していた。

 見誤るはずもない。部隊にいた時に世話になった先輩の一人だった。今もトップを走る現役であると聞いている。
彼は今オフィシャルな背広に身を包んでいた。折り目正しい襟で覆っていても厚さを隠し切れぬ胸板を姿勢良くそらしながら、現在怜が歩く位置より五メートル離れた地点から逞しい足取りで歩み寄って来る。

 向こうも怜夜の視線に気づいたらしい。目が合った一瞬、懐かしむような、気遣うような、どこか哀切を含ませた表情を凛とした顔つきに浮かべた。

 怜の胸中もやや複雑だった。部署が変わった今も胸の内に流れる敬意の念は薄れていない。だが、自分はどのような表情で応じれば良いのか。先輩の反応以上に、困惑の拭い去れぬ歪んだ状態になっているような気がした。
 一メートルの間隔まで狭まった時、自然両者の歩みは止まった。互いに、無言のまま見返し合うだけの時間を暫し送るかと思われたが、先に口を開いたのは先輩だった。


「よ、よお……。久しぶりだなあ。元気か?怜夜」

 気不味げな口振りである感触は滲み出ていたが、声音は熱情と張りに満ちていた。
彼も下の名前で呼んでくれる。暗黙の規定による儀礼的意味合いではなく、心底親身な間柄としての飾らないニュアンスが堪らなく嬉しかった。

「はい。おかげ様で」

 対する自分が咄嗟に紡ぎ出せた答えは、情けないことにどこか事務的で単調な形だった。内心では、何がだ?と羞恥を覚えて自問する。
 正直に言えば、喋り出せる勇気がなかった。故に最もらしい返答も絞り出せない。
 忙しい合間でも良い、何かの拍子に一度くらいは顔を合わせたい。本音ではそのような、親愛を込めた思いを素直に吐き出してしまいたかった。そうすれば、奥底に燻り滞納された鬱屈が霧消するのではないかという希望があった。
 稚気に彩られた甘えとなじられても構わぬから、信頼できる唯一の相手に委ねてしまいたい。
 だが、そう欲した結果として、吉が得られるのか凶が得られるのかは断定できなかった。
 過去にある後ろめたさの引き金となる可能性も強まるのだから――。

「俺は元気です。先輩もお元気で」

 強制的に打ち切ってしまった。何とも不自然な幕引きだ、どう足掻いても不器用な自分には苦悩を抱えた状態を誤魔化し切れない。
 別にの出来事は、この人と直接関係のあることではないのだ。それでも無性な居心地の悪さは絶え間なく湧き出て涸れることを知らない。突然の脱隊の決定で、多少なりとも迷惑がかかったことが嘘でもないのは確かだ。
 
 相手の、未だに次の言葉を探しあぐねているかのような先輩の何とも言えない眼差しに、僅かに憂えるような目つきを送るが瞬時のこと。郷愁の念に似た懐かしさが溢れるのを押し殺し、取り繕うように首を軽く一振りした後、力強く口の端を広げて泰然とした頬笑みを描く。

 先輩の瞳には少し案じるような色合いが残っていたが、直後、切り替え良く安堵に近い笑みが灯る。

「おう。頑張ってるな、怜夜。じゃあ元気でやれよ」

 簡潔に後輩への言葉を呟いて、怜の来た方向を突き進んで行った。

 きっと背中を押してくれたのだろう。
 修飾詞をこねくりまわさない、ただのシンプルな言葉の投げ掛けの方が先輩らしい純粋な励まし方だと思えた。
例え煩悶を積み重ねても、前を向かなければならないという啓示なのかもしれない。

(例え場所が遷移してかわっても、あなたが上官でい続けてくれればよかった)

 ふとした瞬間に古い縁のある者に会えば、何となくそう念じずにいられぬ感覚がする。

(もち、あり得ない願望なんだけどさ~)

 自身を鼓舞するかのようにわざと軽薄な口調で胸内に呼び掛け、冷静に立ち返る。
 気休めながら身が奮い立つような心持がした。





 その日は定時で帰宅となり、怜夜はワンルームマンション の住まいに上がって直ぐ風呂を沸かした。ネクタイを解いて一気に全てを脱ぎ放ち、大切な日課である入浴を堪能する。

「風呂無しかあ……パットとしないボロでもそれなりに水回り整ってたのに、更なる転落とはねえ……」

 湯船に腰を下ろすや、なみなみと湛えられた湯面に口元まで埋める。
 
 打ち合わせ終了後の廊下で呈した鬱屈とした雰囲気はどこへやら、美男子に似合わないみっともなく弛緩し切った顔つきで愚痴っぽくぼやいていた。精神的な切り替えについては、割合潔い方なのだ。何より、熱い湯が快く疲労を溶け崩してくれる。

 逞しい形の両腕を浴槽の縁にもたせかけ、リラックスの息を吐いて淡く光る天井を仰いた。

 名だたる現役の警視総監を父に持つ怜夜は、決して実家が貧窮しているわけではない。実家の住所も都内だが、職場絡みのことで父に目を付けられる煩わしさからマンションで一人暮らしをしている。また、同じ都内といっても実家は市街の喧騒を遠ざけた高台の住宅街にあり、最寄駅からはかなり遠い。  通勤の便から言えば、生活度はともかく市街地に立つ集合住宅の方が遥かに良かった。徒歩約10分以内で辿り着ける。たまにバイク通勤をすることもあるが、雨天の日も考慮すると最適の選択だったと言えるだろう。

(母さんのメシは最高だから、それだけなら遠距離通勤でも良いんだけど)

 当分お別れとなる自宅の風呂に名残惜しい気持ちで浸かりながら、派遣先の住環境を憂える呟きを洩らす。組織の費用で賄われる物件だから仕方ないとして、こよなく独り風呂を愛する冷夜の視点から見れば些か耐え難かった。

「風呂無しかあ……パットとしないボロでもそれなりに水回り整ってたのに、更なる転落とはねえ……」

 そう思う反面、決して本気で苦痛に感じているわけではなかった。警察学校時代は余儀なく寮生活を送っていたため、ある程度の不自由には慣れている。規則は当たり前のように厳しかったが、衣食住には無論困らなかったのだ。

「温泉の入浴剤入れて、一人で瞑想してボーッと寛ぐの、好きだったんだけどなあ。寮生活以来だな、久しぶりに集団風呂で満足するか」

 不便でむさくるしくも賑やかだった湯煙の風景を懐かしく思い出しながら苦笑した。

 五感が逆上せると告げる寸前、湯船から腰を上げ、シャワーでバスオイルに浸された身体を軽く洗い流す。
 今時の若者の例に漏れぬ顎の小さい逆三角形の顔つきでありつつ、本職で培った鍛錬の成果が見事に掘り込まれた肉体が顕在していた。凹凸豊かな造形美が、網目の如く張り巡らされる液状のラインに彩られ、若者相応の瑞瑞しさがより香り立つようである。生れついての均整的な美しさもあったが、彼の場合、細身にしても筋肉量は抜きん出ていた。

 第二課の一員になった今も頭脳労働は苦手としているが、児童期から体育の成績は保健も含めてずば抜けて良く、堅実に体型へ反映されることは止まない。家庭柄、各種の武道を叩き込まれていたことも関係しているだろう。

 浴室から出ると、適度にタオルで髪と身体の水気を吸い取った後、頑健な全裸を晒したまま洗面台の前でドライヤーを入れ始めた。洗い立てのぬば玉のような緑髪も、巻きの強い質のせいか上手く伸びず弾力によって何度か縮み上がる。いつものことなので気にも病まず、数回ブラシを掛ければ程良く仕上がった。

 汗掻きで平熱の高い怜夜は、身体を拭いてしばらくは寝巻を着ることはない。薄く肌触りの良いバスタオルで括れた腰元をシンプルに包み、筋肉美の眩しい火照った上半身と長い両脚を露にしつつ、居間の冷蔵庫へと向かった。風呂上りは冷えた缶ビールと決めているのだ。ハンガリー産の輸入品だ。

 取り出す傍ら、何気なく冷蔵庫の隣に置かれた小箪笥に視線を動かす。その上に立て飾られた写真――幼き姿の自分を中央にして、背の高い締まった体格の男性と、麗然とたおやかさを纏ったうら若い女性が両脇から抱きかかえている光景があった。父と母だ。

 父は、端整ながらも一目見ただけで相手を委縮させかねない険しい面立ちで佇んでいる。レジャー施設にいる最中での一コマだというのに、仕事をしている時と変わらぬ刃を研ぎ澄ましたような鋭い瞳で前方を見据えていた。
 一方の母は、この部屋の主である青年と同じ、青い瞳で優しく見返していた。
北国の泉を思わせる、深く染み渡るような透明度の高い色合いだった。怜夜のものは、確かに継承された同じ青には違いないのだが、どちらかと言えば北の力強い海の濃淡を思わせる色合いで、写真の女性の方が優しく澄み切っていた。

「寂しそうにしてないかね。気骨あるけど、案外よく泣くしな」

 実体では現在目の前にいない産みの親を思い返しつつ、口では至って呑気な調子で呟く。点けたテレビの前にクッションを敷いて胡坐を掻き、缶を開けて勢い良く喉に注ぐ。
 
 また新たに、ターゲットの確保を目指して綿密に張り込む日々が始まる。忍耐を要する気の遠くなるような任務だが、上から割り振られた役割であり、己の現在の居所である以上、律儀に臨むしかあるまい。厄介な上司のことは、当分は通信越しにしか応酬がないのだから忘れたように過ごせるだろう。

「ま、明日から気合い入れて、いつも通りになるように張り切るか」

 軽く肩を解すストレッチをしながら呟くと、あっと言う間に少量となった残る液体を一気に呷った。

(二話へ続く)




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