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2話 ひょんな出会いが待っていた
しおりを挟む月の光が強い夜だ。人口照明に例えるならば、百ルクスかと思われるほどの明るさである。
四月上旬のまだ冷たい冷気で冴え渡っている。赤月照信の頭の中も気持ち悪くなるほどに冴えている。
日中の忌まわしい出来事の記憶が枷となって、睡眠を充分に取りたいと願う夜なのに眠りにつけないのだ。
逆に、進んでしたくないに決まってはいるが、条件反射のように勝手に浮かび来る忌まわしい出来事の回想は繰り返していた。
それは、本日の昼間に行われた在院生春季発表会終了後に受けた呼び出しでのことだった。
「貴様には才能がない。本来なら百歩譲ってもこの一言に尽きるのだが、私の良心より捻出した特別な最大限の慈悲により、趣向を凝らした修辞でもって貴様に評価の言葉を送ろう」
“才能がない”――完膚なきまでの断言である。
不足部分の指摘や思わしくなかった点の批判こそあろう。間違いなくどの学生にも、苦いながらに必要な栄養素と言えるものだ。しかし根こそぎから無視して空っぽ扱いは如何なものか。また、聞き手となっている人間が、冷静な大人の感覚で構えていられれば良かったのだが、当の該当者である赤月照信という青年には、針の筵に立たされた心地以外の何物でもない状況だった。心臓部の痛みが疼くのに合わせ神経に緊張が走り、全身が硬直し切って蝕んでいる。
中途段階の時期でこの有様である。
先が思い遣られるどころか、もはや罵倒に等しい表現でもって一人弟子を一刀両断に評定した人物――照信が籍を置く大学院博士課程の担当教授・斜陽坂利己太郎教授は、眼鏡のブリッジを押し上げながら、レンズ越しに沼地色に濁った瞳をギロリと凄み光らせる。この眼鏡、気取ったことに右側がチェーン付きなのだ。プライドを顕示するためのお洒落なのだと、照信は吐き気を催す思いで踏んでいる。
斜陽坂教授は、名前に付いた肩書きの示す通り、正真正銘れっきとした大学教職員なのだが、今し方の言動の程が 語るのを抜きにしても異質な特徴を備えていた。
百歩下がってお世辞を駆使することも徒労と思えるほどに、まさしく妖怪としか言い表しようのない一種怪異な容貌をしているのだ。
髪は老人と見紛うほどの真っ白で、暴発しているかのように膨れ上がったアメリカンリーゼントだ。長く垂れ込めた前髪は、持ち主から見て右側寄りに生え揃い、前髪の垂れていない左側には、妙に凝り性なお洒落だと感じさせる片眼鏡がぎらつく。その片眼鏡を透かして、まるで沼地の陰鬱な暗さを孕んだ深緑の瞳がねっとりと絡みつくような威圧感をもって見る者を不安な気持ちにさせるのだ。三つ股に枝分かれした独特の眉尻がこれまた異様性を煽る。
一際特徴的なのが、顔の端まで裂かんばかりだと錯覚させる程に広く笑みを貼り付けた口元だ。ほぼ常時、嘲るかのように不気味に歪んだ割れ方をし、絶えず嫌味が零れ落ちている。まさに邪悪な笑み、凶笑という表現が似つかわしい形だ。
信じ難いことに、これでも機嫌の良い時は只管に絶好調なのだ。まるで道化になったかのように周りを笑わせたりと愉快に振舞うが、機嫌の悪い時は明ら様に邪険な態度を取り容赦なく罵言を浴びせかけたりと、気分の浮き沈みが激しい。運悪く彼の受講生となってしまった経験のある者は皆そのことをよく知っていたため、お愛想として頬肉を引き攣らせつつ“ウケた”という反応をしてやりながら、心底ではいつ暴発するかわからない情緒への警戒心で一杯だった。
つまり現在は、まさに最悪のコンディションで対面しなければいけなくなったということだ。
(百歩譲るんなら、初めから“最大限の慈悲”で言葉を選んでくれよ……)
照信は 、せめて内心での抗議を行う余裕を湧かせて忍耐の気力を奮い起す。
これがたった今、単なる暇つぶしで観に行った三文映画で垂れ流されている下手な悪党の台詞を聞いているだけという状況ならば、どれほど気が楽だったろう。どれほど他人事のように傍観する心地でいられたろう。
しかし悲しいことに実際の台詞の受け手は、悪党を目の前に勇ましく構えを取るヒーローの主人公ではなく、害毒を持つ蛇に睨まれた蛙よろしく脅え切って縮こまる不人気研究室のボンクラ学生なのだった。屈辱感をバネにして微弱な程度でも眦を決する度胸すら抱く余裕がない。
辛うじて出来るのは、表情には現さない、そのものずばりの内心の抗議なのだった。実際の発声など持っての他だ。もし運悪く「なんだその目は」とでも感づかれようものなら、針山から血の池へと移行するように、這い上がるのが容易ではない深度へ陥る。
現在彼は、約二時間三十分前に閉会した人文研究科の前期中間発表会に関連して呼び出しを受け、まんまと矢面に立たされている最中だった。
経過時間が現しているように、無駄な鬱憤を晴らすだけの〝説教〝と成り果てている。青空が清々しい日和なのに、早くも梅雨の湿り気が濃い曇天下に晒されている心地がした。
「いや、児戯なら文字通り子どもでも成し得ることだ。大金をドブに捨てて院生入試を受けたその勇気までは称賛してやる」
いけしゃあしゃあと悪罵を連射する。
「君の大脳量が貧弱且つ貧相というのは、大いに周知しているつもりさ。だが、私ほどの地位を賜る教育者の心持を考えてほしいものだね! 無能の作文を読ませることに神経を浪費させる等、師の審美眼を痛め付けたいのかい?」
なんと加虐悪癖持ちの弟子不孝者だろう!
自分が師匠不孝の恥晒しなら、こいつの冷酷無比さは資格汚しの生き恥に等しいのではないか。罵詈雑言をこねくり回す暇があるのなら、折角頂戴している教員の給与額の範囲で、 誠実に助けとなる教えを授けてくれと言いたかった。未熟者を導き、教えを授けるのが教授の仕事なのに、先天的優秀の基準から外れた者を厭うのならば教授等やらなくても良いじゃないか。
おまけに、実際に面と向かって〝貴様〟呼ばわりをするなど、決して真っ当に人格の保たれた大人が教え子に対して行うことではない――
こんな末期的仕打ちなど、あったものではない。
良い齢ながらも泣きたい欲求を堪えながら、汚染の嵐が静まるのを待ちわびる。耳栓を携帯しておけば良かったと後悔した。
実力不足という非があるのは確かだろう。紛れもない認めざるを得ない事実だ。しかしだからと言って、少なくとも日々まともな髪型と服装での通学を心得ている自分が、妖怪博士のごとく異様でどこか不潔感漂う容貌の男に劣悪な待遇を受けているのは本当にどうかと思う。
担当分野は特別いかがわしい類ではない。ある意味当然のことだろう、ならば端から自分が選ぶはずがないからだ。
更に十分が経過した。教授の追撃の手が緩むことはない。
「歯痒いか? この状況が。それほど呪わしいのなら、せいぜい欠如した貴様の力量を呪うんだな」
トドメのような一言だった。ただ一句ごとが爆弾のように暴力的なので、全てがトドメと言っていいかもしれない。
「大脳の奥が裂けるまで猛省するがいい。小心者には延々と己を省みる行為が相応しいのだ」
毒性ある粘着液を滴らせるかの如く、舌を汚く突き出し下種な表情を型造る。相手をいたぶる態度が佳境になった時の癖なのだ。目を背けたくなるほどに吐き気が湧いて来る光景だ。
(どの学生が素直に反省の心境になれるんだ。全力で僕が呪詛しているのはアンタの人間性だよ。あと頭が裂けるとか比喩でも物騒だからやめてくれ)
吐き出したくても吐き出せぬ思いの代わりに、湧き出る唾を飲み込む。
腐敗した人間性は日頃の行動にも加減なく表出しており、事前通告なしで勝手に講義をすっぽかしたりと平然と学生を困らせる真似をするのは常套だった。お陰で彼の受け持つ全講義が半日もすると受講生の四分の一に逃げられる羽目に陥っているのだが、根元から無神経な彼は端から気にも留めない。
いつ降格か雇用を切られるかの天罰を受けても全く不思議ではない異常者だ。それほどに充分資質の疑われるところであるが、悲しい現実ながら実力には何ら問題はないと判定されている。実際、社会的影響を波及させるほどの研究成果を出している存在であるため、人事も容認せざるを得ず簡単にお払い箱にできないのだ。
学生の悲嘆には見て見ぬフリをし、学界の需要を理由に人格破綻の指導者は庇う――学生を買い手とする教育機関として如何なものかと運営者の道徳意識を疑わしく思う。何の落ち度もない側が泣き寝入りに至るという悪循環の一途を辿るばかりだ。
アートの業界では何ら珍しい事態ではないのかもしれない。しかしここは学問の場である。平和を脅かす性悪の変人など不要だ。彼の双眸には、卑下する価値観から来る優越感が濁り気を伴って常に浮かび、見る者の精神を掻き乱す。
大学生時代までは、ある程度順調に歩んできたつもりだった。
少しでも自信のない就職活動を有利にしたいと法学部にしようと最初は思っていたが、六法や判例を把握し切れる自信がなく、嗜好に合わせて素直に人文学部へと進学した。劣等感だけはあまりある若造特有の性で社会的不満はあるくせに、昔から社会科系科目は得意ではなかった。
得意の気がある領域であれば、少なくとも学内では有利な評価とやらを構築できると考えていた。
だが、二十歳を過ぎた後に好きで進路を固めるのは誤りであると思い知らされた。何故、指導者の人間性を下調べしておかなかったのか。未知の苦手分野であろうと人柄で選んでおいた方がマシだった。研究の能力など将来的には本気で磨くつもりがないのなら、向上欲より精神衛生を守るべきだったのだ。
募る苦渋の忍耐に朦朧と意識が霞み始めた時である。ふいに脳裏で浮上してきた映像がある。最初は白い靄に包まれた風にぼんやりとしていたが、次第に輪郭を伴った状態で鮮やかに広がり出した。現れたのは、屏風の如く空に並んで飛翔する数十もの菩薩と、彼らに囲まれて屹立する大きな阿弥陀如来の姿である。
照信の編み出した妙な癖の一つで、窮地に陥ったと脳が危機を認識したら、末法思想を念じ、「阿弥陀聖衆来迎図」で描かれる極楽浄土を幻視して来迎される己を妄想するのが定番となっていた。時代がかった逃避の仕方だとは自身でも思っているが、祖父母の家に預けられた期間の長かった彼には馴染み易く安心できるものだった。
やり方は簡単だ。即席でできる。ほんの僅か半眼にして、汚い景色を霞ませていけば、たちまち美しい西方浄土を背景に仏の群像が出現し意識を幻想世界に転移できるのだ。
教授のかまびすしい吼えと叫びが耳元から遠ざかって行く気がした。宙空の何万光年の彼方より、歪み切った醜悪な教授の面を透かして、二十五の菩薩を従えた阿弥陀如来の威風堂々とした御影が迫り来る。
もちろん、現実を撮影した映像のような生のあるものではない。イメージの産物であるため、有名な聖衆来迎図の仏画に基づいた色彩とタッチで形成された光景である。
照信にとって、救い主として来迎なされたと錯覚するのが癒しなのだ。彼なりに編み出したリフレッシュ方法である。最も親しい友一人以外にはあまり理解してもらえない。
五色の瑞雲が照信の視界に見え始めた。もはや、相手の輪郭も溶解して、無味乾燥な校舎の廊下は桃色の紗幕へと塗り変わる。
(ああ、来たよお、迎えだ。阿弥陀如来様に菩薩様。天人様の群れが衆生である我が身をお救い下さる。畜生道の如き穢土から、このまま、清らかな天の囁きに導かれてゆきたい。さあ、僕を連れていっておくれませ)
幻覚に引き摺られるようにして、仰々しく、両の指をピンと伸ばし、指先をピッチリと合わせて思わず拝み伏す動作をする。客観的には縁起でもない振舞いだ。
そして、幾ら本気で耽溺せんとしても、慈悲に彩られた妄想より慈悲に乾いた現実の方が威力に勝ったのである。
「不肖者め、虚妄に意識を逸らす等、言語道断!!」
重低音に満ちた怒号の来襲によって、強制的に穢土の現世へ引き戻された。天人の奏でる笛や太鼓の音色は容赦なく断ち切れる。見目麗しい幻像ヴィジョン叩き割られ、飛び散った破片の隙間からグニンと異物が姿を現した。慈悲に満ちた御仏の表情は、たちまち羅殺の表情を帯びていく。
破片は靄のように掻き消えていった。 内心で縋るように手を虚空に伸ばした態勢になりながら慌てふためく青年を、ハ虫類の如き獰猛さを持って羅殺が捕捉する。
「気を失ったか或は幻覚作用を煩ったか、でくのぼうのたわけ者め。まあ、貴様のような惨めな青二才には幻覚で気を紛らわすのがちょうど良かろう。せいぜい、脳内に棲む神々に喝を入れてもらって思考を浄化することだな」
話はそのタイミングで一方的に中断され、追い払う仕種をかまされる。圧倒的敗北感に心身もろとも呑み込まれた。無念に打ちひしがれて、数秒間は意識が確かにならず微動だに出来なかった。
憔悴の体で研究室を出ると、用事があって待機していたらしい若い事務員の女性がいた。
大人しめの雰囲気を帯びた、丸みある容貌をした小柄の可愛らしい人物で、そこそこ照信の好みに入りそうだった。入れ違いに教授と向き合う。
数メートルほどまでに歩き去っていたところで、背後から素っ頓狂に荒ぶる声がしたため振り返ると、教授が理不尽に彼女をどやしつけいた。女性は見るからに恐縮した有様でひたすら頭を下げている。心底脅え切っている様子が如実に見て取れた。
照信は唖然とした。あの教授は自分のような学生だけではなく、下の立場と見れば誰彼構わず威圧していたのか。
(何という傲慢な男だ。職業上の立場だけではなく、人間としての弁えを逸脱している。こんな不徳の人種を一流の専門家という理由だけで看過しているとは、本学の人事機能は死んでいる)
自分のためだけではなく、他人への哀れみで思わず義憤に駆られた。
事務職員にしろ教職員にしろ、職種が異なるだけで、実際には互いの身分差はないはずだ。たったこれだけの違いに優劣の基準をつけて拘るなど、勘違いと人権軽視も甚だしい。
現に、どのような立場の存在に対しても訳隔てなく公明正大な教授が同学科にいることを知っている。惜しくも担当分野が照信の苦手なジャンルなので、乗り換えはできないのだが。
(ありたっけ祈ろう、せめて最期に餓鬼道に堕ちてくれることを!!)
自分でも、憎き教官に勝るとも劣らぬと思うほどの毒を脳内で絞り出し息巻く。
しかし、幾ら正義感に駆られたところで、所詮は深い事情を預り知らぬ我が身が助太刀をしても意味を成さぬであろう。ひょっとしたら女性の方が仮面を被っていて、逆に教授が被害者であり相手の容疑を非難しているという結果なのかもしれないしとも思う。
良心に誓い、できれば邪推はしたくないが、いずれにせよ照信には知り得ないことだ。
だが或は、頭身ともに虚弱なことを理由に、祈るか願うかという実際の影響が計測できない動作で無理な妥協をしているに過ぎない。手を出せない臆病者であることはは認めざるを得ないと考えている。
回想は以上にしよう。悲壮感に意識を集中させると取り留めがなくなる。
とっと潔く切り替え、 全力でふざけた遊戯のためにエネルギーを燃やすのだ。
このような晩は、くだらぬ遊びを許し合える友と憂さ晴らしに興じるのが賢明と言えよう。半人愚物の己に適した最良のセラピーである。厭離穢土を念じるだけでは満足には至らない。
だから、自宅で軽い一杯で済ませて外に出歩いた。向かう先は歓楽街ではない、小心者で人の波が苦手な自分に酒の席は似合わない。
照信の足は物静かな、小高い坂の上に連なる閑静な住宅街を分け行っていく。目指す先は、無二の友が待つ小さな寺だ。友人は、その寺の親戚の子で、大学生活の間は寝食のための住処として境内にある家屋の一部屋を与えられている。
今夜は、懐の広い住職のバックアップのもと肝試し大会ならぬ、ささやかな怪談的催しものが開かれるのだ。照信は本当に、偶然にも塞ぎ込んだこの日に重なって良かったと思っている。最も、鬱屈した気分など毎日のように抱えているのだが。
「おお、グッドイブニング、赤月氏~」
道の途中にある公園の前に差しかかった時、電柱の灯りに照らされた格好で一人の男が親しげに挨拶をしてきた。和装に足袋草履と、京都観光でもないのに古風な趣である。
しかし、この男の際立った特徴はそこではない。怪しげな宗教家の如く無造作に伸ばし切った髪と髭、明るい場所でも瞳の覗くことのない炯々と光らせた眼鏡――年齢不詳という言葉が似つかわしいほどに不気味な容貌である。また、着物にしても、至る箇所に糸のほつれやよれ具合が見られ、日々の手入れなど疑わしくお世辞にも清潔感で満たされているとは言えない。
ただ、口調から窺えるように根は極めて明朗だ。対人もフレンドリーで寛大なことから、仲間内からは充分頼られる中心的な存在である。今回のイベントを企画して指揮を取ってくれたのも彼だ。用いる言葉遣いに関しては難があるかもしれない。
「やあ、日黒。相変わらず風格のある無精髭だな。一回生の時分から伸ばし続けているが、堂に入ったものじゃないか。もはや仙域に踏み込んでいるよ」
軽口を叩きつつ、待ち合わせ場所から並んで歩きだす。外野には気味悪がられるであろう特異さでさえても、照信にとっては確実な安心感をもたらすものだ。二人はお互いに、標準的に活動的と評される範疇の人間関係から、厄介視された食み出し者なのだ。普通の空気とされる濃度で溶け込んでいくのが昔からどうも苦手であり、スベリ芸を晒すばかりで必ず周囲から浮いてしまう。
照信にしてみれば、ほぼ強制的な集団行為に拘束されない自主性必須の大学という空間は、ある意味では救いの側面が大きかった。他にも自分と同じように、窮屈な通俗的環境からの脱出を求めていた者がいたようで、講義やゼミでの接触を経て自然と燻り集うようになった。今まで通常の交流が長続きしなかった照信にしてみれば、凄まじい進歩である。
例え社会からどのようにレッテルを貼られようと、誇り高き絆に違いないのだ。そう自負している。
道中の話題は当然、濃厚に暑苦しい外見を持つ嫌味千万な教授に及ぶ。照信は、同調し非難してほしくて取り上げたのだが、友は寛容な心根の持ち主故か必死に酷さを説くものの、それなりの面白味を感じているようだ。教授の人物像に対し、一定の理解ある意見を呈する。
「しかし、これは考え方の問題かもしれませんぞ。外観が際立って特徴的な分、かけがえのない面白さを得られる利点があるのでは」
「かけがえのない面白さなどいらん! 誹謗中傷と傍若無人の下衆かつふざけた塊りのようなあの男に、端からメリットなんか見出せるものか!」
日黒も充分に奇抜な見た目だが、愛嬌という取り得がある。反対に、冷酷非情で血も涙も一かけらもなさそうな給料泥棒紛いに、長所を見出してやる必要性があるものか。
「なら思い切って変更希望の嘆願に走れば良いのでは? 無理なら自主退学とか。自立した紳士たるもの、真に目指す進路を守るためならば、勇気ある逃亡を決断すべきですぞ」
熱くなって反駁していた照信も、冷静な指摘には返答に詰まった。
確かに、この上なく簡単過ぎることではあった。胃炎発生のギリギリの縁に追い遣られるほど辛いのならば、潔く転部なり退学なりすればいいのだ。しかしバイト代だけではなく、現在も実家の両親から貴重な資金を学費として工面してもらっている以上、逃げたくはない。矛盾してはいるが、大切な家族の思い遣りをせめてもの大義に据えて、やり遂げるべきだとは考えている。
だから、否定するように言い返した。
「他人事だと思いおって。だったら君は、嫌だからという理由で学部を変えたり新たに受験をするのか? 親に学費を援助してもらっておいて大学は確かに自分で行くか行かないか決めるところだが、費用を考えれば親の世話になるのはある程度避けられんだろう。僕の場合も、一言でまとめれば簡単なことさ。親への裏切りになるからしないんだ」
「でもこのままだと学位授与すら危うい様子ではありませぬか」
常識的知人から、不潔だから蓬髪をやめるようにと言われても鉄板の如く揺るがぬ我流を貫く男だ。打てば響くように確固たる調子で意見をくべる。彼の凄さは、戯言のような呟きにも必ず根拠を用意しているところだ。会話で折れたことは一度もない。ぐうの音も出なくなる役は照信の決まり役だったが、親友の心強さを感じて好ましく思うのだった。
「その通りだ友よ。難なく評価の通る学部に転移してスムーズに歩むコースを選ぶのが本来最適なのだろう。だが、やはり今のところは往生際悪くしがみ付くこととする。我が道より親孝行を優先する男なのだと長所に思ってくれたまえ、友よ」
「ふーむ、まあ赤月氏らしいと言えば赤月らしいですか。最終的に決めるのは自分ですものねえ」
なあなあで落ち着いてくれるのも、彼とつき合いが長続きする良き気楽さだ。
言葉を交わし合う内に、小寺の前に到着した。塀に挟まれた表玄関である山門をくぐると、両脇に花椿の植栽が控えた前庭がある。中央には玉砂利を絨毯にして、手前から御堂の佇む奥の方まで等間隔に打たれた飛石が通路を形成していた。
京風の坪庭にも似た趣で、日中であれば実に風雅なのだが、微かな野外照明だけが頼りの現在時刻では足元に不安を与える。もう5年以上のつき合いになるものの、来訪するのは今日のようなイベントのある日和に限られる上に運動神経の鈍い照信には一向に慣れられる気配がなかった。
友人は長く身を置いている人間だけあって、忍びのようにすいすいとすばしっこく歩を進めて行く。照信も負けじと小奇麗な植え込みに体当たりしないよう、または飛石の隙間で転ばぬよう気を使いながら細い道を縫うように跡を追った。幸いにして配慮の効く友人が何時までも足の遅い彼と距離を開けることはない。器用に短く間を取りながら先導する。
小規模なために甚く本堂が近いことが照信にとって常に助けとなっている。やや後方の右手には本堂の端から伸びた回廊の渡りを隔てて和風の日本家屋が建っており、あちらが住職とその家族、居候の日黒の住居に当たるが今回使用されるのは本堂そのものだ。
数十件ほどの檀家に支えられた地域規模の寺なのだが、現住職が兼業で中小企業を経営しているためか目立った痛みがほとんど見当たらない、手入れの行き届いた外観を備えている立派な仏閣である。
内部は吹き抜けの広い仏間と、それよりはやや小じんまりとした客間で構成されている。メイン会場となるのは、重要な式典・行事で利用される仏間ではなく隣接する客間だ。本堂の玄関を入って正面より長く走る木目の美しいフローリングの廊下を暫く歩くと、 見事な水墨画に装飾された襖越しに客間が広がっている。通常は仏事に関する来客を通すための部屋だが、今夜は例外的によからぬ遊び人共が居座っているのだ。
日黒が開け放つと、座敷の中心に固まるようにして十数人の仲間達が坐していた。
彼らは照信や親友日黒と同様、種類にそれぞれ異はあるものの、大なり小なり人格に偏屈さ・卑屈さ・小心さを抱えている。日陰者のアウトサイダーという共通認識故か、雑多な集合のあるコミュニティでは警戒し合ってばかりなのに、ここでは打って変わったように襟元を広げて話し合えるのだった。性善説を疑っているような捻くれ者同士だが、褒め合いしこそすれ貶し合うことはなかった。ただ打ち解けた交わりには違いなく、冗談を飛ばして茶化す程度の攻めた関係性はある。上回生、下級回生の隔たりもなかった。
もう準備が整えられていて座敷は暗い。照信は外道教授との攻防(ほぼ防御に徹していたのが実際だが)で設営の開始時間に間に合わなかったので、イベント開始時刻からの参加となった。日黒は彼を迎えにいくために、目印として使い易い公園で落ち合う約束をしたのである。
座敷の中は薄ぼんやりとしてほぼ真っ暗だった。
「やあ、みなさんすみません。御苦労様です」
照信を背後に従えながら、日黒が皆に挨拶をした。
参加者の各席手前に異様がある。赤い小さな灯がチロチロと幽かに揺らめいているのだ。
全員分揃えて光りはためいているので、緻密な等間隔を成して一つの大きな円を描き出している。
電灯の一切を消し去った座敷に、参加者一人一人の前に仄かな赤い火に揺らめく蝋燭が配されているのだ。といっても、実物ではなく蝋燭を模した形のLED照明である。底にあるスイッチを押すと点灯する仕組みで、照信の席として用意された座布団の前にも小さな煌めきが瞬いていた。先に坐していた隣席の親切なメンバーが、手で場所を指し示している。雰囲気を出すためか、風で揺れて見えるような点灯の仕方をするように電気工学専攻の準備班員が改造を施しているらしい。
照信は急ぎ摺り足の要領で、周囲に当たらぬよう目的位置に駆け寄った。
まさに怪談話会・百物語を催行せんとする光景だ。実際に百物語をする気で彼らはこのように異様なセッティングをしているのだが、百物語は百物語でも、ただの百物語ではない。
主催者である日黒は、妙に仰々しく、かしこまったように息を顰めながら床の掛け軸を背後に正座になると、スッと静かに片手を上げた。
「――それではこれより……第百一回、ロシアンルーレット式百物語をいたしまするぞ」
今し方、開催の合図の中で口にした行事名がこの度の特殊性を物語っている。
その名もずばり、賭博の一種・ロシアンルーレットの方式をイメージで取り入れた百物語だ。考案者は、主催者であり司会者でもある日黒。
百物語と言えば、参加者が発話した回数が全員合わせて百回目に達した時、何か怪奇現象が起こるという謂れがある、江戸時代から発祥したとされる遊びだ。その運命の百話目を、ロシアンルーレットで恐怖のハズレを引いたときの場面になぞらえて、このゲームではちょうど百話目を話した者に対し、その怪談に基づいた怪異のコスプレ(妖怪でも幽霊でも宇宙人でも)を身に纏った仕掛け人が背後から現れて悪戯で襲いかかるという罰ゲームが待っている。
ところが発話者はカウントしてはいけないルールとなっている。何故かといえば、百話目に起こり得る脅威に対し心構えができてしまうからだ。裏方のセットについては未知という点で変わりなくとも、タイミングが判明しているのと不明なのとでは衝撃度が異なって来るだろう。
実は別に仕掛け人のグループがいて、障子一枚を隔てた隣室で、その発話者が現在何話目を語っているのか記録を取っているのだ。つまり専用の係がいる。
この仕掛け人達は、百物語の百話目になって現れるとされる妖怪、青行燈にちなんで“青行燈担当組”と称されている。命名したのは国文学専攻で江戸の怪奇物語を研究しているメンバーだ。先に書いた通り百話目の内容に因んだ姿を取るので、青行燈そのものの恰好はしない。青行燈の形も諸説あるようだが、妖怪画家の鳥山石燕が著した『今昔百鬼拾遺』によれば、長い黒髪の頭に角を戴いた白装束の鬼女であるという。照信は般若心経をカラオケの十八番としているが、般若という単語が付くのと関連して鬼女面を表す般若が好きだった。故にそのような微妙に細かくどうでもいい事で内心残念がっている。
ちなみに美少女アニメオタクのメンバーは、角の生えた二次元的女性を模したコスプレがないことを悔しがっていた。メンバーは男ばかりなので、もしやったら女装になるのだが、そちらもいける口らしい。照信には考え辛かった。ちなみに彼は話す怪談のネタを、オタクらしい発想で練っているという。生粋のホラ―マニアも加わっているので、顰蹙を買わぬか心配だ。
それにしても、予め知らされていない姿形を一から作り上げるというのは並大抵のことではない。話が終了した直後に即興で行うのだから、無理があるのではないかと傍目には思われるだろう。しかし“青行燈担当組”のリーダーを務める者が魔法使いの如き腕の持ち主なのだ。本来の所属である演劇科による出し物の前日にトラブルが発生した時も、矢のような速さで衣装とメイクを作り上げてしまったという逸話を持つ。恐るべき本物の才人である。
百話目の発表は、突拍子もなく鈴の音で合図が告げられる。実際の鈴を振るのではなく、隣室からスピーカーで流れるのだ。厳密には錫状から出る音らしい。何回か鳴った段階で、次は驚異を高まらせるべく銅鑼の音に切り変わるのである。
襲撃者が来る方向は真っ暗が続く中なので予測できない。
皆、ドッキリが怖くて各自懸命に脳内でカウントを取ろうとしてしまう。ルールとしては禁止となっているが、他者から見てわからない形であるなら自由だ。しかしながら人間一桁を越えると、どこまで数えたか曖昧になってくる。加えて緊迫味のある話を交わしつつなので、内容に気を取られていつの間にかカウントの行為そのものを失念していくのである。おまけに隣室の記録係以外、手記等の真似は禁じられている。そもそも暗闇なのでメモの取りようがないが。
「それでは、一同、よーい、どんでござる!」
何故か幕切りはいつも景気のよい掛け声なのだ。
各自が繰り広げたストーリーは、都市伝説や学校ネタなどのオーソドックスな内容から、ゴシックホラ―、怪奇現象に纏わる話など多岐に渡った。成年に達していない者も参加していることを配慮し、スプラッタ等グロテスクな類の内容は避ける決まりだ。伝統的な妖怪ネタを取り上げた者もいる。中には、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトが提唱したとされる〝宇宙的恐怖〟の概念を題材にして語る者もいた。照信は齧る程度にしか知らなかったが、確かに宇宙からの未知との遭遇は本来意志疎通の実現など想像できぬ名状し難き恐怖なのだろうと思った。今でこそフィクションには宇宙人の類を茶化すコメディーを多いが、自らの常識で判断して舐めてはいけないという教訓になり得るだろう。
オカルト方面に関心の強い話者は、UMAと呼称される未確認生物をネタに出していた。
話の基準だが、得体の知れぬ恐怖感さえ演出できればOKとなっていて、前述のように流血沙汰に抵触しなければ特に制限はない。
ただし、あまり身近な日常的事柄を題材にするのはロマンがなく敬遠される傾向にある。
照信は、自身で考えた内容しか真実味を含ませられる自信がなかった。ネットで流行りの現代怪談を引用するにも、話達者ならともかく、自分の口からでは胡散臭いだけのものになり下がりそうである。煮詰まった挙句、捻り出したのが、本日己の身に振りかかった本当の恐怖譚を虚構的に盛り上げて伝えることだ。教授の人間としての醜悪さを強調して、スペクタルホラーにでっちあげる。彼のことは仮名で登場させた。
ところが現段階において一番受けがいまいちとなり、微妙な空気流れた。
「私怨に基づくのはねえ……。生々し過ぎてエンターティメント性を欠いてるんだな」
ゴシックホラーネタを語ったメンバーが呟くように指摘する。
「うむ。斜陽坂教授のことでしてね。本日の論文発表がままならぬ結果だったのを散々酷くあげつらわれたので、如何なる者も比さぬ程、化け物に映ったのでしょう」
直ぐ様に解説を添えたのは日黒だった。
「やっぱそうだったの! 道理で自分の大学の構内が浮かぶような話だと思ったよ」
妖怪好きの者が笑いながら言った。
「こ、こら日黒! ばらすな! わかったぜ、みっともない私事を入れるのは控えるよ」
恐怖譚の連続で緊張していた空間が、暫し笑いにリラックスして砕ける。
気不味さと羞恥に見舞われたものの、唯一幸いだったのは彼の番が運命の百回目ではなかったということだ。流石にあの悪辣な嫌われ者を演じさせるのは申し訳ない。
そこから二十分程経過する。もう幾数十話されたか判然とせぬほど、話が積み重ねられていったのは確かだ。数字を扱う学問に弱い照信は、なるがままに委ねて最初から数える努力を放棄していた。裏方を除くと二十は超えない人数のため、嫌でも照信に複数回役目が来る羽目になるが、過去に読んだ児童向けの怪談シリーズで覚えのある話を、適当に国や名前を差し替えたりして作り上げていた。
照信が話下手なのは優しい皆も当に承知している頃なので、「へえ」とか「ほお」とかお愛想代わりの相槌で反応を示してくれる。幽霊バスの舞台を北アフリカに置き換えてやろうとしたら、「霊の概念がない地域がありましたよね?」とアフリカ文化の授業を取っている一回生に突っ込まれて、大いに恥じ入った。
「というか先輩、民俗学を齧っているんだから、天狗攫いや神隠しを膨らませたネタでも話せば良いのに……」
「日常の勉強に絡む内容は話辛いんだよ……。ついつい課題の事が思い浮かんで憂鬱になるんだ」
「そこは切り離して考えるんですね…」
「では、わたくしの番ですな」
照信のパートが一段落したのを見計らい、日黒が厳かに言った。彼はメンバーの中でも、語り口、演出、ネタともに申し分なく一同から好評を博していた。しかも、他者に漏れず数回目に及ぶのに一度も精彩を欠いた気配がない。主催者となるだけの器がある。
今回の番で彼が語ったのは、まさに怪談の原点とも言うべき物の哀れを滲ませる、しっとりと忍び寄るような恐怖感がありつつ慈愛を匂わせたラストを飾るストーリーだった。
ある町でストリート芸をする売れないピエロの青年がいた。大抵の者が心ない言葉を投げ掛けるが嘲笑するだけだったが、一人だけ喜んで笑ってくれる観客がいた。身なりの貧しい裸足の少年で、ピエロは芸を終えた後、決まって飴をあげていた。スティックに刺さった丸いタイプだ。
だが毎回少年はその場で食べない。いつも「持って帰ってゆっくり食べるよ」と言って、路地裏の曲がり角へ消えていくのだった。駆け足で去るのだが、栄養不足で身が軽くなっているのか足音は聞えなかった。
約二週間に渡り交流が続いたある日、また少年に飴を手渡そうとすると、急に悲痛な表情になって彼は遮った。
「もう、飴は味わえないんだ。ごめんね」
言うとほぼ同時に、涙を拭いながら例の曲がり角へ走り去って行った。
釈然とせず直ぐに跡を追うと、曲がってから余り経っていないのに少年の姿はもうない。先は長い一本道で、その中に新たな曲がり角がある様子はない。
ふいに、奥の家からすすり泣く女性の声が来て覗くと、彼女の前には簡易な祭壇らしき台と壺があった。実は二週間前に幼い息子が病気で他界し、暫く毎日のように弔いの祈りを捧げては泣いていたという。近くに飾られていた少年の人相には見覚えがあった、いつも飴をあげていた子だ。
彼女は二週間前に不思議な出来事を体験していた。夢の中で、「母さんが食べたがっていた甘いものだよ」と言ってスティックキャンディーを握りながら笑顔で言う息子の姿を必ず見るのだ。目が醒めると、常に枕元には本物のそれが置かれていた。「霊になってまで孝行してくれるなんて、申し訳ないねえ」と母親は静かに呟く。心当たりがあるピエロの青年は経緯を母親に伝えた後、近所の教会の神父と役所に葬儀を頼む。すると、少年と思しき幻影が現れ、礼を告げて天に召されていった。この出来事をきっかけにスラム街には福祉の手が行き届いて整備され、病院が建てられたという。
物語が締め括られた直後は、即座に論議を交わしたがる皆も、口を閉ざして黙り込んでいた。し今までの怖い話が語られた後とは違う、しんみりとした静寂感に座敷が押し包まれる。
「四谷怪談の幽霊飴を彷彿とさせますなあ。家族を守ることを動機とした幽霊の美談と社会的変革! 幽霊飴も、土の中で生きていた赤ちゃんが、後に立派なお坊さんに成長する! 好きですぞ、こういうヒューマンホラ―」
しばらくして一人が切り出すと、皆も元の賑やいだ調子で考察を言い合った。
「ゾッとするというより、感動物だけど、良い雰囲気だな。幽霊物は本来、化けて出る存在の悲しいバックボーンがあるからね。いつもホラ―映画を見ながら周囲と浮いて滂沱の涙を流す俺が言うのだから間違いない」
「ちょ、それはメンタル変わってるって」
「でもお岩さんや番町皿屋敷にしろ、悲劇を怖い話に含めて考えるとなると、シェイクスピアの四大悲劇の一つである『マクベス』もホラ―に入るんでしょうかねえ」
英文学を専攻している院生の者が、ある意味突飛とも取れることを囁いた。一人が頷き返す。
「魔女が主人公に予言を告げて不幸が続く展開は、確かにホラ―に近いよな。まあ、上演すると祟られるっていう逸話もあるみたいだし。こりゃ怪談を学問にしてる人にでも確認しないとわかんないな」
そのような雑談を挟んだ折だった。
最初は、微弱な空気の震えに思えた。耳を澄ますと次第に、朧げな赤色だけが揺らめく薄闇の中、凛々と軽やかに鳴る鈴の音らしいと判然する。
隣室、仕掛け側の〝青行燈組〟の待機場所からだ。自然と雑談のざわめきが納まる。しゃん、しゃんと僧侶が錫状を振る時のように、一拍間を置きながら規則正しいリズムでゆったりと奏でられる。
しばらく鈴の音が続いていたが、途中代わって、空気をひび割るかのような打撃音が鼓膜を叩いた。
シンバルに似ているが、一度鳴った後に残る振動音により長さがあり、重く低い響きで空間を渡る。どこか東洋的な風情もある独特の音色、銅鑼だ。
鈴は確か寺の物を拝借していると聞くが、銅鑼はCDから流れるBGMである。
だが照信は事前にそうとわかっていても、毎度一瞬正座にした足の指先がピクリと跳ね上がるのを抑えられなかった。安らかな音色から、突如対照的な轟音に転換する場面には不意打ちの緊張感がある。襖戸の反対側に立つ障子戸をピリピリと振るわせる幻まで見えるようだ。
話し手のメンバー一同、反射的に硬直するものの、心底動揺しているわけではない。彼は皆、鈴から銅鑼の順番で音が鳴るタイミングとその意味を承知している。
「今の日黒さんの話がまさか百番目だったのか! 待て、どうやってこれ脅し役こしらえるんだ? 幽霊少年は被害者側で敵いないし」
「でも鳴らしたってことは、青行燈組は仕掛けるつもりでいるぞ!? 」
泰然自若としている語り部本人を除き、一同てんやわんやと騒ぎ立てる。何が出てくのかと、各自戦隊アクション物のヒーローのようなポーズでもって身構えた。
やや騒ぎが止んだ時だった。特に前触れもなく、勢い良く襖が開放される。スパアッンと擬音のような激しく弾ける音が吐き散らされた。
瞬間、座敷に腰を下ろしたままの一同は、意外な異容の登場に愕然と唸った。
何か、妙に巨大な獲物を振り上げて構え立つ長身の男がいる。しかし、そのように認識するより相手が行動を起こす方が素早かった。
「キエーイ!!無駄ナ糖分を貪ル、モラトリアムの餓鬼畜生ヨ! 我ガ御名ニオイテ成敗シテクレマショウゾー!! 」
奇声を発しながら乱入すると同時に、室内の蛍光灯が点いた。青行燈組の誰かが、こっそりスイッチを押したのだろう。急に舞い戻った文明的明るさに慣れる時間を確保する余裕はなく、狂ったように叫びながら広い座敷内を駆け回り出した存在に、話し手組は悲鳴を上げながら、とりあえず逃げ惑う真似を行う。
片言の日本語で現れた人物の姿は、明るい電灯の中で詳細が露になった。袈裟を付けた僧衣の男が物凄い形相で、自らと同じ程度の丈の細長い物体を振り回しているのである。僧侶なら錫状かと思いきや、なんとペロペロキャンディだった。白い棒の頂上に、ファンシーに渦を巻くマンホール大の円盤がくっ付いている。作中では有名ブランドのような球体のイメージだったのだが異質さを増幅させるには効果大だ。
男の形相にしても、憤怒の演技をしているだけなら普通の範疇だろう。憤怒の表情を出しつつ、更に道化師のメイクで塗り固めていたからとんでもないのだ。
まとめると要は、錫状代わりに巨大なペロペロキャンディを武器にしたピエロ顔の坊主が襲撃に参上したのである。
「先進国ノ若イモラトリアム学生ハ、工場生産ノ製菓で糖分過剰デース!! ぴえろヤ少年ノヨウニ、分ケ与エル献身欲ヲ、培イナサーイ!!」
「流石は鬼才の即興演劇部員! あの感動話から、部分的に要素だけ集めたらこんな怪人が生まれるのかよ!」
「祈祷を務めたのって坊主じゃなくて神父じゃなかったっけ!? いや確かに聖職の点では一緒だけども!」
大方僧衣は、この寺にある古くなったものを借りているのだろう。今回の衣装調達は安く済んだはずだ。
「口では真っ当なこと呼び掛けてるけど、罰当たりだろう、色々な意味で」
「何はともあれ、脅し役が今年も出せて目出度しだぜ!」
半笑いで突っ込みを飛ばしながら、喚き暴れる異形の似非僧侶との追いかけっこを楽しむメンバー達。
日黒は髭に覆われて読み取り難い表情のまま、「ホウホウ」と梟のような鳴き声を出しながら小走りに駆けている。
ルール上、本来なら襲撃を受けるのは先述のように最後の語り部一人なのだが、場の空気や部屋の狭さから結果的に全員巻き添えを食うのがお約束となっているのだ。
イベントの後には、決まって太っ腹なお楽しみ、住職さん自慢の豪勢な手料理がついたプチ宴会が催される。
良い歳をした学生達が大暴れの御遊戯でそこそこ汗を掻き、夜食の空きっ腹が出来るのを見計らって企画されたのだろうか。ナイスな構成だと照信は感心している。
日黒と彼の叔父が共同で考案したそうだ。
「今夜もよう集まって下さいました。さあさ、たんとおあがりなさい」
上座に日黒と並びながら、ニコニコと笑みを宿して住職さんは勧めた。今宵のメニューは、洋の食材を使ったモダンな和食だ。
日黒の叔父の住職さんは気前の良い料理好きの好々爺で、自身の寺を尋ねた人間に手の込んだ御馳走を振舞うのが趣味だ。白いドジョウ髭とふさふさした眉が特徴的な、絵に描いたように慈悲そのもの微笑を浮かべている僧侶だ。
しかし一方、百物語開催中の裏で、甥の主催する百物語参加者の放つ緊張感をもって怪談を静聴している時の息遣いの音や、襲撃者が出現した際の悲鳴の音を分からぬよう仕掛けたICレコーダーで録音しておき、後で聞くことも趣味の一つとしている危ない変人でもある。
日黒は、突き抜けておっとりとした性分による胆力でその性癖を平然と受け止めているようだ。
「ふぉっほっほっほ、今夜も良い阿鼻叫喚の音色が録れましたよ……。明日から一年後の開催日まで、私の目覚まし音としてお使いいたしましょう」
おぞましい性癖を有する上に、参加者の前で堂々と打ち明ける厄介さだ。しかも至って涼やか且つ優美な声色で。だが巧妙にも「おとんの味」で一度でも料理を食させた者全ての胃袋を強固に掴んでいるため、恐るべきにも憎めない存在として認識されている。
なお仲間内には実は怪談嫌いの者もいるのだが、美食の効果に釣られて抜けられない始末となっていた。
「良い人だけど、やっぱつくづく不気味だよな……。百物語のMVPは彼で良い気がするよ」
本人の耳に届かぬように、メンバー達はひそひそと囁き合った。
「料理は狡いよなあ……それでも俺達は叔父さんを嫌いになれないんだから」
照信の周囲には意外と酒好きが多いが、照信本人はアルコールへの耐性は著しく弱い。それ故か、周囲が飲んでいる酒の成分を鼻孔から吸っただけで酔ってしまうことも度々あった。
今回料理の友に彼が飲んだのは、ノンアルコールのジュースもどきのみであるにも関わらず、強いものを呑んだのと変わらぬ程度に酔いが回った状態となった。
ちなみに自宅での晩酌は甘酒で行っている。
帰りの夜道は、寺に住む親友を省くと全員方向が異なるため一人歩きとなった。
へべれけで足元をもつれさせながら、行く途中で通過した公園付近までさしかかった矢先、不意に足元がより大きくぐらつく感覚がした。
(およ? 思ったより周りのアルコールに当てられたかいな)
ぼんやりそう思いながら、なんとかバランスを取り戻そうと公園の入口に立つ柵に手をかけようとした次の瞬間だった。地面を踏ん張ろうとしていた両足の裏が、上方向に弧を描きつつ宙に反りかえったのである。何か足先を払われたらしいと認識した時には、当然頭部を含む上半身が背面からアスファルトに叩きつけられていた。
突然の転倒に、いよいよ意識が覚醒する。嫌でもわかる痛覚の刺激に強く瞼を見開くと、鈍い擦過音を唸らせて闇空をバックに一閃した棒状の影がある。それが鉄パイプだと理解するより早く、腿肉に灰色の円筒が食い込んでいた。
「動きなさんな! つぎに余計な動作をすれば、急所をパイプが貫通しますよ!」
物騒な警告は頭上から降り注いだ。ちょうど街灯の光が背後より被さり、パーカーのフードを目深に身に付けた痩身の男の姿が露となる。
目つきについては窺えないが、フードに縁取られた口元からは猥醜な笑みが滴り落ちていた。彼が夜道を襲った人物で間違いない。
なんと身に覚えのない無体な攻撃であるか――と言いたいところだったが、残念ながら照信には少なからず心当たりのある展開だったのである。特徴的な相手の口調には聞き覚えがあった。自分が三回生の時まで所属していたサークルの元副部長だ。
照信は成績も鳴かず飛ばずだったが、日頃の行いについても品行方正で大人しかったとは言い難かった。この点に関しては、強ち一方的な教導者批判をできぬ立場にある。
憎き教授ほど荒れていたつもりはない。ただ二回生の頃、中二病ならぬ大二病と言うべきか、革命志向の反骨心をモドキでこじらせていた照信は、将を射るには馬と言わんばかりに当時加入していたサークル部長の暴虐を戒めようと、側近を気取る腰巾着の副部長に陰湿な罠を仕掛けたことがあったのだ。単独では精神力も行動力も限界があるので、肝の据わっている日黒の協力を仰ぎ、彼との結託によって実行したのである。
所属していたサークルは漫画部だった。部長が酷かったのは、漫画部代表の座に就きながら本人は一切自ら筆を取らず、下級部員達を飴と鞭で洗脳して、自分名義の原稿執筆を強要していたことだ。拘束的に使役するような待遇で、彼らには全く自分達自身の作品を創造する機会を許そうとしなかった。
飴とは、親の七光を利用した部下への褒賞である。マルチエンターテイメント系大企業のトップを父に持つ御曹司の部長は、「自分の執筆を頑張る代わりに俺の原稿を執筆してくれたら、お前が待望している来期のアニメ作品のグッズを先行でやるよ」等と甘い誘いを掛けて釣っていたのだ。
照信なら、例え自身に腕があって好きな作品を餌に強請られても、嫌いな男の片棒を担ぐ真似はしたくなかったが。
次に鞭とは、オタク属性を持つならグサリと刺さる種類の公開処刑の予告だ。例えば、部長に対し、SNSで二次創作のイラストを公開していると言った部員に、もし反抗したらそのアカウントの実名をネットに洩らすぞと脅すのである。大企業家の息子だけに後でより酷いことをされるかわからぬと想像が働き、自己確立のなっている強気な賢者以外の大半は絡め取られる。照信は、某青い猫型ロボット漫画のガキ大将や、金持ち自慢癖のある少年でも言わない極端な文句だなと思った。
形式とジャンルに拘りはないらしい。ファンタジーであれピンク物であれ、手書きであれ電子ソフトであれ、執筆を課した集団の中から優秀な出来の幾つかを文化祭や同人誌即売会に出展しては売り捌いていた。
当時、漫画が好きだからという理由だけで入部したため技能がなく、時たまシナリオ役を与えられる以外は補欠要員扱いだった照信は、眼中の外に置かれながらも義憤に駆られ、我慢ならんと日黒にも相談し反逆騒動を計画したのである。
標的としたのは、部長の側で常に虎の威を借る狐よろしく振舞う副部長だった。ちょうど夏に行われるコミックマーケット開催前の準備日、ブース設営主任だった副部長が休憩に行く頃合いを見計らい、部員執筆の漫画冊子と、あるものを入れ替えた。日黒氏の伝手で入手した、部長の〝お恥ずかしい写真集〟である。
性悪ながら面は良かった彼は女にモテていたが、女癖も悪く何度も浮気がばれて失恋を繰り返していた。古美術同好会の部員だった日黒は、先輩部員で部長の元恋人だった女性に彼の恥部はなかったか尋ねたところ、即時提供してくれたのが同棲中での〝お恥ずかしい姿〟の数々を記録した写真数十点である。
部長は不似合いにも顔出し着ぐるみを纏うのが趣味だったらしく、室内で阿呆なポーズを取りながらファンシーな毛皮に納まる不気味な風景が幾多も残されていた。
二人は吐き気と失笑を堪えつつ、漫画冊子の表紙カバーで偽装した痴態大全を、部員達の汗と涙の結晶の束と交換する。当然、誤って買った客の苦情殺到から部長に知られることとなり、激昂した部長から不興を買った副部長は責任を問われて強制退部の末路を辿った。
なお、その事件が引き金となって、恐怖に抑圧されていた部員達が決起し反乱、文化部の委員会に告訴される形で部長の悪事も明るみとなり、親の七光も敵わずして失脚となったのだった。
当時二回生だった十九歳の照信が、現在博士課程に入って二十五歳。随分と月日が経過しているのに、今更復讐とはどういう風の吹き回しだろう。今夜の闇討ちがなければ相手の顔すら思い出していなかった。
襲われている側なのに割と脳内が冷静だったのは、いささか前時代的な敵のスタイルにむしろ可笑しみが込み上げたからだ。しかし、今時敢えてベタに攻める姿勢は、平穏にヒビを入れるためのインパクトとしては成程絶大に映えると言える。無様に身動きが取れなくなっているのは照信の方だ。
(もう七年後だぞ。ある意味、自業自得であろうが!!金魚の糞め!)
「……などと開き直ろうとしていることでしょう、小癪な元補欠殿。徒に数年の歳月をかけたわけではないですぞっ!」
妙に甲高い声音から迸る口調は先ほどから慇懃だが、露骨な怨恨による汚い罵倒で溢れている。
以後、暫し滔々と物語られた涙ぐましい復讐の経緯は次の通りであった。
彼は太鼓持ちの労により、裏口漫画選考で人気電子コミック雑誌のデビューが約束されていたにも関わらず、すり替え事件の冤罪で退路を経たれたとして、失脚以降は真犯人探しに残りの大学生活を燃やしていた。
そして親の仕送りの半分の内、二十五パーセントをジム通いに当てて、約五年間過酷なトレーニングを積んだ。同時期にもう25パーセントで探偵を雇い、写真集の残部から指紋鑑定を依頼する。合わせて、当時のコミックマーケット会場にあった防犯カメラの映像記録を入手してもらい分析を依頼。結果、すり替え行為をしている人物の背恰好や特徴から、照信が犯人であることを割り出したと言う。
「貴殿は影が薄かったからですねえ。それを利用して見事にやりおおせてくれましたよ、補欠に足元を掬われるなど、栄光の将来を約束されていたはずの我が不徳の致すところです!」
「影が薄いは余計だし、作戦意図には含まれていない。筋トレを不毛な仇討ちに浪費するな」
相手の悲壮感の理由が明らかになったことで、一層馬鹿馬鹿しくなり突っ込みを飛ばす。
「ほざきなさい!千歳一隅のチャンスを剥奪された今の私から、何がどう失われようと同じこと!」
憎悪に顔中の筋肉を引きつらせ、叫び声を引き出しながら今度は右の踝へパイプ先を叩きつける。直後、圧迫を強めていった。
酔いにやや鈍くなっている皮膚感覚も、はっきりとした痛みを訴え始める。
「貴殿が一年毎この日に、奇矯な連中と集会イベントを開いていることは探偵抜きに私自身の尾行で把握していましたからね。待ち伏せの捕獲など造作もありません」
「お、男に尾行されても嬉しくない!」
「ふざけた言葉で抵抗する余裕がいつまで持ちますかねえ。ヘベレケで弱っていたのは好都合だった、連行の手間が省ける!」
元より虚弱な照信は、非常な状態でなくとも一度攻撃を喰らえば著しく消耗するのだが、相手は良いタイミングに居合わせたと言いたげに得意そうな声を上げる。
物理攻撃にも抜かりなく、今度は命取りに近い位置にパイプが移動した。触れる程度の軽さだが、一歩誤れば御陀仏になりかねぬ、顎より下の繊細な部位――喉を覆う皮膚面をなぞっているのはかなり不味い。
だが今口走った目的が事実なら、命まで奪うつもりはないのだろう。自らを社会的失墜に至らしめるのは彼の性格からすると望むところではない。
気絶に追い込む算段なのだ。どこに危害を加えれば意識不明にできるのか、狙いを定めている最中と考えられる。
「れ、連行って……捕まるのはアンタの方じゃないか? 誰に突き出すんだ!?」
凶笑を貼り付けて覗き込む顔面に疑問を投げ飛ばす。喉付近に固い物が押し当てられた状態のため、ままならぬ声帯を振り絞って出したそれは喘鳴に近かった。
「もう裏口選考は叶いませんが、新たな形で有利なコネを頂戴する!麗しき元部長殿の前で真犯人を証明することによって!」
照信は肉体的苦痛とは別に、心底の呆れから余裕綽々とした心地で微弱な溜息を吐き出した。
「…今頃は部長さんもアンタを忘れてるだろう。いい加減、コネにばかりあやかろうとせず、とっとと引き返して自力の道へ――ぐっ!!」
「語託はそこまで! 貴殿が病院送りになれば、次はお友達の日黒君の番ですよ! 共犯者がいること、知っているんですからねっ!」
もう発声の筋肉も動かせない。手足はとうに麻痺しているため反撃に出る猶予もなく、観念して朦朧と目を瞑った。
「……同意だぜ。男に尾行されたくないよな」
酸素の減退に意識が遠ざかり掛けた寸前、唐突な台詞で鼓膜を掠めた声音は、襲撃者のものにしては長閑で軽妙だった。じめっとした木の芽時の宵闇の湿り気を、一瞬軽く吹き飛ばすような、場違いなほどに張りのある爽やさ。
「だが、相手さんが如何しても男の身で尾行したいと言うんなら――ピッチピチの女の子を連れて来てからにするんだな!」
途中、急に語気荒々しく変化した声音が感知されたのと、立て続けに強い打撃音と鈍い悲鳴が感知されたのはほぼ同時だった。
「おごっ!?」
悲鳴の主は元副部長だった。鉄パイプがアスファルトと接触する落下音が響く。照信が薄目を開けて見上げた先では、手首を押さえて苦悶に顔を引きつらせている副部長の姿があった。どうやら、新たに現れた爽やかな声の人物から攻撃を受けたらしかった。
「なんですか突然、無粋な邪魔を、お、覚えておきなさい!」
突如介入した暴力的な気配に怖気づいたらしい。肉体を鍛錬しても、大の犬にまで飛びかかる勇気までは得られなかったようだ。落した鉄パイプには見向きもせず、古めかしい捨て台詞を吐きながら脱兎の如く坂道の下方へ走り去って行った。
執念深く煮詰めた計画の割には、呆気ない幕切れ。
「大丈夫か兄ちゃん、立てるかよ」
手を貸すか否かの是非も確認せず、未だ思考が茫然としている照信の腕を第三者は掴んだ。手つきは意外と柔らかく、照信の男性にしては細い肩を力強く支えながら、労わるように上半身を抱き起こす。介抱に慣れたような機敏の良さがあった。
「これって事実上の不法行為、私刑じゃね? 大学って、半分学生任せにしてる分、おっかないね。哀れには思うが、今時鉄パイプは笑えるぞ」
電柱の灯りが後ろから射す位置に人影があった。不鮮明ながら輪郭は明らかになる。逆光であることと、視力の悪さで判然とはしないが、背が高く均整の取れたシルエットに美しさを覚えた。健康的で、運動能力に秀でた精悍な若者らしいと見て取れる。
彼は中腰で屈みながら、そっと照信の喉の周囲に手を添えた。無防備に差し出された両脚のズボンの裾も捲る。鉄パイプが当てられた箇所を看てくれているようだった。
「右の足首が少し青じんでいる程度か……。冷やしときゃ三日三晩で治るだろう」
黙ってされるままではいたたまれない。礼を言おうとして口を開き掛けるが、相手が次の言葉を重ねる方が早かった。
「大の男だったら、簡単な防御の術くらい覚えとけよ。体育の武道の授業でも必ずやるだろ?」
感謝の意志が風に煽られた灯火のように萎む。感動のタイミングで一言余計なお節介を付け加えるなど、確かに元副部長の「無粋」という評価には一理ある。
体育は苦手且つ嫌いな授業だった。都合の良いことしか考えないようにしている照信には、嫌いだった修練の内容など既に忘却の彼方である。そのような無用のものとして葬っていた事柄を、通りすがりのスカした声音で忠告してくるような輩にほじくり返される筋合いはない。せっかくの恩義も撤回だ。
素直ではない単調な思考回路だと自嘲しつつ、自尊心から内心でそう突っぱねた。ついでに、わざとらしさ半分に暗闇の中でむくれてみせる。
一方、助太刀に現れた謎の男はさばさばとしたもので、無事を見届けられたら問題ないと特にこちらの反応を窺うでもなく去っていった。軽快な駆け足の音が暗い路地に吸い込まれ、スタイルの良い影も消える。
(それにしても、彼は誰だろう。大学生くらいかな?)
シコリのような苛立ち半分、謎の助っ人への好奇心半分を心の手土産に、照信はよろめく足先を叱咤しながら下界の住処を目指して再び歩き始めた。
翌朝、早朝七時。照信は自宅の安い学生用アパートの二階にある一室から、パジャマ姿のまま眠気に瞼を擦りつつサンダルを引っかけて下に降りていった。
軽い寒さに肩から掛けたジャンパーを掻き寄せつつ、新聞受けに向かう。
実家でも取り寄せている全国新聞を抜き取り、その場で適当にパラパラと捲っていると、地域欄に目を瞠る記事が掲載されていた。
親友の日黒が居候する寺の近所にある公園にて、暴行容疑を持つ逃走者が大木に縛り付けられていたというのだ。一人の学生に危害を加えた後、身を眩まそうとしたところを空かさず一人の若者に押さえこまれ、近くの交番に通報されたらしい。
暴行容疑を持つ逃走者とは、間違いなくあの元副部長だ。押さえこんだ若者とやらは、多分昨晩の無神経な恩人だ。追走して捕まえたようだ。
大学に行くためアパートを出ようとした際、近所の主婦が近々引っ越してくる若者がいるということで立ち話をしていた。何でも、俳優のように涼やかな目元のイケメンらしいと盛り上がっている。
照信は、それを聞いて突拍子もない思いつきを縁起でもない冗談として呟く。
「俳優並みのイケメンか……誰かの本物だと特定して世間に公表したら、マスコミ業界から幾ら貰えるかね……」
照信は博士課程に入って以降も、気晴らしで学部生対象の教養講義に出席している。今日は、在学部生の四月上旬までの長い春休みが明けた前期講義開始日だ。
今日の二時間目に行われる講義担当教授は、四角四面で評価に厳しいと有名だが真っ当な人格の持ち主なので、斜陽坂教授に比べれば全く苦にならない。
無論、比較的楽ということが甘さを意味するわけではない。受講者は最低限の礼儀として、意欲的緊張感と共に迎え撃つ必要がある。
教壇に立つ相手の容貌も割合強面な方で、自然と気を引き締めさせる。
そのような環境下にも関わらず、初日から物ともしない不遜者を半同心円状の一角に発見して照信は面喰らった。
最後列に座る照信の直前列――彼から見て右側斜方向に、堂々と爆睡する男がいたのだ。
(スヤスヤと安らかな寝息を立ておってからに……呑気なもんだ。)
普段なら照信も一瞥で確認を済まし、さほど気にせず教壇に意識を向けるのだが、妙に引きつけて止まない。
眠る男の容貌が、一段と特別性に満ちていたからだ。
宝冠のように頂かれた黒髪はやや納まりが悪いが、ところどころウェーブがかかり、額の前でお洒落な形に中分けにされている。
艶やかに波打つその緑髪に縁取られて納まっていたのは、人のものにしては精巧に過ぎると思えるほどに端麗な白皙の美貌だった。
狂いなき合せ目を呈して閉じられた長い睫毛は精密な歯車にも似ている。ルネッサンス期の耽美な宗教画に描かれる天使が実際にいたら、このような寝顔を見せるのかもしれない。そう思わせる正確無比な面相だ。
あまりに整った顔立ちに同性ながら吸い寄せられ、聴講半分、眺め入ってしまう己がいることを悟る。
(くっ! 僕ともあろう人間が、よりによって男の顔に見惚れるなんて……群衆から抜きん出た美女を探そうとするならともかく、女性陣を差し置いて野郎に向くか!)
本気で人の顔面に圧倒されたことなど、初恋の“戦乙女先輩”なる女性以来だと照信は思う。
数多の学生が座る中、自分以外は彼に関心を向ける様子がない。いや、大分後方にいるため気づかせにくいのか。全体に明らかになれば、教師から叱責を受けつつ別の意味でも注目の的になるだろう。当講義が内容と語り口に優れて好評なため、皆の集中力が削がれ辛いという特徴も関係している。
口下手で難解な内容ならともかく、よほど己の美貌に自信があるのか威厳ある教授を前にしてまで睡眠欲を貫きたいと思うだろうか。容姿の秀麗さを抜きにしても、極めて大胆不敵な輩には違いない。
不意に、美男子の瞼が微かに揺れた。「ん……」と鈍く呻くような息遣いが聞こえる。目を醒ましたようだ。
ゆっくりと持ち上げられた二重瞼の下から現れた青い光を見て、照信は思わずある単語を声に出して呟いてしまった。
「ハーフ?」
白い肌や、日本人にしては全体的に立体感の強い彫のある骨格や、鼻梁の高さから薄々感づいてはいたのだ。それでいて、どこか東洋人らしい扁平さもある。
だが、あらゆる優れた要素を伴う中、抜きん出て印象を焼きつけるのが青々とした瞳だった。
まるで宝石のラピスラズリだ。鮮明に際立つ透き通った青色は、同じ人間の瞳とは思えぬほどに異次元的な輝きを帯びている。洋画の俳優を目にした時に感じていた、作り物めいた造形は確かに存在しているのだと実感する。
「ご名答。目立って隠せない点だとはわかってるけどね。もし褒め言葉として反応したなら、アンタの人望に問題はないな」
突如耳を打った声の方向へ視線を這わせると、いつの間にか完全に覚醒した美男子が腕は伏せたままにニヤニヤとこちらを見上げていた。照信の独り言を耳聡く聞きとめたのだろう、テンポの良い返しだった。
態度は気さくだったが、現在の受講態度も加味すると傲岸に映らなくもない言い様だ。無償に勘に障る気がした照信は、反射的にムキになって指摘する。
「君は恐れ知らずにも程があるだろう。本当に篤い人望のある立派な先生が講義をしているんだぞ。学費を無駄にして恥ずかしくないのか」
相手に悪びれる気配は微塵も訪れなかった。憎たらしいほど綺麗な顔を恍けた色に染めて、平然と答える。
「俺は体験で気紛れに講義巡りしてるだけだからなあ。悪いが俺の胸に響く中身じゃなかったみたいだ。講義の後、俺の代わりに謝っといてくれ」
親身な響きに反し、どこかこちらを舐めた色合いが漂うのは気のせいだろうか。
それから、暫く普通に会話が続いてしまった。しかし照信はある段階でウッカリに気づき、その瞬間から、なるべく声を潜めるように努める。
だが何時の間にか広く聞える程に音量が上がっていたらしく、教壇のある方角から咎める声が飛来した。
「あー、なあメガネ君、大学でも私語やったら廊下に立たされる習慣あるかなあ」
お気に入りの講義の場で無礼を晒してしまったと硬直している照信の不安を余所に、美男子は場違いに呑気な発想でズレた心配を口にする。照信は複雑な心境で絶句しながら睨みつけた。
結果として、厳格な栄誉教授の真っ当な注意も美男には馬耳東風だったらしい。再び彼は眠りの世界に帰っていった。美しい顔面を腕枕の間にすっぽりと埋める。
照信は、一人だけ損をしたような気不味い心持に囚われた。
第一、印象のみでマンネリな渾名付けとは非常に不本意だ。
何となしに、正義感はあるがデリカシーに欠けた昨夜の助っ人を彷彿とさせる。
やがて講義が終了した。
昼休憩のため、皆まとまって足早に食堂や中庭での持参したランチに向かわんとしている。
出無精の照信は講義室内で昼食を済ませようと思い、コンビニで買った弁当を受講席に広げ始めた。
ほとんどの学生が退室し、ほぼ伽藍堂と化した広い講義室の長机の一隅で、例の容姿端麗な男子学生がむっくりと起き上がった。
両腕を枕にして突っ伏していたため、顔面には所々判子注射のように微細な凹凸が刻まれているものの、美しい形が損なわれることはない。
「やあ。おそよう、美男子君。見るからに絵に描いたような典型的軽薄そうで軟派な雰囲気の“イケてる”大学生だな。君は。僕は年の割にジジ臭い感覚の持ち主でね、表現味に乏しい流行の若者言葉に頼って安易な形容をするのは好まないんだが、便利に的確さを象徴することもあるから敢えて言おう、君は“チャラいパリピなウェイウェイ大学生”だろう、違いないな」
目を覚ました傍から、矢継ぎ早に聞えて来た長広舌に怜夜が視線を動かすと、口角を気味悪く持ち上げてニヤニヤと微笑む眼鏡を掛けた男の顔が見下ろしていた。確か、居眠りをしていてふと起きた瞬間に、二言三言交わした相手だったと認識している。正直、普段なら歯牙にもかけないような地味目の虚弱そうな青年だが、どこか屈折した物の言い方に妙なインパクトが感じられる。なお、相手の外見に対し低評価な判断をしたのは、別段、怜夜自身が美形と自覚しているが故の奢りからではなかった。
「ふわぁ~、回りくどい奴だよな、上手いこと皮肉でも言ったつもりかよ、聞き取りづれーわ。そういうお前は、典型的なオタク特有の早口で畳みかける根暗で捻た男子大学生じゃねえかよ、お前みたいなタイプ全然ダメなんだわ」
欠伸混じりに悪口で応対しつつ、ぼやけた双眸に意地を込めて睨み返す。
「だけどまあ、嫌いとは思わねーよ」
ただし、唇はどこか愉快げな笑みを描いていた。
「奇遇だねえ、僕も好きとは言わないが、君のような普段交わりのないタイプには興味があるよ。いい研究対象になりそうだからね」
互いの認識の上では初対面であるはずだった。それが今や、まるで旧来の友人であるかのように、
皮肉混じりの無遠慮な応酬をしている。
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(三話に続く)
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