照(テル)と怜(レイ)

須弥 理恩(しゅみ りおん)

文字の大きさ
3 / 3

3話 交流の団欒

しおりを挟む
「奇遇だねえ、僕も好きとは言わないが、君のような普段交わりのないタイプには興味があるよ。いい研究対象になりそうだからね」

 眼鏡を掛けた痩身の青年が、如何にも皮肉げにそう投げ掛けた時、怜夜は内心で噴き出しそうになった。

(悪いがそれはこっちの台詞だっての。いち学生、いち庶民の一人だろうが、立派な収集のための情報源となるんだからな)

 外見年齢は恐らく自分と相違ないだろう。浪人か留年か、大学院進学者と考えられる。舞台の凝った演劇のように回りくどい喋り方をしているが、多分虚勢を張って気取っているだけだ。同業者か、或は標的の一味という線からは外れそうである。
 ちなみに、軟弱そうな細面と彼の妙に明るめに染めた茶髪、そして変にコントラストを用いた服装とが全く噛み合わず、各々が風景の中で浮いている。陽気に見せようとしてコーディネートしたのかもしれないが、相当無理をしているように映る。同時に、なんとなくある有名キャラクターを連想させたのだが、この場で歯伏せておくことにした。
 目前の相手について警戒する必要はなくなったわけだが、開口一番の台詞には別の意味で大いに不意を打たれた。
派遣先のこの大学では、自分、群青怜夜は編入の現役大学三回生という身分設定になっている。上司の猫目石からは、観察行動に励みつつも、普通の学生と変わりない調子で過ごしていて構わないと言われたため、本日の登校初日から割とのんびりとした心地でいた。標的と関連する学部に所属するとしても、新学期最初の講義など聞いている姿勢を取れば良いだけなので気楽だ。特段、ややこしい事態も起こり得ぬであろうと思っていた矢先に、妙な学生の一人から突然噛みつかれた。居眠りを除いては目立つ問題行為に及んだ覚えはない上に、無関係な奴に罵言を浴びせられるとはどのような了見だろう。
 別に腹は立たなかったが、寝起きに水を差されたようで変な気分にはなる。
 そのように、怜夜が悠長に迎え撃つ態度でいたのに対し、照信の方は内心で心臓が飛び出さんばかりに緊張していた。勢いに乗じて強気に出たものの、忽ちに後悔が押し寄せる。
 今し方に吐き散らした文句は、もろに自分より優れた点を有する同性に対しての嫉妬かやっかみにしかならない。露骨な逆恨みだと自覚しながら、それをようの気を帯びた明朗な美男子に奮うなど、勇気の要る行動以外の何ものでもなかった。思い切って、日頃〝美形〟という天性の優越領域所属者に抱いている鬱憤を、相手が居眠りという落ち度を見せたのを良い機会として全開に押し出したが、実質かなりの無茶だ。

「おいおい、俺は自由研究の朝顔じゃないぜ。勉強を究めたいなら、もっと有意義になりそうなモンを観察対象に選べよ」

 照信の皮肉に、怜夜も軽薄な冗談を返す。
 敵意は湧かない。交友関係の輪からは逸れる人種でも、付き合うには悪くないとは思う。
 言い回しに屈折した感じがなければ、面白い言葉遣いに化けるのにとその点が惜しまれる。
 怜の通りの良い声が、吹き抜けの講義室にやや反響するのを照信は不覚にも聞き惚れながら、ふと自分の憎悪すべき指導教授と照らし合わせて相手の人柄を考えた。
 講義の参加姿勢は不遜で、初対面相手にも身体的特徴で勝手に渾名を付けるなど今のところ容姿以外に褒める点はないが、空っ風を思わせるさばさばとした調子には、人を裏切り嵌めるような陰湿さは漂わない。信頼に値し得る人間性と言えよう。

「君は眼鏡ではない。故に君は裏切らない」
「は?」
 
 また唐突に奇妙な言葉遣いを始めた痩身の青年へ、怜夜は反射的に疑問符を飛ばす。

「対偶だよ。君が裏切るなら眼鏡ということさ。ここでは多くを語るつもりはないが、実は僕は限定的人間不信に陥っていてね。自らも眼鏡を着用しておいてなんだが、上からの目線で語る眼鏡着用者を受付なくなっているのさ」
「何だそれ? まるで意味がわからん……」

 個人的な悩み相談の意図でもあるのか、自分に含むところがあるのか掴めない。
 それと、わざわざ対偶について学生に説明される筋合いはないと妙な点で無性に苛立ちが湧いた。嫌と言うほど試験勉強でやった項目なのだ。公務員に属するのだから当然だ。

(なめてんのかこのモヤシ)

 怜夜が職分を果たす上で当然としてきた肉体強化の努力さえ、見るからに怠っていそうであるなよやかな男に、嫌味たらしく臨まれることが気に食わない。無体な方向へ怒りを結び付けているところでは、彼も眼鏡の青年と同等であるが無自覚に留まった。

(待てよ、こいつどっかで見たかもな……)

 苛立ちを余所に、ふいに痩身の青年に対して怜夜の中に一つの記憶が呼び起こされる。指定された居住先のアパートに荷を下ろした夜、コンビニに夕食の買い出しに行こうとした道の途中で暴行現場に遭遇した時だ。鉄パイプを得物にフード付きパーカーを羽織る前時代的な暴漢に襲われていた眼鏡顔の学生に、どことなく面影が似ているのである。
 あの時は躊躇なく回し蹴りで手指から鉄パイプを振り落とした後、脱兎の如く逃亡しようとした犯人を追跡して襟首からひっ捕らえ、公園内の大木に縛り付けたのだ。
 公園前の現場まで引き摺り戻して来た時、倒れていた眼鏡の青年は既に姿を消していた。怪我は看た通り大したものではなかったので、無事に帰宅できたのだろうと安堵していたが――。
 直後、確信となる証拠に気づいた。目前の青年の喉元に、薄らとだが痣の跡が残っている。よほどの事がない限り、学生として過ごしていて首に痣などできないだろう。
 一方の照信の脳内でも、眼前の美青年に関して一つ推察が働いていた。
 声について、何となく聞き覚えがある。癪に障るほど抜けるように爽やかなトーン、遠慮のないどこか人懐っこげな口調――思い返せば、容赦なくも護身術を習得しているはずだろと言い放ったあの時と大差ない。
 符号の一致に思わず叫び放った。

「あ、アンタ。ひょっとして昨日の!」

 綺麗な顔面に向けて指を差す。更に言えば、救助された時に目測した均整の良い長軀の形状も似ている。
 今は上下ともに黒の革ジャンとジーパンを装着してよりシルエットから引き締めた印象を醸していた。革ジャンはジッパーで閉めず、微妙に胸部が肌蹴る程襟の広い紺色のシャツを覗かせている。形の良い鎖骨より下には、プラハの天文時計をあしらったようなペンダントがアクセントとして光っていた。
 美青年の方も、相手を似たように考えていたようで、指摘を受けるやゲラゲラと笑い出した。

「助けた恩を忘れられたかとヒヤヒヤしたぜ、良い声なんだから三秒早くは気づいて欲しかったぞ。こんな口説き文句、普段は女の子にしか言わねえがな」

 〝三秒早くは気づいてほしいと言うのは〟口説き文句なのか――照信の肌の表面に微弱な寒気が過る。

「ちなみに、あれ以上逃亡しねえように身柄を確保したのも俺だから。ローカル新聞なら一面飾ってるはずだから、また確認しといてくんな」

 怜夜は美貌を得意げに綻ばせて、サファイアのような瞳からウィンクを作る。

「あ、ありがとう……」

 感動の再会とも言うべきであり、本来素直に謝意を抱く展開なのであろうが、何となしに釈然とせぬものがある。儀礼的な生返事を絞り出した。
 と、美青年は特に前置きの一言もなく唐突に照信の手指に触れた。握手かと思いきや、直後の動作がおかしい。掌ではなく手首の方まで指を這わせつつ、目線はまるで観察をするように長く張り付いていた。


「て、手当の時でもないのに、男同士で何をするつもりだ!?」

 愕然と両目を剥きつつ、握られた手を引き抜こうとするが、美青年の力の方が強かった。

「阿呆、趣味でわざわざ男の手なんか掴むかよ。何が言いたいかって、お前、腕も足首も細っこいのな。道理であのザマだ、小坊が蹴った石コロも除けれねえんじゃねえの?」

 男でも感嘆させ得る美貌に似合わず、軽口にせよ揶揄にせよ口汚い。歯に衣着せぬのは、生まれ持った性質であろうから咎めても手遅れであろうが、アドバイスを添えるなり少しは相手の意志を前向きにさせる工夫をしたらどうかと思う。
 弱腰であることに反し強情を張る嫌いのある照信は、意思貫徹と開き直った。

「どうせ天性のモヤシ男だ。防衛などままならん。それよりも気に掛かるのは、君も言う新聞に出ていた捕縛の一幕だ。事はアンタの乱入で既に片付いていただろう。戦意喪失の相手をあそこまで追い詰めんでも……」

 やや遠慮気味な問いかけは、拳が机を強く叩く音で遮られた。臆病な神経は大きな音への驚愕を避けられず、反射的腰元から肩先までピクリと跳ね上がる。

「馬鹿野郎、素人よ甘いぞ。それらしく開き直って誤魔化そうとすんな。暴行は立派な犯罪だからな。署に引き渡すまでが悪党退治だ」
「素人?」

 かっこつけての台詞かもしれない締めの一言には取り合わず、「素人」という単語に眉を顰めて反応をする。
 怜夜は臆面もなく淡々と説明した。

「正当防衛の術が身についてない素人って意味だよ。ま、いずれレクチャーしてやるさ」

 何故同列の学生という身分でありながら、上から目線の師匠面をするのか。
 無論、悪質な指導教授より千万倍も尊大加減は穏やかだが、学問の面と異なり、領域外とも言える運動の面で不出来を指摘されると、呆れを通り越して心身が堪える。
 だが、今の照信に小さな憂鬱に浸る暇はなかった。美青年に本気で実行する気かもわからぬ指導予定を宣言された直後に、予鈴の音楽が聞こえたからだ。

「おっと、俺ら昼休憩中、ずっとここで駄弁ってたわけか。お前は弁当頬張ってたから良いとして、こちとら空きっ腹のままだからカフェテリア行ってくるわ。次、授業ねえし。んじゃな」

 引き際があっさりしているのは、闇討ちから救助した時と同様だ。口調も行動も裏表なく相反しない。
 ジーパンの滑らかな曲線に縁取られた腰をやおら上げつつ、お洒落として所有しているらしい鍔広の黒いハットを頭に被せた。かっちりしたショートブーツの爪先を蹴って廊下の方へ歩いて行く。
 椅子から離れる際、少し革ジャンの厚い生地がはためいて、力強い微風を照信の眼前にそよがせた。ツン、と革らしい独特の香りが鼻孔を突く。
 ぽつん、と一人取り残された空間の中で照信は、急激に湧いて来た脱力感から、深々と吐息した。
 ある意味、新しく話せる相手が増えたと言うべき場面なのだろう。本来、諸手を上げて喜ぶべきだが、気が重く沈んでいくようであった。
 理由は単純明快だ。まだ名前も聞いていないあの優男が、容姿端麗に加え、竹を割ったような快活さを兼ね備えている事実が己の胸を刺し抉るのだ。陰に安寧を求めることを護身のすべとしてきた照信にとっては、毒性のある眩しさだった。
 彼の存在を、己の周辺のコミュニティに受け入れるべきか、否か? ロシアンルーレット百物語の仲間達が知れば、どのような反応が示されるだろうか。
 怖くも思いながら、説明不可能な高揚感が心の片隅に疼いていることに照信はまだ自覚がなかった。




 帰宅後の時間は良いものだ。帰宅後の時間ほど大いなる至福の有り難みを感じられる時間はない。この時間は、一切の煩わしい世間事から解放される貴重な静穏なのだ。
 ここには、ヒヨコのようにかよわく傷付き易いメンタルを容赦なく刺突しまくる嫌味の権化というべき指導教授もいない。当然も至極のことながら、たったそれだけの事実がなんと贅沢に思えることか。古い安アパート特有の壁や天井に散在するシミなど、子犬の足跡のように可愛らしいものだ。
 上京以来、苦楽を共にした住処。博士課程に進学したこの年まで、主一人でつましくも守り抜いて来た。
 今夜は例外で、目の前には珍客がいる。照にとってはこれまで縁のなかった、異人種に位置付けられるべき存在だ。百八十度、いずれの角度から視点を当てても非の打ちどころの見当たらない端整な造形に恵まれた青年――世に言う美男子イケメンと衒いなく断言できる人種が、鎮座しているのだ。少なくとも、自分には永遠に到達できぬ領域に君臨するぎょくの者である。
 目の前で堂々と、人様の家の中であることを気にする風もなく胡坐をかきながら缶ビールを喇叭呑みしていても、意地汚く肉じゃがを掻き込んでいても、輪郭乱れることなく様になっているのだから恐れ入る他ない。
 しかし、大して不快とは感じていないのだ。不思議なことだった。
 自分では、孤独の自由を何より愛おしんでいると思っていたのに、案外五月蠅い人気でも招きたい程無意識下で寂しがっていたのかもしれない。
 以前からの無二の親友である日黒は、大学が終われば居候先の寺の手伝いで余りアパートに遊びに寄る余裕がない。
 故に、実質上京後初めて、自分のアパートで他の学生と密接な団欒をしたと言えるだろう。
 事の経緯は買い出し時の夕方にまで溯る。帰宅の際、扉の並ぶ廊下の前で鉢合わせし、隣同士であったと知って尚驚いた。
 空腹で早く飯の支度をしたかった照信は、ドライに挨拶をそこそこに済ませて肉じゃがを作っていたのだが、その最中にやや強めのノックが聞こえて玄関の戸を開けると、例の美青年が気さくな笑顔で立っているではないか。
 昼間身に付けていた黒を基調とするクールな服装ではなく、所々穴が開いて生地のヨレた鼠色のジーパンに、Vネックのストライプ柄のニットという格好だった。
 生地のヨレや穴も彼の場合、お洒落を意識しての品かもしれなかったが。
 照信も自宅にいるとあって、武装装飾の一種であるネクタイも襟の付いたカッターシャツも身に付けていない。草臥れたトレーナーにジャージのズボンである。
 「よお」と馴れ馴れしく手を掲げた優男に、何の用かと詰問すると、良い匂いに誘われたから晩飯を分けてくれやとのたまった。窓も開けていなかったのに、野生並みの嗅覚かと戦慄を覚えた。

「いやあ、ここに来たばっかだからまだバイトも見つかってなくて、生活資金に乏しいんだよね。つーわけで、大学で知り合いになったよしみだ、お前んとこのおかず、食べさせてくんない? 絶対後々奢るよ」

 へらへらと話しているが、生活苦があるなら気の毒だと自然な親切を働かせるくらい、照信も薄情ではない。とりあえず招き入れる。
 しかし、隣に住む大学の知人が、たまたま夕飯を作っていたからということで、序に御相伴にあやからせてもらおうと目論むとは図々しい逞しさだと妙な感心が湧いた。彼程度の押しの強さが一人暮らしには必要なのだろうと、上京当初一人暮らし童貞で隣室の毎晩の呻き声に苦情を言えなかった経験のある彼は思った。
 美青年に配膳を手伝ってもらい、さて食べようかという場面になった時だった。照信は、このアパートに最近引っ越して来た顔の良い男がいると近所の主婦達が囁き合っていたことを思い出し、もしやと美青年に確認する。案の定そうだった。

 「御婦人方の話題の中心となっていた謎のイケメンが君のことか……」

 呆れ半分に呟く。
 
「早くから噂の種になっているなんて、何か鼻が高いなあ。ご近所の人気者になれば、おば様方から御飯のおすそわけが大量に貰えるかな」

 大層に能天気なことを抜かしている。

「さては君、ナルシストだな」

 やや煩わしげな目つきで照信が合いの手を入れると、

「ナルシスト上等じゃん。今もらってる飯より格段にレベルも跳ね上がるだろう? 俺は不安なく健康的一人暮らしを送れるぜ」

 美青年は自信満々に不遜なことさえ言ってのける。このポジティブシンキングは、見栄えだけではなく、生来の気質に由来するものだろう。さぞ日々が楽しかろうと羨ましく思った。

「言ったな、この二枚目め。絶対に高級な奢りを要求するから覚悟しておけよ」
「怒んなよ、冗談だって。お前さんの肉じゃがも旨いよ。今夜の飯で充分な恩返しをもらったさ」

 怜夜は照信に当然の態度で礼は言うものの、強い女好きであるさがから、わざと不平をぶつけるような冗談めかした苦情を呈してみせたのだ。

「だってお前さん、貧乏の環境下で同じような飯なら、せめて可憐な美少女からもらいたかったと思うよ」
「贅沢な泣き言を垂れるな、僕だって同じだ。エプロンドレスのメイドさんを雇えたら、どんなに華やかだろうね」

 照信も美青年の意図を察して、落ち着いた切り返しをする。この仕様もないと言えるやりとりで二人は、正反対に思える両者の間に、互いに底通する波長のようなものが存在しているらしいことにやや感づいた。僅かだが、彼らが近づいた初めての瞬間だった。地味な日々を過ごす照信にとっては、怒涛の展開が続く今日であった。
 しかし、馴れ馴れしくコンタクトを取った怜夜の方も、照信と同様、まず同じ住所となった偶然に驚かされていた。
 なるほど、上司が手当てとして支給したアパートがたまたまこの青年の現住地と重なったのだろうと合点する。猫目石が契約手続きをした不動産会社の物件の一つに含まれていたのだろう。
 食後、二人はすぐには片づけに取りかからず、一段落ということで暫しとりとめもなく会話を繰り広げた。芸能ニュースや時事情報など、他愛もないことから適当に言い合う内に、互いの家族の紹介に至る。
 ハーフであるという怜夜の家族構成には、照信も俄然興味を引かれた。

「親父が日本人で、お袋が東ヨーロッパの生れ。親父が仕事の関係で東欧に行ったのをきっかけに知り合って、親父のもとに嫁ぐことになったって聞いてる」
「国際的恋愛譚だね。こっちは、なんてことのない核家族だよ。そう言や、君、名前はなんと言うんだい? 下の名は東欧の血を引くことに因んで、ジュラとかピョートルとか言うのかい?」

 この期に及んで、漸く両者揃って互いの名を未だ確認していないことを思い出した。不可思議なことだが、どちらもさほど気にならなかったのだ。しかし、そろそろ「君」「お前さん」と二人称だけでは呼び辛く不便に感じる頃である。竈の飯まで掻き込んでおいで、今更よそよそしげにすることもあるまい。

「人の名前を当てずっぽうに言うなよ。いや、普通の日本人名だ。怜夜だ。りっしん辺の『れい』に、よるの『』で、れ・い・や・。名字は群青。群青色の、群青だ。フルネームで群青怜夜」

 言いながら彼は、電話の側にあったメモパッドに備え付けのボールペンでさらさらと綴ってみせた。

「次は僕の番だな。赤月照信という。赤はレッドカラーの赤、月は天体ムーンの月だ。照は、太陽や電球が照らすの照。のぶは信じる、という字だ。全部書くとこうなる」

 同じメモパッドに照信も自分の名を書き連ねた。
 二つの名を並べると、対照的な意味の字面となった。しかし対照的なのは互いの名だけではない。字面から受け取れる意味合いと、名の所有者の性格がいたく対照的だったのだ。
 数秒ほど、二人してインクの文字に目を落とした後、上げた顔を見合わせて噴き出した。

「体育会系の俺が、日が沈んだ後の暗い時間帯に青系の名前、笑わせるだろ? 地味目に思えて嫌なんだよな」
「こちらもさ。月はわかるが、元気なイメージの赤色が付く上に、下の名前は光を投げ掛ける立場とはねえ。両親も僕の日向を不得意とする気持ちを考えてほしかったもんだ」
「お互い、親から貰った名前のイメージと矛盾する生き方をして、正反対の人間に育ったわけだな」
「全くだ。君と僕とは全然違うタイプだが、なんと名前負けと名前の類似で共通点が生まれた」
「じゃあ、よろしくな。照。おっと、下の名前をフルで言うのも堅い気がしてな。何となくだけど、言い易いだろ?」

 怜夜の提案に最もだと照信も賛成する。それに、一気に親近感が高まった雰囲気だ。

「こちらこそ、怜。おっと、略すとカッコ良くなった気がするぞ」
「俺はもともとカッコ良いから! でも、お前さんもスタイリッシュになった気がするぜ」
「ふん、生れつき見目が良いからと調子に乗りおって」
「ひがむなよ。照ってさあ、ネガティブな内面カバーしようとして、理屈捏ねた理論武装に走る癖あるよな?」

 急の図星な指摘に照は声を詰まらせる。怜は朗らかに笑って続けた。

「俺だって口下手だから気にすんなよ。舞台の台詞でもないのに、マジ現実の場面でやると痛いって」

 照は赤面した。講義室の一件で、さぞ、煙たがられていたことだろう。やはり慣れない勇気を振り絞るものではない。

「ぼ、僕なりの矜持に基づく振舞いだ。リアル充実の男が難癖つけるな!」

 強がって噛みつく照にも、腹が膨れた機嫌の良さからか怜は笑って受け流す。逆に相手を持ち上げすらした。

「照は料理の腕が良いんだから、自信持てよ。理論武装を磨くより、よっぽど実利的だと思うぞ。さっきの肉じゃが、男の手作りにしちゃあ最高に上手かった!お袋さんの仕込みとか?」

 ゆったりと両脚を伸ばしてリラックスする姿勢を取りながら、珍しくはっきりと褒める怜に、分かり易く目元をニヤつかせながら照は突っ込む。

「作り手の性別で味の良しあしの判定とは偏見も良い所だな、母もそうだが父がたいしたものでね……」
「御両親ともに料理得意なのか、良いなあ。俺の親父にそんな可愛げねえからなあ。…・・・いつも自分でこしらえてんの?」
「本来は面倒臭がりだからな。コンビニでも良いかと思ったが案外高くつくし、大学生になって初めて赤貧生活を味わったことで、グルメの傾向が強くなってね。 例え、作るのも億劫な程疲れている時でも、自身の健康のために手を抜くのは絶対に嫌だからお取り寄せもするようになったんだ」
「へえ。まめじゃん、偉いなあ」

 美しい女性の手料理であるならば何でも、という筋金入りの女好きの価値観で怜は動いている。そのため、自ら用意する時、食事の中身に強い拘りを持つことがないのだ。
 照の自室を見渡せば、本棚の一角に十冊以上はレシピ本が並んでいる。〝グルメの傾向が強くなる〟という言い方をしていたから、元来食べ物には一家言あるタイプなのだろう。こちらには思想や反論もないので、単純に感心するだけだ。

「俺、冷凍食品かレトルトで済ませるからなあ。野菜切ったこともねえし、卵も割って焼いたことねえわ。カップラーメンに冷凍野菜ぶっこむのが最近定番のディナーかな」

 粗食どころか好い加減且つ適当な食事の取り方をしていることを、何の気後れもなく正直に洩らすと、照の痩せた顔は見る間に茄子の如く青褪めていった。目つきは、まるで宇宙人でも見つめるようだ。

「あゝ、健康優良男児風な君が嘆かわしや。ええい、取り寄せおかずで余分に買っているものがある、今回はこの二つを持って行くと良い。好き嫌いは聞かん。これで明日の一番早い時間帯にはまともな栄養が摂取できよう」

 悲憤しながらも、手はてきぱきと冷蔵庫を開けて物を取り出している。ウニ豆腐のパックと昆布と椎茸の佃煮の瓶を選ぶと、茫と寛いでいる美青年の両手の中へ押し込めるように握らせた。

「ありがとよ、照。偏屈そうなモヤシでも、凄い気配りできるじゃん」

「余計な比喩表現を控えるのならば、次はもう少しグレードの高い惣菜をサービスしてやろう……ところで、君の母上の手料理はどんなだい?」

 流石に親御様のいた元では、まともな食事を摂っていただろうと踏んで質問を振った。
 服を着た状態からでもわかる、やや筋肉質そうながっしりした体格が、欧州の血を半分引いているからという理由だけでは出来上がるまいと照は思ったのだ。

「お母様の方が確か外国人なのだったな? やはりご出身の郷土料理が食卓に上ることも多かったのかね?」
「母さんの味は…うーん……」

 何気ないつもりだったのだが、怜はふと考え込むような顔をして、一旦黙り込んでしまった。
 もしや、家庭事情に差し障るような、触れては不味い話題だったのだろうか?
 妙な間の訪れに、恐る恐る顔色を覗き込むと、その瞬間には平常時の明るい表情で話し始めた。

「いや、故郷ふるさとの味は得意じゃなかったそうでさ。逆に日本こっちの料理覚えるのに抵抗はなかったらしくてよ。俺を生むより前には、世話になったご近所のおば様方以上に上手くなったって嘯いてたほどだよ」

 淡々と相手が語るのだから、合わせて何食わぬ風に相槌を打てば良いはずのだ。
 たった、それだけの話なのだ。紛れもなく。ただ何故か、気安く応じるのは危ういと思われる空気を照は覚えていた。
 話している時の彼から、持ち前の軽薄な雰囲気が一瞬揺らいだように見えたことも相俟って、とても真正面から向き合い辛かったのである。

 勝手な解釈と思い込みかもしれない。しかし、それでも続けるべきではないという重いニュアンスを感じ取った照は、バツが悪そうに「なるほど、そうだったのだね」と淡白に無難な受け答えを装って打ち切ると、即座に話題を逸らした。

「話は大きく変わるが怜夜君よ、君は一体どうしてこの大学になど編入に来たのかね?おまけに人文学部の中でも癖の強い科なんか選んで」
「……真剣に志望動機を尋ねられると答え辛いなあ……。うむ、そうだな。古代日本人の、明らかに現代日本人より強固なはずのメンタルを学んでおけば、社会人になった時、打たれ強さを培うのに活かせると思ったんだよ」

 吐いたのは当然、メールでの事前打ち合わせ時に猫目石と練り上げた出鱈目だ。警察学校の手前が、スポーツ科学の専門学校で最終学歴だった怜には、そもそも文科系分野の感覚が理解できない。過去の文化や歴史から学ぶという態度や思考が重要なことは、大人としてわかるが、実際的な利便性に結び付ける場面が如何せん想像し難いのだ。
やはり不自然さが滲み出たのか、照特有の古めかしい説教じみた節で突っ込まれた。

「打たれ強さを培うなら、脳筋のがある君の場合、体育系でも良かったろう。精神面の研究なら、心理学や社会学から切り込む方が実質的だろうし……第一、僕のような劣等生が言うのも何だが、大学という教育機関を志望した者の意見とも思えんな」
「こ、細かいことは良いだろうがよ。お前がクソ真面目なんだよ。俺の学友なんて皆、似たような軽いノリだって」

 捜査の一環として身の置き場に選んだサークルでは、その手の者が少なくなかったのも事実だ。
 テンションの高い集団だと交流の企画予定も早いもので、来月の新緑の頃にはアスレチックキャンプサイトで女子大学との合同コンパが開催される。賑やかにバーベキューをやりながらの祭りだ。
 適当に受け流してくれよと軽く祈っていたが、次に相手から出た言葉からして、どうやら人文学部の選択に適した動機であるか否かに根本的な疑問を寄せたわけではないようである。

「やれやれ、折角の良い男ぶりをドブに捨てるつもりかい? 悪いことは言わん、金を払ってしまった後で酷なようだが、ここは止めた方が良い、学部生対象の必修教養講座などに奴が顔を出さんとは限らんからな」
「? 奴って?」

 何となく相手の言わんとする人物の予測が付いたが、心底知らぬという素振りで具体名を促す。

「とぼけるのは止したまえ。新入生の間でもとっくの有名人だぞ。今月、デビューしたばかりのアイドル歌手を凌ぐ勢いでな。斜陽坂利己太郎だ。ふざけて特徴的なネーミングだがなんと本名だと言うのだぞ。本名だけなら可愛らしいもので、外観、人間性、全てにおいて強烈にふざけた存在だ。生半可な動機ならば、面倒だが至急の学部変更を推奨する、まさに誰よりも身近な距離で魔王の指導に晒されている僕が警鐘を鳴らすのだから間違いない――」

 以降しばらくは、怜の存在など半ば失念したような調子で、延々と個人指導担当者の愚痴が繰り広げられた。怜はまだ知る由もなかったが、現在最大の脅威と認識している斜陽坂教授の話題となると、恨み辛みの奔流が止まらなくなるのだ。
 だが怜も巧みなもので、ふと隙間が生じた要所要所で、からかい半分に軽妙な合いの手を入れた。腐っても己は期待された捜査員の一人なのだ、取り留めのない文句の垂れ流しに根を上げてはいけない。本職の感覚を巡るましく稼働させた。参考になりそうな情報を拾い集め、脳内に図式を構築していく。
 暗記は頗る得意だった。自室へ戻った後、手帳に列記すれば良い。

(予想通りだぜ。そりゃ学生連中に嫌われるだろうさ。)

 打ち解けた大学関係者の一人が、まさか対象者の直接的人間関係に含まれる存在であるとはまたとない幸運である。脳内では素早く興奮物質が溢れ出し、獲物に食らいつかんとする欲求に似た勢いがもたげていた。
 ひょっとしたら事前に提供された関係者名簿の中に、赤月照信という青年のデータがあったかもしれないのだが、教授の存在感に押されて印象が残らなかったようだ。その点では非常に申し訳ない話だ。
 斜陽坂利己太郎――怜の方こそ知らぬはずがない。まさしく今回、大学から黒い金を横流ししている嫌疑の持ち主として捜査二課が目を光らせている標的だ。
 武多部長から知らされた時は、奇抜な容姿だけではなく記載されたこのにも噴き出すのを堪えるのに苦労したものだ。
 嘘も最もらしい形式で繰り返し言えば本当になるとされるが、一つの成功例だろう。〝斜陽坂利己太郎〟は実名ではない。
 相当の嫌われようだ、大勢が共有するような世間話を寄越すふりをして、別に正しい名前があることを明かそうかと考えたが、健気にも彼の教授する学問は諦めたくないというスタンスらしい。ならば、瀬戸際まで口を噤んでおくのが利口だ。
 なんとなく、不本意な上司の元で仕事をせざるを得ない我が身と似通っている気がした。
 目の前の照信は、被害の頻度が凄まじいだけあって、息巻く度合いは並々ならぬ激しさだった。理論武装の虚勢だけが取り柄と謙遜する彼と同一とは思えぬほど、熱い気炎を上げている。大学院にまで進学しているとだけあって、悪口を連ねるだけでも語彙に事欠かない。

(こいつと付き合いを深めれば、以後も更に有益な情報が得られるかもな)

 当たり前だが忘れてはならない。サークルのメンバーにしろ、照にしろ、あくまで事情聴取の対象者だ。割り切りには不慣れな面が拭えぬが、ビジネスライクな心構えは鉄則である。私的な慣れ合いは演出であるべきなのだ。
 研修時、耳にタコが出来る程叩き込まれた基本事項を、改めて肝に銘じる。フェミニストの自分としては、女性ではないだけマシだったと胸を撫で下ろした。スパイ映画としては粋な描写かもしれないが、現実の任務でやれば後味に罪悪感だけが残る。
 卑屈そうな雰囲気がややネックだが、軽い友達つき合いとするなら苦ではない。情報源となり得るものは、何にせよ多い方が良い。
 数十分以上も掛けて照の口から吐き散らされたのは、無論ほとんど教授直撃の罵詈雑言だったが、その最中で紹介された非常にマニアックなストレス対処法には一度目的を忘れて腰を抜かしそうになった。

「現実回避の度に、阿弥陀如来の来迎図を夢想するのがマイブームなんだ……。心が浄土へ遠のいていく、君にもお勧めだ」
「え? オマエそんな趣味あんの!? 幾ら古典好きでも渋過ぎだろ!」

 照は正義感も強いらしく、怒りの理由は自己憐憫に留まらず周囲の被害者も掬い上げた。女性の学部事務員を不当に怒鳴りつけたというエピソードには、フェミニストの怜も心底から一緒になって憤った。

「なあ、アンタさあ……。ムカつく教授について、金銭絡みの疑惑があるの知ってるか?」

 オーバーヒートで昂る声が掠れ始めたのを機に、怜はさりげなく本題を掲げた。噂話の範疇として通用するだろう。何しろ、財務課や斜陽坂の悪評判を知る学生の間では、はっきりとはしていないが暗黙の了解となっている。
恨みの念を持つ照からすれば朗報とも言うべき弱みなのだ、てっきり既に把握しているかと思いきや、熱を帯びた答えが別の角度で否定した。

「疑惑だとお!? あるに決まっているとも! 肩書を利用して公費をホステスに貢いだり、臍繰りを貯めたりと、裏で好き勝手やらかしているに違いない!!」

  一たびスイッチが入ると、私情に基づく憶測しか思い浮かばないらしい。冷静な情報は、照からは期待できなさそうだ。
 だが無益という意味ではない。少なからず事実として発覚に繋がることがある。このような推量が飛び出すこと自体、日頃の動きが不審であることを裏付けている。怜も表面上は投合する態度を示した。

「確かにあの面だとやりかねないよなあ。海外へ休暇に行ったはずなのに、国内の辺鄙な田舎にいたこともあるらしいぜ? ダチのダチから耳に挟んださ」
「む……。旅行に行くとは聞いていたが……辺鄙な日本の田舎だと? 只ならぬ関係の女を秘かに連れ込んでいたのか?」

(只ならぬ関係がその地域にあるのは確定しているんだよ……。そう妄想気味に広げられると話がこじれるんだが)

 照の興奮が冷めやらぬ今は止むを得ない、追々ヒアリングしていけば良いだろう。現在はただ、〝男子大学生の馬鹿で砕けた駄弁り合い〟に気晴らしも兼ねて興じることにした。お喋りを楽しむこと自体は、己の性分と照らして嫌いではない。猫目石との飲み会に付き合わされるくらいなら、息抜きとして大歓迎である。
 食事後は、自然と雑談と遊戯の時間と化した。照のレンタルしていたファンタジー映画のDVDを観賞したのをきっかけに、それぞれの好きなジャンルについて大盛り上がりとなった。
 竹で割ったように明朗な怜は、勧善懲悪の明確なオーソドックスなヒーロー物が好きだと言った。照はナンセンスなSFが好きだと言った。怜もSFには関心があるようだったが、同じSFでもどちらかと言えば英雄的な主人公が冒険に身を投じるアクション系統に胸が躍るそうだ。
 嗜好の話題に及んだら、いつしか照の方から彼自身の別の興味を語り聞かせる流れとなった。
 照は、普段の仲間内と異なる種類の人間に趣味を滅多に打ち明けることはない。しかし、眼前で怜が飲んでいた酒の臭いで多少酔いが生じたのか、口先は饒舌に胸の内側を引き出し始めた。

「〝アイ・プリンセス〟という、実に可憐な少女達が、汗と涙の青春を謳歌する熱血感動ドラマだ。この機会に、骨の髄まで堪能するが良い」
「……ナルホド。そっちなのか、お前。いや、そんな気もしてたけど」

 怜が閉口するのも無理からぬことだった。彼にはあまり縁のなかった、非常にマニアックなアニメ作品について熱弁されたのである。それも、一般的に知名度の高い万人受けのバトル物ではなく、お色気要素の強い美少女の群像を主題としていた。語りと並行して、レンタルではなく特典付きの新品でちゃっかり購入されたDVDの上映付きだったのが強烈な印象を焼き付ける。
 ところが、ある一点において、多いに共感し合うこととなった。
「美少女アニメの変身シーン」についての話題に及んだ途端、二次元の女性には関心が薄かったと言う怜も目の色変えて喰らいつく。子どもの時分に放送していた作品の大半は、規制の緩い風潮の中で大胆なサービスが公然と行われていた。社会的な配慮からすれば現在への変化は止むを得ないが、自重も過ぎるとお上品な演出中心で面白味に欠けるという意見で一致、投合したのである。

「最近の傾向を知っているということは、お主も案外熱心な追っかけですな!?」

 照も調子良く合いの手を打つ。この瞬間に関しては、二人の間に階層の壁など存在しなかった。純然たる同志が膝を付きつけ合っているだけだ。

「フェミニズムに配慮したんだろうけどね。だが、健全な男子諸君の欲求はどうなる!」

 この下りでは怜も、公務従事者なりの道徳意識を一旦傍に置いて、熱く鼻息を荒らげる。
 怜もその昔、夏休みで従妹の家に遊びに行った際、お色気感たっぷりの変身シーンを楽しみに、横でドキドキしながら女児アニメを見ていたことがあったと打ち明けた。

「わかるぞ、ブラザーよ! 僕なんて親戚の家に行っても男兄弟ばかり、しかも全員硬派で真っ当な王道好き……如何に難儀したか! 夜中に忍んで見るようになったら、うっかり十八禁の深夜物にまで辿り着いていたという始末だ! 成人男子の神器たる桃色の円盤を知らない年でな!」

 健全な方面についても言及されなかったわけではない。懐かしい実写アクションヒーローや、ロボットヒーローアニメのことを、今度は主に怜の口から積極的に紡ぐ展開になった。
 だが、次はどちらかと言えば聞き手に回っていた照の方が、今一乗り気ではない顔色を見せた。歯切れの悪い生返事で、「確かに名作だからな」とか「真っ直ぐで良い主人公だからな」等、誰もが回答できそうな無難な内容で済ませている。

「お前、ちょっとテンションダウンしたな? 女の色気に匹敵する、男のロマンだと思うぞ?」
「あ、いや、すまない。意外かもしれないが……実は当方、正当派の英雄譚なるものが、少々苦手でな……」
「うわ! マジかよ!」

 怜にとってはまさかの反応だ。わかりやすい真っ直ぐな人間を「リア充」として嫌悪する姿勢に、違和感を覚えていたが、予想以上に屈曲した感覚の持ち主だったらしいと心から仰天した。
 照は、相手の驚きには構わず、偏屈な私見に基づく批評を滔々と述べた。

「自己犠牲が尊いという信条が、僕には建て前のような美辞麗句にしか思えないのだ。何故なら、僕自身がそんな献身欲など抱いた試しがないからだ。どんなに大層な事情を告げられようと、胡散臭くて虫酸が走る。むしろ常に助けられる側でありたいと、弱音しかない自分には」
「ヒロインに、守ってほしいってやつか? まあ、最近のアニメにも見かけるな。戦士の女にボディーガードしてもらいやがるやつ」

 怜のプライドからすると不可解だ。自身も戦士でタッグを組む、という発想なら歓迎だが、テストステロンに欠けた受け身な被防衛姿勢はやや度し難い。

「気質の問題さ。腰抜けなのだと、笑うなら笑ってくれたまえ。僕の場合はとりわけ、集団行為である戦隊物が無理だった……」
「珍しいなあ。男ならガキの時、皆通る趣味なんじゃねえのか? てっきりそう思ってたけど」
「結局は、暴力と暴力のやりとりじゃないか。学童の頃も、クラスという枠組みの中で腕のめっきり強い者にやられ役を押し付けられるのがオチだった……」
「そこに直結させるかよ。現実の服従関係とは別に考えようや、偏見持ち過ぎだぜ。格闘技と暴力は違うよ」
「強い者は皆そう言う……」
「すねんなって。俺はガキの頃からプロレス大好きでさ。威張ってるガキ大将格の奴なんか、即刻投げ飛ばして治安維持に専念してたぜ♪」
「観る…方か?」

 〝君のような警察官的タイプが当時の我が環境にいてくれたらな〟という文句も言いたかったが、先に継いで出たのは恐る恐るの来歴確認だった。

「観るのもやるのも大好き。つってもオヤジが警察関係者だからさ、成り行き上、武道を専ら仕込まれてな。……引くなよ。臆病な奴だな」

 頭を床面に触れんばかりに項垂れて行く照に対し、怜も困惑が増す。地雷なのは大当たりだったようだ。スポーツの類を不得意とする線の細い者は、どういう訳か対極の人間を異常に脅威とする傾向がある。

「科学者キャラも味方勢にいるじゃん、それじゃあダメなのか? 現に警察だって科捜研があるんだし」

 現職の刑事としてではなく、一般常識としての意味合いで告げた。これは自身の正体を仄めかす程度にも入らないだろうと思って言ったのだ。
 警備部の部隊所属時代には、同じ警視庁でありながら向こうは刑事部ということもあって、怜にとっても接点を感じにくい部署だったが、当然ながら非常に重要度が高い。鑑識のデータを科学的に分析する彼らなくして優れた証拠分析は達成できない。研究所は小規模で少数精鋭のため、狭き門だが学問に熱心な彼ならやりがいはあるのではないかとあやふやに推測していた。最も、本人が民俗学を続けたいと言うのならそうするべきで、彼自身がいずれ決定することだ。畑違いの進路を強制するつもりは端からない。

「科学ができないと話しにならないじゃないか。理数系死滅寸前で志望大学に通ったような己には、お釈迦さんの垂らした蜘蛛の糸を掴むような次元さ」
「……例えがお前さんらしい独自性でズレてる気がするけど、まあ結局は自分自身の自由だからさ。すぐ追い詰めようとせずにさ、頼りにしたいならしたいで、気楽にヒーローを望んでもいいと思うぜ」

 会話が一段落してからは暫し、ヒートアップした後の軽微な喉の疲れと余韻に浸っていた。腹一杯になった後の消化休憩を兼ねて、だらしなく両脚を伸ばしたり、片肘を立てて寝転んだりと好き勝手寛いでいた。両脚を伸ばすに留めているのは照、片肘を立ててゴロ寝をしているのは他人の住処であることを気にしない怜だ。


「毛色の違う君と、こんなにはしゃぐ羽目になるとはねえ……。日頃使わないエネルギーを使ったからか、大分と喉が草臥れたよ」
「普段から、あんだけ大声張ってるからだろ、ほそっこいのに。俺なんて、まだまだやれるぜ。今からひとっ走りして、近所の展望台から叫びたいくらいだ」
「恐るべき体育会系……。実際に叫んでいる君を見たら不審者認定するからよろしく」

 室内の壁に掛けられた鳩時計が二十時を告げた。照の背伸びした趣味によるものだ。
 薄弱な体力故に、隣の美男に比べて一段と急速な睡魔に見舞われていた照だが、バンッと激しく背中を叩く衝撃があり、ぼんやりとしたままの意識でその方向を見遣る――隣の美男だった。
 背中を叩いたやや厚みのある手を、続けて照の撫で気味の肩にしっかりと置きながら何やらニヤニヤと綺麗ナ歯を剥き出しに微笑んでいる。
 照が怪訝に首を傾げるのも束の間、怜は不意に景気良く切り出した。

「そうだ。俺の方から食事の礼としてさ、ちょっと奢らしてほしいんだが、今から付き合えるか?」
「まさかこの刻限からパリピ臭の強い居酒屋に連行しようと言うのではなかろうね?」

 照の斜に構えた突っ込みを受けるや、伊達男は豪快に声を立てて屈託なく笑った。

「ばーっか、体力馬鹿の俺でもエチケットは弁えてるよ。そうじゃなくて、風呂だ、風呂!シンプルに! 飯の後は、健康的習慣で脂肪燃焼運動と決まってるだろ、ぱあーっと一風呂浴びようぜ!」
「君、なんの冗談だね!? 正気じゃないぞ!」

 いよいよ視界がクリアになるほど完全覚醒した。驚愕の反動で腰が数ミリ飛び上がるように浮いた気がした。

「何がシンプルにだ、こんな突飛な誘いがあるかっ! 正気の沙汰じゃない、初日から裸の付き合いを強要するだと! 僕が引くほどの女性に対する情熱はダミーだったのか!」

 怜から見て照は、目玉が飛び出さんばかりの大仰且つ滑稽なリアクションを晒していた。それに今度は提案者が面喰らいつつも、到って冷静に宥めにかかる。

「アホかお前は。俺だってお風呂デートするなら混浴で女の子とが良いわ。友達づきあいだよ、友達づきあい! 銭湯ぐらい行くだろ友達と。つか、僕が引くほどのって、さりげなく失礼だな」

 支離滅裂な抗議に怜は、呆れ顔で鼻から溜息を吐いた。

「いや、あなたのような見目良き真っ直ぐとして青年となるとデスネ、何だが変な気分が湧いてきて…ごにょごにょ…」

 照としては、突如の急展開に情報量を処理しかねる程の困惑に陥っていた。突拍子過ぎるだろう。初日から裸の付き合いに至る等、よほど色欲に積極的な男女ならいざ知らず、たった数時間で築いた友の仲だ。幾ら何でも突拍子過ぎるだろう。
 しかし、快男児は照の神経質な男の尻ごみに気を払う様子はなかった。

「何を妙に気まずげな顔でブツブツ唱えてんだよ。ホラ、俺だって遅くまで付き合わせるのは嫌だし、とっとと行くぞ!」

 狼狽のあまり、突如おかしい敬語口調で理屈を添えようとしている照を、怜は事も無げに促す。

「ま、待て心の準備が……」
「下着の替えなんて帰ってからで良いじゃん! 表に出た出た!!」

 精神の均衡を保つのに苦心する沈痛な訴えを、支度が不充分なままの状態に対する不安であると解釈されたらしい。突然の胸の痛みを堪えるように鳩尾付近を抑えながら、言い募ろうとして伸ばされた細い腕を、一回り二回り以上も握力を誇る掌ががっしりと掴む。か細い悲鳴を虚しく宙に放散する青年の痩身を、意気揚々と鼻歌を口ずさむ美男の筋肉質な肉体がズルズルと玄関の外へ引き摺っていった。



 照は怜と同性だ。同性だと言うことは、当然ながら公衆浴場という施設では脱衣の段階から空間を強制的に共にしなければいけない。
 繊細な気質の女人ほど、とは照自身も思わないが、柔な肌を気安く晒したくないという恥じらいに似た感覚は例え同性に対しても若干なりともあるのだ。
 明らかに自分より心身の優れた、容姿端麗な水も滴る良い男なら尚更である。単純極まりない理由として、分かり易く劣等感が煽られるからというのも無論だが、同時にそれを上回って湧き出す負の感情を避けられないからだ――即ち、嫉妬心である。
 相手が普段から身体を鍛え抜いている人物ともなれば、嫌でも肉体美を目の当たりにしなければならぬ恐怖を免れない。
 一抹の不愉快さを隠さぬジト目を照が寄越す先――彼の左隣には、全くデリカシーを意に介さぬ笑顔を美貌に浮かべた能天気な男、群青怜夜こと怜がいた。
 本当に、今までの人生における人間関係の輪には組み込まれることのなかった異色の話し相手だ。馬鹿騒ぎをした後でも、心の底から〝打ち解けた友〟と認識して良いのか疑問と迷いが残る。
 だが、いかにも裏表皆無の明瞭快活な男児が、〝付き合い〟と明言したのだ。信頼の置けそうな彼なら、甘んじて受け入れて良さそうにも思う。
 曖昧な感情に悶え悩みつつ、シャツのボタンに指を掛けたまま進まない照を余所に、美男子は豪快な脱ぎっぷりを展開していた。
 照の視界に真っ先に飛び込んで来たのは、眩しい肩だ。ボタンを合わせずに軽く羽織っていたシャツを、躊躇いのない素早さで一気に脱ぎ下ろす。Tシャツを着ていたかと思いきや、肩甲骨から指先にかけて布地がない。ストレッチタイプのタンクトップだった。二瘤の隆起が露になった途端、生々しい雄々しさが一層と滲み出る。やや中性的な顔立ちと均整の取れた逆三角形の長身で、レスラー体型程には厳つさを感じさせなかったのに、肌蹴ると豊富な筋肉を蓄えている事実が強烈に伝わる。
 ある意味、当初から予想し覚悟していたことではあったが、実際に迫ると苦々しい思いに駆られるものだ。
 照もヤケクソになって、一目散に脱衣の速度を速めた。
 漸く彼が下衣に手を掛けた時には、美男子は颯爽とまでに一糸纏わぬ肉体を晒している。
 首より上にある肌色の部分や捲くられた袖から伸びる腕の筋、着衣でも見て取れる角張った幅のある体格から明白ではあったことだが、一切を脱ぎ払った後の全身ではより顕著に浮き彫りとなる。下半身に備わるもう一つの男性の魂と呼ぶべき箇所も、中々の風格を漂わせていた。
 しつこい隣人の視線にやっと気づいたのであろうか、伸びをする際に前へ突き出した筋張る腕越しに、怜のサファイア色の瞳が滑らかに転がり向く。

「どしたよ照、風呂の前になって腹が痛むのか?」

 安らぎを堪能するための場にそぐわぬ険しい目つきで歯を食いしばる様子に、やや引いた顔つきになりながら尋ねる。

「リア充特有の無頓着さを今更問い詰めまい。だが、流石に嫌疑をかけざるを得ないよ。これはモヤシ体型に対する新手の苛めかね? 奢りと称し、ジェラシーを募らせる拷問を課そうという企みにしか思えぬのだが!?」

 勘繰りとしか思えない発想で問いかけながら、小鹿のように身を震わせる痩せた青年を、怜は数秒間不可思議なものでも眺めるように見つめていたが、程なくして笑い出した。


「ギャハハハハ! そーんなこと気にしてたのかよ! 人を目の仇にするくらいなら、お前も鍛えれば良いーじゃーん! 二十代の細胞は全然若いんだぜ? どれだけ俺に追いつけるかわかんねーけどなあ」

 到って嫌味のない涼しげな声音で豪放に言いながら、これ見よがしに腕を屈強に曲げて力瘤を誇示してみせる。

「きっしゃー!! おのれ!美男子め! 上等だとは言わん、喧嘩を売った方の思う壺だろうからな! 男の礼義だと観念して、今夜は大人しく付き合うとしよう!!」

「お前、ほんとよくわかんねーな。まあ、いいや、とにかく、パーッと寛ごうぜ! イライラなんか秒で晴れるだろ」

 さっぱりしていると言うか、怜の方は照程に相手の体形についてとやかく話題にしなかった。勇ましくタオル一本を肩に払い掛けて、さばさばと踵を返し浴室の扉の前へ歩き出す。
 追い付いて全裸になった照も、しどろもどろに頷く動作をしつつ、渋々の気分のまま相手に向けて急いだ。


 洗う最中、ちらちらと隣人の身体に目が入ってしまう。無論、変な嗜好からではないと照は自身に言い聞かせる。異性のヌードを凝視し続けるというのも、問題行動だが。
 拭えぬ嫉みも強い意識を起こさせる理由の一つだが、男ならば、誰しも少なからず有し得る完璧な肉体美への憧憬もあった。
 どうすれば、ここまで立派に造り上げられるのか――筋肉トレーニングをたゆまず続けたからであろうとか、当然に予測されるであろう背景は思い浮かぶものの、それでも驚嘆を抱かずにはいられない。自身が不得手として逃避してきた故に、現在ほぼ未知の領域と化している物事は、大いなる神秘として映るものなのだ。
 怜は、照の複雑な想念入り混じる視線に気づく由もなく、黙々と事を進めていた。緻密な彫り込みに張り巡らされた肌を、意外にも器用な手つきで泡を含ませたタオルを撫で磨く。
 いつしか、肉体の洗浄は終わり、洗髪に映っていた。艶やかな曲線を描いて滑らかに波打つ巻き毛を、力強く丁寧に揉みほぐし、泡を馴染ませる。
 ふと途中で手を留め、照の方を胡乱げに見遣った。またもや大分と経って後に視線に感づいたらしい。

「お前、何ボケっとしてんだよ。お湯、出しっ放しだぞ」
 
同性間で裸体を呈することに特別躊躇のない性質の彼は、現実的な事柄に対する指摘を口にした。照も反射的に慌ててシャワーの栓を捻った。膝も湯圧を受けていたのに、全く頓着していなかった。魅了の魔力は恐ろしい。

「シャワー浴びただけでもう逆上せちまったのか? 湯船が待ってるんだ、本番はこれからだぜ?」

 ややトンチンカンにも思えるポジティブな解釈を口にする。妙な煩悶を繰り広げていることを悟られなかったのは幸いだが、一方で「人の心労も知らずに」と一抹の恨みも残る。
 何やかんやで照も作業を済ませ、二人湯船に腰を落ちつけた。
 照がそわそわと相手の様子を窺うように浸かったのに対し、怜は豪快に息を吐きながら大胆に腕と両脚を広げていた。

「ふう~。でかい風呂はサイコーだな! やっぱ一日の締めはこれよ、これ♪」

 端正な顔が心地良さげに上気している。まるで、家にいるのと変わらない寛ぎっぷりには、呆れも湧きつつ純粋に羨ましいと思った。修学旅行でも、たまにそのような表裏のない距離感の者がおったと振り返る。
 入浴の心地そのものは、照にとっても無論最高だった。同伴者の眩い存在感の圧倒により居心地は微妙であった。
知り合って、本当にたった数時間程度にも関わらず、平然と生まれたままの姿を曝け出せる豪胆さは、生まれ持った気質なのだろう。或は、ひょっとしたら体育会系の部活動で慣れを培ったのかもしれない。肉体の鍛錬と技芸に精を出す系統の部活集団には、合宿の開催等生活空間まで密に群がりたがる傾向がある。根の暗い者の溜まり場の片隅で、ひっそりと燻っていた照には、理解し難い文化だ。

(共同生活に不慣れな奴の反応って、こんなもんなのかあ)

 怜は怜で、素直に入浴を満喫しつつ、隣の人物を珍妙な感覚で観察していた。
 筋肉に乏しい柳にも似た痩せた体型に見合う神経質な様子は、几帳面に見えて危なっかしく、どこか世話の焼けそうな間の抜けた雰囲気が漂う。引き籠り体質とまでは行かないだろうが、消極的に内側へ閉じていたタイプだろう。通常場面での挙動は及び腰なのに、変な点で急に強気な姿勢を覗かせるアンバランス不安定さは、世間慣れしていない証拠だ。
 怜が所属していたのは、厳しい選抜と訓練を乗り越えた人間で構成される世界だったが、生まれ持った気質なのか周囲と比較した場合、伸びが微妙な後輩は確かに数人存在した。可愛がっていた一人に、自分よりも早く途中でリタイアしてしまい、今は民間会社で働いていると聞くが、どうしているだろう。面影が近似しているわけでもないのに、そんなかつての仲間をふと連想させた。

(野郎の初なとこなんて得な風景でもねえが……どことなく、放っとけねえ空気はあるよな)

 面倒見がいのある弟分を持ったような心地で付き合いを続けても良いか、という感慨になる。怜を取り囲んで来た環境の路線からは、割と逸れた異種性の存在だが、新たな方面に触れるのも今の道を切り開く機会に繋がるだろう。何せ、標的に近く、取材にはうってつけの人物だ。
 人懐っこい怜の場合、ビジネスの事情を差し引いても友人関係を築くのは自身にとっての清涼剤なのだ。


 照は心身共に落ち付かなさはあったものの、一通り身を清めて温まると、さっぱりとして穏やかな爽快感に包まれた。
 暖簾を潜くぐった時には大して気にも留めなかったが、脱衣コーナー内の洗面台付近に、牛乳瓶の自販機があった。銭湯の素晴らしき伝統であり、定番のドリンクグルメだ。基本の果物フレーバーからコーヒーにココア、あとメーカー独自のものか抹茶や豆乳風味、あまり見かけない果物の味としてブルーベリーが並んでいる。
 それぞれ好きなものを購入し、設置された籐の長椅子に腰掛けて喉を潤した。
 怜は、勇壮な上半身を露にしたまま、片方の足をもう片方の腿にかけて豪快に喇叭呑みしていた。親父臭く、盛大に気持ち良さそうな長い息を吐き出す。照は、Tシャツとトランクスだけ先に身に付けていた。

「プハーッ! やっぱこれだよなあ!」

 彼の強力な吸引力によって、一息に七分の一の残量となった液体は、温かみのある黄色に薄らと茶色が混合してマーブル状になっていた。チョコバナナ味というものを選んでいた。
 少量ずつしか飲めない照は、その意気の良い有様を呆れ半分と面白半分の心地で眺めていた。彼は、大人しく両手を瓶に添えながら、ちびちびと苺味を堪能していた。

「しかし、チョコバナナ味は珍しかろうな」
「確かにそうだよな。ま、旨いんだからなんでも良いか。俺、珍しい味があると選んじまうんだよな。ゲテモノ系は却下だけどよ」

 言い切った直後に、気持ち良さそうに伸びをした。逞しい腕の筋が突っ張る。
 続けて、下ろした手でパンと両膝を叩くや、また唐突に照の絶句しそうな台詞を吐いた。

「たまにこうして甘いもん飲むのも良いんだけどなあ……やっぱ、肝心のものが飲みたりねえ。よし、帰りに缶ビールのセット買って帰るか」
「……まだ、呑むのかね? 食事中、六缶は開けていなかったか?」

 酒豪の気があることに、心当たりがないわけではない、ある意味今更の事実だった。食事中の鮮烈な光景として記憶に焼き付いている。確かこの男は、今し方照が指摘した通り六缶は呑み干していた。しかも、小食の照の十倍の量に惣菜を盛り、白米をお代りしながらだ。次の晩のための残り物が用意できない規模の減り方だった。

(そそっかしいし、ぼけっとしてる素人なのに、変なとこだけ具体的に記憶してるんだな)

 秘かに怜も感心する。クスっと思わず噴き出して、次の台詞を紡いだ。

「六缶だよ。お前は気にすんなって。買ったやつは俺の部屋で開けるから」

 同じアパート故、必然的に帰り路が一緒になる成り行き上、買い物までは付き添う格好となった。
 六缶の一セットで流石に済ませるのかと思いきや、プラス二セット購入していた。どんな肝臓をしているのか、体質が違うと言えど危惧せざるを得ない。
 だが、本当に危惧すべきは我が身の安全性だったと後に判明する。扉の前で別れてから、座卓の前でホットのダージリンを堪能していると、勢い良く扉を叩き開ける音がして振り向けば、酩酊状態の怜が千鳥足でニヤニヤ笑っていた。油断して鍵を締め忘れたと気付いた時には照が呼び止めるより早く、強健な腕力で強制的に引き寄せられるや酒のグラスを唇へ押し当てられていた。アルコールには強いはずが酒癖は悪かったらしい。結局は照も巻き添えを食う羽目となってしまったのだ。
 相手の意識が茫洋としていたのを幸いに、飲む振りをして秘かに取り出したサラダボウルに流し落す。液体が唇の上を滑るだけでも酒の風味が伝わるのに、持ち主の方がよっぽど酒臭かった。折角の美男子ぶりもやや乱れて台無しである。鼻を抓んで堪えながら、時折相手の顎を顔の出来上がった造形も無視して押し上げた。

「結局酒地獄巡りに巻き込んでいるんじゃないか! アルハラ犯として訴えてやる!」

 懐にズカズカと入り込むようなフレンドシップには、たじろかされるばかりだ。対抗心から、やたら饒舌げに食ってかかる言い方を繰り広げているが、本来の性質からすると結構疲れる。慣れていないことのボロを出さぬよう、理論武装で虚勢を維持する我が身に僅かな惨めさが湧く。
 だが、空間と時間を共にする際は終始、不思議と一貫して清々しさに似た心地良さがあった。こうして手酷い目に見舞われている今も、根底からの怨恨的な嫌悪感などまるで込み上げない。むしろ、一身を委ねたくなるような安心感さえ誘い、高揚を覚えている自分がいた。

~4話へ続く~



ひじょ~に久しぶりの投稿です。ようやく三話目を落ち着いて上げることができました。あくまで「なんちゃって」で若者らしい、ぐだぐだした応酬が中心的にしばらく続きます。緊張感が欠けているようですが、しばらくこの調子で、ゆるゆると進んでいきますがどうぞ生温かく見守りください。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

月弥総合病院

御月様(旧名 僕君☽☽‪︎)
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。 また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。 (小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。 漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。 陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。 漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。 漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。 養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。 陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。 漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。 仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。 沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。 日本の漁師の多くがこの形態なのだ。 沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。 遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。 内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。 漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。 出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。 休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。 個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。 漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。 専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。 資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。 漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。 食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。 地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。 この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。 もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。 翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。 この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳主婦のカレンはインスタグラムで20歳大学生の晴人と知り合う。親密な関係となった3度目のデートのときに、晴人が実は17歳の高校2年生だと知る。 カレンと晴人はその後、どうなる?

処理中です...