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眩暈
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全身から汗が吹き出しているのに、背筋は凍りつきそうなほどに冷たかった。流れ落ちる汗が躰をどんどん冷やしていく。魂が剥がれ落ちていくみたいに、意識が遠くなる。脳髄をぐわんぐわんと揺さぶるのは、蝉の鳴き声だろうか?
俺は眼前にある墓石に手を伸ばす。それは太陽の熱を吸収して、火傷しそうなほどに熱かった。
『このままこの熱に焦がされて、灰になって、消えてしまいたい』ささやかな願望が頭を擡げる。
俺のことをぐちゃぐちゃにして掻き回して、戻れないところまで追いやった男は、いまこの墓石の下で眠っている。
ー憎くて、憎くて、吐きそうだった。
「俺がこの手で引き裂いて殺してやりたかったのに…… 最期まで酷い男」
俺の怨みつらみは蝉の鳴き声に掻き消された。きっと誰も知らない。俺の心がずたずたの傷だらけで、いまもそこかしこから血が吹き出ていること……
墓石の向こう側で、蜃気楼みたいに彼奴が嗤ってる。俺はそれに手を伸ばす。俺の手は彼奴の心臓部にぐちゃりと飲み込まれていった。心臓のドクドクという脈動に、俺の手はどろどろと融けてゆく。やがて境い目がなくなり、彼奴と俺はひとつになる。
ー何も知らなかったあの頃みたいに。
「俺のこと抱き潰して、噛み砕いて、ひとつ残らず食べてくれたらよかったのに」
亡霊は俺を飲み込んで嗤ってる。何にもいらえてくれないまま、ただただ嗤ってる。
ー憎くて、憎くて、どうにかなりそうだった。
「ねえ、殺してよ!独り置いて逝くくらいなら、息の根を止めてくれればよかったのに!」
やっぱり亡霊は、何もいらえてはくれなかった。
俺を嗤う亡霊は、彼奴の心臓部とどろどろに融け合って身動きの取れない俺に、両手を伸ばして覆い被さる。墓石の横に倒れ込んだ俺の腹に、彼奴の手がずぶずぶと飲み込まれてゆくのを俺の乖離した魂は、呆然と眺めていた。
(まるであの時みたいだ)
腹の裡側をぐちゃぐちゃと掻き回される。その異質な感覚に、吐き気を催す。あの時も俺は泣いていた。泣いて赦しを乞うていた。ごめんなさい。ゆるして。もうやめて…… 揺さぶられる白い脚が視界の端にちらちらと映る。(あれはだれのあし?)冷たい汗が吹き出して止まらない。腹の奥がどろりと濡れる刺激に躰が震えた。限界を迎えた思考回路が焼き切れて、眼球がぐるりと回る。瞬間、視界が真っ暗になり、ぷつりと途切れた。
「大丈夫ですか?」
「ーっえ…… ?」
不意に感覚が戻ってくる。指先までどくどくと血が巡り、現実が押し寄せてきた。
「俺、いったい…… ?ここは…… 」
「お墓の前で倒れていたんですよ。今日は暑いですから、軽い熱中症とのことです」
気分は悪くないですか?そう問いかけてきたその声に、視線を向ける。作務衣姿のその人は、俺を心配そうに眺めていた。
「ここはお寺さんの中の一室です。丁度、うちのかかりつけのお医者さんが墓参りに来ていたから、診て頂きました。しばらく体を冷やして休めば、大丈夫だそうですよ」
「…… ごめんなさい。迷惑をおかけしましたね」
「夏日の墓参りは、若い方でも意外と危険なんですよ。貴方のように倒れてしまう人も珍しくないのです」
淡々と低い声で囁くように喋るその人を、ボーっと眺める。
「ゆっくりでいいので、水分摂られて下さい」
「ありがとうございます」
背中をゆっくりと起こされたので、そのまま差し出されたものを嚥下する。喉を通過する瞬間に、自覚する。酷く渇いていたことに……
「今日はこの部屋使う予定ないから、ゆっくり休まれて下さいね」
「あの…… 貴方は?」
どなた?という言葉を飲み込む。恐らくお寺の関係者だろうことは予測出来た。何となく聞くことが憚られた。
「私はこの寺の跡取りみたいなもので、浅井了と言います。住職が不在なんで、留守を預かっていました。貴方は祥月命日に、必ずお参りに来られてる方ですよね?」
「……っ、は、はい。俺は露原と言います」
言葉を濁していらえる。お参りなんてご大層なものじゃない。
「露原さんは下のお名前、なんと仰るのですか?」
「……? 下の…… あかりといいます。灯籠のとうで、あかりです」
「綺麗なお名前ですね」
「…… きれい…… ですかね?」
「ええ、綺麗ですよ」
浅井さんは穏やかな口調で、淡々と会話を紡ぐ人だった。俺のことをどこか見透かしていながらも、そこには触れない空気を感じた。
「気分が回復されたのなら、スイカを召し上がりませんか?食べ頃に冷やされたやつがあるんですよ」
「えっと…… その、申し訳ないですし…… そろそろお暇しようかと思います」
「じきに日が暮れますし、もう少し日が落ちてから帰った方がいいです。まだ顔色がよくないし、また倒れないとも限らないでしょ?」
そう言われてしまうと断れなくて、もう少しお寺に留まることにした。本音としては彼奴の気配が色濃く残る此処から、いち早く立ち去りたかった。
「早く帰りたいってお顔に書いてますよ?」
浅井さんはくすりと笑いながら、立ち上げる。本音を見透かされて、居た堪れなくなった。
「あ、あの、その…… 」
「意地悪を言ってしまいましたね。他意はないんですよ。ただ貴方と少しお話してみたかっただけなんです」
「ー、すっ少しだけなら…… 」
「ありがとうございます。スイカがなくなるまで一緒に涼みましょうね」
俯いて、しどろもどろになりながら答える。浅井さんの低くて落ち着いた声色は、俺の胸をひどくざわつかせた。ぱたりと静かに閉まる襖の音を耳が拾う。枕元に置かれていた携帯で時刻を確認した。16時。墓を訪れたのは正午を過ぎた頃だったから、随分と長い時間眠っていたみたいだ。
ーあれは、俺の怨みつらみが見せた夢だったのだろうか?腹の奥に残った余韻が、随分と生々しい。あのまま地獄に引き摺り込まれていたら、どんなに楽だったろうか。そんなことをぼんやりと思った。暗い暗い湿り気を帯びた沼にずぶずぶと嵌っていく。底なし沼で、奈落の底。行き着く先には何が待っているのだろうか?
「ーだめですよ。それでは悪いものに引き込まれてしまう」
パァンッと空気を割るような柏手で、我に返る。あの暗い白昼夢が霧散して、脳内がパッとクリアになるのが分かった。
「えっ?」
「気分が悪くないなら、縁側の方へ行きませんか?ささやかですがお寺の庭が一望できるんですよ」
浅井さんはにっこりと笑う。そこで初めて彼の顔をまともに見た。年齢は多分二十代後半くらいだと思う。自分よりは歳上みたいだけど、若くも見えるし、老成した大人にも見えた。以前顔を合わせた住職さんに似た面立ちをしているから、多分身内なんだろう……
(不思議な人だな)
恐らく居住スペースであろう廊下を抜けて、お座敷に通される。お寺の境内とお墓周辺しか目にしたことがなかったので、少し変な気分だった。お座敷から続く縁側からは、件の庭が見える。浅井さんは『ささやかな庭』と言っていたが、縁側から見える庭は、初夏の新緑が眩しい日本風の立派な庭園だった。
「綺麗なお庭ですね」
「住職の趣味なんですよ。維持するのは大変ですが、目の保養にはなるでしょう?」
「あまり目にすることがなかったから、とても新鮮です」
「顔色がよくなってきましたね。躰は重くないですか?」
「はい。おかげさまで楽になりました」
よく冷えたスイカと麦茶を振る舞われ、取り留めのない会話を交わす。とても不思議な時間だった。
彼奴が1人で死んで、俺の時間は止まってしまった。今だって、息をしながら死んでいるような感覚だ。彼奴を憎んで怨みつらみを吐き出す瞬間だけ、生を感じる。だから憎しみを再確認する、その為だけに墓を訪れていた。
綱渡りで生を繋いでいる、薄氷の上で成り立つ生活。生きていたって死んだって、どちらも地獄じゃないか?
頬に冷たい感触。不意に顔を上げると、浅井さんの顔が真正面に見えた。
「隙を見せてはいけませんよ。今時分は、簡単に引き摺り込まれてしまいますから」
「…… 何のこと、ですか?…… 」
「分からないなら、それでいいんです。断りもなく触れてしまってすみません」
「そんなこと、謝られたの…… 初めてです」
「おや、そういう時は怒らないと」
「そういうものですか?」
「ええ。貴方の躰は貴方のものだから」
「それも初めて言われました」
「では、覚えていて下さいね」
浅井さんは透明な眼差しで、俺の裡側を見透かす。目の前にいる彼は、俺の全てを知っている気さえした。
「夏というのは、魔を引き寄せる季節なんです。君のように虚を抱えている人は、簡単に彼方側に落とされる」
彼方側に落ちるのは、とても楽ですからね。とんっと背中を押されて、真っ逆さまです。淡々と冷たい声で囁く。浅井さんの低い声が脳内に木霊する。
「浅井さんが、俺の背中を押してくれるんですか?」
「違いますよ。背中を押すのは他ならぬ自分自身。貴方が貴方を落とすのです」
「それを望んでいるのは、俺だから?」
「どうでしょうね?望むと望まざると、そういうものなんです。私はそれを少しだけ手繰り寄せるだけ。どう転ぶかは貴方次第です」
「…… 何も悪いことしてないのに赦しを乞うのが嫌だし、痛いのも、もう嫌です。脅かされて息を殺すのが辛いから」
『だから死にたい』という言葉を飲み込んだ。もうすべてが終わったことなのに、未だ生々しく俺の内部に巣食っている魔物が、俺の腹を食い破る。
「忘れては駄目です。貴方の中に巣食っているそれは、貴方に触れることは出来ない」
「こんなにべったりと張り付いてるのに?」
「言ったでしょう?貴方の躰は貴方のものだから、貴方の諒解なく、それが貴方に触ることは出来ないんです」
その言葉で、俺の腹の奥深くに張り付いていた彼奴の気配が、どろりと溶けてゆくのを感じた。下腹部が濡れている。熱くて重くて、感覚が鈍い。躰の力が少しずつ、解けていくみたいに抜けていった。
遠慮がちに俺の躰を支える浅井さんの腕が、辛うじて俺を現実に繋ぐ。
「もうしばらく眠って下さい。目が覚めたら、もう怖いことは終わりです」
「もう終わり?もう怖くない?」
「大丈夫です。もしも怖くなったら、いつでもお寺にいらっしゃい」
「うん…… 」
ーそこで俺の意識は再び途切れた。
お墓の前で倒れいるその子に見覚えがあった。祥月命日に、必ず墓参りに訪れる子。若い子が頻繁に墓参りに来るのは珍しいから、印象に残っていた。お墓の中に眠る故人は彼の唯一の肉親だと、住職から聞いている。彼の背中にべたりと張り付くいびつなそれは、その肉親の成れの果てだろう。それ自体は別に珍しいことではない。それを抱えて此岸を生きていく親類縁者。時にどうしようもなく、彼方側に引き寄せられて儚くなってしまうこともある。引き留められることもあれば、逆に背中を押してしまうこともある。だから私は境界から覗くのみで、それらに触れることはとうの昔にやめてしまった。
ーその子のそれも蓋をして、見ないつもりでいた。
倒れたその子は譫言で『たすけて、ゆるして、もうやめて』と繰り返していた。涙を零しながら子供のように泣いていた。そんな子供に覆い被さり腰をふる醜悪な化け物。倒れているこの子が、どんな目に遭っていたのかすぐに知れた。
(この子の魂から、これを引き剥がさなければ)
そう、強く思った。
露原灯から意識が落ちたあと、崩れかけ融け落ちたそれをちらりと見遣る。
『駄目だよ。この子を連れていっては、お前はこの子を連れてはいけない。お前の罪も、お前の業も、すべてはお前のものだ。この子を巻き込むことは赦されないことだ』
それが息を飲む気配に合わせて、その融けてぐちゃぐちゃになった残骸を握り潰す。それは、パッと飛び散るように消えていった。
穏やかな寝息をたてる灯に視線を落とす。多分あれは一度落としたくらいで、消える性質のものではないのだろう。
「あれは君が呼び寄せているんだよ?君があれを望む限り、あれはまた君のところにやってくる」
そう独り言ちる。
どうか私に助けを求めてくれないだろうか?という邪な願いが、頭を擡げる。胸に広がったそれを振り払うみたいに
『この稚い子が、どうか悪い夢を見ませんように』という祈りの言葉にすり替えた。
「私も、あれのことは言えないですね」
ため息を吐きながら、灯が目覚めるのを静かに待った。
エピローグ
俺はあの後縁側で、また寝落ちたみたいだった。久方ぶりにぐっすりと、夢さえ見ずに眠ることが出来た。此処が聖域、だからだろうか?
「随分と疲れていたみたいですね?起こすのが忍びなくて寝かせたまま朝になってしまったけど、お家の方は大丈夫ですか?」
「一人暮らしなんで大丈夫です。こちらこそ何から何までお世話になって、改めてまたお礼に伺います」
「勝手にしたことですから、あまり気にしないで下さいね?…… でも本音を言えば、君とお喋りするのはとても楽しかったから、墓参りのついでにでも、また此方に立ち寄って下さい」
「はい。……お言葉に甘えて、そうさせて頂きます」
「ではまた」
「ええ、また」
そんな言葉を浅井さんと交わして、俺は寺を後にした。
早朝の空気のせいか、深い睡眠をとったからか、とても躰が軽い。自然と足が駆け出してゆく。
『俺の躰は俺のもの。誰も触れない』
浅井さんからもらった言葉を口ずさむ。それは俺を呪いから解き放った魔法の言葉だった。
「もう怖いことは終わり。また怖くなったら、彼処に行っていいかな?」
眠る直前に浅井さんがくれた言葉をお守りのように、胸に仕舞った。
ーこれでおしまい?
(了)
俺は眼前にある墓石に手を伸ばす。それは太陽の熱を吸収して、火傷しそうなほどに熱かった。
『このままこの熱に焦がされて、灰になって、消えてしまいたい』ささやかな願望が頭を擡げる。
俺のことをぐちゃぐちゃにして掻き回して、戻れないところまで追いやった男は、いまこの墓石の下で眠っている。
ー憎くて、憎くて、吐きそうだった。
「俺がこの手で引き裂いて殺してやりたかったのに…… 最期まで酷い男」
俺の怨みつらみは蝉の鳴き声に掻き消された。きっと誰も知らない。俺の心がずたずたの傷だらけで、いまもそこかしこから血が吹き出ていること……
墓石の向こう側で、蜃気楼みたいに彼奴が嗤ってる。俺はそれに手を伸ばす。俺の手は彼奴の心臓部にぐちゃりと飲み込まれていった。心臓のドクドクという脈動に、俺の手はどろどろと融けてゆく。やがて境い目がなくなり、彼奴と俺はひとつになる。
ー何も知らなかったあの頃みたいに。
「俺のこと抱き潰して、噛み砕いて、ひとつ残らず食べてくれたらよかったのに」
亡霊は俺を飲み込んで嗤ってる。何にもいらえてくれないまま、ただただ嗤ってる。
ー憎くて、憎くて、どうにかなりそうだった。
「ねえ、殺してよ!独り置いて逝くくらいなら、息の根を止めてくれればよかったのに!」
やっぱり亡霊は、何もいらえてはくれなかった。
俺を嗤う亡霊は、彼奴の心臓部とどろどろに融け合って身動きの取れない俺に、両手を伸ばして覆い被さる。墓石の横に倒れ込んだ俺の腹に、彼奴の手がずぶずぶと飲み込まれてゆくのを俺の乖離した魂は、呆然と眺めていた。
(まるであの時みたいだ)
腹の裡側をぐちゃぐちゃと掻き回される。その異質な感覚に、吐き気を催す。あの時も俺は泣いていた。泣いて赦しを乞うていた。ごめんなさい。ゆるして。もうやめて…… 揺さぶられる白い脚が視界の端にちらちらと映る。(あれはだれのあし?)冷たい汗が吹き出して止まらない。腹の奥がどろりと濡れる刺激に躰が震えた。限界を迎えた思考回路が焼き切れて、眼球がぐるりと回る。瞬間、視界が真っ暗になり、ぷつりと途切れた。
「大丈夫ですか?」
「ーっえ…… ?」
不意に感覚が戻ってくる。指先までどくどくと血が巡り、現実が押し寄せてきた。
「俺、いったい…… ?ここは…… 」
「お墓の前で倒れていたんですよ。今日は暑いですから、軽い熱中症とのことです」
気分は悪くないですか?そう問いかけてきたその声に、視線を向ける。作務衣姿のその人は、俺を心配そうに眺めていた。
「ここはお寺さんの中の一室です。丁度、うちのかかりつけのお医者さんが墓参りに来ていたから、診て頂きました。しばらく体を冷やして休めば、大丈夫だそうですよ」
「…… ごめんなさい。迷惑をおかけしましたね」
「夏日の墓参りは、若い方でも意外と危険なんですよ。貴方のように倒れてしまう人も珍しくないのです」
淡々と低い声で囁くように喋るその人を、ボーっと眺める。
「ゆっくりでいいので、水分摂られて下さい」
「ありがとうございます」
背中をゆっくりと起こされたので、そのまま差し出されたものを嚥下する。喉を通過する瞬間に、自覚する。酷く渇いていたことに……
「今日はこの部屋使う予定ないから、ゆっくり休まれて下さいね」
「あの…… 貴方は?」
どなた?という言葉を飲み込む。恐らくお寺の関係者だろうことは予測出来た。何となく聞くことが憚られた。
「私はこの寺の跡取りみたいなもので、浅井了と言います。住職が不在なんで、留守を預かっていました。貴方は祥月命日に、必ずお参りに来られてる方ですよね?」
「……っ、は、はい。俺は露原と言います」
言葉を濁していらえる。お参りなんてご大層なものじゃない。
「露原さんは下のお名前、なんと仰るのですか?」
「……? 下の…… あかりといいます。灯籠のとうで、あかりです」
「綺麗なお名前ですね」
「…… きれい…… ですかね?」
「ええ、綺麗ですよ」
浅井さんは穏やかな口調で、淡々と会話を紡ぐ人だった。俺のことをどこか見透かしていながらも、そこには触れない空気を感じた。
「気分が回復されたのなら、スイカを召し上がりませんか?食べ頃に冷やされたやつがあるんですよ」
「えっと…… その、申し訳ないですし…… そろそろお暇しようかと思います」
「じきに日が暮れますし、もう少し日が落ちてから帰った方がいいです。まだ顔色がよくないし、また倒れないとも限らないでしょ?」
そう言われてしまうと断れなくて、もう少しお寺に留まることにした。本音としては彼奴の気配が色濃く残る此処から、いち早く立ち去りたかった。
「早く帰りたいってお顔に書いてますよ?」
浅井さんはくすりと笑いながら、立ち上げる。本音を見透かされて、居た堪れなくなった。
「あ、あの、その…… 」
「意地悪を言ってしまいましたね。他意はないんですよ。ただ貴方と少しお話してみたかっただけなんです」
「ー、すっ少しだけなら…… 」
「ありがとうございます。スイカがなくなるまで一緒に涼みましょうね」
俯いて、しどろもどろになりながら答える。浅井さんの低くて落ち着いた声色は、俺の胸をひどくざわつかせた。ぱたりと静かに閉まる襖の音を耳が拾う。枕元に置かれていた携帯で時刻を確認した。16時。墓を訪れたのは正午を過ぎた頃だったから、随分と長い時間眠っていたみたいだ。
ーあれは、俺の怨みつらみが見せた夢だったのだろうか?腹の奥に残った余韻が、随分と生々しい。あのまま地獄に引き摺り込まれていたら、どんなに楽だったろうか。そんなことをぼんやりと思った。暗い暗い湿り気を帯びた沼にずぶずぶと嵌っていく。底なし沼で、奈落の底。行き着く先には何が待っているのだろうか?
「ーだめですよ。それでは悪いものに引き込まれてしまう」
パァンッと空気を割るような柏手で、我に返る。あの暗い白昼夢が霧散して、脳内がパッとクリアになるのが分かった。
「えっ?」
「気分が悪くないなら、縁側の方へ行きませんか?ささやかですがお寺の庭が一望できるんですよ」
浅井さんはにっこりと笑う。そこで初めて彼の顔をまともに見た。年齢は多分二十代後半くらいだと思う。自分よりは歳上みたいだけど、若くも見えるし、老成した大人にも見えた。以前顔を合わせた住職さんに似た面立ちをしているから、多分身内なんだろう……
(不思議な人だな)
恐らく居住スペースであろう廊下を抜けて、お座敷に通される。お寺の境内とお墓周辺しか目にしたことがなかったので、少し変な気分だった。お座敷から続く縁側からは、件の庭が見える。浅井さんは『ささやかな庭』と言っていたが、縁側から見える庭は、初夏の新緑が眩しい日本風の立派な庭園だった。
「綺麗なお庭ですね」
「住職の趣味なんですよ。維持するのは大変ですが、目の保養にはなるでしょう?」
「あまり目にすることがなかったから、とても新鮮です」
「顔色がよくなってきましたね。躰は重くないですか?」
「はい。おかげさまで楽になりました」
よく冷えたスイカと麦茶を振る舞われ、取り留めのない会話を交わす。とても不思議な時間だった。
彼奴が1人で死んで、俺の時間は止まってしまった。今だって、息をしながら死んでいるような感覚だ。彼奴を憎んで怨みつらみを吐き出す瞬間だけ、生を感じる。だから憎しみを再確認する、その為だけに墓を訪れていた。
綱渡りで生を繋いでいる、薄氷の上で成り立つ生活。生きていたって死んだって、どちらも地獄じゃないか?
頬に冷たい感触。不意に顔を上げると、浅井さんの顔が真正面に見えた。
「隙を見せてはいけませんよ。今時分は、簡単に引き摺り込まれてしまいますから」
「…… 何のこと、ですか?…… 」
「分からないなら、それでいいんです。断りもなく触れてしまってすみません」
「そんなこと、謝られたの…… 初めてです」
「おや、そういう時は怒らないと」
「そういうものですか?」
「ええ。貴方の躰は貴方のものだから」
「それも初めて言われました」
「では、覚えていて下さいね」
浅井さんは透明な眼差しで、俺の裡側を見透かす。目の前にいる彼は、俺の全てを知っている気さえした。
「夏というのは、魔を引き寄せる季節なんです。君のように虚を抱えている人は、簡単に彼方側に落とされる」
彼方側に落ちるのは、とても楽ですからね。とんっと背中を押されて、真っ逆さまです。淡々と冷たい声で囁く。浅井さんの低い声が脳内に木霊する。
「浅井さんが、俺の背中を押してくれるんですか?」
「違いますよ。背中を押すのは他ならぬ自分自身。貴方が貴方を落とすのです」
「それを望んでいるのは、俺だから?」
「どうでしょうね?望むと望まざると、そういうものなんです。私はそれを少しだけ手繰り寄せるだけ。どう転ぶかは貴方次第です」
「…… 何も悪いことしてないのに赦しを乞うのが嫌だし、痛いのも、もう嫌です。脅かされて息を殺すのが辛いから」
『だから死にたい』という言葉を飲み込んだ。もうすべてが終わったことなのに、未だ生々しく俺の内部に巣食っている魔物が、俺の腹を食い破る。
「忘れては駄目です。貴方の中に巣食っているそれは、貴方に触れることは出来ない」
「こんなにべったりと張り付いてるのに?」
「言ったでしょう?貴方の躰は貴方のものだから、貴方の諒解なく、それが貴方に触ることは出来ないんです」
その言葉で、俺の腹の奥深くに張り付いていた彼奴の気配が、どろりと溶けてゆくのを感じた。下腹部が濡れている。熱くて重くて、感覚が鈍い。躰の力が少しずつ、解けていくみたいに抜けていった。
遠慮がちに俺の躰を支える浅井さんの腕が、辛うじて俺を現実に繋ぐ。
「もうしばらく眠って下さい。目が覚めたら、もう怖いことは終わりです」
「もう終わり?もう怖くない?」
「大丈夫です。もしも怖くなったら、いつでもお寺にいらっしゃい」
「うん…… 」
ーそこで俺の意識は再び途切れた。
お墓の前で倒れいるその子に見覚えがあった。祥月命日に、必ず墓参りに訪れる子。若い子が頻繁に墓参りに来るのは珍しいから、印象に残っていた。お墓の中に眠る故人は彼の唯一の肉親だと、住職から聞いている。彼の背中にべたりと張り付くいびつなそれは、その肉親の成れの果てだろう。それ自体は別に珍しいことではない。それを抱えて此岸を生きていく親類縁者。時にどうしようもなく、彼方側に引き寄せられて儚くなってしまうこともある。引き留められることもあれば、逆に背中を押してしまうこともある。だから私は境界から覗くのみで、それらに触れることはとうの昔にやめてしまった。
ーその子のそれも蓋をして、見ないつもりでいた。
倒れたその子は譫言で『たすけて、ゆるして、もうやめて』と繰り返していた。涙を零しながら子供のように泣いていた。そんな子供に覆い被さり腰をふる醜悪な化け物。倒れているこの子が、どんな目に遭っていたのかすぐに知れた。
(この子の魂から、これを引き剥がさなければ)
そう、強く思った。
露原灯から意識が落ちたあと、崩れかけ融け落ちたそれをちらりと見遣る。
『駄目だよ。この子を連れていっては、お前はこの子を連れてはいけない。お前の罪も、お前の業も、すべてはお前のものだ。この子を巻き込むことは赦されないことだ』
それが息を飲む気配に合わせて、その融けてぐちゃぐちゃになった残骸を握り潰す。それは、パッと飛び散るように消えていった。
穏やかな寝息をたてる灯に視線を落とす。多分あれは一度落としたくらいで、消える性質のものではないのだろう。
「あれは君が呼び寄せているんだよ?君があれを望む限り、あれはまた君のところにやってくる」
そう独り言ちる。
どうか私に助けを求めてくれないだろうか?という邪な願いが、頭を擡げる。胸に広がったそれを振り払うみたいに
『この稚い子が、どうか悪い夢を見ませんように』という祈りの言葉にすり替えた。
「私も、あれのことは言えないですね」
ため息を吐きながら、灯が目覚めるのを静かに待った。
エピローグ
俺はあの後縁側で、また寝落ちたみたいだった。久方ぶりにぐっすりと、夢さえ見ずに眠ることが出来た。此処が聖域、だからだろうか?
「随分と疲れていたみたいですね?起こすのが忍びなくて寝かせたまま朝になってしまったけど、お家の方は大丈夫ですか?」
「一人暮らしなんで大丈夫です。こちらこそ何から何までお世話になって、改めてまたお礼に伺います」
「勝手にしたことですから、あまり気にしないで下さいね?…… でも本音を言えば、君とお喋りするのはとても楽しかったから、墓参りのついでにでも、また此方に立ち寄って下さい」
「はい。……お言葉に甘えて、そうさせて頂きます」
「ではまた」
「ええ、また」
そんな言葉を浅井さんと交わして、俺は寺を後にした。
早朝の空気のせいか、深い睡眠をとったからか、とても躰が軽い。自然と足が駆け出してゆく。
『俺の躰は俺のもの。誰も触れない』
浅井さんからもらった言葉を口ずさむ。それは俺を呪いから解き放った魔法の言葉だった。
「もう怖いことは終わり。また怖くなったら、彼処に行っていいかな?」
眠る直前に浅井さんがくれた言葉をお守りのように、胸に仕舞った。
ーこれでおしまい?
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