鈍牛 

綿涙粉緒

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序章 鈍牛

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「ほぉ、これはまた鈍牛の大親分が出てくるとは御大層なことだな」

 大川端の料理屋、寒川で三人を待っていたのは北町同心、秋川小十郎であった。

「で、大親分さんは町方の検べに何ぞ言いたいことでもあるのかな」

 大親分と来たか、意地の悪いお人だ。

 五平は秋川の顔を見て愛想笑いを浮かべながら、そのあからさまな嫌味に心中で愚痴をこぼした。

 というのも、基本的に、藤五郎のような目明しはただの町人。

 公儀の許しあって十手を持つことを許されているものの、士分である同心との間には超えてはならない深くて広い川がある。しかも藤五郎に十手を許している手札の主、同じく北町の同心である相良さがら新左衛門しんざえもんは秋川の後輩。

 本来であれば、出会い頭に地べたに膝をつくような存在だ。

 にもかかわらず。

「そんなこたぁありませんよ」

 と、軽く会釈しただけで恐れ入る様子もない藤五郎の振る舞い。

 それも今回だけではなく、いつでもこれなのだから、同心の中には心底で苦々しく思っているものも多い。いくら手柄を立て続けている上に民衆人気が高いからとはいえ、一歩間違えば藤五郎の首は簡単に宙を舞うだろう。
 
「これはこれは秋川様、このようにお暑い中、御勤めの段まことにありがとうございます」

 結果、五平の態度はそのせいでより卑屈になる。

 でも、だからこそ、そんな五平の抜け目ない性格が、藤五郎の命をこれまでも陰ながら救ってきているともいえるのだ。

「別にお前にありがたがられる筋合いはない。して、そのガキはなんだ、五平」

 まあ、そうくるわな。

「えっと、このガキゃぁですね……」

 五平は心中で盛大に溜息をつきながらも、なんとかその説明をしようとしたとき、いきなり藤五郎がぴしゃりとはねつけた。

「秋川様には関りのねえことでござんすよ」

 な、ちょっと、親分。

 あまりにもあまりな藤五郎の口ぶりに、さすがの五平も首をすくめた。

 下手すりゃこっちの首まで飛んじまうぜ。

「あいすいませんねぇ」

 五平の心配を他所に、のそりとそう答えた藤五郎は、秋川の詮索に断固抗う意志を見せつけるかのごとく、秋川と千勢の間にスッと身体を入れた。それを見て、これまた煽るように千勢までもが藤五郎の身体を盾にして身を隠すと、その着物のたもとを絞るように握りしめてみせる。

 これでは、秋川はまるで人さらいである。

 しかし、怯むことなく、そんな二人の様子を苦々しげに見ながらも秋川は続けた。

「ほぉ、拙者には言えぬこと、であるか」

 低いながらも、どこかにピンと棘を忍ばせた声色、秋川の声にピリリとした緊張感が乗っている。

「関わりのねえこと。と、申し上げたつもりでござんすが」

 対して藤五郎、そんな緊張感ごと撥ねつけるような恐ろしく冷たい声で言葉を返す。まあ、はなから、鈍牛の重い尻を支えるぶっとい屋台骨は、同心風情の脅しで揺らぐことはない、の、だが。

 藤五郎のものより幾分か細い屋台骨で肝を支える五平としてはそうはいかない。

 ったく、首のあたりがスウスウしていけねぇや。

 五平はじんわりと汗ばんだ手のひらで首元をさすると、ゆっくりと言葉を挟んだ。

「い、いえね、うちの親分が気まぐれで預かっている知り合いの娘といったところなんで」

「ほう、鈍牛の大親分が子守とは珍しい」

「へぇ、まったく、ごもっとも」

 五平の言葉に、この場に漂う何とも言えない緊張感が幾分和らいだように見えた。さすがは元は強請ゆすたかりで飯を食っていた男だけあって、思いつきでぽんぽんと言葉が出る。

「しかし、とはいえこのようなところに幼子を連れてくるというのは感心せんな」

 まったく、おっしゃる通り。

 五平は心中でそう答えながらも、さらにその場を取り繕う言葉を紡ぐ。

「いえね、預かった子供でございますんで、家に一人置いてくるわけにもいかないもんでして」

「それは異なこと、ならば長屋の隣家に預けるなど方法はいくらでもあるだろうに」

「秋川様、うちの親分がそんな心やすい隣人との近所づきあいなんてものをしているとでもお思いですか」

 そこまで話して、やっと秋川は得心がいったようだ。

「さもありなん、五平、お前も苦労するな」

「へぇ、おっしゃる通りで」

 やっと秋川のこわばりが取れたと感じた五平がほっと胸をなでおろした。その時、そんな五平の苦労を台無しにするかのように藤五郎がでかい呟きを漏らす。

「秋川様こそ、えらくこの件にご執心のようで」

 それは、五平も不思議に思っていたところだ。

 いくら北町の同心とはいえ、手下もつれずに一人でこんな所にいるのはおかしい。しかし、それこそ余計なお世話だ。同心が目明しに探索の理由を聞くのは許されても、その逆が許されようはずもない。

「それこそ、てめぇにゃ関りのねえことだ、なぁ藤五郎」

 秋川の声に、いっそ怒気ともいえる色が乗る。

 こうなるともう、五平がなにを言っても無駄だ。

「ええ、おっしゃる通りです。ですがね秋川様、浅草界隈での出来事はこの藤五郎の縄張りの内なんでさ」

 そう言うと藤五郎は、秋川をぎろりと睨みつける。

「なにか知っているなら、教えていただきてぇもんですなぁ」

 その声に乗る緊張感、怒気、いや、不謹慎にもいっそ殺気ともいえる迫力は、秋川が先程来放っていたものとは桁の違う、寒川の大きくはない建物を床板ごとゆすぶる地鳴りのような有様であった。

 こりゃ役者が違う。

 五平はゴクリと唾を呑み込んで、秋川の顔を見た。

 一方、秋川はといえば、なんとか平静を装っているようではあるが額に粟粒のような汗が浮いてきていた。見れば指の先が小刻みに震えている。もちろん、暑さのせいでも寒さのせいでもない。

「な、何も知らぬ。お前にとってここが縄張りであるように、わしにとってもここはねぐらの近くだ、気になってもおかしくはない」

 そう答えた秋川という同心。

 役人連中のなかでもひときわ噂に登ることの多い御仁で、ほとんどの同心が八丁堀に居を構えている中、この秋川だけは、寒川から歩いてほんの少しのところに常磐津の師匠と住んでいるという変わり者だ。

 そしてそれは、当然藤五郎も五平も承知の上。

 そうよなぁ、たしかにこうも近所じゃ気になるだろうぜ。

 そう納得しかけた五平であったが、藤五郎はそうはいかないようで、ひやりとするやり取りは続く。

「さいですかい、で、燕の彫り物は本当にこれまでと同じで?」

「ああ間違いない、この目で確かめた」

「ふうん、秋川様がそういったことに目利きとは存じませんでしたが」

「目利きではないが、見ればわかる、その程度の違いだ」

 秋川がひるんだとみるや、藤五郎は矢継ぎ早に質問を飛ばす。

 しかし、その内容はと言えば五平がすでに藤五郎に伝えたものばかり。

 これまで五平の言伝を疑うことなどなかった藤五郎にしては少しばかり違和感のある事ではあったが、当の五平は藤五郎の変わり者具合を知っていたので、これといって思うところはない。

 うちの親分も困ったもんだ、くらいのものだ。

「で、死んだのはいってぇどういうやつで?」

「それも含めて五平に伝えたのであるがな」

「そこのそれは芯が馬鹿なんで、要領を得ない時もあるんで」

 ひどい言われようだな、まったく。

 五平は顔をしかめるが、藤五郎がそれに気をとめることはない。
 
「さようか、うむ、まあこの店の住み込みの奉公人で、流れ板をやっておった忠兵衛という小男でな」

「お知り合いで」

「知らぬ、この店には入ったこともない」

「亡骸は調べたんで?」

「わしは調べてはおらんよ、ただ背中から一刀のもとにバッサリだったそうだ」

 そこまで聞くと藤五郎は「さいですかい」とつぶやくとほりほりと頬を掻き「ううん」とひとつうなって首を振るった。

 そして。

「五平、帰ぇるぞ」

 と一声かけると、秋川に乱暴な会釈を一つして千勢の手を引きながら店を出ていった。

「へ、あ、はい」

 五平は、あわてて藤五郎の後を追う。

 その後ろから「まったく苦労が絶えぬな、五平」という秋川の少しほっとしたような声が聞こえた。

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