呪いで化け物になった『浮気夫』を救うため、妻は愛を捨てた

恋せよ恋

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遊びの代償

  公爵邸の主寝室は、もはや幸福の余韻など微塵も残っていなかった。
 厚いカーテンが締め切られ、日の光さえ拒絶された薄暗い部屋の中に、獣のような荒い呼吸音と、爪が床を掻きむしる嫌な音だけが響いている。

「……鏡を。鏡を持ってこいと言っているんだ!」

 濁った、地を這うような声。それが夫ベルナルドのものだと信じたくなくて、エメラルダは指が白くなるほどシーツを握りしめた。

 産後の肥立ちも悪いまま、彼女は夫の傍らを離れずにいた。

「閣下、今はまだお体がお辛い時期です。お休みになってください」

「黙れ! 鏡を持ってこい!」

 ベルナルドが激昂し、傍らにあった水差しをなぎ払った。陶器が砕け散る鋭い音が部屋に響く。

 怯える侍女の手から奪い取るようにして、エメラルダは鏡を掴んだ。覚悟を決め、その鏡面を夫の顔へと向ける。
恐る恐るベルナルドが覗き込んだ鏡の向こう――。そこに映っていたのは、もはや人間としての原型を失った「悪夢」そのものだった。

 かつて「太陽の貴公子」と称えられた金髪は、粘り気のある脂にまみれて抜け落ち、赤黒い斑点のある鱗が顔面を覆い尽くしている。左右に飛び出した爬虫類のような瞳が、絶望に激しく揺れた。

「……あ……ああ、あああああッ!!」

 ベルナルドの口から、悲鳴とも咆哮ともつかぬ叫びが漏れた。
 彼は自らの顔を爪で掻きむしった。ボロリと鱗が剥がれ、そこからどす黒い血が溢れ出す。

「これが私か……!? この、吐き気を催すような怪物が!? カサンドラ……あの女、なんてことを!」

 ベルナルドは狂乱し、寝台の上でのたうち回った。
 彼にとって、容姿こそが最大の武器であり、誇りだった。美しい顔で女を微笑みかけ、甘い言葉で籠絡する。彼にとって女性との戯れは、喉を潤すワインの一杯と変わらぬ「嗜み」に過ぎなかったのだ。

「ベルナルド様……」

「見るな! エメラルダ、その目で私を見るな!」

 ベルナルドは醜く歪んだ腕で顔を覆った。

「お前は私を笑っているんだろう!? 遊びの報いだと、自業自得だと……! ああ、神よ。なぜ私から光を奪った!」

 エメラルダは、彼の罵声を浴びながら、胸が張り裂けるような思いだった。
 確かに、彼がカサンドラという女性の心を弄び、その恨みを買ったのは事実だ。彼女が主寝室で命を懸けて戦っている最中、彼は他の女に「遊びは終わりだ」と告げに行っていたのだ。妻として、これ以上の屈辱はない。

 けれど。

 十五歳の春、緊張する自分に、彼は庭園の薔薇を折って贈ってくれた。

「君の瞳の方が、どんな花より美しいよ、エメラルダ」

 その言葉が嘘だったとしても、その瞬間に感じた胸の高鳴りだけは、今も彼女の中に残っている。

「笑ってなどいません。私は、あなたの妻ですから」

 エメラルダは震える手で、夫の鱗に覆われた手に触れた。
 ベルナルドはビクリと体を強張らせ、信じられないものを見るようにエメラルダを見上げた。

「……気持ち悪くないのか。この、泥のような臭いがする私を」

「……いいえ。あなたがどんな姿になっても、私の夫であることに変わりはありません」

 それは、半分は真実で、半分は自分への言い聞かせだった。

 愛している。けれど、それ以上に苦しい。
 彼を救いたいと思う自分と、これまでの不実を思えば当然だと冷ややかに見つめる自分が、エメラルダの中で激しく衝突していた。


  翌日から、エメラルダは何かに取り憑かれたかのように動き始めた。
 公爵邸の最深部に位置する図書庫に籠もり、積もった埃を舞い上げながら、古文書や禁忌の魔導書を片端から漁り始めたのだ。かつては優雅にページをめくっていたその指先は、今や真実を掴み取ろうとするかのように鋭く、紙の端を震わせている。

「奥様、まだ産後の体なのです。せめてお食事だけでも……」

「いいの。ベルナルド様の呪いは、彼の命を削っているわ。鱗の隙間から溢れるあの黒い霧は、命の灯火が漏れ出している証拠よ。一刻も猶予はないの」

 エメラルダの目は血走り、金髪は乱れていたが、その美しさは以前にも増して凄絶なものとなっていた。

 魔導書をめくる指が止まる。
 そこには、北の果て、氷に閉ざされた森に住むという『北の魔女』の伝承が記されていた。

『――あらゆる呪いを解き、死者さえも蘇らせる。ただし、対価として最も大切なものを要求する』

 エメラルダは、その一節が書かれたページを、指が白くなるほど強く押し当てた。

 夫は遊び人だった。幾度となく妻を傷つけ、不実な裏切りを重ねてきた男だ。
 けれど、今ここで彼を死なせるわけにはいかない。生まれたばかりの我が子から父親を奪うわけにも、この不名誉な呪いによって侯爵家の家名と後継者の座を揺るがさせるわけにもいかないのだ。

(私が、あの方を救わなくては。なら、私は――何だって差し出してみせる)

 エメラルダの決意を嘲笑うかのように、窓の外では不吉な烏が鳴き声を上げていた。
 呪いの根は、想像以上に深く、エメラルダの魂までも蝕もうとしていた。
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📢連載中🌹【役立たずの旦那様って、本当に必要かしら?~浮気者の甘えん坊夫を捨てようと思います~】

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