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泥濘の執着
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深い森の静寂を切り裂く、馬の荒い鼻息。月明かりに照らされたマキシムの顔は、かつての端正な面影を失い、青白く、ただ一方的な妄執に支配されていた。
「ジュリア、さあ、こちらへ! 君は洗脳されているんだ。冷徹な公爵に無理やり連れ去られ、怯えているんだろう? 大丈夫だよ、僕がすべてを許してあげる」
マキシムの言葉は、もはや現実との接点を失っていた。自分こそが裏切りの張本人であることを棚に上げ、なおも救済者を演じようとするその厚顔無恥さに、私は恐怖を通り越して、底知れぬ嫌悪感を覚えた。
「マキシム様……いいえ、ただのマキシム・ターロット。あなたの正気は、一体どこへ消えてしまったのですか?」
私が馬車の扉の陰から声を上げると、マキシムは歓喜に震えた。
「ああ、その声だ……! 愛しているよ、ジュリア! 君を取り戻すために、僕はすべてを捨てたんだ」
「嘘をおっしゃい!」
私は馬車を降り、アレックス様の制止を振り切って一歩前に出た。護衛たちが剣を抜き、マキシムが連れてきた野盗紛いの男たちと対峙する。一触即発の空気の中、私はマキシムを真っ直ぐに見据えた。
「あなたが捨てたのは、あなた自身の誇りと家族の信頼です。私は、自分の意志でアレックス様の隣にいる。あなたの歪んだ愛を、私はこれっぽっちも欲してなどいないわ!」
「黙れ、この……っ!」
マキシムの背後から、泥を跳ね上げて一頭の馬が進み出た。跨っているのはリーザだ。彼女は美しかった髪を乱し、憎悪に満ちた瞳で私を睨みつける。
「ジュリア、あんたのその高潔な振る舞いが、どれだけ人を苛立たせるか分かっているの? あんたさえいなければ、私はマキシムと幸せになれた。あんたが全部奪ったのよ!」
リーザが合図を送ると、男たちが一斉に襲いかかってきた。
「ジュリア、下がれ!」
アレックス様の鋭い声とともに、銀光が走る。彼は迷いのない動きで私を守りながら、襲いかかる男たちを次々と退けていく。その姿は、吹雪を裂く剣の如く苛烈で、私という聖域を一歩も侵させないという鋼の意志に満ちていた。
しかし、混乱の最中、リーザは懐から小さな瓶を取り出した。
「これでも食らいなさい!」
彼女が投げつけたのは、油に毒性の強い香料を混ぜた、燃えやすい液体だった。それが馬車の車輪近くで砕け、火が上がる。驚いた馬が暴れ、私は地面に投げ出されそうになった。
「ジュリア!」
アレックス様が私を支えようと手を伸ばした隙を、マキシムは見逃さなかった。彼は狂ったように笑いながら、馬を私の方へと走らせる。
「捕まえたよ、ジュリア!」
汚れた手が私の腕を掴もうと伸びてくる。
その瞬間、私の脳裏に蘇ったのは、図書室で聞いたあの「湿った音」と、お姉様とリーザが纏っていたあの「裏切りの香り」だった。
私は、震える手でドレスの隠しポケットに忍ばせていた、一本の鋭利なペーパーナイフを握りしめた。これは、旅立ちの日にお兄様が「護身用に」と持たせてくれたものだ。
「――私に、触らないで!」
私は渾身の力で、マキシムの手を払い、そのナイフの先端を彼の腕へと突き立てた。
「ぎゃあああっ!」
マキシムが悲鳴を上げ、馬から転げ落ちる。
地面に這いつくばるマキシムを、私は冷ややかに見下ろした。その目は、かつて彼を王子様と呼んだ少女の瞳ではなく、一人の裏切りを乗り越えた女性の、慈悲なき審判の瞳だった。
「私には、守ってくれるアレックス様がいます。そして、あなたを刺すための勇気も、もう持っている。……さようなら、私の惨めな初恋の王子様」
その時、アレックス様が敵の首領を組み伏せ、背後から放たれたリーザの追撃を剣の柄で弾き飛ばした。
「……そこまでだ」
アレックス様の冷徹な一言が、森の乱戦を凍りつかせた。
遠くからは、異変を察知して駆けつけた隣国の国境警備隊の蹄の音が聞こえてくる。
マキシムは泥にまみれ、腕を押さえながら、信じられないものを見るように私を仰ぎ見ていた。
「ジュリア……君が、僕を……刺したのか……?」
「いいえ。私は、私の過去を切り捨てただけです」
私はアレックス様の方へ歩み寄り、彼の手をしっかりと握った。
火はすぐに消し止められ、マキシムとリーザ、そして男たちは警備隊によって捕縛された。
彼らに待っているのは、将来の公爵夫人の暗殺未遂および国際問題という、引き返しようのない破滅だ。
アレックス様は、私の傷ついた手を取り、汚れを払うように優しく口づけを落とした。
「……勇敢だったな、ジュリア。だが、もういい。これからは、君にナイフを持たせるような真似は二度とさせない」
月明かりの下、ようやくマキシムの呪縛から解放された私は、隣国の冷たい、けれど清らかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。
______________
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「ジュリア、さあ、こちらへ! 君は洗脳されているんだ。冷徹な公爵に無理やり連れ去られ、怯えているんだろう? 大丈夫だよ、僕がすべてを許してあげる」
マキシムの言葉は、もはや現実との接点を失っていた。自分こそが裏切りの張本人であることを棚に上げ、なおも救済者を演じようとするその厚顔無恥さに、私は恐怖を通り越して、底知れぬ嫌悪感を覚えた。
「マキシム様……いいえ、ただのマキシム・ターロット。あなたの正気は、一体どこへ消えてしまったのですか?」
私が馬車の扉の陰から声を上げると、マキシムは歓喜に震えた。
「ああ、その声だ……! 愛しているよ、ジュリア! 君を取り戻すために、僕はすべてを捨てたんだ」
「嘘をおっしゃい!」
私は馬車を降り、アレックス様の制止を振り切って一歩前に出た。護衛たちが剣を抜き、マキシムが連れてきた野盗紛いの男たちと対峙する。一触即発の空気の中、私はマキシムを真っ直ぐに見据えた。
「あなたが捨てたのは、あなた自身の誇りと家族の信頼です。私は、自分の意志でアレックス様の隣にいる。あなたの歪んだ愛を、私はこれっぽっちも欲してなどいないわ!」
「黙れ、この……っ!」
マキシムの背後から、泥を跳ね上げて一頭の馬が進み出た。跨っているのはリーザだ。彼女は美しかった髪を乱し、憎悪に満ちた瞳で私を睨みつける。
「ジュリア、あんたのその高潔な振る舞いが、どれだけ人を苛立たせるか分かっているの? あんたさえいなければ、私はマキシムと幸せになれた。あんたが全部奪ったのよ!」
リーザが合図を送ると、男たちが一斉に襲いかかってきた。
「ジュリア、下がれ!」
アレックス様の鋭い声とともに、銀光が走る。彼は迷いのない動きで私を守りながら、襲いかかる男たちを次々と退けていく。その姿は、吹雪を裂く剣の如く苛烈で、私という聖域を一歩も侵させないという鋼の意志に満ちていた。
しかし、混乱の最中、リーザは懐から小さな瓶を取り出した。
「これでも食らいなさい!」
彼女が投げつけたのは、油に毒性の強い香料を混ぜた、燃えやすい液体だった。それが馬車の車輪近くで砕け、火が上がる。驚いた馬が暴れ、私は地面に投げ出されそうになった。
「ジュリア!」
アレックス様が私を支えようと手を伸ばした隙を、マキシムは見逃さなかった。彼は狂ったように笑いながら、馬を私の方へと走らせる。
「捕まえたよ、ジュリア!」
汚れた手が私の腕を掴もうと伸びてくる。
その瞬間、私の脳裏に蘇ったのは、図書室で聞いたあの「湿った音」と、お姉様とリーザが纏っていたあの「裏切りの香り」だった。
私は、震える手でドレスの隠しポケットに忍ばせていた、一本の鋭利なペーパーナイフを握りしめた。これは、旅立ちの日にお兄様が「護身用に」と持たせてくれたものだ。
「――私に、触らないで!」
私は渾身の力で、マキシムの手を払い、そのナイフの先端を彼の腕へと突き立てた。
「ぎゃあああっ!」
マキシムが悲鳴を上げ、馬から転げ落ちる。
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その時、アレックス様が敵の首領を組み伏せ、背後から放たれたリーザの追撃を剣の柄で弾き飛ばした。
「……そこまでだ」
アレックス様の冷徹な一言が、森の乱戦を凍りつかせた。
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マキシムは泥にまみれ、腕を押さえながら、信じられないものを見るように私を仰ぎ見ていた。
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火はすぐに消し止められ、マキシムとリーザ、そして男たちは警備隊によって捕縛された。
彼らに待っているのは、将来の公爵夫人の暗殺未遂および国際問題という、引き返しようのない破滅だ。
アレックス様は、私の傷ついた手を取り、汚れを払うように優しく口づけを落とした。
「……勇敢だったな、ジュリア。だが、もういい。これからは、君にナイフを持たせるような真似は二度とさせない」
月明かりの下、ようやくマキシムの呪縛から解放された私は、隣国の冷たい、けれど清らかな風を胸いっぱいに吸い込んだ。
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