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擦り切れた心、消えゆく体温
石壁に染み付いた冷気が、私の皮膚を通り越し、骨の芯まで凍えさせていく。
エドモン副団長が去った後の独房は、もはや静寂というよりも「死」そのものに支配されていた。
私の身体は、日に日に重くなる。かつてダンスを踊り、公爵家の刺客をいなしたあの軽やかさは、どこにもない。ただ、呼吸をするたびに肺が鋭く痛み、浅い喘ぎだけが暗闇に溶けていった。
――ああ、もうすぐなのだわ。
私は、自分の指先をぼんやりと見つめた。
爪の間には、かつて毒草を摘んだ際のアザが残っている。公爵家の「影」として、アルベルト様の寝室を害虫から守るために潜り、暗殺者の短剣を受けた肩の傷跡も。
私の体には、彼を守り抜いた「証」がいくつも刻まれている。
けれど、当のアルベルト様は、その傷の一つ一つが自分への献身であることを知らない。彼にとっては、私はただの「冷酷で可愛げのない、秘密を握りしめた不気味な女」でしかなかったのだから。
不意に、鉄格子の外が騒がしくなった。
複数の足音。荒々しい呼吸。そして、監獄塔には似つかわしくない、高価な香油の残り香。
「……フロー……フローディア! どこだ、そこにいるのか!」
その声を聞いた瞬間、私の心臓が、最期の力を振り絞るように大きく跳ねた。
アルベルト様。
かつて愛し、私を奈落へ突き落とした、あの人の声。
鉄扉が乱暴に開かれ、松明の光が独房を真っ白に照らし出した。
眩しさに目を細めると、そこには、王都での輝きを失ったアルベルト様が立っていた。
衣服は乱れ、頬はこけ、その瞳には狂気にも似た焦燥が宿っている。
「フローディア! ああ、なんという姿だ……。すまない、私が悪かった。君をこんな場所に……!」
彼は私に駆け寄り、湿った藁の上に座り込む私を抱きしめようとした。
けれど、私は残った力を振り絞り、その手を弱々しく拒んだ。
「……近寄らないでください、アルベルト様。……汚れますわ」
「何を言っている! 早くここを出るんだ。カテリーナは……あの女は、私を裏切った! 私の書斎から機密を持ち出し、毒を……。公爵家は今、崩壊の危機にあるんだ。君の知恵が必要なんだ、フローディア!」
彼は私の肩を掴み、必死に訴えかける。
その言葉の中に、「私」を案じる響きは一つもなかった。あるのは、自分が失った「便利な盾」を取り戻したいという、浅ましい執着だけ。
「……『真実の愛』は、いかがなさいましたか?」
私の問いに、アルベルト様は顔を歪めた。
「あんなものは、幻だった! 私は騙されていたんだ! フローディア、君こそが私の側にいるべき人間だったんだ。さあ、立ってくれ。王都へ戻り、あの暗号を解いてくれれば、君の地位も名誉もすべて戻してやる。ヴァルト侯爵家にも、私から取りなそう」
地位。名誉。
そんなものが、今の私に何の意味があるというのだろう。
家族に捨てられ、心も体もボロボロになり、ただ一人の愛した男にさえ「道具」としてしか見られていない私に。
「……お断りいたします」
「……何だと?」
「私は……もう、何も持っておりません。貴方を守るための言葉も、公爵家を救うための策も……。すべて、貴方が『真実の愛』だと仰って、私から奪い去ったのですから」
私は力なく笑った。
視界が霞む。アルベルト様の顔が、遠く、ぼやけていく。
「フローディア、頼む! 君がいなければ、私は……私は、ただの抜け殻になってしまう!」
彼は泣いていた。子供のように、私にしがみついて。
かつて、この涙を見たら、私は自分の命を削ってでも彼を救っただろう。
けれど、今の私に流れる血は、もう彼を温めるほどには熱くない。
「……さようなら、アルベルト様。……どうぞ、貴方が選んだ『真実』と共に、最後まで……」
言葉が途切れる。
意識が急速に、心地よい闇へと沈んでいく。
アルベルト様が私の名を叫び、激しく身体を揺さぶるのを感じたが、それも次第に遠のいていった。
冷たい石の床の上。
私の体温は、静かに、確実に、この北の監獄の闇へと溶けて消えていった。
切なさに狂いそうなほど愛した人は、最期まで、私という「人間」を見てはくれなかった。
それが、私の選んだ悲恋の幕引き。
___________
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エドモン副団長が去った後の独房は、もはや静寂というよりも「死」そのものに支配されていた。
私の身体は、日に日に重くなる。かつてダンスを踊り、公爵家の刺客をいなしたあの軽やかさは、どこにもない。ただ、呼吸をするたびに肺が鋭く痛み、浅い喘ぎだけが暗闇に溶けていった。
――ああ、もうすぐなのだわ。
私は、自分の指先をぼんやりと見つめた。
爪の間には、かつて毒草を摘んだ際のアザが残っている。公爵家の「影」として、アルベルト様の寝室を害虫から守るために潜り、暗殺者の短剣を受けた肩の傷跡も。
私の体には、彼を守り抜いた「証」がいくつも刻まれている。
けれど、当のアルベルト様は、その傷の一つ一つが自分への献身であることを知らない。彼にとっては、私はただの「冷酷で可愛げのない、秘密を握りしめた不気味な女」でしかなかったのだから。
不意に、鉄格子の外が騒がしくなった。
複数の足音。荒々しい呼吸。そして、監獄塔には似つかわしくない、高価な香油の残り香。
「……フロー……フローディア! どこだ、そこにいるのか!」
その声を聞いた瞬間、私の心臓が、最期の力を振り絞るように大きく跳ねた。
アルベルト様。
かつて愛し、私を奈落へ突き落とした、あの人の声。
鉄扉が乱暴に開かれ、松明の光が独房を真っ白に照らし出した。
眩しさに目を細めると、そこには、王都での輝きを失ったアルベルト様が立っていた。
衣服は乱れ、頬はこけ、その瞳には狂気にも似た焦燥が宿っている。
「フローディア! ああ、なんという姿だ……。すまない、私が悪かった。君をこんな場所に……!」
彼は私に駆け寄り、湿った藁の上に座り込む私を抱きしめようとした。
けれど、私は残った力を振り絞り、その手を弱々しく拒んだ。
「……近寄らないでください、アルベルト様。……汚れますわ」
「何を言っている! 早くここを出るんだ。カテリーナは……あの女は、私を裏切った! 私の書斎から機密を持ち出し、毒を……。公爵家は今、崩壊の危機にあるんだ。君の知恵が必要なんだ、フローディア!」
彼は私の肩を掴み、必死に訴えかける。
その言葉の中に、「私」を案じる響きは一つもなかった。あるのは、自分が失った「便利な盾」を取り戻したいという、浅ましい執着だけ。
「……『真実の愛』は、いかがなさいましたか?」
私の問いに、アルベルト様は顔を歪めた。
「あんなものは、幻だった! 私は騙されていたんだ! フローディア、君こそが私の側にいるべき人間だったんだ。さあ、立ってくれ。王都へ戻り、あの暗号を解いてくれれば、君の地位も名誉もすべて戻してやる。ヴァルト侯爵家にも、私から取りなそう」
地位。名誉。
そんなものが、今の私に何の意味があるというのだろう。
家族に捨てられ、心も体もボロボロになり、ただ一人の愛した男にさえ「道具」としてしか見られていない私に。
「……お断りいたします」
「……何だと?」
「私は……もう、何も持っておりません。貴方を守るための言葉も、公爵家を救うための策も……。すべて、貴方が『真実の愛』だと仰って、私から奪い去ったのですから」
私は力なく笑った。
視界が霞む。アルベルト様の顔が、遠く、ぼやけていく。
「フローディア、頼む! 君がいなければ、私は……私は、ただの抜け殻になってしまう!」
彼は泣いていた。子供のように、私にしがみついて。
かつて、この涙を見たら、私は自分の命を削ってでも彼を救っただろう。
けれど、今の私に流れる血は、もう彼を温めるほどには熱くない。
「……さようなら、アルベルト様。……どうぞ、貴方が選んだ『真実』と共に、最後まで……」
言葉が途切れる。
意識が急速に、心地よい闇へと沈んでいく。
アルベルト様が私の名を叫び、激しく身体を揺さぶるのを感じたが、それも次第に遠のいていった。
冷たい石の床の上。
私の体温は、静かに、確実に、この北の監獄の闇へと溶けて消えていった。
切なさに狂いそうなほど愛した人は、最期まで、私という「人間」を見てはくれなかった。
それが、私の選んだ悲恋の幕引き。
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