【完結】『恋心を凍らせる薬を飲みました』 - 残りの学園生活、どうぞご自由にお遊びください、婚約者様

恋せよ恋

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砂の城の崩壊

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 ユリアン・ゲットーがを謳歌するために広げた翼は、今や彼自身の首を絞める鎖へと変わっていた。

 ヤスミンが北の地から戻ってきて以来、彼女は一切の乱れを見せなくなった。
 朝の挨拶、昼の会食、夜の社交。そのすべてにおいて彼女は完璧だった。以前の彼女が時折見せた、恋する乙女ゆえの「隙」――ユリアンと視線が合うだけで赤らめる頬や、指先が触れた時の微かな震え――は、跡形もなく消え去っていた。

「……ヤスミン、今日は新しい茶葉が入ったんだ。君の好きなアールグレイだ、一緒にどうかな」
 生徒会室のテラス。ユリアンは精一杯の柔らかな声を出し、彼女に椅子を引いた。

 一ヶ月前まで、彼が他の令嬢と茶を囲んでいたのと同じ場所だ。今やユリアンの周りにいた取り巻きの令嬢たちは姿を消している。ヤスミンのあまりの「無関心」と「完璧さ」に、遊んでいた令嬢たちが逆に恐怖を感じて去っていったからだ。

「お誘いありがとうございます、ユリアン様。では、十五分だけご一緒させていただきますわ」
 ヤスミンは優雅に腰を下ろした。

 かつての彼女なら、彼に誘われただけで天にも昇るような笑顔を見せたはずだ。だが今の彼女は、まるで事務書類を確認するかのように、手元の時計に目を落とす。

「……十五分なんて言わず、もっとゆっくりしていけばいい。君のために、街で評判の菓子も取り寄せたんだ。ほら、君が好きだと言っていたマカロンだよ」

「お気遣い痛み入ります。ですが、その後の講義の予習がございますので。それに、ユリアン様」
 ヤスミンは陶器のような白い指で、丁寧にカップを持った。

「私がマカロンを好きだと申し上げたのは、五年前のことですわ。今の私の嗜好は、特にございません。お出しいただいたものは、何でも美味しくいただきます」

 淡々と告げられた言葉に、ユリアンの喉が詰まった。

 五年前。彼女がまだ十代の入り口で、必死に自分の好みを伝えていた頃の記憶。彼はそれをと感じ、聞き流していた。今さら拾い上げた彼女の破片は、すでに賞味期限が切れていた。

「……なら、今の君が好きなものを教えてくれ。何でも用意する」

「今の私が求めているものは、ユリアン様との円満な婚約関係の継続。そして、卒業後の公爵家への円滑な入嫁です。それ以外に、個人的な欲望は持ち合わせておりません」
 ヤスミンの瞳が、真っ直ぐにユリアンを見た。

 そこに映っているのは、婚約者としての「ユリアン・ゲットー」という令息であり、彼自身ではない。

「……ヤスミン、君は僕を愛していると言っていただろう? 十歳の時から、ずっと……」
「左様でございましたね」
「……過去形なのか?」
 ユリアンの声が震えた。

 ヤスミンは少しだけ考える仕草をして、ふっと、薄い氷のような笑みを浮かべた。

「愛、という感情がどのようなものであったか、今の私には正確に思い出せませんわ。ただ、あの頃の私は、今の私よりも随分と非効率な生き方をしていた……。そう認識しております」

「非効率……? 僕を思って泣くのが、非効率だと言うのか!」

「はい。涙は視界を遮りますし、体力を消耗させます。嫉妬は判断を狂わせ、執着は相手に不快感を与えます。今の私は、それらすべてを克服いたしました。ユリアン様が望まれた『物分かりの良い、自立した婚約者』に、私はようやくなれたのですわ」

 ユリアンは絶句した。

 自分が彼女に求めたことが、どれほど残酷な刃となって自分に跳ね返ってきたかを、ようやく理解し始めていた。

 彼女を「縛らないでくれ」と言ったのは自分だ。
 彼女に「余裕を持ってくれ」と言ったのも自分だ。

 その結果、彼女は自分への愛を捨て、痛みを感じないへと変わってしまった。

「……すまなかった。ヤスミン、僕が悪かった。自由なんて、いらなかったんだ。僕は君にだけ見てほしかった。君の重すぎるくらいの愛が、本当は心地よかったんだ……」

 ユリアンはテーブル越しに、ヤスミンの手に自分の手を重ねた。
 せめて彼女を怒らせたかった。拒絶してほしかった。だが、ヤスミンは重ねられた手を見つめ、静かに、そして事務的に答えた。

「謝罪の必要はございません。契約関係において、ユリアン様は正当な権利を行使されただけですから。……さて、十五分経ちましたわ」
 ヤスミンは、重なった手を優しく、けれど断固とした力で引き抜いた。
 
「講義へ参ります。ユリアン様、お菓子をごちそうさまでした。残りは……そうですね、ミレーヌ様かどなたかにお分けになってはいかがでしょうか。彼女たちは、きっと喜ばれますわ」
 そう言い残し、ヤスミンはテラスを去った。

 残されたユリアンは、冷え切った紅茶と、手つかずのマカロンを前に、呆然と座っていた。


 数日後、ユリアンは決意した。彼女の心を取り戻すためなら、何でもすると。

 かつて自分が彼女にさせたように、今度は自分が彼女の後に付き従い、許しを請い続ける番なのだと。
 彼はそれまで付き合っていた令嬢たちとの関係をすべて断ち切り、彼女が好むはずの花を毎日送り、彼女の登下校を必ずエスコートするようになった。

 だが、それはヤスミンにとって、単なるに過ぎなかった。
「ユリアン様、毎日の花の配送は、家計の管理上、過剰な支出かと存じます。週に一度で十分ですわ」
「ヤスミン、僕の隣にいてくれるだけでいいんだ。他には何もいらない」
「左様ですか。では、そのようにスケジュールを調整いたします」

 会話は噛み合わず、ユリアンの熱意はヤスミンの「氷の壁」に当たって、虚しく霧散していく。
 
 ある日、ロザリンがユリアンのもとへ怒鳴り込んできた。
「……ユリアン様、満足ですか!? 今のヤスミンを見て、何とも思わないのですか!」

「ロザリン嬢……僕は、彼女を取り戻したいんだ」

「遅いわよ! ヤスミンはね、あの北の静寂の森へ行く前、私に言ったわ。……『彼を愛している自分を止められないから、心を消す』って。貴方が彼女をそこまで追い詰めたのよ!」
 ロザリンの言葉は、ユリアンの胸を真っ二つに引き裂いた。

 愛しているから、愛を殺した。

 ヤスミンの極端なまでの潔癖さと一途さを、自分はあぐらをかいて利用していたのだ。

 ユリアンは、ヤスミンの部屋の前まで行き、扉に額を押し当てた。
「ヤスミン……お願いだ、一度でいい。僕の名前を、あの頃のように、愛おしそうに呼んでくれ……」
 中からは、何の返事も聞こえない。ただ、冬の風が廊下を吹き抜け、ユリアンの頬を冷たく撫でるだけだった。
 
 彼はまだ知らなかった。
 氷の魔女が言った「二度と溶けることはない」という言葉の、真の恐ろしさを。
 
 ヤスミン・ファーブルの心には、もう春を告げる鳥は一羽も棲んでいなかった。
 彼女はただ、美しい氷の彫刻として、彼が望んだ通りのを歩み始めていた。
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