【完結】『恋心を凍らせる薬を飲みました』 - 残りの学園生活、どうぞご自由にお遊びください、婚約者様

恋せよ恋

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空虚な追憶、冷たい献身

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 学園の冬休みが近づき、校舎の周りには本格的な冬の気配が立ち込めていた。

 かつてのユリアンであれば、この時期は複数の令嬢から贈られる冬のギフトや、きらびやかな夜会の誘いに浮き足立っていたことだろう。だが、今の彼はそれらすべてを無碍に断り、ひたすら一人の少女の影を追っていた。

「ヤスミン、今日は街の宝飾店が新作を持ってきたんだ。君の瞳の色と同じ、サファイアのブローチだよ。……どうかな、つけてみないか?」

 放課後のサロン。ユリアンは、かつて自分が他の女性に与えていたのと同じ、あるいはそれ以上の熱量を持ってヤスミンに接していた。差し出された小箱の中には、一国の王妃が身につけても遜色のないほどの大粒の宝石が輝いている。

 ヤスミンは、その宝石を検分するように見つめた。
「素晴らしい品質ですわ、ユリアン様。ゲットー公爵家の次期当主として、婚約者にこれほど高価な品を贈ることは、対外的な面目としても非常に有効かと存じます。……ありがとうございます。大切に管理いたしますわ」

「……管理、じゃなくて……。君が喜んでくれるところが見たいんだ。嬉しいとか、綺麗だとか、そういう言葉は……ないかな?」

 ユリアンは縋るような目で彼女を見る。だが、ヤスミンの表情は微塵も変わらない。

「喜び……でございますか? はい。婚約者様からの正当な贈り物として、私の精神は安定した状態に保たれております。これが喜びという定義に合致するかと思われますわ」

 ヤスミンの言葉はどこまでも論理的で、そして果てしなく血が通っていなかった。

 ユリアンは、喉の奥が焼けるような感覚を覚えた。かつて、彼女が安い刺繍糸で作った不格好なハンカチを自分に贈ろうとしていた時。その時の彼女の瞳は、どんな宝石よりも輝いていた。あの時の彼女を、と一蹴し、その輝きを叩き割ったのは自分なのだ。

「……明日、少し遠出をしないか? 十歳の時に、二人で隠れて行ったあの湖のほとりだ。雪が積もって、きっと綺麗だよ」

「明日は学園の特別講義の復習を予定しております。ですが、ユリアン様が『婚約者との思い出の場所への再訪』が必要な儀礼だとお考えであれば、優先順位を書き換えましょう」

「儀礼なんかじゃない! ただ、二人で過ごしたいんだ!」

 ユリアンが思わず声を荒げると、周囲の生徒たちがぎょっとしてこちらを振り返った。しかし、当のヤスミンは眉一つ動かさない。

「承知いたしました。では、午後二時に正門前で」


 翌日。二人が訪れた湖は、かつての記憶そのままに、静かな冬の装いを見せていた。ユリアンは、少しでも彼女の記憶を呼び覚まそうと、必死に思い出を語りかけた。

「覚えているかい? あの時、君が転びそうになって、僕が慌てて抱き止めたんだ。君、真っ赤になって逃げ出そうとして……。あんなに慌てた君を見たのは初めてだったな」

 ユリアンは、自嘲気味に笑った。その時の自分は、彼女の純粋な反応を「子供じみている」と馬鹿にしていた。今、その「子供じみた情熱」が、喉から手が出るほど欲しいというのに。

「……はい。記録にはございます。私の不注意で、ゲットー公爵家の嫡男に過度な身体的負担を強いた事件ですね。今はそのような不手際がないよう、歩行の所作には十分留意いたしております」

 ヤスミンは、凍りついた湖面を見つめながら淡々と答える。彼女にとって、過去の思い出はもはや「自分の感情の歴史」ではなく、単なる「他人の記録」と同じ価値しか持っていなかった。

「ヤスミン、頼む。もういいんだ……もう、完璧じゃなくていい。僕を責めてくれ。あの時、他の女と遊んでいた僕を、ひっぱたいてくれてもいい。……こんなに静かに笑っているだけの君は、見ていて辛すぎる」
 ユリアンは彼女の肩を掴み、力ずくに揺さぶった。

 彼女の冷たい仮面を剥ぎ取りたい。その下にあるはずの、剥き出しの悲しみや怒りに触れたい。だが、ヤスミンの瞳は、揺さぶられる体とは対照的に、恐ろしいほど凪いでいた。

「……ユリアン様。私が感情を取り戻すことで、貴方に何の利益があるのでしょうか。私は以前よりもずっと、貴方の公務を支え、貴方の評判を高める存在になっております。……それが、貴方の望んだ『理想の婚約者』ではありませんか?」

「違う! 僕が間違っていたんだ! 僕が欲しかったのは、人形じゃない。僕を愛して、泣いてくれるヤスミンだったんだ!」

「……左様ですか。ですが、それはもう存在いたしません」
 ヤスミンは、ふっとユリアンの腕からすり抜けた。

 彼女の足元、雪の上に落ちた彼女の影は、どこまでも薄く、儚い。
「一度死んだ鳥が、二度と歌わないのと同じですわ。私の心は、あの北の静寂の森で死にました。いえ、正確には――貴方が私に、死を望んだのでしょう?」

 その言葉は、どんな罵倒よりも深くユリアンの胸をえぐった。

 そうだ。自分が彼女に「自由を認めろ」と言ったあの日、自分は彼女の心を殺したのだ。

 ヤスミンは、湖面を歩くように静かに車の方へ戻り始めた。
「帰りましょう。体が冷えて、健康を損なうのは非効率です」

 ユリアンは、雪の中に崩れ落ちた。彼女が差し出す「完璧な献身」という名の毒が、じわじわと彼の精神を追い詰めていく。

 愛している。今さら、死ぬほど愛していると気づいた。けれど、彼が彼女に触れようとするたび、その指先は氷の壁に阻まれる。


 数日後。ユリアンは、学園の廊下でロザリンに呼び止められた。

「ユリアン様。最近の貴方、ひどい顔ね。ヤスミンが望み通りの『物分かりの良い婚約者』になったというのに、満足じゃないのかしら?」
 ロザリンの冷笑。

「ロザリン嬢、どうすればいい。彼女の心を戻す方法はないのか。魔女の薬なら、解毒剤があるはずだろ……!」

「……残念だけど、魔女は言っていたそうよ。『一度凍った心は、二度と溶けない』って。彼女はそれを承知で飲んだの。……貴方と一緒に生きるために、貴方を愛することを止めたのよ。こんな悲劇、他にないわね」
 ロザリンは吐き捨てるように言うと、背を向けた。
 
 ユリアンは一人、誰もいない廊下で立ち尽くした。手に入れたはずの「自由」という果実は、中身まで腐りきって消滅していた。あとに残ったのは、美しく冷酷な、永遠に解けない氷の檻だけ。

 ヤスミン・ファーブル。彼女はもう、二度とユリアンのために泣かない。彼のために笑わない。
 
 ただ、彼女の存在そのものが、ユリアンに対する一生涯のとなっていることに、ヤスミン自身すらも気づいていなかった。
 
 ユリアンは、ただ震える手で自分の顔を覆うしかなかった。

 彼に許された唯一の感情は、もう二度と届かない愛への、果てしない後悔だけだったのだ。

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