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地獄の果ての共依存
ユリアン・ゲットーが死の淵から生還してから、数ヶ月が過ぎた。
王都に吹く風はすっかり暖かくなり、庭園には色鮮やかな春の花々が咲き乱れている。かつてヤスミンが「効率的ではない」と切り捨てた生花の香りが、今は開け放たれた窓から、執務室いっぱいに広がっていた。
デスクに向かうヤスミンの姿は、以前の「氷の女王」と呼ばれた頃のような完璧な静止画ではない。ペンを握る指先には微かな震えがあり、その瞳には、時に激しい怒りが、時に深い悲しみが、そして隠しきれない情熱が、嵐のように入れ替わり立ち替わり現れていた。
「……奥様。旦那様が、本日のティータイムのお誘いに参っております」
侍女の報告に、ヤスミンは手にしていたペンをパチンと机に置いた。
「お入りください、と伝えて」
扉が開き、現れたユリアンは、以前の傲慢な面影を完全に失っていた。彼はヤスミンの前に進み出ると、その足元に跪き、彼女の手を取って指先に口づけた。
「ヤスミン。庭の東屋に、君の好きなレモンタルトを用意させたんだ。一緒に味わってくれるかい?」
ヤスミンは、その情愛に満ちた夫の顔を、じっと見つめた。
かつての「無」の微笑みではない。今の彼女の唇は、皮肉げに歪んでいた。
「……ええ。でも、忘れないでね、ユリアン。私が今、こうして貴方の誘いに応じているのは、貴方を許したからではないわ」
ヤスミンは、ユリアンの手を強く握り返した。爪が食い込むほどの強さだ。ユリアンはその痛みを、まるで極上の褒美であるかのように、悦びに満ちた表情で受け入れる。
「ああ、わかっている。君は僕を憎んでいる。僕が君の心を殺し、絶望に突き落としたことを、一生許さないと言ったね」
「そうよ。……あの北の静寂の森で、私がどれほど孤独だったか。貴方が他の女性と笑っていた時、私の心がどれほど細かく切り刻まれていたか。……砕けた氷の下から戻ってきたのは、あの頃の純粋で物分かりの良い私じゃないの。今の私は、貴方を愛しているけれど、それと同じくらい貴方を呪っているのよ」
ヤスミンの声は震えていた。
一度凍りつき、砕け散った心は、もはや元の滑らかな形には戻らない。継ぎ接ぎだらけで、鋭いエッジが剥き出しになった、歪な愛という名の怪物。
彼女は、ユリアンが他の女性と一言話すだけで、胸が焼けるような嫉妬に狂い、夜は彼が隣にいないと、また捨てられるのではないかという恐怖で呼吸が止まりそうになる。魔女の薬で手に入れた「安寧」は消え去り、彼女は再び、愛という名の地獄に引きずり戻されたのだ。
だが、ユリアンはその地獄こそを望んでいた。
「……それでいい、ヤスミン。僕を呪い、僕を縛り、僕を一生責め続けてくれ。君の痛みが、僕の生の実感なんだ。君が僕を憎むたびに、僕は君の中に僕が刻まれていることを確信できる」
ユリアンは、ヤスミンの腰を抱き寄せ、その胸に顔を埋めた。
「君が僕を愛さない自由を捨てて、僕を憎む不自由を選んでくれた。……これ以上の救いはないよ」
二人は庭園へと向かった。
かつて、ユリアンがヤスミンを置いて他の令嬢と歩いた、あの道を。今、ユリアンはヤスミンの影のように寄り添い、彼女が少しでも眉を寄せれば、その理由を必死に探り、機嫌を取る。
社交界の人々は、この夫婦の変貌ぶりを奇妙な目で見ていた。
「あんなに冷たかった夫人が、今では公爵様を激しく罵ることもあるそうよ」
「でも、公爵様はそれを幸せそうに受け入れている。……一体、どんな魔法がかかったのかしら」
魔法ではない。それは、壊れた二人が辿り着いた、唯一の共依存の関係だった。
東屋に着くと、ヤスミンは用意されたタルトを一口食べた。
「……甘すぎるわ。貴方はいつも、私の好みを履き違えるのね」
「すまない。次はもっと、君の望み通りのものを作らせるよ」
「次は、じゃなくて、今すぐ私の気が済むまで謝って。……ねえ、ユリアン。貴方は私の奴隷になるって言ったわよね?」
ヤスミンは、夫の顎を指先で持ち上げた。その瞳には、かつての「氷」ではなく、ドロドロとした深い執着の火が灯っている。
「死ぬまで、私の足元で這いずりなさい。私が貴方を許す日は来ない。でも…… 貴方を解放してあげる日も、一生来ないわ」
「ああ。……永遠に、君の所有物でいさせてくれ、ヤスミン」
ユリアンは彼女の足元に跪き、その指先に口づけを落とした。
それは、誰からも祝福されない、歪で、血の匂いのする純愛。
かつてヤスミンが求めた「隣で微笑む幸せ」は、形を変えて、逃げ場のない「共依存」へと昇華された。
北の静寂の森の魔女は、今もどこかで笑っているだろうか。
一度凍った心は溶けない。けれど、砕けた破片を拾い集め、血を流しながら抱きしめ合うことはできる。
ヤスミン・ゲットーは、夫の髪を愛おしそうに、そして呪うように撫でながら、春の空を見上げた。空はどこまでも青く、残酷なほどに明るい。
もう、雪は降らない。
けれど、彼女の心にある氷の破片は、これからも生涯、彼女とユリアンの胸を刺し続け、その痛みが続く限り、二人の愛が途切れることはないのだ。
「……愛しているわ、ユリアン。貴方を一生、縛り付けてあげる」
「……ああ。愛しているよ、ヤスミン。僕を一生、君の檻から出さないでくれ」
二人の影が、西日に長く伸びて重なり合う。
それは、地獄の果てで見つけた、世界でたった一つの、終わりのない物語の幕引きだった。
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王都に吹く風はすっかり暖かくなり、庭園には色鮮やかな春の花々が咲き乱れている。かつてヤスミンが「効率的ではない」と切り捨てた生花の香りが、今は開け放たれた窓から、執務室いっぱいに広がっていた。
デスクに向かうヤスミンの姿は、以前の「氷の女王」と呼ばれた頃のような完璧な静止画ではない。ペンを握る指先には微かな震えがあり、その瞳には、時に激しい怒りが、時に深い悲しみが、そして隠しきれない情熱が、嵐のように入れ替わり立ち替わり現れていた。
「……奥様。旦那様が、本日のティータイムのお誘いに参っております」
侍女の報告に、ヤスミンは手にしていたペンをパチンと机に置いた。
「お入りください、と伝えて」
扉が開き、現れたユリアンは、以前の傲慢な面影を完全に失っていた。彼はヤスミンの前に進み出ると、その足元に跪き、彼女の手を取って指先に口づけた。
「ヤスミン。庭の東屋に、君の好きなレモンタルトを用意させたんだ。一緒に味わってくれるかい?」
ヤスミンは、その情愛に満ちた夫の顔を、じっと見つめた。
かつての「無」の微笑みではない。今の彼女の唇は、皮肉げに歪んでいた。
「……ええ。でも、忘れないでね、ユリアン。私が今、こうして貴方の誘いに応じているのは、貴方を許したからではないわ」
ヤスミンは、ユリアンの手を強く握り返した。爪が食い込むほどの強さだ。ユリアンはその痛みを、まるで極上の褒美であるかのように、悦びに満ちた表情で受け入れる。
「ああ、わかっている。君は僕を憎んでいる。僕が君の心を殺し、絶望に突き落としたことを、一生許さないと言ったね」
「そうよ。……あの北の静寂の森で、私がどれほど孤独だったか。貴方が他の女性と笑っていた時、私の心がどれほど細かく切り刻まれていたか。……砕けた氷の下から戻ってきたのは、あの頃の純粋で物分かりの良い私じゃないの。今の私は、貴方を愛しているけれど、それと同じくらい貴方を呪っているのよ」
ヤスミンの声は震えていた。
一度凍りつき、砕け散った心は、もはや元の滑らかな形には戻らない。継ぎ接ぎだらけで、鋭いエッジが剥き出しになった、歪な愛という名の怪物。
彼女は、ユリアンが他の女性と一言話すだけで、胸が焼けるような嫉妬に狂い、夜は彼が隣にいないと、また捨てられるのではないかという恐怖で呼吸が止まりそうになる。魔女の薬で手に入れた「安寧」は消え去り、彼女は再び、愛という名の地獄に引きずり戻されたのだ。
だが、ユリアンはその地獄こそを望んでいた。
「……それでいい、ヤスミン。僕を呪い、僕を縛り、僕を一生責め続けてくれ。君の痛みが、僕の生の実感なんだ。君が僕を憎むたびに、僕は君の中に僕が刻まれていることを確信できる」
ユリアンは、ヤスミンの腰を抱き寄せ、その胸に顔を埋めた。
「君が僕を愛さない自由を捨てて、僕を憎む不自由を選んでくれた。……これ以上の救いはないよ」
二人は庭園へと向かった。
かつて、ユリアンがヤスミンを置いて他の令嬢と歩いた、あの道を。今、ユリアンはヤスミンの影のように寄り添い、彼女が少しでも眉を寄せれば、その理由を必死に探り、機嫌を取る。
社交界の人々は、この夫婦の変貌ぶりを奇妙な目で見ていた。
「あんなに冷たかった夫人が、今では公爵様を激しく罵ることもあるそうよ」
「でも、公爵様はそれを幸せそうに受け入れている。……一体、どんな魔法がかかったのかしら」
魔法ではない。それは、壊れた二人が辿り着いた、唯一の共依存の関係だった。
東屋に着くと、ヤスミンは用意されたタルトを一口食べた。
「……甘すぎるわ。貴方はいつも、私の好みを履き違えるのね」
「すまない。次はもっと、君の望み通りのものを作らせるよ」
「次は、じゃなくて、今すぐ私の気が済むまで謝って。……ねえ、ユリアン。貴方は私の奴隷になるって言ったわよね?」
ヤスミンは、夫の顎を指先で持ち上げた。その瞳には、かつての「氷」ではなく、ドロドロとした深い執着の火が灯っている。
「死ぬまで、私の足元で這いずりなさい。私が貴方を許す日は来ない。でも…… 貴方を解放してあげる日も、一生来ないわ」
「ああ。……永遠に、君の所有物でいさせてくれ、ヤスミン」
ユリアンは彼女の足元に跪き、その指先に口づけを落とした。
それは、誰からも祝福されない、歪で、血の匂いのする純愛。
かつてヤスミンが求めた「隣で微笑む幸せ」は、形を変えて、逃げ場のない「共依存」へと昇華された。
北の静寂の森の魔女は、今もどこかで笑っているだろうか。
一度凍った心は溶けない。けれど、砕けた破片を拾い集め、血を流しながら抱きしめ合うことはできる。
ヤスミン・ゲットーは、夫の髪を愛おしそうに、そして呪うように撫でながら、春の空を見上げた。空はどこまでも青く、残酷なほどに明るい。
もう、雪は降らない。
けれど、彼女の心にある氷の破片は、これからも生涯、彼女とユリアンの胸を刺し続け、その痛みが続く限り、二人の愛が途切れることはないのだ。
「……愛しているわ、ユリアン。貴方を一生、縛り付けてあげる」
「……ああ。愛しているよ、ヤスミン。僕を一生、君の檻から出さないでくれ」
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