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遠い空の下で揺れる幸福
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ジュリアンが隣国へと赴任してから、三ヶ月が過ぎようとしていた。
主人が不在となったオッティ子爵邸は、どこか静まり返っているようでいて、それでいて二人の子供たちの活気で満たされていた。
ゴードン伯爵家の長女として、弟妹の面倒を見て育ったメラニアにとって、家事や育児を自ら行うことは苦ではなかった。むしろ、乳母や侍女に任せきりにせず、スティーブの家庭学習を隣で見守り、ジェニファーを自らの手で寝かしつける時間は、彼女にとって何よりの心の安らぎだった。
「お母様、お父様からお手紙は届いた?」
五歳になったスティーブが、賢そうなヘーゼルアイを輝かせて尋ねる。
「ええ、昨日届いたわ。スティーブが剣術の稽古を頑張っていると書いたら、とても喜んでくださっていたわよ」
「本当!? 僕、もっと頑張るよ。お父様が帰ってきたら、びっくりさせたいんだ」
子供たちの成長を報告し、それに対するジュリアンの喜びが綴られた手紙を受け取る。それが、今のメラニアにとっての唯一の栄養源だった。
ジュリアンからの手紙は、次第にその言葉を熱く、饒舌なものに変えていた。
『君の清らかな微笑みを想わない日はない。ゴードンの森のように深く穏やかな君の愛が、僕をこの異郷の地で支えてくれている』
かつての彼ならば気恥ずかしがって口にしないような詩的なフレーズの数々に、メラニアは頬を染めた。離れているからこそ、彼は私への愛を再確認してくれているのだと、そう信じていた。
ある午後、メラニアは親友のセシリア・ランバン侯爵令嬢――今はチャーチル夫人の来訪を受けていた。
セシリアは相変わらず凛とした美しさを湛え、金髪を優雅に揺らしながら、メラニアが淹れた紅茶を口にした。
「メラニア、顔色が良くなったわね。ジュリアン様からの手紙が、良いお薬になっているのかしら?」
「ええ、お恥ずかしいけれど。彼、以前よりもずっと情熱的な言葉を書いてくださるのよ。……セシリア、チャーチル様の方はどう? お元気にされているのかしら」
メラニアの問いに、セシリアはわずかに眉を寄せた。
「ええ、元気すぎるくらいよ。ただ、あの方は手紙が本当に短くて。『無事だ。飯がうまい』くらいしか書いてこないの。ジュリアンの筆まめさを、少しは爪の垢を煎じて飲んでほしいくらいだわ。……でもね、メラニア」
「なあに?」
「チャーチル様の手紙に、気になることが書いてあったの。ジュリアン様の部下に、新しく現地で採用された若い娘が加わったらしいわ。男爵家の次女で、事務の手伝いをしているそうだけど……」
セシリアの言葉に、メラニアは穏やかに微笑んだ。
「まあ、そうなのね。彼、仕事が忙しくて寝る間もないと言っていたから、有能な手伝いが増えるのは良いことだわ」
「……あなたって人は、本当に疑いを知らないのね。その娘、赤毛で茶色の瞳が大きな、とてもあどけない可愛らしい娘だそうよ」
セシリアの心配を、メラニアは「考えすぎよ」と笑って流した。
夫は、自分を「最愛」と呼び、命懸けで子供を守った自分を、傷つけたくないとまで言って大切にしてくれる人なのだ。他の女性に目を向けるはずがない。
その頃、海を隔てた隣国のジュリアンの宿舎。
山積みになった書類と格闘するジュリアンの背後に、一人の女性が近づいていた。マルタ・クライン。没落寸前の男爵家の次女として生まれた十九歳の彼女は、燃えるような赤毛を揺らし、仔鹿のような茶色の大きな瞳を伏せて、ジュリアンの机に温かい紅茶を置いた。
「ジュリアン補佐官、あまり根を詰めすぎないでくださいね。奥様もご心配なさいますわ」
「ああ……ありがとう、マルタさん。君が手伝ってくれるおかげで、ようやく目処が立ちそうだ」
ジュリアンが顔を上げ、ふっと息をつく。
マルタはあどけない笑みを浮かべ、彼の手元にある書きかけの手紙に目を向けた。
「それは、奥様へのお手紙ですか? ……まあ、とても美しい文章。ジュリアン補佐官は、本当に奥様を大切にしていらっしゃるのですね」
「ああ。彼女は完璧な女性なんだ。僕には勿体ないくらいに」
マルタの瞳の奥で、わずかに光が陰った。
「完璧……。でも、ジュリアン補佐官。あまりに完璧な女性は、時に、男性を疲れさせてしまうことはございませんか?」
その言葉に、ジュリアンのペンが止まった。
マルタは驚いたように自分の口を抑え、愛くるしい瞳を潤ませて彼を見つめる。
「申し訳ございません! 私のような若輩者が、出過ぎたことを……。ただ、ジュリアン補佐官があまりに寂しそうなお顔をしていらしたので……」
ジュリアンは、目の前の「あどけない少女」を見つめた。
自分を敬うように見上げる茶色の大きな瞳。そこには、メラニアが自分に向ける「信頼」とはまた別の、甘やかな「依存」の熱が宿っていた。
仕事の疲れと、異国での孤独。そして、メラニアを「子供たちの母」として扱い、押し殺し続けてきた男としての本能が、わずかに揺らぐ。
「……いいんだ、マルタさん。君の気遣いは嬉しいよ」
ジュリアンは、書きかけの手紙を机の隅に追いやった。
そこには、メラニアが喜ぶであろう「清らかな愛の誓い」が綴られていたが、今のジュリアンの心に、その言葉を書き進める熱量は残っていなかった。
「マルタさん。少し、休憩にしようか。こちらの国の特産品の話を聞かせてくれないか?」
「はい! 喜んで、ジュリアン様」
窓の外では、夕闇が迫っていた。
メラニアが夜の静寂の中で、夫への愛を噛み締めていたその時、夫の隣では、新しい風が吹き荒れようとしていた。
__________
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主人が不在となったオッティ子爵邸は、どこか静まり返っているようでいて、それでいて二人の子供たちの活気で満たされていた。
ゴードン伯爵家の長女として、弟妹の面倒を見て育ったメラニアにとって、家事や育児を自ら行うことは苦ではなかった。むしろ、乳母や侍女に任せきりにせず、スティーブの家庭学習を隣で見守り、ジェニファーを自らの手で寝かしつける時間は、彼女にとって何よりの心の安らぎだった。
「お母様、お父様からお手紙は届いた?」
五歳になったスティーブが、賢そうなヘーゼルアイを輝かせて尋ねる。
「ええ、昨日届いたわ。スティーブが剣術の稽古を頑張っていると書いたら、とても喜んでくださっていたわよ」
「本当!? 僕、もっと頑張るよ。お父様が帰ってきたら、びっくりさせたいんだ」
子供たちの成長を報告し、それに対するジュリアンの喜びが綴られた手紙を受け取る。それが、今のメラニアにとっての唯一の栄養源だった。
ジュリアンからの手紙は、次第にその言葉を熱く、饒舌なものに変えていた。
『君の清らかな微笑みを想わない日はない。ゴードンの森のように深く穏やかな君の愛が、僕をこの異郷の地で支えてくれている』
かつての彼ならば気恥ずかしがって口にしないような詩的なフレーズの数々に、メラニアは頬を染めた。離れているからこそ、彼は私への愛を再確認してくれているのだと、そう信じていた。
ある午後、メラニアは親友のセシリア・ランバン侯爵令嬢――今はチャーチル夫人の来訪を受けていた。
セシリアは相変わらず凛とした美しさを湛え、金髪を優雅に揺らしながら、メラニアが淹れた紅茶を口にした。
「メラニア、顔色が良くなったわね。ジュリアン様からの手紙が、良いお薬になっているのかしら?」
「ええ、お恥ずかしいけれど。彼、以前よりもずっと情熱的な言葉を書いてくださるのよ。……セシリア、チャーチル様の方はどう? お元気にされているのかしら」
メラニアの問いに、セシリアはわずかに眉を寄せた。
「ええ、元気すぎるくらいよ。ただ、あの方は手紙が本当に短くて。『無事だ。飯がうまい』くらいしか書いてこないの。ジュリアンの筆まめさを、少しは爪の垢を煎じて飲んでほしいくらいだわ。……でもね、メラニア」
「なあに?」
「チャーチル様の手紙に、気になることが書いてあったの。ジュリアン様の部下に、新しく現地で採用された若い娘が加わったらしいわ。男爵家の次女で、事務の手伝いをしているそうだけど……」
セシリアの言葉に、メラニアは穏やかに微笑んだ。
「まあ、そうなのね。彼、仕事が忙しくて寝る間もないと言っていたから、有能な手伝いが増えるのは良いことだわ」
「……あなたって人は、本当に疑いを知らないのね。その娘、赤毛で茶色の瞳が大きな、とてもあどけない可愛らしい娘だそうよ」
セシリアの心配を、メラニアは「考えすぎよ」と笑って流した。
夫は、自分を「最愛」と呼び、命懸けで子供を守った自分を、傷つけたくないとまで言って大切にしてくれる人なのだ。他の女性に目を向けるはずがない。
その頃、海を隔てた隣国のジュリアンの宿舎。
山積みになった書類と格闘するジュリアンの背後に、一人の女性が近づいていた。マルタ・クライン。没落寸前の男爵家の次女として生まれた十九歳の彼女は、燃えるような赤毛を揺らし、仔鹿のような茶色の大きな瞳を伏せて、ジュリアンの机に温かい紅茶を置いた。
「ジュリアン補佐官、あまり根を詰めすぎないでくださいね。奥様もご心配なさいますわ」
「ああ……ありがとう、マルタさん。君が手伝ってくれるおかげで、ようやく目処が立ちそうだ」
ジュリアンが顔を上げ、ふっと息をつく。
マルタはあどけない笑みを浮かべ、彼の手元にある書きかけの手紙に目を向けた。
「それは、奥様へのお手紙ですか? ……まあ、とても美しい文章。ジュリアン補佐官は、本当に奥様を大切にしていらっしゃるのですね」
「ああ。彼女は完璧な女性なんだ。僕には勿体ないくらいに」
マルタの瞳の奥で、わずかに光が陰った。
「完璧……。でも、ジュリアン補佐官。あまりに完璧な女性は、時に、男性を疲れさせてしまうことはございませんか?」
その言葉に、ジュリアンのペンが止まった。
マルタは驚いたように自分の口を抑え、愛くるしい瞳を潤ませて彼を見つめる。
「申し訳ございません! 私のような若輩者が、出過ぎたことを……。ただ、ジュリアン補佐官があまりに寂しそうなお顔をしていらしたので……」
ジュリアンは、目の前の「あどけない少女」を見つめた。
自分を敬うように見上げる茶色の大きな瞳。そこには、メラニアが自分に向ける「信頼」とはまた別の、甘やかな「依存」の熱が宿っていた。
仕事の疲れと、異国での孤独。そして、メラニアを「子供たちの母」として扱い、押し殺し続けてきた男としての本能が、わずかに揺らぐ。
「……いいんだ、マルタさん。君の気遣いは嬉しいよ」
ジュリアンは、書きかけの手紙を机の隅に追いやった。
そこには、メラニアが喜ぶであろう「清らかな愛の誓い」が綴られていたが、今のジュリアンの心に、その言葉を書き進める熱量は残っていなかった。
「マルタさん。少し、休憩にしようか。こちらの国の特産品の話を聞かせてくれないか?」
「はい! 喜んで、ジュリアン様」
窓の外では、夕闇が迫っていた。
メラニアが夜の静寂の中で、夫への愛を噛み締めていたその時、夫の隣では、新しい風が吹き荒れようとしていた。
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