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愛が死んだ夜
夜の帳が下りた王都。石畳を叩く馬車の音も疎らになった頃、メリンダは安アパートの狭い台所で、最後の一皿を仕上げていた。
今日は、二人がこの街に来てちょうど五周年の記念日だ。
奮発して買った少し良い牛肉の煮込み。カイルが昔から好きだった、村の特産であるハーブを利かせたパン。テーブルの上には、二人のささやかな未来のためにと少しずつ買い足してきた、お揃いの安物の中皿が並んでいる。
(遅いわね、カイル……)
冷めかけたスープに火を入れ直すのは、これで三度目だ。
カイルが王都の大きな商会で事務方として働き始めてから、こうした夜は日常茶飯事になった。最初は「仕事が忙しいのは良いことだわ」と笑っていられた。けれど、彼が垢抜けていくのと反比例するように、メリンダに向ける言葉は刺々しく、その瞳からは体温が消えていった。
深夜二時。ようやく玄関の鍵が開く音がした。
メリンダは弾かれたように立ち上がり、精一杯の笑顔で出迎える。
「おかえりなさい、カイル! お疲れ様。今日は五周年の……」
「……ああ、うるさい。頭に響く」
入ってきたカイルは、見違えるほど洗練されていた。
村にいた頃の泥臭い面影はどこにもない。仕立ての良い濃紺のジャケットを羽織り、髪は流行の形に整えられている。だが、その口から漏れるのは、きつい酒の臭いと、女物の甘ったるい香水の匂いだった。
「お腹、空いてるでしょう? せっかくの記念日だから、あなたの好きな煮込みを作って……」
「記念日? はっ、そんな子供じみたことをまだ言ってるのか」
カイルは靴を脱ぎ散らかしたまま、テーブルに並んだ料理を一瞥した。そして、あざ笑うように鼻を鳴らす。
「こんな垢抜けない田舎料理、今の俺が食えるとでも思ってるのか? さっきまで商会長と、王都で一番の高級店にいたんだ。最高級のワインと、洗練されたフルコース。それに比べてこれは何だ? 泥臭いハーブの匂い……。嗅ぐだけで吐き気がする」
メリンダの指先が、微かに震えた。
この料理を作るために、彼女は騎士団の食堂での重労働の後、市場を三軒も回って安い肉を探したのだ。自分の新しい靴を買うのを半年我慢して。
「……一口だけでも、食べてくれないかしら。カイル、あなたが昔、美味しいって言ってくれた……」
「昔の話をするなと言ってるだろ!」
カイルは苛立ちに任せて、テーブルの端にあったパンの皿を払い除けた。
ガチャン、と陶器が割れる乾いた音が室内に響く。床に転がったパンを見つめ、メリンダは息を止めた。
「お前もさ、少しは考えろよ。俺は今、商会で期待されてるんだ。取引先の令嬢や、洗練された都会の女たちと毎日顔を合わせてる。それなのに家に帰れば、厨房の油の匂いをさせた、化粧っ気もない田舎臭いお前が、こんな安物の皿を並べて待ってる。……正直、息が詰まるんだよ」
カイルはそう吐き捨てると、ソファに深く腰掛けた。
メリンダは黙って破片を拾い集める。視界が涙で滲んだが、声を上げることさえ許されないような圧迫感がそこにはあった。
「カイル、……私たち、いつになったら籍を入れるの? 貯金だって、目標の額まであともう少しだわ。来年こそは、もう少し広いところに引っ越して……子供のことだって……」
「籍? 子供?」
カイルは心底面倒そうに顔を歪めた。
「今の俺にそんな余裕があるわけないだろ。商会の付き合い、身だしなみ、情報交換……。全部に金がかかるんだ。お前みたいな、食堂でニコニコ笑ってりゃ済むような気楽な仕事じゃないんだよ。お前はいいよな、何も考えずに家で俺の帰りを待ってればいいんだから」
気楽。その言葉が、メリンダの心に深く突き刺さる。
彼が今着ている高級なジャケットのクリーニング代も、商会での体面を保つための交際費も、その大半はメリンダの給与から出ている。カイルの給与のほとんどは、彼自身の「外見」と「遊び」に消えていた。
メリンダはボロボロの靴を履き、休む間もなく働き続けているというのに。
「……ねえ、カイル。その首筋。……それはなあに?」
立ち上がったカイルの襟元に、鮮やかな赤色の汚れが見えた。隠そうともしない、口紅の痕。
カイルは隠すどころか、挑発するように口角を上げた。
「ああ、これか? さっきまでいた店の女の子だよ。お前みたいに愚痴っぽくなくて、若くて、華やかで……男の立て方をよく知ってる」
「……っ!」
「何だよ、そんな顔して。まさか、嫉妬か? 滑稽だな。お前がそんなに惨めなのは、自分を磨く努力を怠ってるからだろ。女を捨てたような格好をしてる奴を、誰が愛し続けるってんだ?」
カイルは一歩、メリンダに歩み寄った。
酒の臭いが強くなる。彼はメリンダの顎を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。
「……まあいい。お前、ずっと不満そうな顔してるもんな。欲求不満なんだろ? 抱いてほしいのか?」
「やめて……そんな言い方」
「いいよ。淫乱な都会の女になったお前に、記念日のプレゼントだ。たっぷり可愛がってやるよ」
拒絶する間もなかった。愛など欠片もない、暴力に近い略奪。
カイルの体からは、他人の女の香りが漂ってくる。首筋の口紅が視界に入るたび、メリンダの魂は削り取られていった。
(ああ……終わったんだわ)
かつて、村の樫の木の下で「一生守る」と誓ってくれた美しい少年。
王都へ向かう馬車の中で、一つの毛布に包まって未来を語り合った許嫁。
そのすべてが、今、目の前で自分を汚しているこの男によって、無惨に踏みにじられていく。
事が終わると、カイルは満足げな溜息を一つ吐き、そのまま重い眠りについた。
メリンダは暗闇の中、冷たくなった床に膝を抱えて座り込んだ。
窓の外からは、夜明け前の冷たい風が入り込んでくる。割れた皿の破片が、月光を浴びて鈍く光っていた。それはまるで、粉々に砕け散った二人の五年間そのもののようだった。
メリンダは、もう泣かなかった。ただ、静かに立ち上がり、泥のように眠るカイルを一瞥した。その瞳には、もはや悲しみさえ宿っていない。
「……さようなら、カイル」
小さく、けれど確かな決別の言葉。
彼女はゆっくりと、着替えの入ったクローゼットへと手を伸ばした。
夜明けまで、あと三時間。
彼女がこの部屋を出て行くのに、それだけの時間は、もう必要なかった。
___________
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今日は、二人がこの街に来てちょうど五周年の記念日だ。
奮発して買った少し良い牛肉の煮込み。カイルが昔から好きだった、村の特産であるハーブを利かせたパン。テーブルの上には、二人のささやかな未来のためにと少しずつ買い足してきた、お揃いの安物の中皿が並んでいる。
(遅いわね、カイル……)
冷めかけたスープに火を入れ直すのは、これで三度目だ。
カイルが王都の大きな商会で事務方として働き始めてから、こうした夜は日常茶飯事になった。最初は「仕事が忙しいのは良いことだわ」と笑っていられた。けれど、彼が垢抜けていくのと反比例するように、メリンダに向ける言葉は刺々しく、その瞳からは体温が消えていった。
深夜二時。ようやく玄関の鍵が開く音がした。
メリンダは弾かれたように立ち上がり、精一杯の笑顔で出迎える。
「おかえりなさい、カイル! お疲れ様。今日は五周年の……」
「……ああ、うるさい。頭に響く」
入ってきたカイルは、見違えるほど洗練されていた。
村にいた頃の泥臭い面影はどこにもない。仕立ての良い濃紺のジャケットを羽織り、髪は流行の形に整えられている。だが、その口から漏れるのは、きつい酒の臭いと、女物の甘ったるい香水の匂いだった。
「お腹、空いてるでしょう? せっかくの記念日だから、あなたの好きな煮込みを作って……」
「記念日? はっ、そんな子供じみたことをまだ言ってるのか」
カイルは靴を脱ぎ散らかしたまま、テーブルに並んだ料理を一瞥した。そして、あざ笑うように鼻を鳴らす。
「こんな垢抜けない田舎料理、今の俺が食えるとでも思ってるのか? さっきまで商会長と、王都で一番の高級店にいたんだ。最高級のワインと、洗練されたフルコース。それに比べてこれは何だ? 泥臭いハーブの匂い……。嗅ぐだけで吐き気がする」
メリンダの指先が、微かに震えた。
この料理を作るために、彼女は騎士団の食堂での重労働の後、市場を三軒も回って安い肉を探したのだ。自分の新しい靴を買うのを半年我慢して。
「……一口だけでも、食べてくれないかしら。カイル、あなたが昔、美味しいって言ってくれた……」
「昔の話をするなと言ってるだろ!」
カイルは苛立ちに任せて、テーブルの端にあったパンの皿を払い除けた。
ガチャン、と陶器が割れる乾いた音が室内に響く。床に転がったパンを見つめ、メリンダは息を止めた。
「お前もさ、少しは考えろよ。俺は今、商会で期待されてるんだ。取引先の令嬢や、洗練された都会の女たちと毎日顔を合わせてる。それなのに家に帰れば、厨房の油の匂いをさせた、化粧っ気もない田舎臭いお前が、こんな安物の皿を並べて待ってる。……正直、息が詰まるんだよ」
カイルはそう吐き捨てると、ソファに深く腰掛けた。
メリンダは黙って破片を拾い集める。視界が涙で滲んだが、声を上げることさえ許されないような圧迫感がそこにはあった。
「カイル、……私たち、いつになったら籍を入れるの? 貯金だって、目標の額まであともう少しだわ。来年こそは、もう少し広いところに引っ越して……子供のことだって……」
「籍? 子供?」
カイルは心底面倒そうに顔を歪めた。
「今の俺にそんな余裕があるわけないだろ。商会の付き合い、身だしなみ、情報交換……。全部に金がかかるんだ。お前みたいな、食堂でニコニコ笑ってりゃ済むような気楽な仕事じゃないんだよ。お前はいいよな、何も考えずに家で俺の帰りを待ってればいいんだから」
気楽。その言葉が、メリンダの心に深く突き刺さる。
彼が今着ている高級なジャケットのクリーニング代も、商会での体面を保つための交際費も、その大半はメリンダの給与から出ている。カイルの給与のほとんどは、彼自身の「外見」と「遊び」に消えていた。
メリンダはボロボロの靴を履き、休む間もなく働き続けているというのに。
「……ねえ、カイル。その首筋。……それはなあに?」
立ち上がったカイルの襟元に、鮮やかな赤色の汚れが見えた。隠そうともしない、口紅の痕。
カイルは隠すどころか、挑発するように口角を上げた。
「ああ、これか? さっきまでいた店の女の子だよ。お前みたいに愚痴っぽくなくて、若くて、華やかで……男の立て方をよく知ってる」
「……っ!」
「何だよ、そんな顔して。まさか、嫉妬か? 滑稽だな。お前がそんなに惨めなのは、自分を磨く努力を怠ってるからだろ。女を捨てたような格好をしてる奴を、誰が愛し続けるってんだ?」
カイルは一歩、メリンダに歩み寄った。
酒の臭いが強くなる。彼はメリンダの顎を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。
「……まあいい。お前、ずっと不満そうな顔してるもんな。欲求不満なんだろ? 抱いてほしいのか?」
「やめて……そんな言い方」
「いいよ。淫乱な都会の女になったお前に、記念日のプレゼントだ。たっぷり可愛がってやるよ」
拒絶する間もなかった。愛など欠片もない、暴力に近い略奪。
カイルの体からは、他人の女の香りが漂ってくる。首筋の口紅が視界に入るたび、メリンダの魂は削り取られていった。
(ああ……終わったんだわ)
かつて、村の樫の木の下で「一生守る」と誓ってくれた美しい少年。
王都へ向かう馬車の中で、一つの毛布に包まって未来を語り合った許嫁。
そのすべてが、今、目の前で自分を汚しているこの男によって、無惨に踏みにじられていく。
事が終わると、カイルは満足げな溜息を一つ吐き、そのまま重い眠りについた。
メリンダは暗闇の中、冷たくなった床に膝を抱えて座り込んだ。
窓の外からは、夜明け前の冷たい風が入り込んでくる。割れた皿の破片が、月光を浴びて鈍く光っていた。それはまるで、粉々に砕け散った二人の五年間そのもののようだった。
メリンダは、もう泣かなかった。ただ、静かに立ち上がり、泥のように眠るカイルを一瞥した。その瞳には、もはや悲しみさえ宿っていない。
「……さようなら、カイル」
小さく、けれど確かな決別の言葉。
彼女はゆっくりと、着替えの入ったクローゼットへと手を伸ばした。
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