さよなら、愛した人 ~絶望の夜に宿ったのは、かつて二人で夢見た命~

恋せよ恋

文字の大きさ
1 / 17

愛が死んだ夜

  夜の帳が下りた王都。石畳を叩く馬車の音も疎らになった頃、メリンダは安アパートの狭い台所で、最後の一皿を仕上げていた。

 今日は、二人がこの街に来てちょうど五周年の記念日だ。
 奮発して買った少し良い牛肉の煮込み。カイルが昔から好きだった、村の特産であるハーブを利かせたパン。テーブルの上には、二人のささやかな未来のためにと少しずつ買い足してきた、お揃いの安物の中皿が並んでいる。

(遅いわね、カイル……)

 冷めかけたスープに火を入れ直すのは、これで三度目だ。
 カイルが王都の大きな商会で事務方として働き始めてから、こうした夜は日常茶飯事になった。最初は「仕事が忙しいのは良いことだわ」と笑っていられた。けれど、彼が垢抜けていくのと反比例するように、メリンダに向ける言葉は刺々しく、その瞳からは体温が消えていった。

 深夜二時。ようやく玄関の鍵が開く音がした。
 メリンダは弾かれたように立ち上がり、精一杯の笑顔で出迎える。

「おかえりなさい、カイル! お疲れ様。今日は五周年の……」

「……ああ、うるさい。頭に響く」

 入ってきたカイルは、見違えるほど洗練されていた。
 村にいた頃の泥臭い面影はどこにもない。仕立ての良い濃紺のジャケットを羽織り、髪は流行の形に整えられている。だが、その口から漏れるのは、きつい酒の臭いと、女物の甘ったるい香水の匂いだった。

「お腹、空いてるでしょう? せっかくの記念日だから、あなたの好きな煮込みを作って……」

「記念日? はっ、そんな子供じみたことをまだ言ってるのか」

 カイルは靴を脱ぎ散らかしたまま、テーブルに並んだ料理を一瞥した。そして、あざ笑うように鼻を鳴らす。

「こんな垢抜けない田舎料理、今の俺が食えるとでも思ってるのか? さっきまで商会長と、王都で一番の高級店にいたんだ。最高級のワインと、洗練されたフルコース。それに比べてこれは何だ? 泥臭いハーブの匂い……。嗅ぐだけで吐き気がする」

 メリンダの指先が、微かに震えた。
 この料理を作るために、彼女は騎士団の食堂での重労働の後、市場を三軒も回って安い肉を探したのだ。自分の新しい靴を買うのを半年我慢して。

「……一口だけでも、食べてくれないかしら。カイル、あなたが昔、美味しいって言ってくれた……」

「昔の話をするなと言ってるだろ!」

 カイルは苛立ちに任せて、テーブルの端にあったパンの皿を払い除けた。
 ガチャン、と陶器が割れる乾いた音が室内に響く。床に転がったパンを見つめ、メリンダは息を止めた。

「お前もさ、少しは考えろよ。俺は今、商会で期待されてるんだ。取引先の令嬢や、洗練された都会の女たちと毎日顔を合わせてる。それなのに家に帰れば、厨房の油の匂いをさせた、化粧っ気もない田舎臭いお前が、こんな安物の皿を並べて待ってる。……正直、息が詰まるんだよ」

 カイルはそう吐き捨てると、ソファに深く腰掛けた。
 メリンダは黙って破片を拾い集める。視界が涙で滲んだが、声を上げることさえ許されないような圧迫感がそこにはあった。

「カイル、……私たち、いつになったら籍を入れるの? 貯金だって、目標の額まであともう少しだわ。来年こそは、もう少し広いところに引っ越して……子供のことだって……」

「籍? 子供?」

 カイルは心底面倒そうに顔を歪めた。

「今の俺にそんな余裕があるわけないだろ。商会の付き合い、身だしなみ、情報交換……。全部に金がかかるんだ。お前みたいな、食堂でニコニコ笑ってりゃ済むような気楽な仕事じゃないんだよ。お前はいいよな、何も考えずに家で俺の帰りを待ってればいいんだから」

 気楽。その言葉が、メリンダの心に深く突き刺さる。
 彼が今着ている高級なジャケットのクリーニング代も、商会での体面を保つための交際費も、その大半はメリンダの給与から出ている。カイルの給与のほとんどは、彼自身の「外見」と「遊び」に消えていた。

 メリンダはボロボロの靴を履き、休む間もなく働き続けているというのに。

「……ねえ、カイル。その首筋。……それはなあに?」

 立ち上がったカイルの襟元に、鮮やかな赤色の汚れが見えた。隠そうともしない、口紅の痕。
 カイルは隠すどころか、挑発するように口角を上げた。

「ああ、これか? さっきまでいた店の女の子だよ。お前みたいに愚痴っぽくなくて、若くて、華やかで……男の立て方をよく知ってる」

「……っ!」

「何だよ、そんな顔して。まさか、嫉妬か? 滑稽だな。お前がそんなに惨めなのは、自分を磨く努力を怠ってるからだろ。女を捨てたような格好をしてる奴を、誰が愛し続けるってんだ?」

 カイルは一歩、メリンダに歩み寄った。
 酒の臭いが強くなる。彼はメリンダの顎を乱暴に掴み、無理やり顔を上げさせた。

「……まあいい。お前、ずっと不満そうな顔してるもんな。欲求不満なんだろ? 抱いてほしいのか?」

「やめて……そんな言い方」

「いいよ。淫乱な都会の女になったお前に、記念日のプレゼントだ。たっぷり可愛がってやるよ」

 拒絶する間もなかった。愛など欠片もない、暴力に近い略奪。
 カイルの体からは、他人の女の香りが漂ってくる。首筋の口紅が視界に入るたび、メリンダの魂は削り取られていった。

(ああ……終わったんだわ)

 かつて、村の樫の木の下で「一生守る」と誓ってくれた美しい少年。
 王都へ向かう馬車の中で、一つの毛布に包まって未来を語り合った許嫁。
 そのすべてが、今、目の前で自分を汚しているこの男によって、無惨に踏みにじられていく。

 事が終わると、カイルは満足げな溜息を一つ吐き、そのまま重い眠りについた。
 メリンダは暗闇の中、冷たくなった床に膝を抱えて座り込んだ。

 窓の外からは、夜明け前の冷たい風が入り込んでくる。割れた皿の破片が、月光を浴びて鈍く光っていた。それはまるで、粉々に砕け散った二人の五年間そのもののようだった。

 メリンダは、もう泣かなかった。ただ、静かに立ち上がり、泥のように眠るカイルを一瞥した。その瞳には、もはや悲しみさえ宿っていない。

「……さようなら、カイル」

 小さく、けれど確かな決別の言葉。
 彼女はゆっくりと、着替えの入ったクローゼットへと手を伸ばした。

 夜明けまで、あと三時間。
 彼女がこの部屋を出て行くのに、それだけの時間は、もう必要なかった。
___________

エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇‍♀️

あなたにおすすめの小説

アリシアの恋は終わったのです【完結】

ことりちゃん
恋愛
昼休みの廊下で、アリシアはずっとずっと大好きだったマークから、いきなり頬を引っ叩かれた。 その瞬間、アリシアの恋は終わりを迎えた。 そこから長年の虚しい片想いに別れを告げ、新しい道へと歩き出すアリシア。 反対に、後になってアリシアの想いに触れ、遅すぎる行動に出るマーク。 案外吹っ切れて楽しく過ごす女子と、どうしようもなく後悔する残念な男子のお話です。 ーーーーー 12話で完結します。 よろしくお願いします(´∀`)

夢を叶えた娘

肺魚
恋愛
婚約者である公爵令嬢を放って、男爵令嬢を側近たちと囲む王太子殿下。今日も学園でモラトリアムな軽口を囀っている。でも待って。その軽口、冗談ではすまないかも?

【短編】復讐すればいいのに〜婚約破棄のその後のお話〜

真辺わ人
恋愛
平民の女性との間に真実の愛を見つけた王太子は、公爵令嬢に婚約破棄を告げる。 しかし、公爵家と国王の不興を買い、彼は廃太子とされてしまった。 これはその後の彼(元王太子)と彼女(平民少女)のお話です。 数年後に彼女が語る真実とは……? 前中後編の三部構成です。 ❇︎ざまぁはありません。 ❇︎設定は緩いですので、頭のネジを緩めながらお読みください。

(完)そんなに妹が大事なの?と彼に言おうとしたら・・・

青空一夏
恋愛
デートのたびに、病弱な妹を優先する彼に文句を言おうとしたけれど・・・

「子守係風情が婚約者面をするな」と追い出された令嬢——公爵家の子供たちが全員、家出した

歩人
ファンタジー
「所詮、子守係にすぎない女だった」 公爵嫡男エドワードはそう吐き捨て、華やかな伯爵令嬢との婚約を発表した。 追い出されたフィオナは泣かなかった。前世で保育士だった記憶を持つ彼女は知っていた——子供は見ている。全部、覚えている。 フィオナが去って一週間。公爵家の三人の子供たちが、揃って家を出た。 長男は「フィオナ先生のところに行く」と書き置きを残し、次女は新しい婚約者に「あなたは僕たちの名前すら知らない」と告げた。 「お返しする気はございません——この子たちは、私を選んだのですから」

短編 跡継ぎを産めない原因は私だと決めつけられていましたが、子ができないのは夫の方でした

ヨルノソラ
恋愛
侯爵家に嫁いで三年。 子を授からないのは私のせいだと、夫や周囲から責められてきた。 だがある日、夫は使用人が子を身籠ったと告げ、「その子を跡継ぎとして育てろ」と言い出す。 ――私は静かに調べた。 夫が知らないまま目を背けてきた“事実”を、ひとつずつ確かめて。 嘘も責任も押しつけられる人生に別れを告げて、私は自分の足で、新たな道を歩き出す。

王家の賠償金請求

章槻雅希
恋愛
王太子イザイアの婚約者であったエルシーリアは真実の愛に出会ったという王太子に婚約解消を求められる。相手は男爵家庶子のジルダ。 解消とはいえ実質はイザイア有責の破棄に近く、きちんと慰謝料は支払うとのこと。更に王の決めた婚約者ではない女性を選ぶ以上、王太子位を返上し、王籍から抜けて平民になるという。 そこまで覚悟を決めているならエルシーリアに言えることはない。彼女は婚約解消を受け入れる。 しかし、エルシーリアは何とも言えない胸のモヤモヤを抱える。婚約解消がショックなのではない。イザイアのことは手のかかる出来の悪い弟分程度にしか思っていなかったから、失恋したわけでもない。 身勝手な婚約解消に怒る侍女と話をして、エルシーリアはそのモヤモヤの正体に気付く。そしてエルシーリアはそれを父公爵に告げるのだった。 『小説家になろう』『アルファポリス』に重複投稿、自サイトにも掲載。

「おまえを愛することはない。名目上の妻、使用人として仕えろ」と言われましたが、あなたは誰ですか!?

kieiku
恋愛
いったい何が起こっているのでしょうか。式の当日、現れた男にめちゃくちゃなことを言われました。わたくし、この男と結婚するのですか……?