さよなら、愛した人 ~絶望の夜に宿ったのは、かつて二人で夢見た命~

恋せよ恋

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カイルの地獄

  メリンダが消えてから、一年が過ぎようとしていた。
 王都の夜は相変わらず華やかで、カイルが勤める商会も、彼の精緻な仕事ぶりが評価されて順調に業績を伸ばしていた。

「カイル君、君の最近の働きぶりは素晴らしいな。昇進も間近だぞ」

 上司の賞賛に、カイルは静かに頭を下げた。
 かつての彼なら、ここで鼻を高くし、同僚を引き連れて高級店へ繰り出し、女たちの腰を抱いて金をばら撒いただろう。だが、今のカイルは、仕事が終われば誰とも連れ立たず、真っ直ぐにあの「冷え切った家」へと帰る。

 鍵を開け、暗い部屋に足を踏み入れる。

「……ただいま」

 返ってくるのは、沈黙だけだ。
 
 カイルは、かつてメリンダがいつも立っていた台所の片隅に座り込んだ。
 今の彼の生活は、驚くほど質素だ。酒も、博打も、派手な服もすべて断った。身だしなみには気を遣っているが、それは見栄のためではない。メリンダに再会できた時、少しでも「まともな男」だと思われたいという、哀れなほどのあがきだった。

 彼は棚の奥から、新しく買った、まだ軽い木彫りの貯金箱を取り出した。
 あの日、メリンダが持ち去った「二人の五年間」の身代わりとして、彼が一人で始めたものだ。

「……今日は、銀貨三枚だ。メリンダ」

 チャリン、と虚しい音が響く。
 かつて彼女が、自分の食事を抜いてまで貯めていた銅貨の重みを、彼は今、身を削るような節約の中で追体験していた。
 
 商会での評判は上がった。身なりの清潔感も、仕事の正確さも、今の彼は王都の誰が見ても「誠実で将来有望な事務方」に見えるだろう。
 だが、その中身は空っぽだった。
 
 完璧に整えられたシャツ。
 ピカピカに磨き上げられた靴。
 これらはすべて、かつてメリンダが「当たり前」に与えてくれていたものだ。
 自分でそれを用意するたび、カイルの指先には、彼女が感じていたであろう孤独と疲労が伝わってくる。

「俺は、何てことをしたんだ……」

 カイルは貯金箱を抱きしめ、暗い台所で一人、声を殺して泣いた。
 彼女が貯めていたのは、金ではなかった。自分への、無償の愛と信頼の積み重ねだったのだ。
 
 それを自分は、泥のついた靴で踏みにじり、挙句の果てに「淫乱」とまで罵った。
 どれだけ金を貯めても、どれだけ出世しても、失った「五年間」の温もりは、どこにも売っていない。
 
 商会の窓から見える空を、カイルは毎日見上げている。
 彼女の暮らす地は、晴れているだろうか。彼女は、暖かい服を着ているだろうか。
 
 カイルは、自分がいつか許されるなどとは思っていない。
 けれど、もし万が一、奇跡が起きて彼女に会えたその時。「あなた、変わったわね」と、一度だけでいいから、あの優しい声で言ってもらいたい。
 
 その淡い、身勝手な希望だけが、今のカイルを「地獄のような日常」に繋ぎ止める、唯一の細い糸だった。
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