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決壊する檻、雨の逃避行
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首筋に残った熱い痛みは、翌朝になっても消えなかった。
鏡の中に映る自分は、まるで死人のように血の気が引いている。シモンに噛みつかれた痕は、痛々しく赤紫に腫れ、彼が私に刻んだ「呪い」そのものだった。
昨晩、学園の図書室で彼が漏らした言葉――「お前を愛しすぎて、自分を保てなくなった」
それは愛の告白というにはあまりに身勝手で、暴力的な宣言だった。私は震える手でストールを巻き、その痕を隠した。もう、限界だった。この邸に留まれば、シモンはいつか本当に理性を失い、私を、そして彼自身を破滅させてしまう。
「メルローズ、おはよう。……具合でも悪いの?」
朝食の席、母のアマンダが心配そうに私を見つめる。その隣では、義父となったオリビエ伯爵が新聞を広げていた。
「……少し、寝不足なだけです。お母様、オリビエ様。大切なお話があります」
私は、テーブルの下で拳を固く握りしめた。
「私……しばらくの間、アマンドの伯父様の邸で過ごしたいと思います。学園の試験も近いですし、あちらの方が資料も豊富だとノーマンお兄様も仰ってくださって」
空気が凍りついた。
パンを千切っていたシモンの手が、ぴたりと止まる。彼は顔を上げず、ただ低く、獣のような唸り声を漏らした。
「……認めない」
「シモン。これは私が決めたことです」
「認めないと言っているんだ!」
シモンが激しくテーブルを叩いた。銀の食器が甲高い音を立てて跳ねる。
「シモン、行儀が悪いぞ」
オリビエ様が厳格な声で制したが、シモンの瞳に宿った炎は消えなかった。
「父上も知っているはずだ。彼女をアマンドに帰せば、二度とこの家には戻らない! あの執念深いノーマンが、彼女を隠してしまうに決まっている!」
「シモン、貴方のその態度が私を追い詰めているの! 今の貴方は、私の大好きなシモンじゃない!」
私は叫び、席を立った。母様の困惑した顔を見るのが辛くて、そのまま食堂を飛び出した。
外は、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。私は用意していた最低限の荷物を掴み、裏門へと急いだ。あらかじめノーマンお兄様と連絡を取り合っていた馬車が、霧の向こうに待機しているはずだ。
泥に汚れ、ドレスの裾が濡れるのも構わずに走った。
背後から、怒号に近い呼び声が聞こえる。
「メルローズ! 止まれ! 行くな!」
シモンだ。彼は上着も羽織らず、ずぶ濡れになりながら私を追ってきた。
その姿は、かつて葡萄畑を一緒に駆け回った少年時代の彼を思い出させた。けれど、今の彼の瞳にあるのは、共有した思い出への慈しみではなく、獲物を逃がすまいとする執着だけだ。
「来ないで! シモンなんて、大嫌いよ!」
嘘だった。本当は、今でも彼が誰よりも愛おしい。けれど、そう言わなければ、私の足は止まってしまう。
馬車の扉が開く。そこには、約束通りノーマンお兄様が待っていた。
「メルローズ、こっちだ!」
「兄様……!」
私がノーマン兄様の手を掴もうとした瞬間、背後から凄まじい力で腰を引き寄せられた。
「関わるなと言っているだろう、ノーマン!」
シモンが私を抱きしめ、ノーマンお兄様から遠ざける。
「シモン君、いい加減にしたまえ! メルローズは怯えているじゃないか!」
「黙れ、黙れ! こいつは俺が守る! 俺以外の誰にも触れさせない!」
雨の中、二人の令息が睨み合う。シモンの抱擁は、もはや愛撫ではなく、逃げ出そうとする獲物を締め殺すための罠のようだった。
「……シモン。お願い、離して」
私は枯れた声で訴えた。
「貴方が昨日、カサンドラ夫人と過ごしたことも、学園で他の令嬢たちと笑っていたことも、私は全部知っているわ。……私を汚したくないと言いながら、貴方は自分の手で、私の心をこれ以上ないほど汚したのよ」
シモンの力が、ふっと抜けた。彼の顔に、初めて「絶望」という名の亀裂が走る。
「……メル、ローズ……それは……!」
「貴方が外で何をしていようと、私には関係ない。……だって、私たちは『兄妹』でしょう?」
その言葉が、シモンへの最後の一撃となった。
私がその隙に腕を振り切り、馬車へと駆け込む。ノーマン兄様が素早く乗り込み、御者に合図を出した。
遠ざかる馬車の窓から、雨の中に立ち尽くすシモンの姿が見えた。彼は追いかけてくることもなく、ただ泥水の中に膝をつき、天を仰いでいた。
リンガー家とローデン家。隣り合い、支え合ってきた二つの家門の絆が、私たちの歪な恋心によって、今、完全に断ち切られた。
アマンド伯爵邸へ向かう馬車の中で、私はノーマンお兄様の貸してくれた毛布にくるまり、声を出さずに泣き続けた。
首筋の痕が、ズキズキと脈打つ。それは、シモンから逃げ出した代償であり、彼を愛し続けてしまう自分への罰のようにも感じられた。
この時、私はまだ知らなかった。
シモンがこの後、自分の犯した罪の重さに打ちひしがれ、狂気の放蕩を止め、さらに恐ろしい計画を練り始めることを。
______________
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鏡の中に映る自分は、まるで死人のように血の気が引いている。シモンに噛みつかれた痕は、痛々しく赤紫に腫れ、彼が私に刻んだ「呪い」そのものだった。
昨晩、学園の図書室で彼が漏らした言葉――「お前を愛しすぎて、自分を保てなくなった」
それは愛の告白というにはあまりに身勝手で、暴力的な宣言だった。私は震える手でストールを巻き、その痕を隠した。もう、限界だった。この邸に留まれば、シモンはいつか本当に理性を失い、私を、そして彼自身を破滅させてしまう。
「メルローズ、おはよう。……具合でも悪いの?」
朝食の席、母のアマンダが心配そうに私を見つめる。その隣では、義父となったオリビエ伯爵が新聞を広げていた。
「……少し、寝不足なだけです。お母様、オリビエ様。大切なお話があります」
私は、テーブルの下で拳を固く握りしめた。
「私……しばらくの間、アマンドの伯父様の邸で過ごしたいと思います。学園の試験も近いですし、あちらの方が資料も豊富だとノーマンお兄様も仰ってくださって」
空気が凍りついた。
パンを千切っていたシモンの手が、ぴたりと止まる。彼は顔を上げず、ただ低く、獣のような唸り声を漏らした。
「……認めない」
「シモン。これは私が決めたことです」
「認めないと言っているんだ!」
シモンが激しくテーブルを叩いた。銀の食器が甲高い音を立てて跳ねる。
「シモン、行儀が悪いぞ」
オリビエ様が厳格な声で制したが、シモンの瞳に宿った炎は消えなかった。
「父上も知っているはずだ。彼女をアマンドに帰せば、二度とこの家には戻らない! あの執念深いノーマンが、彼女を隠してしまうに決まっている!」
「シモン、貴方のその態度が私を追い詰めているの! 今の貴方は、私の大好きなシモンじゃない!」
私は叫び、席を立った。母様の困惑した顔を見るのが辛くて、そのまま食堂を飛び出した。
外は、いつの間にか激しい雨が降り始めていた。私は用意していた最低限の荷物を掴み、裏門へと急いだ。あらかじめノーマンお兄様と連絡を取り合っていた馬車が、霧の向こうに待機しているはずだ。
泥に汚れ、ドレスの裾が濡れるのも構わずに走った。
背後から、怒号に近い呼び声が聞こえる。
「メルローズ! 止まれ! 行くな!」
シモンだ。彼は上着も羽織らず、ずぶ濡れになりながら私を追ってきた。
その姿は、かつて葡萄畑を一緒に駆け回った少年時代の彼を思い出させた。けれど、今の彼の瞳にあるのは、共有した思い出への慈しみではなく、獲物を逃がすまいとする執着だけだ。
「来ないで! シモンなんて、大嫌いよ!」
嘘だった。本当は、今でも彼が誰よりも愛おしい。けれど、そう言わなければ、私の足は止まってしまう。
馬車の扉が開く。そこには、約束通りノーマンお兄様が待っていた。
「メルローズ、こっちだ!」
「兄様……!」
私がノーマン兄様の手を掴もうとした瞬間、背後から凄まじい力で腰を引き寄せられた。
「関わるなと言っているだろう、ノーマン!」
シモンが私を抱きしめ、ノーマンお兄様から遠ざける。
「シモン君、いい加減にしたまえ! メルローズは怯えているじゃないか!」
「黙れ、黙れ! こいつは俺が守る! 俺以外の誰にも触れさせない!」
雨の中、二人の令息が睨み合う。シモンの抱擁は、もはや愛撫ではなく、逃げ出そうとする獲物を締め殺すための罠のようだった。
「……シモン。お願い、離して」
私は枯れた声で訴えた。
「貴方が昨日、カサンドラ夫人と過ごしたことも、学園で他の令嬢たちと笑っていたことも、私は全部知っているわ。……私を汚したくないと言いながら、貴方は自分の手で、私の心をこれ以上ないほど汚したのよ」
シモンの力が、ふっと抜けた。彼の顔に、初めて「絶望」という名の亀裂が走る。
「……メル、ローズ……それは……!」
「貴方が外で何をしていようと、私には関係ない。……だって、私たちは『兄妹』でしょう?」
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私がその隙に腕を振り切り、馬車へと駆け込む。ノーマン兄様が素早く乗り込み、御者に合図を出した。
遠ざかる馬車の窓から、雨の中に立ち尽くすシモンの姿が見えた。彼は追いかけてくることもなく、ただ泥水の中に膝をつき、天を仰いでいた。
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首筋の痕が、ズキズキと脈打つ。それは、シモンから逃げ出した代償であり、彼を愛し続けてしまう自分への罰のようにも感じられた。
この時、私はまだ知らなかった。
シモンがこの後、自分の犯した罪の重さに打ちひしがれ、狂気の放蕩を止め、さらに恐ろしい計画を練り始めることを。
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