義兄妹になったその日、恋は帰る場所を失った

恋せよ恋

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番外編

カサンドラ夫人-器の底に沈む毒と灰色の残像

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 鏡の中に映る自分を、私は冷ややかに眺めていた。

 公爵家の分家から嫁ぎ、若くして未亡人となった私、カサンドラにとって、男たちは退屈な時間を埋めるための駒に過ぎなかった。高く結い上げた髪、白粉で隠した微かな皺、そして肉体。夜会に集う男たちの理性を狂わせる熟れた肢体。私は自分の価値を正確に理解していた。妖艶さは武器であり、微笑みは策略。微かに香る薔薇の香水と、しなやかな指先の動きだけで、男たちを掌の上に置くことも可能だった。

 あの日までは——。

 若くして結婚した公爵家の夫は、初めは丁寧で礼儀正しかった。だが、優しさは薄れ、私には彼の冷めた視線と無関心だけが残った。夜毎、彼が私の手を握るのは形式上のものでしかなく、私の存在を本当に欲することはなかった。欲望に欠ける手つき、心ここにあらずの瞳……それが彼の愛だった。私は夫を愛していなかった。愛などとは程遠く、空虚な結婚生活だった。

 だから、夜会は私の戦場であり、男たちはただの駒だった。微笑み、仕草、言葉。すべてが生き残るための手段。誰かに心を許すことも、愛を求めることも、私はもう諦めていた。愛は虚ろで、欺きに満ちていて、女としての本能さえ生存戦略の一部として埋没してしまっていた。

 しかし、あの日——。シモン・ローデンが私の前に現れるまでは。

 重厚なベルベットのカーテンの向こう側から、音もなく現れた。若くて、まだ二十歳にも満たないはずの彼。しかしその瞳には、人生を酸いも甘いも噛み分けた老人のような深さと暗さがあった。夜会の喧騒を背にした彼の存在は、光を吸い込む影のように鋭く、私の肌を震わせた。

「酒をくれ」第一声は、それだけだった。

 驚きもなく、私は淡々と酒を差し出した。彼は私を抱くときでさえ、決して私の顔を見ない。その視線は常に、ここではないどこか遠く、あるいは届かぬ天上の星を見つめているかのようだった。

 私は多くの男を知っている。欲望にまみれた目、支配欲を剥き出しにする目、甘い愛を囁く目。だが、シモンの目は違った。剥き出しの飢えと、それを必死に押さえ込む嫌悪。狂気に近い情熱を秘めながら、決して暴走させない冷徹さ。私が生涯で見たどの男とも異なる目だった。

「……誰を見ていらっしゃるの? 貴方。私を抱きながら、心は別の場所に置いてきている」
 一度、冗談めかして彼の髪に指を絡めたことがあった。

 その瞬間、シモンは私の手首を折らんばかりの力で掴み、冷徹な声で言い放った。「余計な詮索をするな。お前はただ、俺の毒を飲み干していればいい」

 毒。彼は自らの情熱を、愛を、執着を、そう呼んだ。
 シモン・ローデンにとって、私という女は、高貴な令嬢に注ぐことのできない汚泥を捨てるための、贅沢なゴミ箱に過ぎなかったのだ。

 私は彼を愛していたわけではない。しかし、そのあまりに純粋で破壊的な絶望に、強く惹きつけられていた。
 彼の手に触れられると、心臓の奥がひりつくような感覚が走る。恐怖と陶酔が混じる、決して他人には理解されない感覚だった。

 それでも、彼は時折寝言のように「メル……」という名を漏らした。メルローズ。あの子爵家の少女。お茶会で見る限り、確かに可憐で無垢な少女。しかし、彼女が彼を狂わせるほどの毒を持つようには見えなかった。無知ゆえの清らかさが、シモンにとっては最も破滅的な魅力だったのだろう。

「可哀想な子」私は思った。こんな恐ろしい男に執着され、魂を削られるような愛を注がれている。彼女の清らかさは、シモンのような男にとって、最も残酷な毒薬でしかないのに。

 王都の夜会でも、私は妖艶さを武器に振る舞った。舞踏会の照明に照らされ、柔らかく動くドレスの裾、指先の優雅な動き、微笑みの角度一つで、男たちは群がる。だが、シモンは違った。周囲の令嬢や貴族たちを軽く牽制するかのように私の傍に立つ。視線を逸らせば、私の心臓が跳ねる。

 他の男が近づくと、彼の腕は自然と私を絡めとり、彼の胸に引き寄せる。耳元で低く囁く声——「俺の目から逸れるな」——その一言で、社交界の喧騒が消え、世界は二人だけのものになる。今ならわかる。あれは、メルローズ嬢を思っての行動。酔ったシモンにとって、私がメルローズ嬢に見えていたのかもしれない。

 シモンの結婚前、私は賭けに出た。女としてのプライドをかけ、タイピンを持ち出し、彼を揺さぶろうとした。
『……余計な詮索はするなと言ったはずだが……』
 シモンの声、瞳——飢えも嫌悪もなく、ただメルローズという光を汚す私という不浄への、完璧な拒絶だけがあった。

 暖炉に投げ込まれたタイピン。炎に溶けていく貴金属を見つめ、私は理解した。私は、彼の物語における「悪役」ですらなかったのだ。彼が最愛の女を「清らかなまま」に置くため、自らの汚れを預けた、はけ口。——それが私だった。


 王都を離れた今、私は地方の小さな街で、静かな生活を送っている。時折、王都から流れてくる「ローデン伯爵夫妻の溺愛ぶり」を耳にする。噂では、シモンはメルローズに対して過保護なほどの愛を注ぎ、周囲の男たちを寄せつけないという。

 その噂を聞くたびに、奇妙な解放感と羨望が胸に広がる。あの男の毒を飲み干せるのは、やはりメルローズだけなのだ。私のような「遊び慣れた女」では、彼の執念に耐えきれず、壊れていただろう。

 王都での過去の恋愛が、ふと胸裏に浮かぶ。
 
 若くして未亡人となった私は、生き延びるため、社交界で男たちを手玉に取ってきた。彼らは私を愛していたわけではない。ただ色香に惹かれ、駒として差し出された存在だった。私もまた、彼らを利用し、地位と財を守っていただけにすぎない。

 ある侯爵家の令息は、私の腕に触れるたび熱を帯び、舞踏のたびに甘い言葉を囁いた。だがその言葉は、空虚な音でしかなかった。夜ごとの孤独を埋めるための手段にすぎず、心の奥では誰ひとり愛せなかった。

 けれど、シモンだけは違った。彼は私を汚れた器として扱いながらも、最愛の光を守るため、決して越えてはならぬ一線を示した。愛に飢えながらも暴走を許さぬ、その冷徹さこそが、私の心を強く揺さぶった。

 静かな庭で花を摘むたび、王都の夜会の光景がよみがえる。社交界の喧騒、男たちの欲望、そしてシモンの独占的な瞳――。それらはすべて過去となり、今はただ、胸に淡く残る影のようなものだった。

「……ふふ。お幸せに、シモン様」

 鏡の前で、もう若くはない自分の顔に紅を引く。器の底に残った毒は、淡い追憶の香りへと変わっていた。

 窓の外には冬の月が冷たく輝く。かつて彼が私の寝室で見つめていたのは、この冷たい月のような、彼女の瞳だったのだろう。

 私は静かに明かりを消し、独り、眠りについた。
______________

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