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花の名を持つ妹
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アリアドネが十歳の時、ラッセル侯爵家に、王家からお茶会への招待状が届いた。
ナザレア王家には、十七歳になる王太子エイドリアンのほか、十三歳の第二王子ルードヴィヒ、そしてアリアドネと同じ十歳の第三王子マクシミリアンがいる。
今回のお茶会は、おそらく第三王子マクシミリアン殿下の婚約者候補となる、年頃の令嬢たちを集めたものなのだろう。
「アリアドネ、王子様と結婚したい?」
「うん! だって、絵本のお姫様はみんな、王子様と『お城で幸せに暮らしましたとさ』で終わるのよ!」
愛娘の無邪気な笑顔に、母カトリーヌの顔にも自然と笑みが浮かんだ。
「ふふ、そうね。アリアドネは王子様に憧れているのね」
そう言ってから、カトリーヌは少しだけ表情を改め、穏やかな声で続けた。
「でもね、アリアドネ。あなたはラッセル侯爵家の大切な跡取りだから、王子様と結婚しても、お城には住めないのよ。王子様が、ラッセル侯爵家にお婿さんとして来てくださるの。わかる?」
「いいわ!だって、お母様たちと、ずっと一緒ということでしょう。それに、王子様とも一緒だなんて、とても素敵だわ」
アリアドネは、お茶会の前日に母と交わしたこの会話を、ふと思い出していた。
将来を夢見る、幸せな女の子だった頃の自分。
そして、マクシミリアン王子と初めて会った、あの日のことを――。
お茶会当日、王宮の庭園は賑わっていた。
婚約者候補となる上位貴族の十歳前後の令嬢たちを中心に、マクシミリアン殿下の側近候補である令息たちも集まっていた。
みな、同伴の夫人に付き添われ、少し緊張した面持ちで着飾って列席している。
もちろん、アリアドネも母カトリーヌとともに、挨拶の順番を待ちながら列に並んでいた。
(うわあ……! お友達がたくさんできそう! みなさまとお話ししたい!)
アリアドネの胸は高鳴っていた。
婚約者候補になりたいという気持ちよりも、まずは友達を作りたい――少女らしい純粋な願いが、心を占めていた。
順番が回ってきて、アリアドネは初めて、ナザレア王家のアレクサンドロ陛下、エスメラルダ王妃、そして三人の王子たちに挨拶する機会を得た。
金色の髪に青い瞳、堂々たる立ち居振る舞い……王族はまさに絵本そのものの美しさで、アリアドネは息を飲む。
(王家の皆さまは、絵本のよう……!)
その視線は、自然と小指に向かった。
王と王妃の小指の赤い糸は、きれいに結ばれ、リボンのようにぴったりと絡み合っている。
アリアドネの心に、嬉しさがじんわりと広がる。
――その瞬間、自分の小指に違和感が走った。
ふわり、と赤い糸が風に揺れるように動く。
アリアドネの小指から伸びる赤い糸は、マクシミリアン殿下の小指に、くっつき、離れ、またくっつき……そよいでいる。
(えっ……! 私の運命の相手は、マクシミリアン殿下……なの!? 見つけた!)
胸の奥で、少しだけ痛みが走る。
この感覚は、以前母から聞いた話と同じ――赤い糸を見る者だけが味わう、不思議で、切ない予感。
アリアドネは、自分が“見える者”であることを、改めて自覚した。
――この力は祝福でも罰でもなく、ただ運命を示すだけ。
でも、相手に意味が伝わるわけではない。誤解も生まれるし、時には傷つけることさえあるのだ、と。
それでも、アリアドネは自然に、にっこりと王子に笑いかけた。
だが、マクシミリアンの視線は冷たく、表情は硬いままだった。
(……あれ? もしかして、私の笑顔、勘違いされてる……?)
胸の高鳴りと、ほんの少しの切なさを抱えたまま、アリアドネは深く息を吸い込む。
赤い糸が見える者として生きる――その宿命を、少しずつ、彼女は受け入れ始めていた。
王家への挨拶を終えると、アレクサンドロ陛下から言葉があった。
「今日は、我が息子、マクシミリアン第三王子のためのお茶会に参加してくれてありがたい。同世代の者同士、楽しく交流し、親交を深めてほしい」
その言葉を合図に、周囲の空気が一変した。子息令嬢たちは積極的に動き出し、マクシミリアン殿下の周囲には張り詰めた緊張感が漂う。
十歳前後の子息子女でありながら、彼らは家門の代表としての責任を背負っていた。
ただし、一部の令嬢たちは少し違った。
王子のさらさらの金色の髪と、きらきら輝く青い瞳。王子様然としたその姿と、「王子妃」という立場に心を奪われ、家のためというよりも、純粋な恋心を向けている少女たちもいた。
アリアドネは少し離れた卓に腰掛け、静かにその様子を眺める。
視線を下ろすと、自分の小指から伸びる赤い糸が、マクシミリアン殿下の糸にふわりと触れ、そよいでいるのが見えた。
(……やっぱり、わたしの赤い糸は、マクシミリアン殿下と……)
赤い糸は、周囲の誰にも見えない。
それでも、アリアドネには分かる。周囲の令嬢たちの赤い糸は、王子の小指に届かず、まだ宙を漂っていることも。
そして、王子の糸もまた、アリアドネの小指にふわふわと触れながら、離れ、揺れている。
( 赤い糸は嘘をつかない……)
胸の奥に、少しの誇らしさと、ほんのわずかな切なさが同時に広がる。
誰にも見えない糸が示す運命を、アリアドネは静かに受け止める――それが、自分に課せられた宿命なのだと。
( 綺麗……。赤い糸が、あちらこちらへ伸びていくわ。すごい……こんなにたくさんの糸の束を見るのは、初めて……)
アリアドネが見つめていたのは、マクシミリアン王子でも、周囲を取り囲む子息子女でもない。
天へと向かって伸びる、無数の赤い糸の束だった。
ひとり離れた卓に座り、天を仰ぐようにしている美しい少女の姿は、マクシミリアン王子の目を引いた。
多くの子息子女に囲まれ、表面だけの笑顔で当たり障りのない会話を続けながらも、マクシミリアンの視線は、いつしかアリアドネを捉えていた。
( 彼女は、僕に興味がないのか?それとも、第三王子を軽んじているのか?さっきは、笑顔だったのに……)
こうして、アリアドネの預かり知らぬところで、小さなすれ違いは、すでに生まれていた。
「アリアドネ。マクシミリアン殿下は、どんな方だったんだい?」
ラッセル侯爵家に戻ったアリアドネは、両親とお茶を囲みながら、今日のお茶会の様子を父ウォルターに報告していた。
「うーん……ご挨拶はしたけれど、マクシミリアン殿下は、参加者の皆さまに囲まれていて、お話はできなかったわ。それに、お友達も見つけられなかったの。せっかく、たくさんお友達を作ろうと思っていたのに!」
婚約者になることよりも友達作りを優先する娘の様子に、ラッセル侯爵夫妻は顔を見合わせ、苦笑した。
「アリお姉様、お帰りなさい!王子様は素敵な方だった? お城は立派だった?」
待ちかねたように、妹のフローラが駆け込んでくる。
「こらこら、フローラ。お行儀が悪いよ。八歳でも、立派なレディだろう?」
父ウォルターに茶化すようにたしなめられ、フローラは肩をすくめて俯いた。
「ごめんなさい……アリお姉様がお帰りになったと聞いて、嬉しくって……」
「フローラ、ただいま。王子様はとても素敵な方々だったわよ。お城も豪華で大きかったわ」
その言葉に、フローラの可愛らしい顔がぱっと明るい笑顔に包まれた。
フローラは桃色の髪に、垂れ目がちの翠の瞳をした愛らしい少女で、アリアドネより二つ年下のラッセル侯爵家の次女である。
赤い髪を持つアリアドネは、生まれながらに重荷を背負う者の印を宿していた。
ラッセル侯爵家の赤髪の女性だけが代々受け継ぎ、決して口にしてはならない不思議な力――《赤い糸を見る者》である。
一方、桃色の髪のフローラは、《何も知らず、祝福される者》だった。
家に伝わる力を知らず、家族に愛され、周囲から可愛がられ、その名の通り、花のような笑顔で育つ。
最近になって、アリアドネは気づいた。
――宿命を背負わず、自由に生きる妹の姿が、心のどこかで眩しく映っていることに。
それでも、守りたいと思うのは――その笑顔が、いつまでも曇らずにいてほしいからだ。
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ナザレア王家には、十七歳になる王太子エイドリアンのほか、十三歳の第二王子ルードヴィヒ、そしてアリアドネと同じ十歳の第三王子マクシミリアンがいる。
今回のお茶会は、おそらく第三王子マクシミリアン殿下の婚約者候補となる、年頃の令嬢たちを集めたものなのだろう。
「アリアドネ、王子様と結婚したい?」
「うん! だって、絵本のお姫様はみんな、王子様と『お城で幸せに暮らしましたとさ』で終わるのよ!」
愛娘の無邪気な笑顔に、母カトリーヌの顔にも自然と笑みが浮かんだ。
「ふふ、そうね。アリアドネは王子様に憧れているのね」
そう言ってから、カトリーヌは少しだけ表情を改め、穏やかな声で続けた。
「でもね、アリアドネ。あなたはラッセル侯爵家の大切な跡取りだから、王子様と結婚しても、お城には住めないのよ。王子様が、ラッセル侯爵家にお婿さんとして来てくださるの。わかる?」
「いいわ!だって、お母様たちと、ずっと一緒ということでしょう。それに、王子様とも一緒だなんて、とても素敵だわ」
アリアドネは、お茶会の前日に母と交わしたこの会話を、ふと思い出していた。
将来を夢見る、幸せな女の子だった頃の自分。
そして、マクシミリアン王子と初めて会った、あの日のことを――。
お茶会当日、王宮の庭園は賑わっていた。
婚約者候補となる上位貴族の十歳前後の令嬢たちを中心に、マクシミリアン殿下の側近候補である令息たちも集まっていた。
みな、同伴の夫人に付き添われ、少し緊張した面持ちで着飾って列席している。
もちろん、アリアドネも母カトリーヌとともに、挨拶の順番を待ちながら列に並んでいた。
(うわあ……! お友達がたくさんできそう! みなさまとお話ししたい!)
アリアドネの胸は高鳴っていた。
婚約者候補になりたいという気持ちよりも、まずは友達を作りたい――少女らしい純粋な願いが、心を占めていた。
順番が回ってきて、アリアドネは初めて、ナザレア王家のアレクサンドロ陛下、エスメラルダ王妃、そして三人の王子たちに挨拶する機会を得た。
金色の髪に青い瞳、堂々たる立ち居振る舞い……王族はまさに絵本そのものの美しさで、アリアドネは息を飲む。
(王家の皆さまは、絵本のよう……!)
その視線は、自然と小指に向かった。
王と王妃の小指の赤い糸は、きれいに結ばれ、リボンのようにぴったりと絡み合っている。
アリアドネの心に、嬉しさがじんわりと広がる。
――その瞬間、自分の小指に違和感が走った。
ふわり、と赤い糸が風に揺れるように動く。
アリアドネの小指から伸びる赤い糸は、マクシミリアン殿下の小指に、くっつき、離れ、またくっつき……そよいでいる。
(えっ……! 私の運命の相手は、マクシミリアン殿下……なの!? 見つけた!)
胸の奥で、少しだけ痛みが走る。
この感覚は、以前母から聞いた話と同じ――赤い糸を見る者だけが味わう、不思議で、切ない予感。
アリアドネは、自分が“見える者”であることを、改めて自覚した。
――この力は祝福でも罰でもなく、ただ運命を示すだけ。
でも、相手に意味が伝わるわけではない。誤解も生まれるし、時には傷つけることさえあるのだ、と。
それでも、アリアドネは自然に、にっこりと王子に笑いかけた。
だが、マクシミリアンの視線は冷たく、表情は硬いままだった。
(……あれ? もしかして、私の笑顔、勘違いされてる……?)
胸の高鳴りと、ほんの少しの切なさを抱えたまま、アリアドネは深く息を吸い込む。
赤い糸が見える者として生きる――その宿命を、少しずつ、彼女は受け入れ始めていた。
王家への挨拶を終えると、アレクサンドロ陛下から言葉があった。
「今日は、我が息子、マクシミリアン第三王子のためのお茶会に参加してくれてありがたい。同世代の者同士、楽しく交流し、親交を深めてほしい」
その言葉を合図に、周囲の空気が一変した。子息令嬢たちは積極的に動き出し、マクシミリアン殿下の周囲には張り詰めた緊張感が漂う。
十歳前後の子息子女でありながら、彼らは家門の代表としての責任を背負っていた。
ただし、一部の令嬢たちは少し違った。
王子のさらさらの金色の髪と、きらきら輝く青い瞳。王子様然としたその姿と、「王子妃」という立場に心を奪われ、家のためというよりも、純粋な恋心を向けている少女たちもいた。
アリアドネは少し離れた卓に腰掛け、静かにその様子を眺める。
視線を下ろすと、自分の小指から伸びる赤い糸が、マクシミリアン殿下の糸にふわりと触れ、そよいでいるのが見えた。
(……やっぱり、わたしの赤い糸は、マクシミリアン殿下と……)
赤い糸は、周囲の誰にも見えない。
それでも、アリアドネには分かる。周囲の令嬢たちの赤い糸は、王子の小指に届かず、まだ宙を漂っていることも。
そして、王子の糸もまた、アリアドネの小指にふわふわと触れながら、離れ、揺れている。
( 赤い糸は嘘をつかない……)
胸の奥に、少しの誇らしさと、ほんのわずかな切なさが同時に広がる。
誰にも見えない糸が示す運命を、アリアドネは静かに受け止める――それが、自分に課せられた宿命なのだと。
( 綺麗……。赤い糸が、あちらこちらへ伸びていくわ。すごい……こんなにたくさんの糸の束を見るのは、初めて……)
アリアドネが見つめていたのは、マクシミリアン王子でも、周囲を取り囲む子息子女でもない。
天へと向かって伸びる、無数の赤い糸の束だった。
ひとり離れた卓に座り、天を仰ぐようにしている美しい少女の姿は、マクシミリアン王子の目を引いた。
多くの子息子女に囲まれ、表面だけの笑顔で当たり障りのない会話を続けながらも、マクシミリアンの視線は、いつしかアリアドネを捉えていた。
( 彼女は、僕に興味がないのか?それとも、第三王子を軽んじているのか?さっきは、笑顔だったのに……)
こうして、アリアドネの預かり知らぬところで、小さなすれ違いは、すでに生まれていた。
「アリアドネ。マクシミリアン殿下は、どんな方だったんだい?」
ラッセル侯爵家に戻ったアリアドネは、両親とお茶を囲みながら、今日のお茶会の様子を父ウォルターに報告していた。
「うーん……ご挨拶はしたけれど、マクシミリアン殿下は、参加者の皆さまに囲まれていて、お話はできなかったわ。それに、お友達も見つけられなかったの。せっかく、たくさんお友達を作ろうと思っていたのに!」
婚約者になることよりも友達作りを優先する娘の様子に、ラッセル侯爵夫妻は顔を見合わせ、苦笑した。
「アリお姉様、お帰りなさい!王子様は素敵な方だった? お城は立派だった?」
待ちかねたように、妹のフローラが駆け込んでくる。
「こらこら、フローラ。お行儀が悪いよ。八歳でも、立派なレディだろう?」
父ウォルターに茶化すようにたしなめられ、フローラは肩をすくめて俯いた。
「ごめんなさい……アリお姉様がお帰りになったと聞いて、嬉しくって……」
「フローラ、ただいま。王子様はとても素敵な方々だったわよ。お城も豪華で大きかったわ」
その言葉に、フローラの可愛らしい顔がぱっと明るい笑顔に包まれた。
フローラは桃色の髪に、垂れ目がちの翠の瞳をした愛らしい少女で、アリアドネより二つ年下のラッセル侯爵家の次女である。
赤い髪を持つアリアドネは、生まれながらに重荷を背負う者の印を宿していた。
ラッセル侯爵家の赤髪の女性だけが代々受け継ぎ、決して口にしてはならない不思議な力――《赤い糸を見る者》である。
一方、桃色の髪のフローラは、《何も知らず、祝福される者》だった。
家に伝わる力を知らず、家族に愛され、周囲から可愛がられ、その名の通り、花のような笑顔で育つ。
最近になって、アリアドネは気づいた。
――宿命を背負わず、自由に生きる妹の姿が、心のどこかで眩しく映っていることに。
それでも、守りたいと思うのは――その笑顔が、いつまでも曇らずにいてほしいからだ。
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