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完璧な婚約者と、美しき毒婦
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鏡の中に映る自分は、どこまでも無機質な人形のようだった。
オードリー・ダグラスは、十七歳の誕生日に贈られた絹のドレスをなで、小さく溜息をつく。ダグラス伯爵家の長女として、何不自由なく育ってきたはずだった。亡き母キャサリンの面影を継いだ金色の髪と、アイゼル公爵家の血を引く気品。
そして、十歳の頃から定められた、完璧な婚約者――レオン・チャーチル。
「オードリー、準備はいいかい? 今日は君のために特別な薔薇を用意したんだ」
控えめに扉を叩いて現れたのは、金髪に若草色の瞳を持つ美貌の貴公子、レオンだった。チャーチル侯爵家の次男であり、学園でも一、二を争う秀才。彼は優雅な所作でオードリーの手を取り、その甲に熱い唇を落とす。
かつての彼女なら、この仕草に胸を躍らせていただろう。けれど、今のオードリーの胸に去来するのは、正体の知れない薄ら寒い違和感だった。
「……ありがとうございます、レオン様。いつもお優しいのですね」
「当然だろう? 君は僕の未来の妻だ。君を大切にしない男など、この世にいないよ」
レオンの言葉は甘く、完璧だ。しかし、その瞳がふとした瞬間に向く先を、オードリーは知っている。
二人で談話室へ降りると、そこには父カイルと、継母のジャニス、そして義妹のバネッサが待っていた。
三年前、母を亡くして失意の底にいた父が連れてきたジャニスは、三十三歳という年齢を感じさせない妖艶な美女だった。若作りの黒髪を高く結い上げ、オリーブ色の瞳を濡らして微笑む姿は、男たちの庇護欲と独占欲を同時にかき乱す。
「あら、レオン様。今日もオードリーのためにいらしてくださったのね。なんて素敵な紳士かしら」
ジャニスが扇の間から吐息を漏らす。その視線が、わずかにレオンの首筋を這った。
オードリーは見た。レオンの喉仏が、一瞬だけ艶めかしく動くのを。
「ジャニス殿、お変わりなくお美しい。伯爵がお羨ましい限りです」
「まあ、お上手。……カイル様、お聞きになって? この若さで、こんなに女性を喜ばせるのがお上手なんて。オードリーには勿体ないくらいだわ」
ジャニスは夫であるカイルの腕にしなだれかかりながら、挑発的な笑みをオードリーに向けた。
三十六歳になる父カイルは、いまだ衰えぬ美貌を崩し、鼻の下を伸ばしてジャニスの肩を抱き寄せている。
「ははは、ジャニス。レオン君を困らせるものではないよ。だが確かに、彼は優秀だ。我がダグラス家にとっても、これ以上の婿はいない」
父の目は、ジャニスに奪われている。
母キャサリンが亡くなった時、あんなに泣いていた父はどこへ行ったのか。母の兄であるエドワード伯父様――アイゼル公爵が「オードリー、何かあればいつでも私の元へ来なさい」と案じてくれていた言葉が、今の彼女にとって唯一の救いだった。
「お姉様、そんなに顔を強張らせなくても、レオン様は逃げたりしませんわ」
十五歳の義妹バネッサが、くすくすと笑いながら割り込んできた。
ジャニスに似た黒髪だが、瞳の色はヘーゼル――。その瞳に、かつて父の友人であったゴードン伯爵の面影を見た者は少なくない。
だが、バネッサが纏う空気は、十五歳とは思えぬほどに湿り気を帯び、男を誘う色気に満ちていた。
「バネッサ、レオン様を困らせてはいけませんよ」
「だってお姉様、レオン様が退屈そうにしていらしたから」
バネッサは、わざとらしくレオンの袖に指先を触れさせた。
オードリーの婚約者であることを知りながら、隠そうともしない不敵な振る舞い。
レオンはそれを拒まない。拒むどころか、オードリーには見せないような、熱を孕んだ視線を一瞬だけバネッサに返した。
食卓を囲む五人。
一見すれば、美男美女が揃った絵画のような伯爵家の風景。
けれど、その内側では、腐った果実のような臭いが立ち込め始めていた。
(何かが、壊れていく……)
オードリーは震える手でティーカップを握りしめた。
この時、彼女はまだ知らなかった。
敬愛する父が盲信している継母が、そして完璧だと信じていた婚約者が、自分をどれほど深く、おぞましい裏切りの淵へと突き落とすことになるのかを。
その日の深夜。
喉の渇きを覚えて部屋を出たオードリーは、月明かりの差し込む廊下で、見てはならない影を目撃することになる。
___________
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オードリー・ダグラスは、十七歳の誕生日に贈られた絹のドレスをなで、小さく溜息をつく。ダグラス伯爵家の長女として、何不自由なく育ってきたはずだった。亡き母キャサリンの面影を継いだ金色の髪と、アイゼル公爵家の血を引く気品。
そして、十歳の頃から定められた、完璧な婚約者――レオン・チャーチル。
「オードリー、準備はいいかい? 今日は君のために特別な薔薇を用意したんだ」
控えめに扉を叩いて現れたのは、金髪に若草色の瞳を持つ美貌の貴公子、レオンだった。チャーチル侯爵家の次男であり、学園でも一、二を争う秀才。彼は優雅な所作でオードリーの手を取り、その甲に熱い唇を落とす。
かつての彼女なら、この仕草に胸を躍らせていただろう。けれど、今のオードリーの胸に去来するのは、正体の知れない薄ら寒い違和感だった。
「……ありがとうございます、レオン様。いつもお優しいのですね」
「当然だろう? 君は僕の未来の妻だ。君を大切にしない男など、この世にいないよ」
レオンの言葉は甘く、完璧だ。しかし、その瞳がふとした瞬間に向く先を、オードリーは知っている。
二人で談話室へ降りると、そこには父カイルと、継母のジャニス、そして義妹のバネッサが待っていた。
三年前、母を亡くして失意の底にいた父が連れてきたジャニスは、三十三歳という年齢を感じさせない妖艶な美女だった。若作りの黒髪を高く結い上げ、オリーブ色の瞳を濡らして微笑む姿は、男たちの庇護欲と独占欲を同時にかき乱す。
「あら、レオン様。今日もオードリーのためにいらしてくださったのね。なんて素敵な紳士かしら」
ジャニスが扇の間から吐息を漏らす。その視線が、わずかにレオンの首筋を這った。
オードリーは見た。レオンの喉仏が、一瞬だけ艶めかしく動くのを。
「ジャニス殿、お変わりなくお美しい。伯爵がお羨ましい限りです」
「まあ、お上手。……カイル様、お聞きになって? この若さで、こんなに女性を喜ばせるのがお上手なんて。オードリーには勿体ないくらいだわ」
ジャニスは夫であるカイルの腕にしなだれかかりながら、挑発的な笑みをオードリーに向けた。
三十六歳になる父カイルは、いまだ衰えぬ美貌を崩し、鼻の下を伸ばしてジャニスの肩を抱き寄せている。
「ははは、ジャニス。レオン君を困らせるものではないよ。だが確かに、彼は優秀だ。我がダグラス家にとっても、これ以上の婿はいない」
父の目は、ジャニスに奪われている。
母キャサリンが亡くなった時、あんなに泣いていた父はどこへ行ったのか。母の兄であるエドワード伯父様――アイゼル公爵が「オードリー、何かあればいつでも私の元へ来なさい」と案じてくれていた言葉が、今の彼女にとって唯一の救いだった。
「お姉様、そんなに顔を強張らせなくても、レオン様は逃げたりしませんわ」
十五歳の義妹バネッサが、くすくすと笑いながら割り込んできた。
ジャニスに似た黒髪だが、瞳の色はヘーゼル――。その瞳に、かつて父の友人であったゴードン伯爵の面影を見た者は少なくない。
だが、バネッサが纏う空気は、十五歳とは思えぬほどに湿り気を帯び、男を誘う色気に満ちていた。
「バネッサ、レオン様を困らせてはいけませんよ」
「だってお姉様、レオン様が退屈そうにしていらしたから」
バネッサは、わざとらしくレオンの袖に指先を触れさせた。
オードリーの婚約者であることを知りながら、隠そうともしない不敵な振る舞い。
レオンはそれを拒まない。拒むどころか、オードリーには見せないような、熱を孕んだ視線を一瞬だけバネッサに返した。
食卓を囲む五人。
一見すれば、美男美女が揃った絵画のような伯爵家の風景。
けれど、その内側では、腐った果実のような臭いが立ち込め始めていた。
(何かが、壊れていく……)
オードリーは震える手でティーカップを握りしめた。
この時、彼女はまだ知らなかった。
敬愛する父が盲信している継母が、そして完璧だと信じていた婚約者が、自分をどれほど深く、おぞましい裏切りの淵へと突き落とすことになるのかを。
その日の深夜。
喉の渇きを覚えて部屋を出たオードリーは、月明かりの差し込む廊下で、見てはならない影を目撃することになる。
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