『妻は飾り、義母は遊び、義妹は暇つぶし』──そう言った男を、北方の獅子が許すはずもなく

恋せよ恋

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月下の毒、あるいは甘い罠

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 深夜の伯爵邸は、静寂という名の怪物に支配されていた。

 オードリーは寝つけず、冷たい水を求めて自室を出た。手にした燭台の灯りが、壁に飾られた歴代当主の肖像画を不気味に浮かび上がらせる。

(……気のせいかしら)

 ふと、一階のサロンの方から、微かな衣擦れの音と、押し殺したような吐息が聞こえた気がした。

 泥棒、という言葉が脳裏をよぎる。ダグラス伯爵邸の警備は厳重だが、万が一ということもある。オードリーは恐怖を抑え、音のした方へと足を進めた。

 サロンの重厚な扉が、わずかに開いている。
 隙間から漏れ出すのは、月明かりと……むせ返るような、ジャニスの香水の匂いだ。

 オードリーは息を呑み、吸い寄せられるように隙間から中を覗き込んだ。

「……っ、そんな、嘘よ」

 そこにあったのは、悪夢ですら見たくない光景だった。

 月光に照らされたソファの上で、絡み合う二つの影。

 一人は、緩く解かれた黒髪を波打たせ、淫らな声を漏らす義母ジャニス。そして、その白い肌に顔を埋めているのは――昼間、オードリーに愛を囁いたはずの、レオンだった。

「ああ……レオン、貴方はなんて恐ろしい子なの……。昼間はあんなに澄ました顔をして、私の継娘を侍らせているくせに」

「……ジャニス、君こそ。伯爵の前では貞淑な妻を演じて、僕を誘ったのは君だろう?」

 レオンの声は、オードリーが知る甘く穏やかなものではなかった。獲物を屠る獣のような、低く、欲望に濁った声。

 チャーチル侯爵家の次男として、家督を継げぬ身分ゆえにダグラス家へ婿入りする。その「真面目で優秀な嫡男の控え」という仮面の下に、これほどまでの醜悪さを隠していたのか。

「オードリーはまだ十七。あんな子供に、男の悦びなんて分かりはしないわ。ねえ、私に、もっと……」

「分かっている。君を満足させられるのは、僕だけだ」

 二人の唇が重なる音。布が床に落ちる音。

 オードリーは口を両手で覆い、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。

 心臓が早鐘を打ち、胃の底から熱い塊がせり上がってくる。

 十七歳の少女にとって、それはあまりにも過剰で、あまりにも汚らわしい現実だった。

 逃げるようにその場を離れ、自室へ駆け込んだオードリーは、扉に鍵をかけ、暗闇の中でガタガタと震えた。

 脳裏に焼き付いて離れないのは、レオンがジャニスに向けていた、陶酔しきった瞳。

 そして、実の娘ほども歳の離れた少年を、悦楽の道具として扱う義母の歪んだ笑み。

(お父様……。お父様は、これを知っているの?)

 翌朝、食堂に現れたオードリーの顔は、死人のように蒼白だった。

 そこには、何事もなかったかのように朝食を摂るカイルと、艶やかな肌で微笑むジャニス、そして――。

「おはよう、オードリー。顔色が悪いようだが、よく眠れなかったのかい?」

 いつものように、完璧な婚約者の顔をしたレオンが座っていた。
 彼は昨夜、あんなに汚れた行為をしていたことなど微塵も感じさせない、涼やかな笑みを浮かべている。

「……ええ。少し、悪い夢を見ただけですわ」

 オードリーは声を振り絞った。視界に入るレオンの指先が、昨夜ジャニスの肌を愛撫していたことを思い出し、吐き気がこみ上げる。

「まあ、悪い夢? 可哀想に。お父様に甘えればよろしいのにね、オードリー」

 ジャニスが優雅に紅茶を啜りながら、形の良い唇を歪めた。その視線は、勝ち誇ったようにオードリーを射抜いている。まるで、「私は貴方のすべてを奪えるのよ」と告げているかのように。

「……失礼いたします。少し風に当たってまいりますわ」

 たまらず席を立ったオードリーは、庭園へと逃げ出した。

 太陽の光ですら、今の自分には眩しすぎて痛い。

 美しい庭園の片隅、薔薇の影。そこで彼女は、さらなる絶望の予感に直面することになる。

「あら、レオン様。お姉様なら、あちらの東屋へ行きましたわよ」

 聞き覚えのある、甘ったるい声。
 バネッサだ。

 彼女は、レオンが自分の方へ歩いてくるのを見計らい、わざとらしく転ぶふりをして、彼の胸の中に飛び込んだ。

「おっと、危ないよ、バネッサ」

「ふふ、受け止めてくださると思っていましたわ」
 バネッサのヘーゼルの瞳が、挑発的に光る。

 レオンの手が、バネッサの細い腰を引き寄せた。その目は、ジャニスと密会していた時と同じ、暗い欲望を宿している。

 オードリーは、震える脚で立ち尽くしていた。

 婚約者は、義母だけでは飽き足らず、義妹にまでその毒牙を伸ばそうとしている。

 この屋敷の中に、味方は一人もいない。

 母キャサリンが生きていた頃の、清らかで温かかったダグラス伯爵家は、もうどこにも存在しなかった。

(助けて……伯父様、パトリック様……!)

 彼女の脳裏に浮かんだのは、自分を愛してくれた亡き母の実家――アイゼル公爵家の面々の顔だった。
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