『妻は飾り、義母は遊び、義妹は暇つぶし』──そう言った男を、北方の獅子が許すはずもなく

恋せよ恋

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狂信の父、凍てつく心

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 その日の午後は、冬の訪れを予感させるような冷たい風が吹いていた。

 オードリーは、自室の窓辺で震えていた。昨夜目撃した義母ジャニスと婚約者レオンの密事、そして先ほど庭園で見たバネッサとレオンの密着。

 脳裏に焼き付いた淫らな光景が、毒のように全身を駆け巡る。

(お父様に、お伝えしなくては……)

 その一心で、オードリーは父カイルの執務室へと向かった。

 父は、母キャサリンが生きていた頃は、娘を「私の小さな宝物だ」と言って慈しんでくれた人だ。今の彼はジャニスに夢中だが、それでも目の前の不貞を、娘の婚約者が妻を汚しているという事実を知れば、正気に戻ってくれるはず。そんな淡い期待が、彼女の足を動かしていた。

 執務室の前に立つと、中から楽しげな笑い声が聞こえてきた。

「ふふ、カイル様。そんなに見つめられると、私、恥ずかしいわ」

「何を言うんだ、ジャニス。君の瞳はいつ見ても吸い込まれそうなほど美しい。君がこの屋敷に来てくれてから、私はようやく孤独から救われたのだよ」

 オードリーは扉を叩こうとした手を止め、唇を噛み締めた。

 孤独? 母を亡くした悲しみは、娘である自分と共に分かち合うものではなかったのか。母を愛していた記憶すら、ジャニスの妖艶な微笑みに上書きされてしまったというのか。

 意を決して、オードリーは扉をノックした。

「……お父様、オードリーです。お話ししたいことがございます」

 部屋に入ると、カイルはジャニスを膝に乗せんばかりの距離で座っていた。ジャニスはオードリーを見ると、勝ち誇ったような、それでいてどこか冷ややかな視線を一瞬だけ投げ、すぐに「しおらしい義母」の顔を作った。

「あら、オードリー。顔色が悪いけれど、まだ具合が良くないの?」

「……ジャニス様、席を外していただけませんか。お父様と二人でお話ししたいのです」

 カイルが不機嫌そうに眉を寄せた。

「オードリー、礼儀を失してはいけない。ジャニスは私の妻であり、お前の母なのだぞ。隠し事など必要ない」

「ですが……!」

「言いなさい。何があった」

 オードリーは、震える拳を握りしめ、父の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「昨夜、見てしまったのです。……サロンで、レオン様とジャニス様がご一緒のところを。そして、お二人が、あろうことか男女の仲にあることを……っ!」

 室内が、凍りついたような静寂に包まれた。

 カイルの表情が、驚愕から、次第に険しいものへと変わっていく。

 隣でジャニスが「あら……」と小さく声を上げ、ハンカチを口元に当てた。

「お父様、信じてください。それだけではありません。レオン様は今日、庭園でバネッサとも……! 彼は、ダグラス伯爵家に婿入りする身でありながら、お二人を……」

「黙れ!!」

 カイルが机を叩いた。凄まじい音に、オードリーの肩が跳ねる。

「……お父様?」

「オードリー、お前がそこまで嫉妬深く、卑劣な娘だとは思わなかったぞ。ジャニスが、レオン君と? 何を馬鹿なことを。彼は、学園でも品行方正で知られるチャーチル侯爵家の次男だ。そしてジャニスは、私を心から愛してくれている」

 カイルの瞳には、怒りと軽蔑が混じっていた。

「レオン様は、君との将来のために、ジャニスに『義母としての心得』を相談していただけだと聞いている。夜更けになったのは、熱心に話し込んでしまったからだろう。それを、不貞だなどと……。自分の不出来を棚に上げて、義母と婚約者を貶めるとは!」

「違います、私は、確かにこの目で……」

「見間違いだろう! あるいは、継母であるジャニスを追い出したいがための作り話か」

 カイルの言葉は、オードリーの心を鋭く切り裂いた。

 隣で、ジャニスがすすり泣くふりをする。

「カイル様、責めないでくださいな。私の努力が足りないのですわ。オードリーさんに、まだ新しい母として認めていただけていないのだわ……。ああ、悲しい……」

「ジャニス、君が謝ることはない。……オードリー、今すぐジャニスに謝罪し、自室で反省しなさい。しばらく外出は禁じる。レオン君との結婚を控え、情緒が不安定になっているようだが、これ以上家名を汚すような真似は許さん」

 オードリーの視界が、涙で歪んだ。

 何を言っても無駄だ。父は、ジャニスが放つ魔力のような魅力に完全に支配されている。真実よりも、彼女が囁く甘い嘘を信じている。

「……失礼いたします」

 オードリーは、絞り出すようにそれだけ言うと、逃げるように部屋を飛び出した。

 廊下を走りながら、胸の奥から込み上げる不快感に、何度も吐き気を催した。

 自分の家なのに、居場所がない。愛していたはずの父は、別の生き物になってしまった。信じていた婚約者は、醜い獣だった。

 自室へ戻る途中、階段の踊り場で、誰かが壁に寄りかかって待っていた。

 レオンだった。彼はオードリーが泣いているのを見て、冷笑を浮かべた。

「おや、オードリー。伯爵に泣きついたのかい? 困った人だ。僕たちはみんな、君のために最善を尽くしているというのに」

「……レオン様、よくもそんな白々しいことが言えますわね。ジャニス様とも、バネッサとも……汚らわしい」

 レオンは、オードリーの顎を強引に掴み、顔を近づけた。緑の瞳が、冷酷な光を放つ。

「汚らわしい? 貴族の男が遊びを知るのが、そんなに罪かい? 僕は君と結婚して、ダグラス家を支えてあげるんだよ。ジャニスは経験豊富な素晴らしい教師だし、バネッサは若くて刺激的だ。……君も、もう少し物分かりが良くなれば、愛してあげなくもないけれど?」

 オードリーは、その手を力一杯振り払った。もはや、ここには希望など欠片もない。

「……覚えていなさい、レオン。私は、貴方を決して許さない」

 強気な言葉とは裏腹に、彼女の心は孤独と絶望で、今にも砕けそうだった。

 その時、オードリーの脳裏に、優しく微笑む一人の青年が浮かんだ。
 従兄のパトリック・アイゼル。

(アイゼルに……母様の実家に、助けを求めることはできないかしら……)

 閉ざされた伯爵邸の中で、オードリーは密かに、外の世界への救いを求め始めた。
______________

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