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日本編 決別と旅立ち
現実逃避、あるいは戦略的撤退
短い別れを終え、私が最後に向かったのは、駅でも空港でもなく、一軒のイタリアンレストランだった。そこは、結婚式の後、友人たちを招いて披露宴の二次会を行うはずだった場所。
学生時代、私がアルバイトをしていた思い出の場所だ。就職してからも、健一との記念日や何でもない日のデートで、何度通ったか分からない。店長もスタッフも、私たちの九年間をずっと笑顔で見守ってくれていた。
ただ電話一本で、事務的にキャンセルを伝えて済ませるわけにはいかなかった。
ここは、九年という月日を共に積み重ね、自分のことのように結婚を喜んでくれたオーナーの佐藤さんへの礼儀として、挨拶を尽くすべき場所だと思ったからだ。
店の扉を開けると、懐かしいガーリックとオリーブオイルの香りが鼻をくすぐった。
「……佐藤さん、仕込みの時間にすみません」
事情を察した店長の顔は、言葉にならないほど痛ましげだった。私は頭を下げ、震える声で精一杯の謝罪を口にした。
「キャンセル料はもちろん、全額お支払いします。でも、それ以上に……大切な思い出の場所をこんな形で汚してしまって、本当にごめんなさい」
佐藤さんは何も責めず、ただ私の震える肩にそっと手を置いてくれた。
「すみれちゃん。君が悪いんじゃない」
その声は、これまで聞いたことがないほど低く、怒りに震えていた。
「……あんなに君を大切にしていたフリをして、土壇場で裏切るなんて。九年もそばにいて、君の誠実さを一番知っているはずの健一くんが……」
佐藤さんは、唇を噛み締め、言葉を絞り出した。
「いいかい、すみれちゃん。世の中、そんな悪い男ばかりじゃない。間違っても、自分が至らなかったなんて考えちゃダメだぞ!悪いのは、浮気をして君を傷つけた健一くん、ただ一人なんだからな」
佐藤さんは、私が差し出した封筒を押し戻した。
「キャンセル料なんて気にしなくていい。こんなの、君の新しい第一歩への餞別だ。……負けるな。……辛い時は、世界に出て気分転換するのもいいだろう。ただ、忘れないで。君を待っている僕たちがいることをね。いつ帰ってきたっていいんだよ。無理だけはしないように」
その真っ直ぐな優しさと、私の代わりに怒ってくれた佐藤さんの男気に、崩れそうになる心を必死で支えながら店を出た。
振り返ったレストランの看板が、涙で滲む。
健一が壊したのは私との関係だけじゃない。こんなふうに私たちを信じ、祝おうとしてくれた人たちの真心まで、彼は無造作に踏みにじったのだ。
(……ありがとうございます、佐藤さん。私、ちゃんと自分を幸せにしてみせます)
悲しみは、今、進むための静かな決意へと変わった。
私は颯爽と、やってきた列車の扉をくぐった。
これで、この街に残した未練はすべて断ち切った。
私は一人、新宿駅へと向かう。その途中で、新宿郵便局へと足を向けた。
ここから成田エクスプレスで成田空港へ向かう前に、最後にすべき「仕事」がある。私はカバンから厚みのある数通の封筒を取り出した。
宛先は、実家の両親、健一、そしてお世話になったウェディングプランナーの佐々木さん。それから、親しい数人の友人たち。さらに、二次会の幹事を快く引き受けてくれていた健一の親友・内藤君。
手紙の内容は、極めて事務的なものだ。
私が消えても事件性はないこと、すべては自分の明確な意思による行動であること、そして私を探さないでほしいということ。
もし健一が「彼女は情緒不安定になって失踪した」などと騒ぎ立てた時のために、私はあえて郵便局の窓口に向かった。受領記録が残る書留郵便。これが、私という存在が「正常な判断」のもとで「自発的に」退いたことを証明する、最強の法的・社会的保険になる。
行き先については一文字も触れていない。これは私からの最後通牒だ。
私が不在なのをいいことに、健一が自分に都合のいい嘘を並べて、私を「婚約破棄のショックで逃げ出した悪役」に仕立て上げる可能性は十分にある。関係者に真実を記した手紙を送ったのは、彼の身勝手な物語を未然に封じ込めるため。
それほどまでに、健一という男に対する信頼は、もはや塵の一粒すら残っていなかった。
窓口で手続きを終えた瞬間、私の過去が音を立てて切り離された。
郵便局を出て五分も歩けば、そこはもう巨大な新宿駅の人混みだ。数千もの人生が交差するこの場所で、私はただの「名前のない一人」へと戻っていく。
駅のコンコースを歩きながら、私は駅ビル内のデジタルデバイスショップに立ち寄った。
初期化した「彼とお揃い」の端末を返却し、全く別のメーカーの最新のスマートフォンを手に入れる。データを移行し、手動で承認する銀行アプリを確認する。店員に促されるまま、新しい電話番号とメールアドレスを設定した。旅先でスマホは命の綱だ。私は、事前にeSIMをインストールし、必要事項を確認した。
「……これで、よし」
私はスマートフォンの画面を見つめた。表示されているのは、昨夜予約した航空券の二次元コード。
私を知らない場所へ行くための、片道航空券。
健一との思い出を、自らの足で、自らの言葉で清算した今。私の心は、驚くほど軽かった。
(結婚式場のキャンセル料くらいは、健一に全額払ってもらってもいいよね。……ううん、絶対に払わせる!)
清々しいほどの怒りと解放感を胸に、私はやってきた山手線の扉をくぐった。
これで、これまでの私を知る人間が私に触れる手段は、物理的にもデジタル的にも完全に消失した。新しいスマホをバッグのサイドポケットに差し込み、私は成田エクスプレスのホームへと続くエスカレーターを下りていく。
背負ったバックパックが、これからの私の全財産だ。
二十八歳、独身、無職。
私は、明日、世界へ飛び出す。
___________
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学生時代、私がアルバイトをしていた思い出の場所だ。就職してからも、健一との記念日や何でもない日のデートで、何度通ったか分からない。店長もスタッフも、私たちの九年間をずっと笑顔で見守ってくれていた。
ただ電話一本で、事務的にキャンセルを伝えて済ませるわけにはいかなかった。
ここは、九年という月日を共に積み重ね、自分のことのように結婚を喜んでくれたオーナーの佐藤さんへの礼儀として、挨拶を尽くすべき場所だと思ったからだ。
店の扉を開けると、懐かしいガーリックとオリーブオイルの香りが鼻をくすぐった。
「……佐藤さん、仕込みの時間にすみません」
事情を察した店長の顔は、言葉にならないほど痛ましげだった。私は頭を下げ、震える声で精一杯の謝罪を口にした。
「キャンセル料はもちろん、全額お支払いします。でも、それ以上に……大切な思い出の場所をこんな形で汚してしまって、本当にごめんなさい」
佐藤さんは何も責めず、ただ私の震える肩にそっと手を置いてくれた。
「すみれちゃん。君が悪いんじゃない」
その声は、これまで聞いたことがないほど低く、怒りに震えていた。
「……あんなに君を大切にしていたフリをして、土壇場で裏切るなんて。九年もそばにいて、君の誠実さを一番知っているはずの健一くんが……」
佐藤さんは、唇を噛み締め、言葉を絞り出した。
「いいかい、すみれちゃん。世の中、そんな悪い男ばかりじゃない。間違っても、自分が至らなかったなんて考えちゃダメだぞ!悪いのは、浮気をして君を傷つけた健一くん、ただ一人なんだからな」
佐藤さんは、私が差し出した封筒を押し戻した。
「キャンセル料なんて気にしなくていい。こんなの、君の新しい第一歩への餞別だ。……負けるな。……辛い時は、世界に出て気分転換するのもいいだろう。ただ、忘れないで。君を待っている僕たちがいることをね。いつ帰ってきたっていいんだよ。無理だけはしないように」
その真っ直ぐな優しさと、私の代わりに怒ってくれた佐藤さんの男気に、崩れそうになる心を必死で支えながら店を出た。
振り返ったレストランの看板が、涙で滲む。
健一が壊したのは私との関係だけじゃない。こんなふうに私たちを信じ、祝おうとしてくれた人たちの真心まで、彼は無造作に踏みにじったのだ。
(……ありがとうございます、佐藤さん。私、ちゃんと自分を幸せにしてみせます)
悲しみは、今、進むための静かな決意へと変わった。
私は颯爽と、やってきた列車の扉をくぐった。
これで、この街に残した未練はすべて断ち切った。
私は一人、新宿駅へと向かう。その途中で、新宿郵便局へと足を向けた。
ここから成田エクスプレスで成田空港へ向かう前に、最後にすべき「仕事」がある。私はカバンから厚みのある数通の封筒を取り出した。
宛先は、実家の両親、健一、そしてお世話になったウェディングプランナーの佐々木さん。それから、親しい数人の友人たち。さらに、二次会の幹事を快く引き受けてくれていた健一の親友・内藤君。
手紙の内容は、極めて事務的なものだ。
私が消えても事件性はないこと、すべては自分の明確な意思による行動であること、そして私を探さないでほしいということ。
もし健一が「彼女は情緒不安定になって失踪した」などと騒ぎ立てた時のために、私はあえて郵便局の窓口に向かった。受領記録が残る書留郵便。これが、私という存在が「正常な判断」のもとで「自発的に」退いたことを証明する、最強の法的・社会的保険になる。
行き先については一文字も触れていない。これは私からの最後通牒だ。
私が不在なのをいいことに、健一が自分に都合のいい嘘を並べて、私を「婚約破棄のショックで逃げ出した悪役」に仕立て上げる可能性は十分にある。関係者に真実を記した手紙を送ったのは、彼の身勝手な物語を未然に封じ込めるため。
それほどまでに、健一という男に対する信頼は、もはや塵の一粒すら残っていなかった。
窓口で手続きを終えた瞬間、私の過去が音を立てて切り離された。
郵便局を出て五分も歩けば、そこはもう巨大な新宿駅の人混みだ。数千もの人生が交差するこの場所で、私はただの「名前のない一人」へと戻っていく。
駅のコンコースを歩きながら、私は駅ビル内のデジタルデバイスショップに立ち寄った。
初期化した「彼とお揃い」の端末を返却し、全く別のメーカーの最新のスマートフォンを手に入れる。データを移行し、手動で承認する銀行アプリを確認する。店員に促されるまま、新しい電話番号とメールアドレスを設定した。旅先でスマホは命の綱だ。私は、事前にeSIMをインストールし、必要事項を確認した。
「……これで、よし」
私はスマートフォンの画面を見つめた。表示されているのは、昨夜予約した航空券の二次元コード。
私を知らない場所へ行くための、片道航空券。
健一との思い出を、自らの足で、自らの言葉で清算した今。私の心は、驚くほど軽かった。
(結婚式場のキャンセル料くらいは、健一に全額払ってもらってもいいよね。……ううん、絶対に払わせる!)
清々しいほどの怒りと解放感を胸に、私はやってきた山手線の扉をくぐった。
これで、これまでの私を知る人間が私に触れる手段は、物理的にもデジタル的にも完全に消失した。新しいスマホをバッグのサイドポケットに差し込み、私は成田エクスプレスのホームへと続くエスカレーターを下りていく。
背負ったバックパックが、これからの私の全財産だ。
二十八歳、独身、無職。
私は、明日、世界へ飛び出す。
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