片道切符で異国を旅歩く 〜婚約者の浮気で結婚式が中止になりまして〜

恋せよ恋

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シンガポール編 七年前の思い出にさよなら

失われた味覚

  金融街の象徴である高層ビル群の影に隠れるようにして、その宿はあった。Raffles Place MRT Station ラッフルズ・プレイス駅から徒歩十分。かつての伝統的なショップハウスを改装したというそのカプセルホテル、『Capsule Space Female Only』は、シンガポールの近代的な風景の中で、そこだけ時間が止まったような古びた佇まいを見せている。

 昨今の近未来的なスリーピングポッドとは比べるべくもない、年季の入った設備。けれど、その分、一泊の料金は驚くほど安かった。女性専用フロアがあり、「節約」という冷徹な現実を優先した私は、迷うことなくここで一週間を過ごすことを決めた。九年間の執着を手放した今の私に、贅沢な空間など、むしろ毒にしかならない気がしたから。

「チェックイン、お願いします」

 慣れない英語で手続きを済ませ、案内されたのは女性専用フロア。ドアを開けると、そこには二段に積み上げられた白いプラスチック製の「箱」が整然と並んでいた。

 私が指定されたのは、下段のポッド。広さは畳一畳分ほどだろうか。大きなバックパックを広げるスペースすらない。荷物は専用のロック付きのロッカーに収納するようだ。

 九年間住んでいた、2LDKのマンションの寝室。二人で選んだダブルのベッドに、肌触りにこだわったリネンのシーツ。それらに比べれば、ここはあまりに無機質で、狭く、冷たい。

「……でも、今の私には、これくらいが丁度いいわ。どうせ、眠れないし……」

 ポッドの中に潜り込み、遮光ロールカーテンを下ろすと、そこは自分だけの完全な密室になった。四方を壁に囲まれたこの「箱」は、今の私にとって、傷ついた自分を隠しておくためのシェルターのようにも感じられた。


 翌朝、共有スペースに向かうと、宿泊客に無料で提供されているパンとコーヒーの香りが漂っていた。トースターで焼いた安価な食パン。少し焦げた香りが鼻をくすぐる。
 
 一口、口に運んでみる。……けれど、やっぱり、味を感じない。
 
 かつての私なら、パサついたパンの食感やコーヒーの苦味にも負けず、美味しく頂けていただろう朝食。でも今は、舌の上にあるものを飲み込むにも一苦労だ。浮気のショックで、私の味覚はどこか遠くへ消え去ってしまったようだ。

「食べなきゃ……体力が持たない」

 私は無心にパンを咀嚼し、ぬるくなったコーヒーで喉の奥へと流し込んでいく。
 
 ふと、窓の外に広がるシンガポールの青空が見えた。

 七年前、健一と泊まったビーチ沿いのホテル。眩しい光の中で食べた、あの豪華な朝食。ふわりとバターが香る、あの日最高に美味しかったはずのオムレツの味を、記憶の底から手繰り寄せようとする。

 けれど、いくら思い出そうとしても、意識はすぐに引き戻されてしまう。
 今、私の舌の上にあるのは、パサついて味のしない、白くて硬いパンの感触だけ。過去の鮮やかな色彩は、目の前の無機質な現実によって塗り潰されていた。
 思い出せるのは「美味しかった」という事実だけで、その「熱」も「香り」も、今の私の身体は想い出ごと拒絶しているようだった。

 重い足取りで共有スペースのゴミ箱に皿を片付けたとき、私の視界の端に、鮮やかな色のリュックを背負った一人の女性が映り込んだ。

 重い足取りで共有スペースのゴミ箱に皿を片付け、ポッドに戻ろうとしたその時。

「Hey, your charger’s about to fall.
 ( あなた、充電コードが落ちそうよ) 」

 振り返ると、ターコイズブルーのリュックを背負った女性が、私の手元から滑り落ちそうになっていたスマートフォンの充電ケーブルを指差していた。

「あ……ありがとうございます」

「 No… hey, are you okay? You look really pale. Are you getting enough sleep?  
( いいえ。……あなた、顔色がすごく悪いわよ? ちゃんと眠れてる?)」

 屈託のない、けれど核心を突くような問いに、私は言葉に詰まる。
 九年間の愛の終わりに苦しんでいるなんて、初対面の彼女に言えるはずもない。

「大丈夫です。少し、長旅で疲れているだけで」

「 Alright, if you’re sure. The air con in Singapore can be brutal, so make sure you keep warm when you sleep.  
( そう。ならいいんだけど。シンガポールの冷房は凶器だから、温かくして寝なさいね)」

 彼女はそれだけ言うと、軽やかな足取りでチェックインカウンターの方へと消えていった。名前も知らない、ただの同宿人。それでも、突き放すような冷たさのない彼女の声は、無機質な廊下で強張っていた私の肩を、ほんの少しだけ緩めてくれた。
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