泥棒猫に婚約者を譲ったら、公爵夫人の座が転がり込んできました〜契約結婚のはずが全力で溺愛されています〜

恋せよ恋

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崩壊の足音と、琥珀色の嫉拓

  グラノマ侯爵邸の執務室は、もはや地獄の様相を呈していた。
 床には引き裂かれた書類が散乱し、高級な絨毯には零れたインクの染みが無惨に広がっている。かつてビオレッタがいた頃、この部屋は常に白檀の香りが漂い、完璧な秩序が保たれていた。だが今、部屋を満たしているのは、焦燥と、男の見苦しい怒号だけだ。

「……ありえない! なぜ、この程度の計算が合わないんだ!」

 ロマリオは血走った眼差しで、領地から届いた収支報告書を叩きつけた。
 ビオレッタがいれば、彼女は茶を淹れる合間にペンを走らせ、「ここ、徴税官が横領していますわね」と涼しい顔で指摘してくれた。彼女が去ってから十日。ロマリオが自力で処理できた書類は、わずか数枚に過ぎない。

「ロマリオ様……。もう、お仕事はやめて。私、お腹が張って苦しいんですの……」

 扉を開けて入ってきたカタリナが、弱々しい声を出す。だが、以前なら飛んでいって抱きしめたはずのロマリオは、今や鬼のような形相で彼女を睨みつけた。

「黙れ! 君が『練習』だの何だのと私を誘惑しなければ、今頃ビオレッタはここにいたんだ! 彼女さえいれば、こんな屈辱的な請求書に頭を抱えることもなかった!」

「……っ! 私のせいにするの!? 貴方だって、『ビオレッタは機械みたいで可愛くない』って言っていたじゃない!」

「うるさい! 出て行け! 役に立たない女はいらないんだ!」

 ロマリオが投げつけたインク瓶が、カタリナの足元で砕けた。
 悲鳴を上げて逃げ出すカタリナ。かつて「愛ゆえの過ち」と酔いしれた二人の絆は、現実という冷たい雨に打たれ、醜い泥団子へと変わり果てていた。


  一方、ノースクリフ公爵邸のテラス。
 ビオレッタは、運ばれてきた琥珀色の紅茶を見つめ、小さく溜息をついた。

(……私、どうしてしまったのかしら)

 胸の奥が、熱い。ステファンにエスコートされるたび、彼の大きな手が腰に触れるたび、心臓が耳元でうるさく脈打つのだ。
 復讐のための契約。遊び人の公爵令息。彼にはきっと、私など足元にも及ばないような、華やかで情熱的な「本命の女性」がどこかにいるはずだ。

「……ステファン様。私、最近少し疲れが出てしまったようで。……明日の夜会、お一人で行かれては?」

 ビオレッタは、あえて視線を外して切り出した。
 彼への恋心を自覚してしまったからこそ、これ以上深入りするのが怖かった。契約が終われば、自分は捨てられる身。ならば、今のうちに距離を置き、心を平穏に保たねばならない。

 だが、その言葉を聞いた瞬間、ステファンの周囲の空気が凍りついた。

「一人で? …… 私の隣は、空席にしておけと言うのかい」

 ステファンが、ゆっくりとカップを置いた。その動作一つに、隠しきれない威圧感が宿る。

「……ええ。貴方なら、どなたでもお相手が見つかるでしょう? 契約書にも、私の体調が優れない時の強制力はなかったはずですわ」

「ビオレッタ」

 ステファンが立ち上がり、逃げようとするビオレッタの両肩を掴んだ。
 至近距離で見つめ合う紫水晶の瞳。そこには、遊び人の余裕など微塵もなかった。

「……まさか、実家の兄にでも諭されたかな? それとも、あの未練がましいグラノマの男に、また何か言われたか」

「違います! ただ、私は……貴方の『本命』の方に、悪いと思って……」

「本命……?」

 ステファンは一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。そして、吐き出すような低い笑い声を上げる。

「……ああ、なるほど。君は、自分の価値をこれっぽっちも分かっていないんだね」

 ステファンは、ビオレッタの顎を強引に掬い上げ、逃げ場を奪った。
 彼の独占欲を孕んだ眼差しが、彼女の唇を、瞳を、焼き尽くすように見つめる。

「いいか、ビオレッタ。私の隣を歩くのは、後にも先にも君一人だ。……他の女に譲れなんて、二度と口にするな。……そんなことを言えば、私が君をこの部屋から一歩も出さないように閉じ込めてしまうかもしれないよ?」

「ひっ……」

 嫉妬に歪んだ彼の美貌に、ビオレッタはドギマギと翻弄される。
 契約のはずなのに。遊び人のはずなのに。
 なぜ、彼はこれほどまでに「本気」の熱を帯びた瞳で、私を見つめるのだろうか。

 ビオレッタの恋心は、彼の嫉妬という名の猛毒に煽られ、もはや消えることのない炎へと変わっていった。
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