「従妹は病弱なんだ」と私を放置する婿入り婚約者はいりません 〜帰国した義兄に、身も心も奪い尽くされる〜

恋せよ恋

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消えた婚約者と、いつもの言い訳

  豪奢なシャンデリアが輝く、王都随一の宝飾店『エトワール』。
 本来ならば、そこは一生に一度の喜びを噛み締める場所になるはずだった。

「お嬢様、やはり本日もカルロス様は……」

 控えていた侍女のマリーが、苦しげに声を落とす。ロクサーヌ・アステリアは、はめたばかりの婚約指輪のサンプルをじっと見つめた。
 プラチナの台座に、アステリア子爵家の瞳の紺色を模したサファイア。本来ならその隣には、彼女の手を取る婚約者の姿があるはずだった。

「……ええ。今日、いらっしゃらないようね」

 ロクサーヌの声は、自分でも驚くほど冷えていた。

 婚約者のカルロス・チャーチル。伯爵家の次男であり、将来はアステリア子爵家に婿入りする予定の男だ。
 今日は、二人の結婚指輪を正式に発注する日。半年前から予約し、店側もデザイン画とサンプルを用意して待っていたというのに、約束の時間を一時間過ぎても、彼は現れない。

 その時、店の扉が勢いよく開き、一人の青年が駆け込んできた。
 乱れた金髪に、整った顔立ち。ロクサーヌの婚約者、カルロスだ。

「すまない、ロクサーヌ! 遅くなった!」

「カルロス様……。良かった、事故にでも遭われたのかと心配しておりました」

 ロクサーヌが安堵の息を漏らそうとした、その時。カルロスの背後から、ひょいと小さな影が顔を出した。

「ごめんなさい、ロクサーヌ様。私が……私が急に、目眩がしてしまったせいで……っ」

 儚げに眉を寄せ、カルロスの腕に縋り付いているのは、彼の従妹である男爵令嬢、ビビアンだった。
 彼女は雪のように白い肌と、今にも折れそうな細い体躯を持っている。自称「幼い頃から病弱で繊細な」、この国の社交界でも有名な『守ってあげたい令嬢』だ。

 カルロスは、縋るビビアンの肩をごく自然に抱き寄せ、ロクサーヌへ誇らしげに、そして当然のように言い放った。

「聞いてくれ。指輪を選びに行こうとした矢先、彼女が倒れてしまってね。とても一人にはしておけなかったんだ。君はしっかりしているから一人で店に来られるだろうけれど、ビビアンはそうじゃない。僕が支えてあげないといけないんだ」

 ……まただ。

 ロクサーヌの奥歯が、無意識のうちに噛み締められる。

「カルロス様、今日は『結婚指輪』を決める日です。ビビアン様を優先されるのは、今回で何度目ですか?」

「何を言うんだ、ロクサーヌ。君なら、ビビアンの体の弱さは知っているだろう? それに、彼女は寂しがり屋なんだ。一人にすると、不安でまた発作が出てしまうかもしれない。そんな彼女を見捨てるほど、僕は薄情な男じゃないよ」

 カルロスは、まるで自分が聖者であるかのような顔をしている。
 彼は気づいていない。ロクサーヌの視線の先で、ビビアンがカルロスの腕に顔を埋めながら、ふっと勝ち誇ったような笑みを浮かべたことに。

「ビビアン様、もうよろしいのですか? 目眩がしたのでしたら、お屋敷で休まれるべきでは?」

「あ……はい……。でも、カルロス様がどうしても、私を一人にはしておけないって、連れてきてくださったんです。ロクサーヌ様、お邪魔でしたか……? 私、本当に、ごめんなさい……っ」

 今にも泣き出しそうな声。それを見たカルロスが、あからさまにロクサーヌへ不快感を示した。

「ロクサーヌ、彼女を責めるのはやめろ! せっかくビビアンも、体調が悪いなか君に謝りに来たいと言ってくれたんだぞ。そんな冷たい言い方をするなんて、君には慈悲の心がないのか?」

「慈悲、ですか」

 ロクサーヌは、店員が恭しく差し出していた指輪のトレイを、静かに押し戻した。

「カルロス様。私は、アステリア家の嫡子として、あなたを婿に迎える準備を整えてきました。しかし、指輪選び、衣装決め、挙式の打ち合わせ……そのすべてにおいて、あなたはビビアン様を連れてくるか、あるいは彼女のために欠席なさいました。……『二人』で決めるべき大切なことを、あなたは一度でも大切に思ったことがあるのですか?」

「何を大袈裟な。指輪なんてどれも同じだろう? 君が好きなものを選べば、僕もそれを着ける。それで十分じゃないか。それより、ビビアンが少し顔色が悪い。悪いが、指輪はまた今度にして、僕は彼女を家まで送っていくよ」

 カルロスはそう言うと、ロクサーヌの返事も待たずに踵を返した。
 ビビアンの細い腰を支え、ささやくように「大丈夫だよ、ビビアン」と優しく声をかけている。

 店内には、何とも言えない沈黙が流れた。
 店員の困惑した視線。侍女のマリーの、今にも爆発しそうな怒りに震える気配。
 そしてロクサーヌは――ただ、自分の指をじっと見つめていた。

 十歳で彼と婚約してから、今日までの七年間。ロクサーヌは自分を納得させ続けてきた。
 カルロスはただ、人一倍優しいだけなのだと。従妹のビビアンは、彼が「騎士道精神」を発揮するための、放っておけない可哀想な存在なのだと。

 アステリア子爵家の跡取り娘として、完璧に家政をこなし、婿として迎える彼の居場所を整え、冷遇されても「私がしっかりしなくては」と自分に言い聞かせてきた七年間。
 けれど、一生身に着けるべき指輪の注文すら後回しにされた今、張り詰めていた糸が音を立てて千切れた。

( 私の七年間は、一体なんだったのかしら)

 彼の隣で勝ち誇るように微笑むビビアンの瞳は、決して病人のものではなかった。そして、それを見抜こうともせず、ただ「自分を頼るか弱い女」に酔いしれるカルロス。
 この男は、婿入りして私の家を支える自覚など、欠片も持っていないのだ。

「……マリー。帰りましょう」

「お嬢様……宜しいのですか?」

「ええ。もう、から」

 ロクサーヌは、一度も振り返ることなく店を出た。
 馬車に乗り込み、車輪が石畳を叩く音を聞きながら、ロクサーヌは窓の外を流れる王都の景色を眺めた。
 胸を支配しているのは、激しい怒りよりも、空虚な虚脱感。

 ふと、視界の端に自分の右手が映る。
 そこには、かつて「お兄様」と呼んで慕ったオリビエが、五年前に別れ際にくれた小さなエメラルドの指輪が光っていた。
 石の色は、彼の瞳と同じ、深く透き通った緑。
『僕だと思って、持っていて。必ず、君を幸せにできる男になって戻るから』
 そう言って、十三歳だった私の指にこの指輪を嵌めてくれた彼の指先は、ひどく熱く震えていた。

 注文することさえ叶わなかったカルロスとのサファイアの指輪よりも、今はこのエメラルドの方が、ずっと私の肌に馴染んでいる。

( もし、今の私を見たら……お兄様は、何て仰るかしら)

 「君はよく頑張ったね」と、あの優しい手で髪を撫でてくれるだろうか。それとも、私の不甲斐なさを叱ってくれるだろうか。

( いいえ。誰かに頼る前に、まずは自分で決着をつけなければ)

 アステリアの名を継ぐ嫡女として。そして、一人の女として。
 ロクサーヌはこの日、心に決めた。
 自分を「二番目」にしか置かない男に、我が家の敷居を跨がせるわけにはいかない。

 この結婚は、絶対に解消してみせる、と。
___________

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